(8:56)「道間公園」。旧道?
5月5日(土)。快晴。久々に「青梅街道」を歩きました。青梅を経て、「川井」駅まで。途中、「澤ノ井」で利き酒を楽しみつつ。のんびり。
約26,000歩。もう少し進めたのですが、・・・。
JR青梅線「河辺」駅を降りて、前回のところまで。この付近で「旧青梅街道」は大きく西北に曲がっていたようですが、その道筋は?
ただ、少しは残っていて道標などもあるようです。
(9:01)「東青梅5北」交差点を斜めに進む。
(9:06)右手、分岐点の角にある自然石でできた「道標」。
「右 江戸道 左 はんのふ かわこゑみち」と刻まれてようですが、判読不能。
途中、右手角に「六万部薬師堂」があります。
道は少し曲がりながら「東青梅駅」方向へ。
現「青梅街道」に合流し、右へ。
交差点を振り返る。
「成木街道入口交差点」。
第3話 御用石灰と青梅街道
甲州街道の裏街道として、首都東京の主要道路の一つである青梅街道。今では物流のほかに通勤、レジャーなどの車の往来が途絶えず、都心と多摩地域を結ぶ大動脈となっています。
青梅街道が開かれ整備されたのは、江戸城大改修に伴なう城壁の漆喰に必要な石灰を、青梅の成木地区から輸送するためでした。約400年前の慶長11年(1606)、武蔵野の原野がほぼ一直線に江戸城へ向かって開かれ、江戸と青梅は青梅街道により結ばれたのです。
青梅街道の前身は、石灰の産地である成木地区を抜ける峠道、成木街道と言われています。成木地区では江戸幕府が開かれる以前から石灰が製造されており、八王子城などの城壁にも使用されていたと言われています。このことが幕府の耳に入り、慶長11年の江戸城大改修に伴い石灰の幕府用達を命じられました。成木の石灰は「八王子白土焼」と命名され、厳重な警備のもと「御用石灰」として江戸へ輸送されました。
ここに「成木往還と青梅街道」の歴史が始まったのです。
(この項、 HPより)
案内図。左から来て青梅線の線路を越えると、「青梅宿」。
(9:18)
(9:25)古い家並みが残っています。
「鍛冶屋」さん。懐かしい響き。
街道筋らしい家並み。
青梅駅周辺(青梅街道沿い等)は、洋画の看板が店先などに掲げられています。懐かしい名画の数々。「哀愁」、「荒野の決闘」、「第三の男」・・・。
「青梅宿」の通り。
(9:33)「青梅赤塚不二夫会館」。
青梅駅周辺商店街は、映画看板(特に昭和の雰囲気がある物)で街おこしする事をモットーとしており、昭和を代表する漫画家であり、青年時代(新潟市在住時代)に映画看板の仕事に従事した事がある赤塚不二夫(親族を含め赤塚不二夫と青梅市に縁は特にない。)に白羽の矢を立てて、2003年10月18日に開館した。建物は、元々土蔵造りの医院だった。
館内は、赤塚作品のキャラクター(『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』など)が数多く展示されており、ファンには垂涎の博物館となっている。また生前可愛がっていた猫の「菊千代」に関するレプリカ(ちなみに菊千代を祀った”バカ田神社”なる小さな神社もある)や漫画家を志すきっかけとなった映画『駅馬車』の看板が飾ってあった。(現在は外されている。)2008年(平成20年)8月2日に赤塚が死去した際には、臨時の記帳台が設けられ800人が記帳に訪れた。
隣に昭和レトロ商品博物館、はす向かいに昭和幻燈館があり、三館共通券も発売されている。尚、三館とも横川秀利が館長を務めている。
以前撮った写真。
古風な店舗の隣に「シェーン」の看板。
中央、東西に通じる道が「旧青梅街道」。
「雪守横丁」。こういう路地裏があります。
「青梅赤塚不二夫シネマチックロード」。
昭和初期の看板建築と思われる建物が何棟か。
こちらは重厚な商家建築。
(9:50)ここから「旧青梅街道」は「青梅街道(国道411号線)」となります。
5月5日(土)。快晴。久々に「青梅街道」を歩きました。青梅を経て、「川井」駅まで。途中、「澤ノ井」で利き酒を楽しみつつ。のんびり。
約26,000歩。もう少し進めたのですが、・・・。
JR青梅線「河辺」駅を降りて、前回のところまで。この付近で「旧青梅街道」は大きく西北に曲がっていたようですが、その道筋は?
ただ、少しは残っていて道標などもあるようです。
(9:01)「東青梅5北」交差点を斜めに進む。
(9:06)右手、分岐点の角にある自然石でできた「道標」。
「右 江戸道 左 はんのふ かわこゑみち」と刻まれてようですが、判読不能。
途中、右手角に「六万部薬師堂」があります。
道は少し曲がりながら「東青梅駅」方向へ。
現「青梅街道」に合流し、右へ。
交差点を振り返る。
「成木街道入口交差点」。
第3話 御用石灰と青梅街道
甲州街道の裏街道として、首都東京の主要道路の一つである青梅街道。今では物流のほかに通勤、レジャーなどの車の往来が途絶えず、都心と多摩地域を結ぶ大動脈となっています。
青梅街道が開かれ整備されたのは、江戸城大改修に伴なう城壁の漆喰に必要な石灰を、青梅の成木地区から輸送するためでした。約400年前の慶長11年(1606)、武蔵野の原野がほぼ一直線に江戸城へ向かって開かれ、江戸と青梅は青梅街道により結ばれたのです。
青梅街道の前身は、石灰の産地である成木地区を抜ける峠道、成木街道と言われています。成木地区では江戸幕府が開かれる以前から石灰が製造されており、八王子城などの城壁にも使用されていたと言われています。このことが幕府の耳に入り、慶長11年の江戸城大改修に伴い石灰の幕府用達を命じられました。成木の石灰は「八王子白土焼」と命名され、厳重な警備のもと「御用石灰」として江戸へ輸送されました。
ここに「成木往還と青梅街道」の歴史が始まったのです。
(この項、 HPより)
案内図。左から来て青梅線の線路を越えると、「青梅宿」。
(9:18)
(9:25)古い家並みが残っています。
「鍛冶屋」さん。懐かしい響き。
街道筋らしい家並み。
青梅駅周辺(青梅街道沿い等)は、洋画の看板が店先などに掲げられています。懐かしい名画の数々。「哀愁」、「荒野の決闘」、「第三の男」・・・。
「青梅宿」の通り。
(9:33)「青梅赤塚不二夫会館」。
青梅駅周辺商店街は、映画看板(特に昭和の雰囲気がある物)で街おこしする事をモットーとしており、昭和を代表する漫画家であり、青年時代(新潟市在住時代)に映画看板の仕事に従事した事がある赤塚不二夫(親族を含め赤塚不二夫と青梅市に縁は特にない。)に白羽の矢を立てて、2003年10月18日に開館した。建物は、元々土蔵造りの医院だった。
館内は、赤塚作品のキャラクター(『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』など)が数多く展示されており、ファンには垂涎の博物館となっている。また生前可愛がっていた猫の「菊千代」に関するレプリカ(ちなみに菊千代を祀った”バカ田神社”なる小さな神社もある)や漫画家を志すきっかけとなった映画『駅馬車』の看板が飾ってあった。(現在は外されている。)2008年(平成20年)8月2日に赤塚が死去した際には、臨時の記帳台が設けられ800人が記帳に訪れた。
隣に昭和レトロ商品博物館、はす向かいに昭和幻燈館があり、三館共通券も発売されている。尚、三館とも横川秀利が館長を務めている。
以前撮った写真。
古風な店舗の隣に「シェーン」の看板。
中央、東西に通じる道が「旧青梅街道」。
「雪守横丁」。こういう路地裏があります。
「青梅赤塚不二夫シネマチックロード」。
昭和初期の看板建築と思われる建物が何棟か。
こちらは重厚な商家建築。
(9:50)ここから「旧青梅街道」は「青梅街道(国道411号線)」となります。