本国であるチリ共和国から遥か3700キロ彼方にその島はある。その島こそモアイの島として多くの人が関心を寄せている
イースター島(ラパ・ヌイ)である。
この島の歴史は文字による記録が残されていないため推測するしかない。ただ荒涼とした島に多数のモアイ像が捨て置かれた
ように残されている。太平洋の真っただ中にある絶海の孤島と言うだけでも異様さを感じるのに、残されたモアイ像が更に興味を
かきたてる。
この島の様子を見た時、そしてこの島の歴史を知った時、これはまさしく今の地球の縮図だと感じた。何故か。それは環境と言う
もののあり様を考えることなく徹底的に島を破壊し続け、最後には島から抜け出す手段まで失ってしまったことによる。
この島の住人達はハワイやタヒチなどの先住民族であるポリネシア人である。彼らの祖先は巧みな操船術によって太平洋に
点在する島々を次々と訪れては住みやすそうな島に定住していった人々である。アウトリガー付きの帆船と潮の流れ、野鳥の
姿、夜空の星などを観測しながら航海を続けた。そしてたどり着いたのが、この島であるラパ・ヌイであった。
イースターとは、この島に上陸したヨーロッパ人が名付けたものであって、ラパ・ヌイ語ではラパ・ヌイと呼ぶのが普通である。
ヨーロッパ人たちがこの島を発見し上陸した日がキリスト教の感謝祭、つまりイースターであった。
ヨーロッパ人たちがこの島に上陸する前からこの島の住民は激減していた。更に追い打ちをかけるように島民たちを奴隷として
運びだし、更にはヨーロッパ人達が持ち込んだ伝染病の蔓延によって人口を減らした。
何故、人口が激減するに至ったのか、それは悲しい現実があった。ポリネシア人たちがこの島に居を定め暮らし始めた頃は
亜熱帯の豊かな島であった。森林を開き畑を作り、それによって人口は増えて行った。反面、限られた島の中だけでは切り開く
畑にも限界があった。おまけに、この島は元々火山島であり表土は痩せていて浅い。また風を遮る森がなくなると周辺は吹き
さらしの海である。こうして表土は風や雨によって削られ、畑はますますやせ地になっていった。
モアイづくりに狂奔している内に気が付いたら増え続けた島の人口を養うほどの収穫がなくなっていたと言うわけである。
島の木と言う木はことごとく伐り倒され、海に活路を見出すことも出来なくなっていた。彼らが何故、モアイを作り続けたのか
島に収穫が失われてしまうまで何故気が付かなかったのか、その辺は定かではない。
こうして、乏しい収穫物を巡って村と村が争うようになったのではないかと言われている。そして悲惨なことに生きていく
ために人肉まで口にするようになったと言われている。
この話を聞き、更に異様な感じのする裸の島イースター島全体を見た時、何故かしら今の地球のことを考えてしまった。
今私達は地球規模の乱開発と限られた資源を使い切ろうとしている。その上、他の星へ移動する手段も持ち合わせていない。
このまま進めば温暖化と資源の枯渇によって共食いすらしなければならないような事態を招くのではないか。
この島の今の人口は5000人くらいだと言われている。生活物資の大半は本国チリからの移入品である。そして島の産業と
言えば観光である。テンダーボートと言う小さな船しか横付け出来ないような港の周辺には土産物屋がたくさん並んでいた。
そして島のあちこちでは野生化した馬が草を食んでいた。これらは農耕馬として運び込まれた後、やせ土で農業が続けられなく
なった結果、放置された飼い馬たちであった。
島は人工的に植林が行われている。チリ本国から持ち込まれたヤシなどの木である。私たちが訪れたピースボートも植林に
一役かっていると言われていた。しかし、地味に乏しいこの島にかつてのような密林を取り戻すことが可能なのだろうか。
島に幾つかある火山の側面はモアイの製造場所であった。ここには火山の内と外に作りかけのものや作ったままで打ち捨てられた
ものなどがたくさんあった。中には上半身だけが土から出たものもあり、こんな巨体をどのようにして運び出そうとしていたのか
不思議であった。
元は集落であったと言う場所にはモアイが集落の方を向いて建てられていた。モアイは彼らの祖先の姿を模したものだと
言われている。いわば集落の守り神としての存在だったようだ。特徴ある顔には大きな目がはめられていた。この大きな目で
集落を守っていたようである。しかし、集落ごとの争いがあった時、ことごとく顔を地面に向けて倒され、その時に目は
つぶされてしまったようである。目には呪術的な力があったのかも知れない。
日本からはクレーンを製造している会社が無償援助で何体かのモアイを立て直したと聞いている。しかし、今も多くは横倒しに
なったまま雨風にさらされている。
この島へ大型客船から上陸するにはテンダーボートと言う小型船に乗り換えるしかない。沖合に錨を下ろした客船の横の
ハッチを開け、ここから横付けした小さなボートへ飛び移る。波が高いので風が強くなるとこの作業は中止となる。客船の
ハッチとボートが同じ高さになった時をねらって飛び移る。まさに絶海の孤島である。島の周辺には常に風が吹いている。
しかし、太平洋のど真ん中近くにあるこの島の魅力はモアイ像ではなく海の青さにある。空が晴れていると海の青さと空の青さが
一体となって言い尽くせないほど美しい景色となる。また島周辺の浅いところに日が射すと、その青さは更に不思議な色に変化する。
自然が作り出す天然の美しさである。この美しさは、どのような技術をもってしても人間の力では作り出せない。
この島の一方の角にあるオロンゴ岬に立つと絶海の孤島と言うことを実感する。隣接する小さな岩ばかりの島を除けば海上には
何もない。茫洋と広がる太平洋だけである。
この日、暦の上では12月28日、船の中ではクリスマスイベントに引き続き、近づくお正月に向けての行事の準備など慌ただしさを
加えていた。
イースター島(ラパ・ヌイ)である。
この島の歴史は文字による記録が残されていないため推測するしかない。ただ荒涼とした島に多数のモアイ像が捨て置かれた
ように残されている。太平洋の真っただ中にある絶海の孤島と言うだけでも異様さを感じるのに、残されたモアイ像が更に興味を
かきたてる。
この島の様子を見た時、そしてこの島の歴史を知った時、これはまさしく今の地球の縮図だと感じた。何故か。それは環境と言う
もののあり様を考えることなく徹底的に島を破壊し続け、最後には島から抜け出す手段まで失ってしまったことによる。
この島の住人達はハワイやタヒチなどの先住民族であるポリネシア人である。彼らの祖先は巧みな操船術によって太平洋に
点在する島々を次々と訪れては住みやすそうな島に定住していった人々である。アウトリガー付きの帆船と潮の流れ、野鳥の
姿、夜空の星などを観測しながら航海を続けた。そしてたどり着いたのが、この島であるラパ・ヌイであった。
イースターとは、この島に上陸したヨーロッパ人が名付けたものであって、ラパ・ヌイ語ではラパ・ヌイと呼ぶのが普通である。
ヨーロッパ人たちがこの島を発見し上陸した日がキリスト教の感謝祭、つまりイースターであった。
ヨーロッパ人たちがこの島に上陸する前からこの島の住民は激減していた。更に追い打ちをかけるように島民たちを奴隷として
運びだし、更にはヨーロッパ人達が持ち込んだ伝染病の蔓延によって人口を減らした。
何故、人口が激減するに至ったのか、それは悲しい現実があった。ポリネシア人たちがこの島に居を定め暮らし始めた頃は
亜熱帯の豊かな島であった。森林を開き畑を作り、それによって人口は増えて行った。反面、限られた島の中だけでは切り開く
畑にも限界があった。おまけに、この島は元々火山島であり表土は痩せていて浅い。また風を遮る森がなくなると周辺は吹き
さらしの海である。こうして表土は風や雨によって削られ、畑はますますやせ地になっていった。
モアイづくりに狂奔している内に気が付いたら増え続けた島の人口を養うほどの収穫がなくなっていたと言うわけである。
島の木と言う木はことごとく伐り倒され、海に活路を見出すことも出来なくなっていた。彼らが何故、モアイを作り続けたのか
島に収穫が失われてしまうまで何故気が付かなかったのか、その辺は定かではない。
こうして、乏しい収穫物を巡って村と村が争うようになったのではないかと言われている。そして悲惨なことに生きていく
ために人肉まで口にするようになったと言われている。
この話を聞き、更に異様な感じのする裸の島イースター島全体を見た時、何故かしら今の地球のことを考えてしまった。
今私達は地球規模の乱開発と限られた資源を使い切ろうとしている。その上、他の星へ移動する手段も持ち合わせていない。
このまま進めば温暖化と資源の枯渇によって共食いすらしなければならないような事態を招くのではないか。
この島の今の人口は5000人くらいだと言われている。生活物資の大半は本国チリからの移入品である。そして島の産業と
言えば観光である。テンダーボートと言う小さな船しか横付け出来ないような港の周辺には土産物屋がたくさん並んでいた。
そして島のあちこちでは野生化した馬が草を食んでいた。これらは農耕馬として運び込まれた後、やせ土で農業が続けられなく
なった結果、放置された飼い馬たちであった。
島は人工的に植林が行われている。チリ本国から持ち込まれたヤシなどの木である。私たちが訪れたピースボートも植林に
一役かっていると言われていた。しかし、地味に乏しいこの島にかつてのような密林を取り戻すことが可能なのだろうか。
島に幾つかある火山の側面はモアイの製造場所であった。ここには火山の内と外に作りかけのものや作ったままで打ち捨てられた
ものなどがたくさんあった。中には上半身だけが土から出たものもあり、こんな巨体をどのようにして運び出そうとしていたのか
不思議であった。
元は集落であったと言う場所にはモアイが集落の方を向いて建てられていた。モアイは彼らの祖先の姿を模したものだと
言われている。いわば集落の守り神としての存在だったようだ。特徴ある顔には大きな目がはめられていた。この大きな目で
集落を守っていたようである。しかし、集落ごとの争いがあった時、ことごとく顔を地面に向けて倒され、その時に目は
つぶされてしまったようである。目には呪術的な力があったのかも知れない。
日本からはクレーンを製造している会社が無償援助で何体かのモアイを立て直したと聞いている。しかし、今も多くは横倒しに
なったまま雨風にさらされている。
この島へ大型客船から上陸するにはテンダーボートと言う小型船に乗り換えるしかない。沖合に錨を下ろした客船の横の
ハッチを開け、ここから横付けした小さなボートへ飛び移る。波が高いので風が強くなるとこの作業は中止となる。客船の
ハッチとボートが同じ高さになった時をねらって飛び移る。まさに絶海の孤島である。島の周辺には常に風が吹いている。
しかし、太平洋のど真ん中近くにあるこの島の魅力はモアイ像ではなく海の青さにある。空が晴れていると海の青さと空の青さが
一体となって言い尽くせないほど美しい景色となる。また島周辺の浅いところに日が射すと、その青さは更に不思議な色に変化する。
自然が作り出す天然の美しさである。この美しさは、どのような技術をもってしても人間の力では作り出せない。
この島の一方の角にあるオロンゴ岬に立つと絶海の孤島と言うことを実感する。隣接する小さな岩ばかりの島を除けば海上には
何もない。茫洋と広がる太平洋だけである。
この日、暦の上では12月28日、船の中ではクリスマスイベントに引き続き、近づくお正月に向けての行事の準備など慌ただしさを
加えていた。
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