人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

心と体

2013-10-17 05:45:35 | Weblog
 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」とは
かのオリンピックを提唱したクーベルタン男爵の言葉だが、とかく昨今の
オリンピックでは記録を争うことに重点が置かれているような気がしてならない。
そしてオリンピックの誘致合戦も過熱し政治的な思惑が絡んでいるような気が
してならない。

 人間の肉体には自ずと限界がある。これを大きく超えての記録などと言うものは
あり得ない。確かに水泳でコンマ何秒と言う記録を短縮しただとか、水着の素材を
改良したら新しい記録が出たとか言っているが、これは果たして記録更新と言える
のだろうか。そうした記録を追求することより鍛え上げられた体で最高の演技をする。
最高の走りを見せる。耐久力の限界を感じさせる走りを見せる。最高の演技を見せる。
そうしたことに力点を置くべきではないだろうか。とは言え選手には記録を更新する
という目的がなければ励みにはならないのだろうか。

 さて2020年の東京オリンピックはどのような年になり、どのような協議が
展開されるのであろうか。

 健全なる心は健全なる身体に宿るとはローマの詩人ユベナリスの詩の中に出てくる
一節だが、私たちのように高齢者の域に達しようかと言うものの中には病んでいる
人が実に多い。多くは多分に生活習慣から来る病気のようだ。私の場合は年相応以上
に歯状が悪い。これなども多分に私の生活習慣からなったものだと自覚している。
もっと時間をかけて丁寧に磨くべきものを生来の気ぜわしさから簡単に済ませてしまう
癖がある。分かっていながらなかなか改善できない。

 甘いものが好きだとか、塩辛いものが好きだとかと言うのも生活習慣から来るものだ。
多分に自分の心がけ次第で変えることが出来る問題だ。私の知り合いに幾度となく
パソコントラブルを起こすものがいた。見ているとキー操作が早い。早すぎる。
どうやら当時のパソコンの動作が彼のキー操作についていけなかったらしい。パソコン
操作以外にも彼の日常行動の多くにそれが見て取れた。

 これは相手がパソコンの場合のことである。ことほど自分の性格やものの考え方を
考えるだけで改善できる病気も少なくない。むろん心の持ちようだけでなく、生まれ
ついての体の構造が一人一人異なるのだから、この人の場合は良くてこの人の場合は
良くないことも少なくないだろう。しかし心がけ次第や心の持ちようで良くなる病気も
少なくない。

 MK細胞と言うものがある。キラー細胞とも言われている。体にとって良くないものが
侵入してくると、すぐさま攻撃して無害化してくれる細胞である。人間にとって最大の
防御機能である。年を重ねるとこの防御機能が衰える。そこで体に出来た癌細胞を取り
込んで無害にすることが出来なくなる。従って、いかにこの防御機能を活性化させるかが
癌との戦いには必要だ。そのためには食べ物が大切だと言われている。肉食に偏ることなく
多くの野菜を食べることによって腸の働きを高め、とかく酸化しやすい腸内の状況を
変えなければならない。肉食に偏りすぎると酸化しやすくなってくる。

 そして更に大切なのは心の持ちようであろう。悔んだり悩んだりしていたのでは
免疫機能は著しく低下する。笑いヨガと言うのがあるそうだが、うわべだけの笑い
でも良いと言われている。癌患者が漫才や落語で癒され免疫力が高まったという
話を聞くことがある。気の持ちようで体は劇的に変化するという良い事例ではなかろうか。

 常に何かに不満をぶつけているような人に良い人生はない。心穏やかに、物事に
固執せず、心おおらかに生きることこそ健康で長生きの秘訣ではないだろうか。
腹を立てる、他人を悪く言う、人を恨む、自己中心的な生き方しかできない人、
こんな人は穏やかな死に方は出来ない。断言できる。自己を捨て他人にやさしくして
こそ人生である。そうした人の心は常に穏やかで長寿を全うしている。悟りを開いた
高僧などである。偉大な芸術家もそうかもしれない。中には自分で勝手に芸術家だと
言っている人もいるにはいるけど・・・。

 ものの本によれば汚い言葉も良くないらしい。言葉は言霊(ことだま)ともいう。
言葉には霊的なものがあると言うことだろうか。それくらい言葉の持つ意味は大きい。
そして口から発した言葉は相手にだけでなく自分にも跳ね返ってくる。木霊(こだま)
のようなものである。汚い言葉を投げかければ汚い言葉が跳ね返ってくる。まさしく
言葉と言葉の応酬である。

 汚い言葉は相手を傷付けるだけでなく自分にも”ぐさり”とくる。言い負かしたと
思っていても、その言葉は幾重にも自分の心を傷付けている。常日頃から心したい
ものである。やさしい言葉、慈愛に満ちた言葉を投げかけてみよう。きっと自分にも
良いことがあるはずだ。

 人間は非常に自己中心的である。それはある種の生きる力にもなっている。しかし
行き過ぎると大変なことになる。できるだけ自分と言うものを抑え、相手のことを思い
やるように心がける。何も神様や仏様のようになる必要はない。なれと言われても
なれない。しかし、ほんの少し考えを変えるだけで良い。それだけで心は軽くなるはずだ。

 人間は苦しむためにこの世に生を受けたわけではない。人生は楽しむためにある。
そのためにはまずは心を変えなければならない。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
言い換えれば健全なる肉体を得ようとすれば、まずは精神のありようを変えなければ
ならないと言うことではないだろうか。
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4 コメント

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心を観察する (林良彦)
2013-10-22 18:04:33
・・・・汚い言葉は相手を傷付けるだけでなく自分にも”ぐさり”とくる。言い負かしたと思っていても、その言葉は幾重にも自分の心を傷付けている。常日頃から心したいものである。やさしい言葉、慈愛に満ちた言葉を投げかけてみよう。きっと自分にも良いことがあるはずだ。・・・

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 すばらしいお話です。私の孫に四才の女の子がいます。とても "かんしゃく持ち" で、自分で゛も収まりません。幼子は自分では自覚もできません。心が静まるまでは時間が必要です。実は、私もそうですしたし、母方の祖父も、かんしゃく持ちでした。だから、罪の無い幼子に私の"かんしゃく"が受け継がれたのかと思うと心が痛いのです。・・・・・

麻里ちゃんへ・・・・『怒りは先祖から続くものであり、麻里が悪いのではない。しかし、怒りは、人の心を傷つけ、自分の心を傷つけ、我が身を焼くのです』。もう少し大きくなったら、毎日、自分の心に注意し、心を見つめて下さい。怒りが生じたら『この心は、本当の私ではない、思いやりと優しさなのだ・・・・・気をつけよう。』、何度も自分に言い聞かせるのです。、静かに、穏やかに、命の続く限り・・・・・・ お爺ちゃんより
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こころを観察する (林良彦)
2013-10-22 22:37:06
・・・・汚い言葉は相手を傷付けるだけでなく自分にも”ぐさり”とくる。言い負かしたと思っていても、その言葉は幾重にも自分の心を傷付けている。常日頃から心したいものである。やさしい言葉、慈愛に満ちた言葉を投げかけてみよう。きっと自分にも良いことがあるはずだ。・・・

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すばらしいお話です。

私の孫に四才の女の子がいます。とても "かんしゃく持ち" で、自分で゛も怒りが収まりません。幼子は自覚もできません。心が静まるまでは時間が必要です。実は、私もそうでした。母方の祖父も、かんしゃく持ちでした。罪の無い幼子に私の"かんしゃく"が受け継がれたのかと思うと心が痛みます。・・・・・

麻理ちゃんへ・・・・『喜怒哀楽は先祖から続くものであり、麻理が悪いのではない。しかし、怒りは、人の心を傷つけ、自分の心も傷つけ、我が身を焼くのです』。もう少し大きくなったら、毎日、自分の心に注意し、自分の心を見つめて下さい。怒りが生じたら『この怒りは、本当の私ではない ! 。本来の私は思いやりと優しさなのだ・・・・・気をつけよう。』、何度も自分に言い聞かせるのです。静かに、穏やかに、命の続く限り・・・・・・ お爺ちゃんより
返信する
削除のお願い (林良彦)
2013-10-23 21:54:49
管理者様へ

複数投稿で大変ご迷惑をおかけしたことを、
お詫び申し上げます。 

これからは、ご迷惑のかからないよう再確認の上、細心の注意で投稿するように心がけますので、
お許し下さい。

削除すべきファイル

2013-10-22 18:04:33の投稿は、入力ミスと誤字が有りました。

怒りは→喜怒哀楽は

麻里→麻理

よろしくお願いいたします。
返信する
苦から逃れることはできない。 (林良彦)
2013-10-30 23:47:27


 --- 私の理解してる ”苦”とは ---

 ”苦”は、私達が生きるために最も大切な要素です。

 たとえば、
 あなたの手のひらに真っ赤に燃える炭火を置いたら、

 思わず手を引きます
 瞬時に払いのけます

 なぜ?
 それは身を守るためです
 
 もし、
 あなたの片腕に虎が噛みついても何ともないなら、あなたは生きておられません。

 食べること、寝ること、歩くこと、呼吸すること、

 肉体の全ては”苦”の信号によって、”生きる活動”をしているのです。

 だから、

  ”生きる”ことは”苦”なのです。

  そして、

  ”古い苦”から”新しい苦”に移行するとき、

 ”快楽”が生じるのです。


 生きているとは【呼吸していること】なのです。

お釈迦様の教えである”苦”について、
 私はこのように聞いております。

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