おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

象の鼻パーク。たねまる(くん)。転車台・・・。横浜その24。

2014-03-23 09:18:55 | 歴史・痕跡
 赤れんが倉庫から「山下公園」方向へ。

「新港橋梁」。
赤れんが倉庫側を望む。軌道が敷かれている。
銘板には「大正元年八月 浦賀船渠株式會社製造 」とある。

 もともとは横浜臨港線(貨物線)の橋梁で、新港埠頭が出来た明治44年(1911)に開通した臨港線に続き、大正元年(1912)に横浜税関まで開通させた際に架設したもの。

橋を越えると「象の鼻パーク」。案内図。
実際は、「新港橋梁」から来るとこのように見える。↑が象の鼻「防波堤」。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「象の鼻」のような形をした「波止場」になっていたことがよく分かる。
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。図の中心からやや右下に2つの波止場が確認できる。(「Wikipedia」より)
(注:Aが「神奈川砲台(台場)」、Bが「象の鼻(東波止場)」と「西波止場」)。


1970年頃のようす(「同」より)。「象の鼻」の形がまっすぐになっている(↓)。その東隣が「大桟橋」。

象の鼻パーク

 横浜港発祥の地。「象の鼻波止場」を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園。

《歴史》
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
(以上、「Wikipedia」参照。)

正面が「象の鼻」突堤。左に見えるのが「飛鳥Ⅱ」号。
芝生のところから「大桟橋」を望む。正面が「象の鼻」。
横浜開港150周年を記念したモニュメント「たねまる」くん。「開国博Y150」のマスコットキャラクター(今でいう「ゆるキャラ」)。当世のゆるキャラブームの中で、今はどうしているのか?

開国博Y150

横浜港開港150周年を記念して2009年4月28日から9月27日までの153日間、横浜市で開催された地方博覧会。

マスコットキャラクター「たねまる」

 横浜開港資料館の中庭に植えられるタマクスの木の精。上半身は芽を出した種子、下半身は船をモチーフにしており、横浜のタネが世界に向け出航するイメージを表している。博覧会のみならず、横浜開港150周年記念事業全てのマスコット。

ペリー・テイトくん

「たねまる」の友達でありライバルというサブキャラクター。開国博Y150を盛り上げるために応援に駆けつけたという設定を持つ。名前のモチーフは、横浜開港の立役者となったマシュー・ペリー。黒船をモチーフにした黒い船体につりあがった眼つきと、いわゆる「ゆるキャラ」の「たねまる」とは対照的な容姿を持つ。
 開国を求めて背中の大砲をぶっ放す、錨を振り回す、さらに頭の煙突からは大量の二酸化炭素をまき散らすなど行動も極めてワイルドかつ破天荒な存在。
 (注:どうして「くん」付けしたのか、当時の「尊皇攘夷」から「開国」「開港」へと迫られた日本の為政者の屈折感が現れているのか? してみると、現在と変わらないなあ!

 ところがこの博覧会、最終的には大赤字!
 最終的に有料入場者数123万9,325人と、計画していた有料入場者数であった500万人には及ばず、最終的には約28億円の赤字となった。閉幕後、横浜開港150周年協会とイベントの企画運営を委託した企業や入場券販売の契約を結んだ企業とのあいだで相互に提訴になった。
 2010年11月には協会と博報堂JVが調停に入り、博報堂JVに対する協会の債務残高約34億8000万円のうち、協会の資金となる約11億4100万円と市の補助金約12億6000万円を博報堂JVに支払い、残額10億3100万円は債権放棄することが発表、その後の市議会で補助金相当額の市税を投入する補正予算が可決された。・・・
 (注:とんだイベントだったわけですね。そして、「たねまる」くんも借金のかたにとられたまま、姿を隠し、今は、ここにだけ残っているということか!)

遠くに「大桟橋」に停泊中の「飛鳥Ⅱ」。上空から見ていないので、「象の鼻」とはなかなか・・・。
赤れんが倉庫を望む。

「山下公園」へのプロムナード。この道もかつての貨物線跡。
1970年頃のようす(「同」より)。「山下公園」西側、赤い直線が「山下埠頭線」。→が「氷川丸」。


 昭和30年代、山下公園の東側に山下埠頭が造成されることから既に新港埠頭(当時)の横浜港駅まで敷かれていた国鉄高島線(通称)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあがり、公園の道路側に高架を建設することになって、1961年から工事が着手され1965年に完成した。
 名称については「山下臨港線」の他にも「山下埠頭線」「臨港貨物線」「公共臨港線」などの様々な通称がつけられた。
 開通後に本牧埠頭および大黒埠頭が造成され山下埠頭の重要度が低下していき、またモータリゼーションにより鉄道輸送から自動車輸送へシフトしたことから貨物列車の運行頻度が低下していったため、山下臨港線は1986年に廃止となった。
 1989年の横浜博覧会の開催に合わせて会場近辺から山下公園までの線路を旅客輸送に再活用するために、追って廃止された桜木町側の線路と共にそのまま残されることとなった。そして博覧会開催時にはこれらの線路を利用して、桜木町駅近辺(会場ゲートの一つ)に設置された日本丸駅から氷川丸付近に設置された山下公園駅まで気動車を往復運行していた。
 この列車については当時の鉄道ファンなどから恒常的運行を希望する声もあったが、営業収支が芳しくなかったことから運行は博覧会の会期中にとどめられた。
 またこの時運行された2編成4両の気動車は、博覧会終了後に岩手県の三陸鉄道へ譲渡されて36-300形・400形となり、それぞれ2006年、2004年まで運行された後、ミャンマーへ売却された。
 その後しばらくの間、山下臨港線部分の線路と高架脚は放置されていたが、地元から山下公園内の景観復活を求める声が強くなったため、公園敷地内の高架については撤去する工事が開始され2000年までに撤去を完了した。
 山下公園より西側に残されていた山下臨港線跡の高架について、「汽車道」同様に遊歩道とされることになり、2002年、新港橋梁から山下公園まで「山下臨港線プロムナード」として一般開放された。(以上、「wikipedia」参照)

高架線跡をそのまま生かしている。
高架下。

転車台。小型のもの。特に説明板はなかったので、詳細不明。

 「山下公園」内は省略して、「桜木町」駅にたどり着き、駅そばの老舗・「川村屋」でおそばを食べて電車に乗りました。
 これで、横浜編は一段落。またの機会に探索を続けます。
 

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