次の文章は、サマーセットモームの文章だ。
若者は自分を不幸だと思っている。様々な
もっともらしい理想を吹き込まれた挙句、
いざ現実に直面すると、決まって理想から
はほど遠いものであって、心は傷つくばか
りなのだ。
若者向きの推薦図書は上品なものが多いし、
年長者は過去をバラ色のもやを通して見る
ため、とかく話はきれいごとになる。こう
いう図書や話は現実の人生に備えるのに役
立たない。
これまで読んだ本も聞いた話も、すべて粉
飾されたものだったと、若者は自力で発見
しなければならない。
人生の十宇架に傑になっているとも言える
若者の体は、その発見の度ごとに釘を一本、
また一本と打ち込まれていくことになる。
以上。
このモームの文章を読んでいるうちに、何か
と感ずるものがあった。
やはり、年をとったせいだろう。
そして、数日前に読み終えた北野武の「全
思考」という本にも、興味深い内容があった
のを思いだした。
それは、次の文章だ。
法の下の平等を
勘違いしてはいけない
子供は素晴らしい、子供には無限の可能性が
ある。
今の大人は、そういうふざけたことを言う。
子供がみんな素晴らしいわけがないじゃない
か。
残酷な言い方だが、馬鹿は馬鹿だ。足が遅い
ヤツは遅いし、野球がどんなに好きだって、
下手なヤツはいくら練習しても下手なのだ。
そんなことわかりきっているのに、本気で努
力すれば誰でも一流になれる、なんてことを
平気で言う。
そうじゃなくて、才能のある人間が、誰より
も努力をして、ようやく一流になれるかどう
かという話だ。イチローと同じ練習をしたら、
誰でもあんな風になれるのか。
戦後民主主義だかなんだかで、人間はみな平
等ということになった。その平等は、あくま
でも法の下の平等であって、金持ちも貧乏人
も、同じ法律で裁かれて、同じ基本的人権を
与えられますよというだけの話だ。実際には、
その平等だってかなり怪しいものだが、とり
あえずタテマエとしては、そういうこと
になった。
それで、勘違いしてしまった。人間はみな平
等だ。
法の前では平等であっても、人間そのものが
平等なわけはない。
顔だって、背の高さだって、頭の中身だって、
百人いれば百通りだ。
そして世間を見渡せば、道端の雑草を喰って
飢えをしのぐ年寄り夫婦がいたかと思えば、
もう一方には自家用ジェットで外国まで飯を
喰いにいく金持ちもいる。
どう考えたって、平等なんかじゃない。な
のに、どういうわけかみんな平等だってこと
にしたくて、努力すればなんとかなる、なん
てことを言いだした。
子供に「お前は馬鹿なんだから」と言うよ
り、そっちの方がよっぽど残酷だ。
今の小学校の一クラスが何人かわからない
けれど、20人か30人の子供の集団ひとつとっ
てみても、子供の能力にははっきり差がある。
だけど最近は、運動会の徒競走でも、ひとり
ひとりに順位をつけない学校が多いらしい。
クラスの全員が走るリレーをやらせて、みん
なで協力してひとつのことを成し遂げましょう
とか、手をつないで仲良く一緒に走りましょう
とか。
まるで、テレビのインチキ臭い学園ドラマだ。
受験にしても、社会に出てからの競争にして
も、将来は完全な勝ち抜き戦が待っているとい
うのに、だ。
その中で戦っていかなきゃならないのに、誰
にでも無限の可能性があるなんてことにしてし
まったから、逆に、落ちていく人間に対しては
愛情の欠片もない。
ほんとうは勝負をさせるべきなのだ。負けて
悔し涙を流す子供には「だけど、お前は算数の
勉強はできるんだから」とか、フォローの仕方
はあるだろう。
誰にでも無限の可能性があるという前提では、
お前の努力が足りないという結論で終わってし
まう。
負けたのは、努力が足りなかっただけだ。
そう子供に言い続けるのは、見込みのない漫才
師志望の若者の耳元で、「頑張れば、いつかは
売れるよ」と囁くようなものだ。
愛情でもなんでもない。どんなに努力したって、
できないヤツはできないのだ。
早い話が、芸能界を目指す人間が1000人い
たとして、そのうち何人が飯を喰えるようにな
るか。せいぜい1人いるかどうかが。
あとの999人は諦めるのが前提なのだ。
それでも、努力すれば夢はかなうと言えるのか。
そんな馬鹿な話はない。
どうしてそういう無理をさせるのだろう。
なんでも努力のせいにして、人間には本来差
があるという現実をうやむやにする。
おかげで今の子供は、その努力すらしないで、
夢さえみていればいつかはかなうと思うように
なった。
そんな状態で、いきなり社会にほっぽり出され
るから、頭がおかしくなる。自分の思い通りに
ならないことを、何でもかんでも人のせいにす
る。
親が悪いと言ってば、バットで殴ったり。社会
が悪いんだと言って、引き籠もったり。ワケの
わからない新興宗教に夢中になったり。
ストーカーだってそうだ。努力すれば夢はな
んでもかなうなんて教えこまれてるから、いつ
までも相手を追いかけ続ける。挙げ句の果てに
は、自分の気持ちがわからない相手が悪いと決
めつけて殺してしまう。
高嶺の花なんて言葉が昔はあっだけど、今は
そんなこと誰も言わなくなってしまった。
要するに、引き龍もりもストーカーも、世の
中には、諦めなきやいけないことがあるってこ
とを知らないのだ。
泣きさえすればミルクがもらえる赤ん坊の状態
から、ぜんぜん成長していない。
それで慌てて、ウチの子供をどうしたらいい
んでしょうなんて、テレビの電話相談なんかに
泣きついてる暇があったら、お前なんかには無
理だったんだよって、言ってやれよと思う。
お前が間違っているんだよ、と。
努力すればなんとかなるなんて、おためごか
しを言ってないで、子供の頃からちゃんと叩き
込んでおいてやった方がいい。
人間は平等なんかじゃない。お前にはその才能
がないんだと、親が言ってやるべきなのだ。い
くら努力したって、駄目なものは駄目なんだと、
教えてやらなきやいけない。
そんなこと言ったら、子供が萎縮してしまう
っていうなら、萎縮さえしなければ、運動神経
の鈍いヤツが、オリンピック了金メダルを獲れ
るようになるのか。
自分の子供が、なんの武器も持っていないこ
とを教えておくのは、ちっとも残酷じゃない。
それじゃ辛いというなら、なんとか世の中を渡
っていけるだけの武器を、子供が見つける手助
けをしてやることだ。
それが見つからないのなら、せめて子供が世
の中に出たときに、現実に打ちのめされて傷つ
いても、生き抜いていけるだけのタフな心を育
ててやるしかない。
子供の心を傷つけることを恐れちゃいけない。
傷ついて、へとへとになって、諦めればいいと
俺は思う。欲しいものを手に入れるには、努力
しなきゃいけない。だけど、どんなに努力して
も駄目なら諦めるしかない。
それが現実なのだということを、子供のうち
に骨の髄まで叩き込んでおくことだ。
それが、父親の役目だろう。
以上。
通常は、口に出せない話しだ。気付いている人
は、口をつぐんでいる。彼だから、言える話し
だ。
ただ、皮肉なことに、「父親の役目」について
は、それこそ、彼の望む「お笑い」になってし
まう。
彼には、残念ながら、そのような能書きを垂れ
る資格はない。
彼が、自著で自ら語っているので、わたしの妬み
による嘲笑ではない。
家庭人としては、彼の人格は破滅的である。
いや、人格の形成不全というべきかもしれぬが。
よく動物園で、育った動物が、子育てが出来ない
のが、出たりするが、彼は、まさに、そのような
タイプの人間だ。結婚にも適しないし、父親にも
適しない。人格的に欠落している。
だから、皮肉であるし、彼が一番望む。「お笑い」
になってしまっている。もしかすると、本望かも
しれない。
芸人春秋で、水道橋博士が、北野武をおおいに
持ち上げていたので、興味をもって、彼の本を
重点的に読んでいる。
最近、「余生」「孤独」「時効」を読み終えた。
昭和22年生まれ、団塊の世代の一人に、このよ
うな人物と生き方があったなんて、である。
ところで、それと、相通ずる話しをする人がいる。
千田琢哉である。彼のとある本にこういうのが
あった。
10代は
どういう10年だろうか?
早く勝つためには、
早く負けておくことだ。
負け続ける時期だ。
学校には負けるために通っているのだ。
もちろん故意に負けるために通っている
わけではない。
全力を出し切っても敵わない相手がゴロ
ゴロいることを人生の早い段階で知って
おくことは大切なことだ。
「ああ、自分はこの分野に手を出したら
エライことになるな」と知っておく。
そうすれば20代で社会人になってから、
周囲に先んじて自分の長所に集中すること
ができる。
この差は非常に大きいだろう。
ほとんどの10代はこれに気づかずに、
努力すれば報われると信じている。
人の何倍も努力して苦手を克服したこと
こそが自分の長所だと信じている。
現実はどうだろう。
人の何倍も努力して苦手を克服したことは
長所ではなくむしろ短所だ。
学生時代の5段階評価の3というのは、
社会に出てから0点という意味だ。
「努力は必ず報われる」を、座右の銘に
してはならない。
以上。
本田氏のこの本を読んだ時には、心当たり
があって、耳が痛い話だ。目眩がしてしま
った。
この辺の生きた知恵というのを、どうして、
人生の早い時期に、知り得なかったのだろ
うと、地団駄をふんで悔しがっている。
ところで、北野武は自分の才能についてこう
語っている。
俺ひとりを作るために
何万人死んだと思ってんだ
俺も綾小路も売れた。その陰に何人の落伍者が
いたことか。10人や20人じゃない。何百人とか
何千人の中の、たった2人だ。
綾小路が売れて嬉しかった気持ちのなかには、
お互いほんとうに運が良かったなあという気持ち
もあった。売れない芸人は、ほんとに辛い。人間
性まで、否定されるような気分になる。地獄のよ
うな戦場で、2人だけ生き残った兵隊の連帯感と
でも言えばわかってもらえるだろうか。
「東京の芸能界で、ビートたけしをひとり作る
ために、何万入部死んだと思ってんだ」若い衆に
は、よくそう言う。
浅草に帰れば、昔の先輩に「お前さえいなかっ
たら」と言われる。
「お前みてえなのが出てきたから、こっちはす
っからかんになっちまったよ」
「たけしが出てきたときは、俺やめようと思っ
たもん」そんなことを、いまだに言われながら酒を
飲んでいる。
そういうことを言ってくれる人は、まだ現役で
芸人を続けているわけだけれど、実際にこの世界
を抜けていった人もかなりいる。
弱音を吐いてしまえば、ずいぶん悪いことをし
たなあと思う。足の引っ張り合いみたいな汚いこ
とをしたつもりはない。あれは食い物における殺
生みたいなものだった。豚や牛を殺して、俺たち
は生きているわけだ。
漫才で売れるか脱落するかなんて、せいぜい何
千分の一の確率だが、生命はその最初から、はる
かに厳しい殺し合いを生き抜いている。
最近の研究では、精子にもそれぞれ違う役割が
あることがわかっているらしい。
まず「エッグゲッター」という精子がいる。こ
れは文字通り、卵子をゲットする、つまり受精す
るのが役目の精子だ。
そのエッグゲッターに襲いかかって殺すのが、
キラー精子。自然界は必ずしも一夫一婦制じゃな
いから、雌の子宮には他の雄の精子が入っている
可能性もある。キラー精子は他の雄の精子を殺し
て、自分たちのエッグゲッターを有利にするわけ
だ。さらには、敵のキラー精子から、エッグゲッ
ターをガードする役割の精子もいる。
生命は精子の段階から、敵と味方に分かれて、
猛烈に争いながら、卵子を目指す。卵子にたどり
ついて生き延びるのは、そういう何億個もの精子
のなかのたった一匹でしかない。
生きることは、殺すことなのだ。
芸人だって、同じことだ。しがない芸人として
は、他人のことを考えて、受けないネタをやるな
んてできるわけがない。俺たちの漫才がウケ過ぎ
て、先輩が霞んでしまおうがどうなろうが、そん
なことを斟酌する余裕はなかった。
喰っていくには、自分の漫才で勝負するしかな
いのだ。
それでも自分だけが出世していったとき、後ろ
めたさみたいな気持ちをちっとも感じなかったと
言えば嘘になる。
人間はそんなに強くできていない。
寄席には符丁があって、いちばん最後に出る人
を「トリ」という。その前に出る芸人は「バラシ」
といって、漫才か、手品のような色物と決まって
いた。
トリの師匠の噺に集中できるように、今までさ
んざん笑っていたお客を、いったん平たくする、
つまり落ち着かせることを、符丁で「客をバラす」
といった。
「お前たちはバラシなのに、客を余計かき混ぜ
てどうするんだ」
よく師匠たちに怒られたものだ。
自分の前の芸人が、あまりにもウケでいたら、
後に出る人はやり難いに決まっている。
けれど、いくら怒られたって、こればかりは仕
方がない。そのうちトリ前のバラシを外されて、
俺たちは4番目くらいに出されるようになった。
間をあければ安心だと思ったんだろうけれど、そ
うはいかなかった。
俺たちの漫才を見終わると、客が席を立ってし
まうのだ。ツービートの漫才が目当てのお客があ
まりにも増えて、トリの師匠が出る頃には空席だ
らけになっていた。
ショーの前座をやったときも、同じことが起き
た。
『内山田洋とクールファイブ』のショーの前座
を、俺たちは半年契約でやることになった。最初
の頃は何も問題はなかったのだけれど、そのうち
ツービートの人気が爆発してしまう。
客席は満員になるのだが、前座のツービートの
漫才が終わったら、メインのクールファイブの歌
を聴かずに、お客がどんどん帰ってしまうことに
なった。
だけど、内山田さんは偉かった。俺にこう頼ん
だのだ。
「タケちゃん。悪いけど、順番を変えてくれ」
自分たちが、先に歌うと言うのだ。それじゃ、
クールファイブが俺たちの前座ってことになって
しまう。
「だって、これはクールファイブのショーじゃな
いの?」
俺がそう言ったら、内山田さんはもう笑ってい
た。
「いいよもう、お前らのショーで」
この人、すごい人だなあと思った。
以上。
才能を持つのも、大変な人生を強いられることに
なり、そう簡単に羨望するものではないと、教え
られる。
それはそうとして、結局、大方の人の人生は、褒め
殺しの人生を歩むことになるのかもしれない。
話しは、北野武についてだが、彼の「たけしくん、
ハイ!」という本を読んで、ショックを感じた。
彼のあまりにも、貧しい幼少期に。
皮肉なことに、彼の不幸の全てが、大人になってから
の栄光につながったようだ。
若干、わたしの父親の人生とダブるよう気がしてなら
ない。
彼が、どんなに我が儘な生き方をしても、咎めようも
ないほど、通常の人間からしては、筆舌しがたい不幸
を前提しているようだ。