脳腫瘍の夫と共に

2010年4月グリオーマと診断された夫との手探りの日々…

いのちのおわり

2014-05-24 18:58:40 | 私の思い 3
いのちは自分で守るものなのか?
「津波から」「災害から」

でも、一瞬の違いで
事故に巻き込まれることだってある。

わたしは運命論者ではないが
そもそも
自分のいのちを「自分で守れる」と思うこと自体が
はなはだしい思い上がりではないのか・・・と思う。

ひとは
だれでも
かならずいのちの終わりを迎える。
その時はだれにもわからない。

ほんの一瞬
そこを通りかかるのが遅ければ
その事故に巻き込まれなかったかもしれない。

ほんの一時
はやくそこを立ち去れば
その災害から逃げられたかもしれない。

でもすべては事後のことだ。

それが病気となれば
いったい
なにが悪かったのか、と思う。

くりかえし
くりかえし
思う。

家の掃除が行き届いていなかったからか。
家の湿気が多く、カビが発生していたせいか。
食べ物が悪かったのか。
生活習慣が悪かったのか。

それでも
だれも
病気の発症を予測することはできないし
それを防ぐこともできない。

生きるか死ぬかは
偶然でしかない。


今、生きている私も
次の瞬間には
どうなっているかは
誰にもわからない。

であれば
なぜ、ひとは
生き続けなければならないのか。

わたしたちは
いまあるいのちしか
認識することができない。

ほんとうに
つぎのいのちがあるならば
今の悲しみに満ちたいのちを
生き続ける理由はどこにもない。

どんな生き方をしても
すべてのひとは
おなじところにむかっている。





元気なころ
障がいをもつ子どもとともに
死を選ぶ人を身勝手だと思っていた。

子どもには
子どもの人生があり
その子が
障がいがあろうと
いきいきと
その人らしく生きる道をつくっておくのが
親の務めだと思っていた。

その可能性を奪うことは
親の身勝手だと思っていた。

でも、
今、
わたしは思う。

娘の周りには
たくさんの支援者がいてくださる。
娘は
まいにち
たくさんの人に支えられて
明るい笑顔で暮らしている。

でも、
娘を大学病院に連れて行ったり
その健康や
生活の質について
わたしは
たくさんの動きをしている。
わたしがいなくなったら
今の制度の中では
難しいことがたくさんある。
親だからできること、
親がいなければできないことがたくさんある。

そんなことを思うと
娘を残して死ぬことはとてもできない。
私が死ぬなら
娘も一緒に、と思う。
あのころ
身勝手だと思っていた親の気持ちが
今は痛いほどわかる。

息子に対しても、それは同じだ。
息子のまわりにも
支えてくださる方は増えている。
でも、
わたしという経済的な後ろ盾を失ったら
息子はどうするのだろう。
今の制度では
息子のようなタイプを支える制度は皆無にちかい。
だから
わたしが死ぬときは
この子たちもともに・・・と思う。


この子たちとともに死ぬことができる
体力があるあいだに
それを選び、実行したいと願っている。





ねこの寝姿2態


こちらは若猫




こちらは老猫



猫って
どうして
顔を隠して眠るんだろ?


猫2匹とわんこと
3匹一緒に体調を崩し
病院に連れて行って
毎日
薬を飲ませている。
今月は
猫たちの病院代が2万円を超えた。
わたしの
パート収入だけで
どこまで
もちこたえることが
できるんだろう?