『小川ローザ 1969年(昭和44年)「オゥッモーレツッ」の丸善石油CM』 2017年2月21日
今日は、雨が降ったりやんだりで鬱陶しい一日でした。東京では20度の春日和ってテレビで云ってたね。
長いこと朝風呂に入ってないね、休みの日は良く入ってたのに時間が自由になると、いつでもいいやに変わっちゃうのかね?
どうでもいいやって思ってるんだけど、今の風呂の照明が気に入らないんだね。なんか薄暗く感じて気分が滅入るんだよ。
奥さんは 「今ぐらいが丁度ええっ」なんて云うけど、風呂は、スカッと明るいほうが気持ちいいと思うけどね?
新品のLEDの電球がダンボールに入ってるはずなんだけど引っ繰り返して探すのが面倒だから、ああ、そうって聞き流してる。
綺麗な風呂場なんだけどねえ、それぞれ好みがあるんだね。出てきたら、知らん顔してクルクルと交換してやろう。
トイレの電球も、いまいち明るさが怠いね。「明るさが怠い?」 照明時にパッパッって明るさ変更するような瞬きをしよる。
接触が悪いのかね? 広くて綺麗なトイレだから結構なんだけど風呂とトイレの此の2点については不満だね。
「球変えれば済む話だろ?」 そうだよ。球探すのが面倒臭いっていう話だよ。球が切れたら面倒でも探し出すんだけどね。
滞ってる引っ越し荷物の片づけを奥さんがボチボチ励んでおるから、そのうち出てきよるだろ、お誂え向きに2個あるんだよ。
しかし、オレって何にも要らんに等しいね。パソコンあったら他のことは面倒だけで大方興味ないね。
煙草も長く買ってないよ。あちらに居る時に貰ったセブンスターのワンパックも4~5本吸って口に合わないままだね。
細くてロングの1ミリケントが、今、口に合ってる。ワンパック買ったら忘れるほど減らないよ。こうして死んでいくんかよ?
口煩く云って、お茶だけは手を抜くなよって厳しくお達ししてる。黙ってたら、必ず、出涸らしみたいな茶に替えよるからね。
オレの最後の砦だから同じこと二度とは云わんぞっなんて絶対命令だよ。おかげでお茶は美味しいのを呑めてるよ。
夕飯のおかずなんて口に入りゃいいや、遠く忘れた美味たる料理や懐かしい。栄養だけ取れて垂れたらどれも一緒だよ、しょうもない。
「充分、美味しいやん、あんたが贅沢なんや」 確かに一理あるんだろうね、でも、不味いものは、やっぱり不味いんではないか?
息子が逝ってしまってから 「もう、なにも要らんねん、なんなと食べてたらええねん」
母親だからねえ、気持ちは解るけど代わりに美味しいものを食べてやるのも供養じゃないか? 「なに作る気もせんねん」
消え去るものではないけど時間が悲しみを薄めてくれるだろうかね。熱いお茶を湯呑に注いで湯気の向こうを見つめてたよ。
『1960年(昭和35年)日本橋筋3丁目堺筋北行きを走行する市電』 左に折れると難波方面
ネットの中から1940年代~1980年代頃の大阪にまつわる古い写真を暇に飽かして探すんだけど、もう、ないねって思ってしまう。
必ず、何処かに載ってるって執念はあるんだけど検索に引っ掛かけようもないほど探しても、もう、ないのではないか?
凄まじい量の写真がネットに溢れてるけど実はこんなもんじゃないだろうね。ほんとは家ん中に眠ったままの写真は山ほどあるんだろうね?
もうしんどいって諦めかけたらポロッと出て来るもんではあるけどね。難波や千日前、戎橋、心斎橋、御堂筋、北へ梅田周辺を軸に探してる。
広げて市内全域、阿倍野、上本町、淀川周辺、昔、馴染みのあった辺りを探してる。
こうして拾い集めた写真の量は、これまた凄い量にはなってるね。ただ、ファイルの中から探し出すのが、これまた大変なんだね。
「整理はできてないのか?」 一生懸命に記録を打ってはいるんだけどパッパパラパラと目ぼしいのを見つけたら取り込むのが忙しくなって
後回しになるから、段々、解らなくなってしまうんだよ。一時、エロ写真を集めてる時なんか、もう、止めても止まらない餓鬼亡者だったよ。
「はずかしいのお~」 これって不思議なんだよ、ウワッ、オオッ~、おったまげたなんて興奮するのは取り込む瞬間なんだね。
なんでかと云うと、もう、次が迫ってるからゆっくりしてられないんだね。ハッ、ハッ、ハッ、ハッて追われまくられて疲れてしまうんだよ。
大漁に湧く収穫の興奮で満足して疲れて、あとゆっくり見た覚えがないんだよ。そうそう広げて眺めてる時間もない。
結局、浅ましい自分の愚かに気づいてドッサリ消去して僅かお気に入りを残してたけど其れも消しちゃうんだね。疲れ損もいいとこだよ。
『1956年(昭和31年)堺筋日本橋筋3~4丁目の間を走行する市電(後方は松坂屋)』 総じて堺筋の昔の写真はないね。
そんな中にだね、此の辺りは探しようもない処があって諦めてたんだけど、堺筋の日本橋筋2丁目を西へ折れて
千日前に出るまでに道路より内側に構えて、昔、映画館が在った。「オリオン座」と「新オリオン座」だった。
通りには家具屋さんが多かったね。もう、館内の様子は記憶に残ってないんだけど家族で良く観に行った。
洋画の何本立てだったかね? どちらも洋画だったかは覚えがない。或る日、昼だったね、映画館の前を通り過ようとしてて、
奥まった映画館の前に煙が立った。館内から客がバラバラと出てきて二階の窓を見上げたら煙が噴き出してる。
僅かな時間だったね、ボンッて響いて壁にヒビが入って黒煙と炎が噴き上がったの。「いやあー火事やっ」って、前の家具屋さんの
おばさんが大声上げてる。逃げ出す客の数は知れてたね。大きな火事ではなかった、2階の映写室から火が出たようだったね。
なんかで見たけど、映画映写用のフィルムってのは燃焼力が強いらしいね。ボンッって爆発音はそれだね?
堺筋を西へ一つ目の角に「味園」って大きなネオンサインの食堂園があってキャバレー「ユニバース」とも銘打ってた。
『1960年(昭和35年)千日前筋大劇横手通り 東方面(堺筋)に向かって撮影』 前方の大きなビルの上に薄く「ユニバース」ってあるね。
「写真勝手にお借りします」
其処を西なりへ進んだところだったと思う。そのまま進むと千日前筋に出る。通りの右側に大阪劇場、「大劇」が在る。
そんな頃の写真を見つけたよ。写真は、向かって逆側から見て、千日前筋から東の堺筋方面を写してる。
写真を撮られた方は、一枚の写真から、ああでもない、こうでもないと記憶を辿って僅かな情報を見つけて探り出されたみたい。
『大阪劇場 大劇で通ってたね』 大劇の敷地内外れに在る「いかがわしい?」お店、バラックみたいな佇まいだね。ネグリジェだって。
手前、大劇の建物の南側が少し写ってる。向こうに「ユニバース」のネオン看板、其の手前のお店の看板から謎を解かれて
納得をいかれたようだね。大劇の筋隣の「木村屋の純喫茶」も写ってるよ。
その通りの向こうに「オリオン座」と「新オリオン座」の看板が写ってたよ。もう、当時を思わせるのはこれだけが名残だね。
掲げてる位置から考えるとサンドイッチマンの人が通りの中程に立って上映映画の客寄せしていたのかも知れない。
此の両館が閉館した時期については不明だね。今となっては、この看板だけが形に残る唯一だね。
映画にせよ、音楽にせよ、その時の記憶に付随して思いが被さって残ってるからね、其の時、その時が記憶の中で生きてるんだね。
『昭和45年(1970年)頃の千日前筋』 通りと筋がごちゃ混ぜになるよ、南北が「筋」だね、「通り」が東西だね。
『カメレオンの独り言-1746 『目にとまった写真で立ち止まってしまったよ』 なんやねん?』 馬鹿らしい題名だね。
此の千日前の写真で足を止めて当時の思い出を語ったように思うけど、もう、忘れてる。「ほんの此の前やろ、覚えとけ」
何を語ったかってことを忘れてる、しかし、その連続があれば思い出すだろ? 「ちょっと危ないんとちゃうか?」 昔からだよ。
ちょっと関連した写真を見つけてね、この当時の千日前筋に在ったお店が判明したので貼り足しておこうと思う。
此れより10年前後になるんだけど1979年(昭和54年)と1982年(昭和57年)だね。
記憶に残る当時の商店街に在ったお店を貼っておこう。其の頃は、もう、他所に移り住んであまり足繁くは立ち寄ることはなかったけどね。
こうして見ると「ああ、在ったね」って看板思い出すよ。「喫茶アメリカン」は、いまでも健在なんかね? 何度か入ったよ。
家族連れで、心ぶら(心斎橋筋)、戎橋筋、道頓堀通りへ出ると、帰り道で、必ず、立ち寄って天津甘栗を買って貰った。
道頓堀通りでは、平野屋のシュークリーム、フジヤのロールケーキなんてのが土産の定番であったね。
お正月なんか、此処の天津甘栗は欠かせない。住まいだった日本橋筋一丁目からは目と鼻の先だったから、毎度、お使いで買いに行てったよ。
1982年(昭和57年)「たよし」の宣伝は、長い間、放映されてたから10年前と変わらんのんじゃないかね?
此の千日前筋に在る千日デパートが火災で118人だったかね? 多くの人が亡くなった。1972年(昭和47年)5月13日だったね。
上に貼った商店街の写真の2年後だね。そん時は、堺筋島之内で暮らしてたから野次馬よろしく走って行ったね。
此の慣れ親しんだ繁華街周辺も、最近だけでも、大劇、南街劇場、歌舞伎座、国際劇場、精華小学校なんてのが消えてしまったね。
常日頃、在って当たり前のように過ごしているのに知らぬ間に消えてるって、多かれ少なかれショックらしきものを覚えることがある。
なんの変哲もない毎日だけど世の移り変わり程忙しないものはないね。
街並みも人も知らぬ間に移り変わって往くのが事実なのに、何故か、なんの変哲もない毎日の連続の不思議さだね。