かつて二度訪れた温泉地が三カ所ある。一つは玉造温泉であり、一つは湯村温泉、更に一つは
城崎温泉である。いずれも日本を代表する有名な温泉地だ。
こうした温泉地を訪れて驚くのは、その変貌振りだ。特に玉造温泉と湯村温泉には驚かされた。
その理由は、ビルディング状の温泉ホテルが林立していたことだ。都会のホテルかと思うような
巨大なビルが立ち並んでいた。看板がなかったら温泉旅館とは思えない。
かつて就職して間もない頃、慰安旅行で訪れたのが玉造温泉だった。その頃は、一年に
一回は慰安旅行と称するものを行っていた。留守番要員を残し、所属する課のもの全員が
出かけていた。親睦を兼ねての旅行であった。古き良き時代の話しである。確か会社からも
幾らかの補助金が出ていたように記憶している。
貸し切りバスでの旅もあったし、旅行会社が企画する旅行もあったとは思われるが、その頃の
我々の旅行と言えば大抵は旅行会社にコースを組んで貰い、渡された時刻表を見ながら、鉄道や
地域を走るバスを乗り継いでの旅であった。北陸へ旅したときは、夜行列車の中で仮眠を取り
翌朝になって目的地へ着いた。
そうした慰安旅行の一つに玉造温泉があった。訪れた玉造温泉は、それまで旅行というもの
の経験が、ほとんどなかった私にとって、かつて見たこともないような華やかで賑やかな
温泉地だった。
川を挟んで両岸に和風の温泉旅館が軒を接するように建ち並んでいた。そして、温泉旅館の
他に、土産物店や遊技場もたくさんあった。スナックがあり、路地を一歩入れば、温泉地には
つきものの怪しげな店やストリップ劇場もあった。
まるで大人のワンダーランドの様相を呈していた。温泉地に着くなり温泉に入り、その後は
恒例の宴会、どんちゃん騒ぎの宴会だった。その頃は、上司も部下もさしたる年齢差もなく
みんな二十代、三十代の元気盛りの若者だった。
この頃の温泉地はと言うと、大抵のところが男性向けの温泉地だった。風俗関係の規制も緩く
売春防止法施行下にあったとは言え、そのような施設が完全に消えていたわけではなかった。
それを売りにしなければ、集客が出来なかったという事情もある。また、それが目的での男達の
旅行でもあった。
こうした温泉地が少なくなったのは、家族旅行なるものが旅行の主体を占めるようになって
からの事であった。家族客を呼び込むために風俗と呼ばれるものは、片隅に追いやられていき
健全な温泉地に、いつしか変貌を遂げていた。
でも、今もそれを売りにしている温泉地が全てなくなったわけではない。それはそれで
需要があり、今も残っているようだ。人間界と風俗は切っても切れない関係にあるようだ。
こうした風俗と縁を切りながら、うまく乗り切った温泉地もあれば、次第に衰退していった
温泉地もある。
そういう場所を利用する年齢ではなくなったが、何となく全てが消えてしまうのは惜しい
ような気がしてならない。こうした場所は、こうした場所で温泉地にはなくてはならない
ものだと思うのは昭和の古き良き時代を思うノスタルジーであろうか。
そして宴会がお開きになると、徒党を組んで三々五々、街に繰り出す。ほとんどのものは
そのまま寝てしまうのではなく、街に繰り出すのが恒例であった。土産物屋に入り、遊技場に入る。
立ち並ぶ土産物屋で店員をひやかして歩くのが楽しみだった。むろん相手も心得ていてお客との
会話を楽しんでいた。本当に素朴でゆったりとした時間が流れていた。
土産物の中にはその地方でしか作れないものや採れないものもあった。玉造温泉は名前の通り
メノウの「まが玉」などの加工品が主たる土産物であった。この地は古くからメノウの産地で
あった。
この懐かしい玉造温泉を本当に久々に訪れた。最初に来たときは独身時代だった。そして
次の時は三十年以上を経て家内を伴っての旅であった。しかし、その変貌振りに驚いた。
川の流れも下流の桜並木も昔のままだったが、街が異常に寂しかった。色あせたカーテンの
小売店は店を閉めて久しい感じだった。そして、周辺には見上げるような温泉旅館が建ち並んで
いた。
私たちは星野リゾートが開発したという和風の建物が特徴の旅館にした。早速、町歩きを
したのだが、それらしい土産物店は皆無だった。実に寂しい街の風情であった。昔の街を
知っているだけに、がっかりさせられた。
巨大な温泉ホテルが全てを取り込んでしまった結果である。宴会が済めば、館内のカラオケや
スナックに。ゲームを楽しみたいものはゲームコーナーへ。そして土産物は館内の売店でどうぞ
と言うわけである。かつてのような温泉地らしい楽しみは何もなかった。
これでは街が寂れるはずである。かつての街の賑わいはどこへ消えたのだろう。こうした姿を
一将なって番卒枯れるという。巨大旅館の一人勝ちである。恐らくは生き残りをかけて競って
巨大旅館にしていったのであろう。その結果、かつての土産物店も街の賑わいも次々に消えて
しまった。
この逆をと言うか、伝統を守り続けているのが城崎温泉ではないだろうか。ここには温泉地
らしい、かつての賑わいがあった。むしろ、私たちが慰安旅行で訪れた時より賑わっていた。
若い男女、家族連れ、老夫婦、老若男女が外湯を大勢行き来していた。この温泉地もかつては
大人のための温泉地だった時もあったようであるが、うまく外湯を活用し、健全な家族向けの
温泉地へと変貌を遂げたようだ。
本来の温泉地は、これでなければならないと思うのは私だけであろうか。奇しくも紹介した
玉造温泉、湯村温泉、そして城崎温泉は、ともに温泉街の中心を川が流れている風情のある街
なのだが。
城崎温泉である。いずれも日本を代表する有名な温泉地だ。
こうした温泉地を訪れて驚くのは、その変貌振りだ。特に玉造温泉と湯村温泉には驚かされた。
その理由は、ビルディング状の温泉ホテルが林立していたことだ。都会のホテルかと思うような
巨大なビルが立ち並んでいた。看板がなかったら温泉旅館とは思えない。
かつて就職して間もない頃、慰安旅行で訪れたのが玉造温泉だった。その頃は、一年に
一回は慰安旅行と称するものを行っていた。留守番要員を残し、所属する課のもの全員が
出かけていた。親睦を兼ねての旅行であった。古き良き時代の話しである。確か会社からも
幾らかの補助金が出ていたように記憶している。
貸し切りバスでの旅もあったし、旅行会社が企画する旅行もあったとは思われるが、その頃の
我々の旅行と言えば大抵は旅行会社にコースを組んで貰い、渡された時刻表を見ながら、鉄道や
地域を走るバスを乗り継いでの旅であった。北陸へ旅したときは、夜行列車の中で仮眠を取り
翌朝になって目的地へ着いた。
そうした慰安旅行の一つに玉造温泉があった。訪れた玉造温泉は、それまで旅行というもの
の経験が、ほとんどなかった私にとって、かつて見たこともないような華やかで賑やかな
温泉地だった。
川を挟んで両岸に和風の温泉旅館が軒を接するように建ち並んでいた。そして、温泉旅館の
他に、土産物店や遊技場もたくさんあった。スナックがあり、路地を一歩入れば、温泉地には
つきものの怪しげな店やストリップ劇場もあった。
まるで大人のワンダーランドの様相を呈していた。温泉地に着くなり温泉に入り、その後は
恒例の宴会、どんちゃん騒ぎの宴会だった。その頃は、上司も部下もさしたる年齢差もなく
みんな二十代、三十代の元気盛りの若者だった。
この頃の温泉地はと言うと、大抵のところが男性向けの温泉地だった。風俗関係の規制も緩く
売春防止法施行下にあったとは言え、そのような施設が完全に消えていたわけではなかった。
それを売りにしなければ、集客が出来なかったという事情もある。また、それが目的での男達の
旅行でもあった。
こうした温泉地が少なくなったのは、家族旅行なるものが旅行の主体を占めるようになって
からの事であった。家族客を呼び込むために風俗と呼ばれるものは、片隅に追いやられていき
健全な温泉地に、いつしか変貌を遂げていた。
でも、今もそれを売りにしている温泉地が全てなくなったわけではない。それはそれで
需要があり、今も残っているようだ。人間界と風俗は切っても切れない関係にあるようだ。
こうした風俗と縁を切りながら、うまく乗り切った温泉地もあれば、次第に衰退していった
温泉地もある。
そういう場所を利用する年齢ではなくなったが、何となく全てが消えてしまうのは惜しい
ような気がしてならない。こうした場所は、こうした場所で温泉地にはなくてはならない
ものだと思うのは昭和の古き良き時代を思うノスタルジーであろうか。
そして宴会がお開きになると、徒党を組んで三々五々、街に繰り出す。ほとんどのものは
そのまま寝てしまうのではなく、街に繰り出すのが恒例であった。土産物屋に入り、遊技場に入る。
立ち並ぶ土産物屋で店員をひやかして歩くのが楽しみだった。むろん相手も心得ていてお客との
会話を楽しんでいた。本当に素朴でゆったりとした時間が流れていた。
土産物の中にはその地方でしか作れないものや採れないものもあった。玉造温泉は名前の通り
メノウの「まが玉」などの加工品が主たる土産物であった。この地は古くからメノウの産地で
あった。
この懐かしい玉造温泉を本当に久々に訪れた。最初に来たときは独身時代だった。そして
次の時は三十年以上を経て家内を伴っての旅であった。しかし、その変貌振りに驚いた。
川の流れも下流の桜並木も昔のままだったが、街が異常に寂しかった。色あせたカーテンの
小売店は店を閉めて久しい感じだった。そして、周辺には見上げるような温泉旅館が建ち並んで
いた。
私たちは星野リゾートが開発したという和風の建物が特徴の旅館にした。早速、町歩きを
したのだが、それらしい土産物店は皆無だった。実に寂しい街の風情であった。昔の街を
知っているだけに、がっかりさせられた。
巨大な温泉ホテルが全てを取り込んでしまった結果である。宴会が済めば、館内のカラオケや
スナックに。ゲームを楽しみたいものはゲームコーナーへ。そして土産物は館内の売店でどうぞ
と言うわけである。かつてのような温泉地らしい楽しみは何もなかった。
これでは街が寂れるはずである。かつての街の賑わいはどこへ消えたのだろう。こうした姿を
一将なって番卒枯れるという。巨大旅館の一人勝ちである。恐らくは生き残りをかけて競って
巨大旅館にしていったのであろう。その結果、かつての土産物店も街の賑わいも次々に消えて
しまった。
この逆をと言うか、伝統を守り続けているのが城崎温泉ではないだろうか。ここには温泉地
らしい、かつての賑わいがあった。むしろ、私たちが慰安旅行で訪れた時より賑わっていた。
若い男女、家族連れ、老夫婦、老若男女が外湯を大勢行き来していた。この温泉地もかつては
大人のための温泉地だった時もあったようであるが、うまく外湯を活用し、健全な家族向けの
温泉地へと変貌を遂げたようだ。
本来の温泉地は、これでなければならないと思うのは私だけであろうか。奇しくも紹介した
玉造温泉、湯村温泉、そして城崎温泉は、ともに温泉街の中心を川が流れている風情のある街
なのだが。
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