ここのところパソコンの前に座る時間が少なかった事もあって、ブログ
に向かうことも少なかった。久々のブログである。書き続けていると何か
しら書かなければというような義務感が生じて仕方なく書いているような
時もあった。それもしばらく書かないでいると義務感も薄らいで、まあ明
日にでも書けば良いかといった安易な気持ちになってしまう。人間という
ものは実に優柔不断に出来ているものだと、我と我が身を嘆かわしく思う
こともある。書き物を専業にしているような人にとっては書くことが義務
であり仕事であるが、書きたくないと思うような時もあるだろう。そんな
時はどのようにしているのだろう。
さて、私は今週の初めまで約二十日間ほどアルバイトをしていた。その
ことについては先のブログでも少し書いておいたが、もう一度振り返って
みたいと思う。早いもので定年退職をして約二年近くが過ぎてしまった。
もう二度と再び仕事などはすまいと思っていたが、義理の絡む頼まれ事と
なると、そうはいかなかった。よしやってみようという踏ん切りをつけて
からの心の準備、職場に通い始めてからの一週間、本当に大変であった。
別に肉体的にしんどいこともなかったのだが、何となく体も意識もついて
いかないのだ。やはり退職後二年間のブランクは大きかった。
一切の家庭の事は先送りして仕事に専念した。専念したというよりは、
そうせざるを得なかった。毎朝五時半に起床、シャワーを浴びて髭をそり
支給された作業服を着る。朝食を食べ朝の交通渋滞を避けるため大急ぎで
家を出る。職場に着くのが六時四十分位、それから七時十分くらいまでに
前日の報告事項、その日話すことを手短に書き留め、職人さん達がいる
控え室に七時十五分くらいまでに行く。
そこから今日一日の本格的な仕事が始まる。「おはよう」と大きな声で
声をかけながらテーブルとテーブルの間を歩く。職人さん達の間からは、
まばらな挨拶が返ってくる。七時三十分、本社から応援に駆けつけている
社長さんが今日の作業と注意事項を話す。その後、引き続いて私から昨日
あったパトロールの指摘事項やトラブルを説明し、更に注意事項を話す。
そして今日の一言を話し、全員起立させて安全唱和をして終わる。その後、
新たに入ってきた職人さん達の安全教育をする。
私の役目としては通り一遍の事をするだけでも十分なのだが、私なりの
工夫と熱意を持って取り組んだ二十日間あまりでもあった。初めは何となく
よそよそしさの感じられた職場だったが、繰り返す私の言葉や真摯な態度
を理解してくれたのであろうか、安全唱和の際のふてくされたような態度
も少なくなり、一体感が生まれてきたように感じたのは私の欲目だったで
あろうか。
やっと一体感が感じられるような頃になると一グループいなくなり、二
グループいなくなり、控え室には空席が目立つようになってきた。職人さん
達の多くは日本全国から応援という形で集結した人達だった。彼らは色んな
職場を渡り歩き、それだけに何度も危険な目に遭い、私のような素人が語る
以上に危険な事を知り尽くしている人達だ。それだけに今更、安全教育など
と言う思いもあるだろう。
しかし、受け容れ側の大工場は安全こそ第一の時代になっている。安全
メガネの着用や安全帯の使用は至上命令に近いものだ。それだけに協力会社
には一糸乱れぬ取り組みを望んでいる。ここに安全に対する取り組みの難し
さや教育の難しさがある。ましてや経歴も経験も様々な職人さん達だ。彼ら
に一歩踏み込んだ安全意識を植え付ける、これは言うことはやさしいこと
だが実行させることは非常に難しい。
かくして悪戦苦闘とまではいかないまでも、私にとってはしんどい一仕事
が終わった。しかし、銭金では買えない非常に貴重な経験をさせて貰ったと
感謝している。
に向かうことも少なかった。久々のブログである。書き続けていると何か
しら書かなければというような義務感が生じて仕方なく書いているような
時もあった。それもしばらく書かないでいると義務感も薄らいで、まあ明
日にでも書けば良いかといった安易な気持ちになってしまう。人間という
ものは実に優柔不断に出来ているものだと、我と我が身を嘆かわしく思う
こともある。書き物を専業にしているような人にとっては書くことが義務
であり仕事であるが、書きたくないと思うような時もあるだろう。そんな
時はどのようにしているのだろう。
さて、私は今週の初めまで約二十日間ほどアルバイトをしていた。その
ことについては先のブログでも少し書いておいたが、もう一度振り返って
みたいと思う。早いもので定年退職をして約二年近くが過ぎてしまった。
もう二度と再び仕事などはすまいと思っていたが、義理の絡む頼まれ事と
なると、そうはいかなかった。よしやってみようという踏ん切りをつけて
からの心の準備、職場に通い始めてからの一週間、本当に大変であった。
別に肉体的にしんどいこともなかったのだが、何となく体も意識もついて
いかないのだ。やはり退職後二年間のブランクは大きかった。
一切の家庭の事は先送りして仕事に専念した。専念したというよりは、
そうせざるを得なかった。毎朝五時半に起床、シャワーを浴びて髭をそり
支給された作業服を着る。朝食を食べ朝の交通渋滞を避けるため大急ぎで
家を出る。職場に着くのが六時四十分位、それから七時十分くらいまでに
前日の報告事項、その日話すことを手短に書き留め、職人さん達がいる
控え室に七時十五分くらいまでに行く。
そこから今日一日の本格的な仕事が始まる。「おはよう」と大きな声で
声をかけながらテーブルとテーブルの間を歩く。職人さん達の間からは、
まばらな挨拶が返ってくる。七時三十分、本社から応援に駆けつけている
社長さんが今日の作業と注意事項を話す。その後、引き続いて私から昨日
あったパトロールの指摘事項やトラブルを説明し、更に注意事項を話す。
そして今日の一言を話し、全員起立させて安全唱和をして終わる。その後、
新たに入ってきた職人さん達の安全教育をする。
私の役目としては通り一遍の事をするだけでも十分なのだが、私なりの
工夫と熱意を持って取り組んだ二十日間あまりでもあった。初めは何となく
よそよそしさの感じられた職場だったが、繰り返す私の言葉や真摯な態度
を理解してくれたのであろうか、安全唱和の際のふてくされたような態度
も少なくなり、一体感が生まれてきたように感じたのは私の欲目だったで
あろうか。
やっと一体感が感じられるような頃になると一グループいなくなり、二
グループいなくなり、控え室には空席が目立つようになってきた。職人さん
達の多くは日本全国から応援という形で集結した人達だった。彼らは色んな
職場を渡り歩き、それだけに何度も危険な目に遭い、私のような素人が語る
以上に危険な事を知り尽くしている人達だ。それだけに今更、安全教育など
と言う思いもあるだろう。
しかし、受け容れ側の大工場は安全こそ第一の時代になっている。安全
メガネの着用や安全帯の使用は至上命令に近いものだ。それだけに協力会社
には一糸乱れぬ取り組みを望んでいる。ここに安全に対する取り組みの難し
さや教育の難しさがある。ましてや経歴も経験も様々な職人さん達だ。彼ら
に一歩踏み込んだ安全意識を植え付ける、これは言うことはやさしいこと
だが実行させることは非常に難しい。
かくして悪戦苦闘とまではいかないまでも、私にとってはしんどい一仕事
が終わった。しかし、銭金では買えない非常に貴重な経験をさせて貰ったと
感謝している。