おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その4。新興住宅地。筑波山を一望。カキツバタ。南河内町・米どころ。「自治医大駅」。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-19 21:39:09 | 日光東往還

道路も広く整備され、新しい住宅が建設されています。もともとは大きな敷地を持ったお宅が多かったのでしょうか?

高台にある住宅地の東側の眼下には、広大な田園風景。遠く筑波山が一望出来る絶好の場所。今まで歩いてきた中では、最高のロケーション。

           

眼下に広がる田畑。

造成が進む。

新しい街造りが展開されているようです。

    

カキツバタ。道に沿って植えられています。アヤメかも?

かきつばた(杜若)は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物です。

かきつばた(杜若)の開花時期は夏の気配がしてくる初夏、5月~6月頃に、浅い水辺から50cm~70cmの丈を伸ばし深みのある鮮やかな青色の花を咲かせます。

かきつばた(杜若)は日本最古の和歌集である万葉集や900年代の書物、伊勢物語にも和歌で詠われ、その魅力は人々に愛され続けています。

江戸時代になると、かきつばた(杜若)といえば尾形光琳が描いた屏風絵で金箔六曲屏風「燕子花」と「八つ橋」が名高く、深い青色が印象的に描かれている、かきつばた(杜若)は世界最高峰の作品となっています。

時代を問わず芸術家の目をひき、人々の心を奪うほど美しいかきつばた(杜若)ですが、「いずれがあやめか、かきつばた」の慣用句がある様に江戸時代中期に入るとあやめ(菖蒲)の品種改良が進みあやめ(菖蒲)の人気が出てきました、よく似た花の形をしている事から、この2つの植物は比べられるようになり、どちらも素敵で選ぶのに迷うほどよく似ています。素敵な花を眺めながら、どちらにしようかな?と悩める喜びも幸せな時間ですね。

かきつばた(杜若)の花言葉は「幸運は必ず訪れる」です。

(「かきつばた(杜若)とアヤメ(菖蒲)の見分け方 - LoveGreen https://lovegreen.net › flower」HPより)

新築された「仁良川下公民館」。
 
石塔などもここに集められています。左手にあるのが、その一つ、宝篋印塔。享保時代(1729)に造立された比較的大型な塔。
 
※基礎部に彫られた講中名には、「仁良川」は「韮川」となっています。
 
            
 
新旧の建物が。
 
          
 
下の田畑に行く坂道。
 
満福寺三門左手にある樹齢300年といわれる椿の大木。
 
 
愛宕神社のところを左折。
 
鈎型になっています。
 
振り返る。
 
                  この付近の今昔。
 
                                                                   
 
1880年代のようす。集落が形成されている。           2010年代のようす。道筋は昔のまま。
 
                                           (「今昔マップ」より)
   集落の東側(台地の下)には今も昔から変わらない水田地帯が広がっています。
 
鯉のぼり(5月3日撮影)。
 
学校も新設。
 
 

下野市南河内町

町の西部に自治医科大学、その南側一帯には都市再生機構が開発した県内最大の住宅団地「グリーンタウンしもつけ」があり、東京のベッドタウンとして過去15年間で人口が倍に伸びている。

町の中央寄り北側の旧中心街の薬師寺地区に、下野薬師寺跡がある。東部は鬼怒川・江川・田川等の河川が流れており、農村地帯が広がる米所でもある。北部に男体山、南東部に筑波山等が見渡せる。特に東部の田園地帯から見る筑波山は大変美しい。

旧石器時代から先人が住み始めたといわれ、絹板六大遺跡や北原古墳群等が残される。

飛鳥時代後期には、旧東山道が通っており下野薬師寺が建立された。下野薬師寺には、僧侶の修行の場である戒壇院が設けられ、奈良東大寺九州観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。現在では近世建立の六角堂のみが残されており、回廊の一部等が復元されている。

江戸時代以前は、大字薬師寺、大字本吉田等は河内郡に属し、大字三王山、大字上吉田、大字下吉田、大字花田、大字下坪山等いくつかの村々は都賀郡に属していたが、後に河内郡に属すことになる。大字本吉田村は鎌倉時代より鬼怒川右岸の船運により栄えていた地域といわれている。

中世以降、小山氏一族の薬師寺氏、結城氏の配下に置かれた。江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した。

明治期、廃藩置県により多くが日光県に属し、石橋分庁舎の管轄に置かれた。1873年(明治6年)には栃木県となり静かな農村地帯として歩む。

1972年自治医科大学が開学し、さらに1983年には国鉄(現JR)自治医大駅が開業すると、住宅・都市整備公団による自治医大周辺の都市開発が進み現在、躍進中。

(この項、「Wikipedia」より)

※駅までの道筋の周囲には住宅が建ち並び、人の行き来も多く、活発な街という印象を受けました。

前方に国道4号線バイパス。
 
        
 
「薬師寺南」交差点。
 
「薬師寺南遺跡」説明板。
 
古墳時代から平安時代の集落跡。新4号国道工事に伴い、昭和48~50年の発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴住居跡10軒と奈良~平安時代の住居跡120軒を確認した。そのほか、方形周溝墓、円形土杭、井戸跡などが発掘された。遺物の出土も数多く土師器、須恵器、墨書土器などであります。特にこの遺跡は8世紀から9世紀にかけて大規模な集落が形成され、北に所在する下野薬師寺とかかわる遺跡として考えられている。
 
「薬師寺見学」は次回にし、今回は、ここまで。JR「自治医大駅」まで歩きます。
 
日光の山々。男体山が見える。
                筑波山。
 
次回で、ゴールになります。 
コメント
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