おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その3。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-27 21:34:56 | 日光例幣使街道
                                  用水路沿いの旧道。

 (11:55)しばらく進んで、県道に合流。
来た道を振り返る。

合流するところには「常楽寺」。

入口に道標があります。「利根川渡船 玉村町小泉道」と刻まれているようです。

 県道を横断していくと、「五料宿」・「五料関所」跡になります。


現在の家並み。

                         

 案内板に従って左に入ったところに「五料関所」跡があります。前方が「利根川」の堤。


 (12:00)道の左右に関所門柱の礎石が残されています。
 

解説板。
 五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの付近を領していた石倉氏が、関所を設け関銭を取っていた。
 慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に移ると、五料に関所を設けた。元和2年(1616)8月に幕府公認の関所となったが、更に元禄10年(1697)再び幕府の指定をうけている。しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。
 正保3年(1646)から恒例となった、日光東照宮への奉幣使の通路であり、例幣使道一ヶ所の関所であった。
 五料の関所は、日光例幣使の通行と舟運の取締りが、特別に課せられた任務といえる。特に上り舟(江戸方面に向かう船)については、禁制品(鉄砲・鉛・焰硝・硫黄等)が、積み込まれていないか船中を改め、不審の点がなければ、船問屋から手形(請書)を提出させて出船を許した。
 天明3年(1783)7月の浅間山噴火は、沿岸に大きな災害を与えた。地元の沼之上村も泥押しの被害にあい、関所全部が泥で埋まり建物の屋根だけが見えるだけであると報告している。
 その後、天明6年(1786)7月の洪水、文政10年(1827)3月の火災等の際にも、関所は被害をうけている。
 玉村宿方面から来ると例幣使道筋からの門から入り、河原の船着場に向かう門から出て渡し船に乗るような構造になっている。
 現在遺構としては、玉村方面からの門の沓石と関所用の井戸だけである。

五料関所
 江戸時代、例幣使街道に設置された関所である。中山道の倉賀野宿から例幣使街道へ分岐し玉村宿を経て利根川に面する上野国五料に位置する。設置時期は諸説あるが、寛永13年(1636年)以前には設置されたものと考えられている。関所の管理は前橋藩により行われていた。
 元和2年(1616年)利根川・江戸川筋および渡良瀬川筋の16ヶ所の定船場に対し定め掟書が出され、女人および手負の者の取締が行われた。この16ヶ所の中に五料も含まれている。五料関所の改めは、武具の検閲は厳しくなかったが、女人の通行改めは厳重に行われていた。
 寛永8年(1631年)「幕閣の重臣連署のもとに、東国の各関所規定を出し、女・手負い・欠落者など怪しい者の取締りと、それを捕まえた者への褒賞が達せられた」。この規定書では、「箱根(東海道)・関宿(日光東往還)・小仏(甲州道中)などともに、小岩・市川(佐倉街道)、新郷・川俣(日光裏街道)、柴・五料(日光例幣使街道)、金町・松戸(水戸街道)、房川渡し中田(日光道中)」などの定船場が記されていた。
 江戸幕府が関所を設けた目的は、幕府の政策を維持して、破綻しないようにしたものであり、国内の治安警察権を行使するためのものであった。
これらの関所は「諸国御関所書付」に記され、五料関所もその中に含まれている。
 その中で、関所における検閲が記されており、女の通行に留守居証文を必要とすることが記されている。
 元和2年(1616年)徳川家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた。

一 定船場以外の場所において、みだりに往来の者を渡してはならない。
一 女や手負いそのほか怪しい者はいずれの渡川場においても留め置き、早々江戸へ注進すること。但し、酒井忠利発行の手形を所持する者は異議なく通すこと。
一 隣の村へ通行するほどこの渡船場でも通してよい、女人や手負いの者以外でも不審がなければ、その他の領主や代官の手形を所持する者は渡してよい。
一 定船場であっても、女人・手負いまたは怪しい者は、たとえ酒井忠利の手形を所持した者でも、通してはならない。
一 すべて江戸へ来るものは改めるに及ばない。

 五料関所の改め(入鉄炮出女)は、武具の検閲は厳しくなく、他方女の通行改めは厳重であった。
 武具の検閲はなく、鉄砲についても10挺以上の入鉄炮に老中証文が必要であるが、鉄炮運搬には比較的下級官吏の証文で認められていた。
「女の通行改めは厳重で」、江戸からの出女は幕府留守居の証文を必要とした。上方から中山道を下り奥州への通過には「上方で所定の証文を取得して福島関所へ持参し、同所で碓氷関所への書替証文をもらい、さらに碓氷関所で五料関所への書替証文を」取得する必要があった。
 五料関所跡に関連する史跡には、「五料関所跡門柱礎石・井戸」があり、玉村町で町史跡に指定されている。
「利根川・江戸川筋の関所配置」。○が五料。

(以上「Wikipedia」参照)

 天明3年(1783)7月8日、浅間山の噴火に伴う土石流が五料宿にも到達し、関所が屋根まで埋まるなどの被害が出て、しばらくの間、機能不全に陥ったそうです。

床屋さんの脇から「利根川」の土手へ。

下流方向。この道もサイクリング専用道路になっています。

土手から見下ろした家並み。

かなり鄙びたようす。

(12:04)「五料橋」で「利根川」を越えます。

利根川の流れ。

                 
         「利根川」は、「日光街道」「日光御成道」「水戸街道」でそれぞれ渡りました。さすが「大河」です。


1880年代のようす。


2010年代のようす。今も昔も大河です。

河川敷がそのまま鬱蒼とした緑で覆われています。

(12:12)「玉村町」から「伊勢崎市」へ。

渡り終えたところで、小休止。足下には一輪の昼顔? 

 (12:28)「柴宿」に入ります。水路がある、まっすぐな道の両側に家並み。
 

柴宿
 「日光例幣使街道」の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目。「芝宿」と表記する場合もあった。
 宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100メートル)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担した。
 1805年時点での規模は、107戸・431人、宿石高は約730石で、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠10軒となっていた。天明年間(1781-1788年)中期に加宿を含めた規模の資料が残されており、それによると219戸・805人、宿石高は柴宿分が約803石、加宿分が約1400石となっている。小規模な宿場であったため、例幣使は休憩するのみで通過し宿泊することは多くはなかったが、1865年(慶応元年)などには宿泊したという記録も残されている。
 当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。
 日光例幣使街道のほか、柴宿からは神梅で銅山街道と合流する大胡道が分岐していた。
(以上「Wikipedia」参照)

色とりどりのあじさいが咲く庭先。

(12:33)解説板。

                        
                注:ここにある「国道354号」は、現在、「県道142号線」となっている。
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