おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

北九州市立百三十銀行ギャラリー(旧百三十銀行八幡支店)。八幡図書館。北九州市産業遺跡の旅。その3。

2014-03-26 22:57:49 | 歴史・痕跡



 「百三十銀行」は国立銀行条例(明治5年11月制定)に基づき、明治12年まで全国に創立された153銀行の一つで、大阪に本店があり、明治37年、若松支店八幡出張所として、今の八幡東区春の町五丁目に開設。同39年、西本町に移転と同時に八幡支店に昇格、さらに建物は大正4年、現在地の80メートル北東に新築、移転。大正12年には銀行合併で、安田銀行八幡支店となり、昭和14年まで使われた。
 その後、旧八幡市が戦災復興事業で建物を現在地に移転、市水道局の資材倉庫に使われていたが、昭和61年、市の有形文化財に指定され、平成5年10月から「北九州市立百三十銀行ギャラリー」として利用されている。(以上、「Wikipedia」参照)。

 辰野・片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)の設計といえば、このほどかつての面影を取り戻した東京駅舎(丸の内口)が有名。
 また、福岡市にある旧「日本生命保険株式会社九州支店」《明治42年(1909)2月に竣工した》も歴史的近代建築物として価値が高い。

 
 それらと比べると小規模ですが、「赤れんが」風の外壁、白と赤とのコントラストも見事です。北九州にも残っているとは驚きでした。
説明板。

 日本の近代建築の先駆者・辰野金吾(1854~1919)が主宰する辰野・片岡建築事務所が設計し、大正4年(1915)に建てられた鉄筋コンクリート造りの銀行です。外観は赤れんが風の壁体に、玄関、柱頭、窓周りを幾何学的模様で施し、「洗出し」で石造り風に仕上げ、大正期のモダンデザインを表現しています。・・・ 

 説明書きの下の写真は、1951(昭和26)年頃、震災復興事業としてもとの位置から南西約80メートルに曳き家したときの写真。

落ち着いた外観。赤煉瓦タイル貼り。
正面玄関付近。
当時の大正モダンの雰囲気。

 たまたま係の方がいたので、建物内に入らせてもらいました。明日から展示会があるということで、何もないフロアでした。
太い柱。もともとはこの柱のみで全体を支えていたとか。
大理石風の柱の仕上がりになっている。
天井。細い柱は後に照明用に設置されたもの、とのこと。
 
 もう一つ。「八幡図書館」の建物。

 八幡図書館は旧八幡市が1955(昭和30)年に建設し、合併後も八幡東区の図書館として現在に至る。八幡図書館の設計者は建築家の村野藤吾氏で、八幡駅前の国際通りという大通りや南端のロータリー周辺には、同じく村野氏が手掛けた八幡市民会館と福岡ひびき信用金庫本店が建っている。
 村野氏の建築が集中しているのは偶然ではなく、実は彼は青少年時代を旧八幡市で過ごしていたことを機縁に、旧八幡市が戦災復興事業で駅前を区画整理し、沿道に公共建築を整備する際、地縁と実績を併せ持つ建築家として、主要な文化施設の設計を市が彼に依頼した。
 「八幡図書館」の特徴は、レンガ貼の壁面と塗装仕上げの柱・梁によってグリッド(格子)状にまとめられた立面。これは、広島平和記念聖堂(広島市、1954・S29)や横浜市庁舎(横浜市、1959・S34)など村野氏の他の建築でも見られるが、2種類のレンガを用いて幾何学模様を描いている点は広島・横浜にない特徴。
横浜市庁舎(「Wikipedia」より)。

三角形・幾何学模様。
窓。



 正面入口付近に二つの国境石が置かれたありました。
  
左:「筑前國」。         右:「豊前國」。
説明板。

 古くから北九州市域は中央から東西に豊前国と筑前国の二つに分かれていました。
 その国境線には、小倉藩と福岡藩によってたたえられた国境石が多数ありましたが、現在では13基が残っています。
 ここにある国境石は二基とも上下が欠けていますが、「(従是)東豊前國小(倉領)「(従是)西筑前國」と解読することができます。(従是)は「これより」の意味です。
 豊前国の国境石は、以前、八幡東区三条にあったとされていますが、筑前国のものは置かれた場所がはっきりしていません。いずれも旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを、昭和39年(1964)にここに移設したものです。・・・

 地元の方に車で案内してもらい、大きな収穫がありました。またの機会にはもっとじっくりと見て回りたいと思います。以上、「北九州市八幡」編でした。
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