人生いろは坂

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地球一周の旅から10年(5) ベトナム社会主義共和国

2014-11-08 04:53:20 | Weblog
 ベトナムは社会主義国家である。しかし、既に何年も前からドイモイと呼ばれる改革を掲げ世界に向けて経済的にも
政治的にも孤立化を止め、開かれた政策を掲げている。近年の躍進は著しい。そして、ベトナムは戦勝国である。
日本のように全面降伏した国ではない。従って、国内に他国を支配するような軍隊はいない。完全な独立国である。
アメリカとがっぷり4つに組んで完全勝利した国だと言えよう。

 ベトナムは元々、フランスの植民地であった。独立を勝ち取るために戦っていた時、とってかわったのがアメリカで
あった。当時、アメリカはソ連と敵対関係、冷戦状態にあった。ソ連の包囲網を構築するために、他国の戦争に軍事
介入した。その結果、泥沼のような戦争状態に突入した。アメリカ軍だけでなく同盟国であった韓国軍も動員された。

 その当時、共産圏だった北ベトナムはホーチミンの指導の下に徹底抗戦した。ゲリラ戦術を得意とした北ベトナム軍や
ベトコンと称されていた南ベトナム解放民族戦線などが戦い抜いた。ゲリラ戦に手を焼いたアメリカ軍は当時、最新
兵器だと言われたナパーム弾や枯葉剤を大量に使い、ベトナムを殲滅しようとした。空爆のために日本の沖縄から
連日のようにB52戦略爆撃機が飛んだ。実にすさまじい戦争であった。

 アメリカ軍の兵士達はベトナムのゲリラ戦に悩まされ無差別殺人を繰り返した。中には精神異常を来した軍人も
少なくない。多くのベトナム民間人が殺された。韓国軍もアメリカ軍と同じようにベトナムで殺戮の限りを行い
女性のレイプを繰り返した。これが戦争と言うものの実態である。生易しいものではないと言うことを肝に銘じて
おくべきだ。

 大量の爆弾と放射能にも匹敵する枯葉剤と最新兵器を投入しても勝てなかった。ベトナムは完全に勝利した。
過去には隣国中国との間で幾度となく交わされた戦いでもベトナムは勝利している。実に誇り高い国民である。
そして内に秘めたものとは裏腹に明るく心優しい国民である。どこか性格も顔立ちも日本人に似ている。

 私達がベトナムのブンタウ港に入港した時、港は目も覚めるような青いアオザイを着た若い女性で埋め尽くされていた。
船室の側面の通路に出て見下ろすと遥か眼下に慌ただしく行き来する人達が見える。私達の入港を歓迎してくれる人達だ。
そして時間が経過するとアオザイの女性たちは、大きな輪を作り踊り始めた。とても美しい。輪は解けて再び結ばれて
と繰り返される。私達を歓迎する踊りとセレモニーであった。

 ひとしきり歓迎会が行われた後に私達も下船だ。私たちは迎えに来た観光バスに、現地交流を行う若者たちは
迎えに来ていた現地の青年達のバイクに乗って、それぞれの地へと散って行った。

 戦勝国の証はサイゴン市内(今はベトナム戦争を勝利に導いた偉大な指導者ホーチミンを称えてホーチミン市)にある
戦争証跡博物館に良く表れている。様々な兵器や戦勝品と一緒に枯葉剤によって生まれた奇形児のホルマリン漬けが展示
されていた。国の考え方もあろうが日本は核爆弾によって多くの奇形児が生まれていてもアメリカ軍の統治下にあって
写真も現物も展示できなかった。これがアメリカ軍のやって来たことだと言う証拠品を展示できない。

 原爆の被害による被災者のデータも写真も長く公開されなかった。全てとは言わないまでもこれが戦勝国と敗戦国の
違いではなかろうか。そして今もアメリカの支配下にあって政治的な自由も経済的な自由も与えられていない。
ベトナムは小さな国ながら完全な戦勝国であり独立国だという誇りを持っている。

 ホーチミンは歴史ある美しい街であった。建物の多くは戦争の被害を受けることなく、そのまま残された。フランス
統治時代そのままの姿をとどめており、お洒落な街だと言う印象が強い。オプショナルツアーでジャングルクルーズを
選んでいた私たちは大河メコンの周辺を縦横に流れている流れのほとりで昼食を食べた。どの料理も日本人の口にとても
合う食材ばかりで調理の仕方も良かった。日本人旅行者向きの料理だと言えよう。

 ジャングルクルーズは大河であるメコンの周辺にある。メコンが運んできた膨大な土砂が堆積し、その上に
ジャングルが形成されたものである。従って、植物は半分が水に浸かった状態にある。この中を幾筋も流れる
流れの中を小さな船で巡り見物する。案内人たちはこの小さな船を器用に操り、片言の日本語で客にガイドする。
中には子連れもいるし、夫婦で交代しながら漕いでいるものもいる。

 ジャングルの中では食べごろの果物もたくさん成っている。こうした果物を上陸した時には出してくれた。また
ヤシの汁を煮詰めてキャラメルにも加工していた。既に中州になって時間を経過したものは島として住民たちの
居住区になっていた。

 道路の周辺は急ピッチで埋め立てられ新しい区画地が造成されたりして、この国の急速な発展ぶりが伺えた。
今から10年前のベトナムである。そして、その当時の人々の生活は決して豊かではなかった。道のほとりでは
ヤシの実を売ったり魚を売って生計を立てている人を何人も見かけたし、ホーチミン市内でも天秤棒に荷物を
ぶら下げて歩いている人もいた。その当時はまだまだ戦争の傷跡の残る貧しい国であった。

 これは今でも変わらないようだが猛烈なモータリーゼーションが押し寄せていて、便利な乗り物としてのバイクが
どの道を走っていてもたくさん見かけた。その数たるや膨大なものである。小さなバイクに一家五人などと言うのも
珍しくはない。国民の足だと言っても過言ではない。

 観光地としても多くの資源を有する国である。そして勤勉だと言う国民性は中国以上の発展の可能性を秘めて
いる。アジアの中でも長く良い付き合いをしていきたい国である。ここで過去に聞いたエピソードを紹介して
ベトナムを終えよう。

 犬養毅氏が首相だった頃、植民地だったアジア各国の独立の機運が高く、明治維新によって植民地化を免れた
日本に学ぼうと言う気運が高かった。日本もヨーロッパ各国による植民地化をこころよく思っていなかった。
そうした事情から犬養さんたちは東南アジア各国の独立を密かに支援していたのである。むろん、そうした支援国
の中には当時の中国もあった。その構想を日本軍がつぶしてしまった。

 残念ながら犬養さんは軍の凶弾に倒れ、その志はとん挫してしまったが、知る人ぞ知る歴史的な事実である。
大東亜共栄圏という構想もその時に生まれたものである。結果的にはその後の日本軍の進出によって東南アジア各国は
軍靴によって踏みにじられ、これらの国から恨みを買うことになってしまったのは誠に残念なことであった。

 私たちはもう一度、歴史を振り返ってみることが必要なのではないだろうか。これでベトナムを終わります。
次はシンガポールです。お楽しみに・・・・。
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