おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

115 葛西城址公園

2009-07-12 19:35:22 | つぶやき
 葛西城。築城者と築城時期は不明だが、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる。戦国期は、関東管領上杉氏の属城として、大石氏が勢力を持っていたとされる。
 小田原城の北条氏綱により攻略され、天文七(1538)年二月、北条氏の下総方面への進出拠点の一つとなった。
 永禄年間の初期には一時、里見氏に属する網代大炊充らが在城していたが、北条氏康の命で太田康資配下の本田氏らが葛西城を攻撃、永禄五(1562)年四月二十日に攻略した。しかし永禄六(1563)年、葛西城の守備にあたっていた太田康資が寝返りにより里見・岩槻太田側に走ったため、北条氏康が攻めて攻略。
 国府台に陣取る反北条軍と対峙し、永禄七(1564)年正月、天文七年以来ふたたび国府台で大合戦となり北条方が大勝、下総からの里見氏・太田氏の影響力を排除し、同時に、越後から度々関東に出陣していた上杉謙信らを牽制することに成功する。
 天正十八(1590)年、秀吉の小田原征伐による徳川氏の江戸城入府で廃城。その後は「青戸御殿」が建てられ、徳川三代将軍家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦三(1657)年頃、取り壊された。
 俄かに脚光を浴びたのは昭和47(1972)年の環状七号線の道路建設に伴う発掘で、戦国期の陶磁器、漆器等が発見されたが、葛西城に結びつく確実な史料は発見されなかった。現在では、城郭(に想定される)の中心も環七通りの下になり、一部は通りに隣接する公園になっていて、まったく城址の面影を留めていない。
 本丸跡の一部は公園になって、説明板などは環七を挟んで西側の御殿山公園内に立っている。
 ちなみに、私が子どもの頃は、今の御殿山公園付近をそのままそのように呼んでいて、遊び場でもあった。
 してみると、「青戸御殿」なるものが存在したのは確かだが、葛西城址云々は検討の余地がある。まして、「青砥藤綱」と結びつけるのは、荒唐無稽であろう。
 葛西城址については、上千葉町(西亀有3丁目)の通称「大曲り」付近にあったとする説も強く、「千葉伝考記」に、千葉太郎実胤が下総葛西に住み、その地を千葉村と称したとある。地形的にも奥州古道(陸前浜街道・後の水戸街道)に面して、他地より若干高く城砦の址と思われる場所で、地元には、刑部の内、城の内、蔵の内、家老家、宿添、馬場などの地名が残っているとのこと。このことも今後研究していく必要がある。
 写真は、現在の「葛西城址公園」。何の変哲もない、公園。広場があって、人もいない、ただ、ブランコが揺れているだけだった。
環七をはさんだ西側にある御殿山公園。
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114 新金貨物線・複線計画跡?

2009-07-11 06:04:07 | 歴史・痕跡
 金町から新小岩、そして亀戸から越中島。この貨物線。新小岩からは電化されていない線路が亀戸から越中島まであります。なかでも、金町~新小岩の間は、高圧線が線路上に設置されていて、いかにも電車が通ってもおかしくない路線です。たしかに、電車が通れるよう、それも複線で。
 しかし、複線計画は頓挫したのでしょう。基礎だけが残って、雑草に蔽われています。いつ複線化されて電車が金町と小岩を結ぶのでしょうか。
 鉄道会社の思惑を越えて、地元住民の声を受け止めて、難工事、膨大な建設費用など克服すべき課題も多いと思いますが、ぜひと通勤線として営業してほしいものです。
 写真は、葛飾区・新宿付近の線路です。ずっと複線の線路が続いています。
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113 旧水戸街道・新宿(にいじゅく)跡

2009-07-10 06:23:40 | 歴史・痕跡
 千住の宿から分岐した、旧水戸街道(陸前浜街道)は中川を渡ると、急に道は右に直角に曲がり、さらに、しばらく南下すると、今度は左に直角に曲がります。この辺りからが新宿の宿場。これから北東に進み、江戸川を越えると、下総・松戸の方への向かいます。
 江戸の初期には、この辺りは武蔵国ではなく、下総国。後、街道が整備されてここに宿場が出来、また佐倉街道はここから分岐して南下します。新宿は、江戸という巨大な城下町に入る、その最初の宿場として栄えました。
 江戸市中への出入りを厳しく制限する、という防衛上のために、街道もわざと直線にはしないで、二箇所も直角に道をつくりました。水戸光圀公も、この道を通ったのでしょう。亀有、環七との交差点近くにはすけさん、かくさんを脇に置いた黄門様のモニュメントが置かれています。
 ちなみに新宿は、明治維新の後、鉄道を通すことになったときに反対したために駅は少し東側にあたる「金町」に設置したということですが・・・。
 現在は、北側は水戸街道で区切られ、北はJR線と、東西に細長い街並みになっています。
 写真は、その直角の辺り。周りに商店がまったくない中で、どういうわけかぽつんとお煎餅屋さんがあります。角の家も何となく風情のあるおうちでした。
 写真左手、水戸街道に行く手前のバス停の名前は、「新宿一里塚」。それらしい史跡はありませんでしたが。
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112 長崎の鐘(番外編)

2009-07-09 20:31:06 | つぶやき
【作詞】サトウ・ハチロー
【作曲】古関裕而
【歌】藤山一郎、池真理子
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほゝえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

 「長崎の鐘」は、医学者・永井隆が執筆した随筆。1949年1月に出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした歌謡曲はヒット。さらに松竹により映画化され、版を重ねることになった。
歌謡曲は、1949年7月1日コロムビアレコードから発売された。なお、古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。
 ここで言う「鐘」とは、浦上天主堂の鐘のこと。「アンジェラスの鐘」とも呼ばれる。
 原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が、天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されている。被爆当時の位置は小川の中であったが、現在は川を整備して流れをずらすことで陸地に保存されている。被爆時のままに保存されている唯一の旧天主堂本体の遺構である。
 8月9日、原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。
 なお、原爆投下時間に8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていた。そのため中にいた神父を始めとする信者の全員が死亡している。
 写真は、長崎空港送迎デッキ屋上にあるモニュメントの「長崎の鐘」。広島、長崎は、人類が永遠に忘れてはならない被爆の地である。勿論、核実験場における悲惨な被爆実態や第5福竜丸の被爆など、他にも多くの残さなければならない遺産は数多くあるが。
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111 原爆ドーム(番外編)

2009-07-08 19:53:22 | 歴史・痕跡
 日本、いな世界の遺産は、これにつきます。核兵器廃絶に向かって、世界に働きかける動きの中で、今またその原点として忘れてはならないものでしょう。もう30数年以上前の8月6日。初めて広島を訪れ、原爆ドームを初めて間近に見たときの衝撃は今でも忘れません。
 その頃は、被爆当時、一瞬のうちに命を奪われた住民の氏名や街並みの復元などに取り組みが始まった頃でした。
 先年の春、機会があってまた訪れ、今回はさらに、原爆投下直下の地(島外科病院)や、近所の小学校(国民学校)などの記念館にも出むきました。
 「原爆ドーム」の所在地は、広島県広島市中区大手町1丁目10。原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっています。
 もともとは、「広島県物産陳列館」。1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館。以後、名称など変更がありましたが、戦争が長引く中、1944年3月31日にはその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されるようになりました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下しました。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂。
 原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達しました。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされました。
 このため、建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存することにんりました。ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けず、爆心地付近では数少ない被爆建物として残りました。
 建物内にいた職員など約30名は、熱線と爆風により全員即死したと推定されています。その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなりました。
 被爆後、広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約が結ばれた1951(昭和26)年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていました。
 原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになりましたが、一部の市民からは根強く、「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という意見があり、その存廃が議論されてきました。
 広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべき」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まりましたが、1960(昭和35)年、急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館が、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記を読み、感動した平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議します。
 翌年、保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら保存されています。
 被爆50年にあたる年1995(平成7)年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。
 原爆ドームは、破壊された状態のまま保存するという、矛盾ともいえる特徴をもつ。ですから、保存工事は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全作業が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はそのたびに取り除かれる。また、定期的な補修作業・点検が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されていて、維持・保全に困難な面がある事は否定できません。
 今後、地震の規模や加重のかかり方によっては、崩落する危険性を常に抱えています。
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110 汽笛一声新橋を・・・

2009-07-07 21:11:39 | 鉄道遺跡
 それにしても、新橋は大きく変貌していました。以前、新橋には縁があるのは、メーデーの時くらい。かれこれ、30年以上昔の話。あの頃は、会場の代々木公園から延々メーデー行進。青山通りをひたすら歩いたものです。
 解散は、新橋の土橋(高速道路の下あたり)。歩いて、声を上げて、おしゃべりをして・・・。天下の幹線道路上を歩いたわけですね。そして、その近辺で打ち上げをしたり、上野まで出てご苦労さん会。けっこうたくさんの参加者で、行進も昼前から夕方近くまで続いていたような気がしました。「リクルート」なんて会社もずっと後に出来た感じ。そのころは、ダンスホールがあったような気が(それは、もっと昔なのかな)。都庁もまだ有楽町にあった時分。日劇もあった・・。朝日の本社も・・・。
 新橋駅の西側は飲み屋街があった。(今でもそうでしょうが)たしか、「機関車」もあって、ちょうどいい待ち合わせ場所。これは、今でも変わらないはず。当時の東側は、銀座からの道が続いているのに、高速道路辺りからどうも寂れた感じがしてくる印象だった。都営浅草線の乗り場も何だかビルの中を右に左に行った所にあって、ゴミゴミしている割には、飲み屋街も印象が薄かった。
 ところが、この間、もう何十年ぶりに行って驚きました。実にしゃれた街並みになっている!ぶらつく暇もなく、高速道路下の屋台の店に直行、もとは、運河の跡だった場所に店が何軒か軒を構えている。周りは、ずいぶんとしゃれたビル街になっていた。勿論、ダンスホールも、キャバレーもない!
 「ゆりかもめ」を降りて、JRの新橋駅に向かう、その途中にあったモニュメントが、この写真。機関車の車輪と鉄道唱歌が刻まれた記念碑がありました。(最近つくられたもののようで、西側にあるどでかい「本物の蒸気機関車」に比べれば、今ひとつ、というかかなりインパクトに欠ける感じ。あまり気にしている人もいなくて、通り過ぎるだけ・・・。残念!)
 さて、もっと南に行けば、汐留にかけての再開発の地域。すてきな場所もあるのだろうが、俺たちは、やはり屋台でくだを巻くのがお似合いでした。
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109 東京湾クルーズ(番外編)

2009-07-06 20:03:24 | じじばばがゆく
 昔の仲間10人と久々に再会。近所の飲み屋ばかりじゃなく、たまには豪華に、という企画に乗って、東京湾クルーズ(シンフォニークルージング)に行ってきました。コースは、サンセットクルーズ。梅雨時なのでどうかなと思いましたが、ちょうどいい天気、コースの名の如く、久々に海からのサンセットに出会えました。
 日の出桟橋からお台場を左手に見て、遠くディズニーリゾートを望み見ての東京湾とばっ口周遊という趣。けれど、お客さんによっては、バイキング形式の食事のほうにばかり気が取られて、展望デッキに出ない事も多いらしい。ま、食事もそこそこの内容なのですが・・・。夕飯の時間にはまだ早すぎて、そんなにお腹の方もすいていなくて・・・。
 そんなわけで、私は、もっぱらデッキに上がって海を眺めていました。「中央防波堤内側埋め立て地」の広大なようすには驚きました。
 風力発電の施設があったり、若洲の方からそこに向かって橋脚工事が進んでいて、一部はすでに橋も完成していて・・・。これは、羽田に直接向かう「一般道路」とのこと。レインボー・ブリッジのもっと南の海側に、こんな橋が計画されているとは・・・。家に帰ってきてから、改めて航空写真で確認してみてゴミ処理施設をはじめ、さまざまな施設が建設されている事を知りました。
 お台場も、西に傾いた日ざしを受けての雰囲気はなかなか味わえないものがありました。写真は、そのようす。手前の島がお台場の跡(地続きの公園になっています)。右側は、鳥の島、その奥がフジテレビ社屋をはじめとした建物群です。
 船は、航路を西にとって、羽田飛行場沖を通過、飛行機の離発着がはっきりと展望できました。そして、120分間のクルーズが終わります。費用6000円(飲み物別)を高いと見るかどう見るか、ちょっと評価の分かれるところでした。この船は、このあと、ディナークルーズのために出航するそうです。
 ちょっと飲み足らず、食い足らず、新橋まで出て、高速道路下の台湾料理の屋台の店に寄りました。そこもまた良し!でした。平日は、いつも満員だそうです。安くてうまかった!
お疲れ様でした、またの再会を楽しみに! 
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108 旧都電27系統(三ノ輪橋-赤羽)そして、都電荒川線

2009-07-05 16:55:53 | 鉄道遺跡
 1972(昭和47)年までに、交通渋滞解消や都財政再建、経費削減のため、それまで東京23区内に多数存在していた都電の路線(35路線)は、順次廃止されていきました。しかし、「荒川線」だけは、唯一の存続路線として残りました。路線に多くの専用軌道があったこととと沿線住民・地元の存続への強い要望もあったことが存続の大きな理由です。
 荒川線の前身は、明治44年開業の「王子電気軌道株式会社」。1942(昭和17)年、東京市に統合され「市電」となり、翌年の都制施行により都電となりました。もともとは、27系統(三ノ輪橋-赤羽)、32系統(荒川車庫前-早稲田)として別々に運行していました。
 1974(昭和49)年には27系統と32系統を一本化(三ノ輪橋-早稲田)し、名称を荒川線と改めて存続することになったものです。廃止されたのは、北本通り上にあった、27系統の一部(王子駅前 - 赤羽間)だけでした。
 車道と区分されていない純粋な併用区間は、明治通り(国道122号)上を走る王子駅前 - 飛鳥山間だけ。以前は、小台 - 宮ノ前間にもありましたが、道路拡幅に伴い車道と線路が別々になり、小台 - 熊野前間の道路中央では、センターリザベーション方式で通っています。それ以外の区間は大部分が専用軌道です。
 なお、27系統終点の「赤羽」は、JRの赤羽駅前ではなく、環八通りと北本通りの「赤羽交差点」(現在の信号機名は、「赤羽」)付近で、現在の東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線「赤羽岩淵」駅地上付近(北側)の北本通り上にありました(現在、北本通りと赤羽駅南口に向かう、広い道路との交差点名「赤羽岩淵」のところではないので)。
 写真は、その終点付近のロータリー跡。写真の左手、交差点の手前が終点の駅でした。JRの駅からはちょっと離れた北東の位置にあります。交差点右手の角には、現在、高層マンションが建設中。北本通りは、右に大きく曲がって「新荒川大橋」を渡り、埼玉・川口方向に向かいます。正面の道路は「環八」。
 ところで、都電が盛んに運行されていた頃は、王子駅からの北本通りと明治通りとは、直接つながっていませんでした。現在は、「尾長橋トンネル」で結ばれていて、以前のような渋滞は解消されているようです。
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107 東武鉄道・旧大師前駅跡

2009-07-04 21:57:31 | 鉄道遺跡
 「大師前」駅。幻の計画線、東武西板線の第一期区間に開設された駅でした。西新井(東武伊勢崎線線)駅と上板橋(東上線)駅を結ぶ計画だったそうです。
 しかしその連絡線計画工事が進展しないうちに、第二次世界大戦中の東京への大空襲が激化したため、工事を断念し、駅の営業も休止しました。
 戦後、川崎大師などの大師様信仰の復活とともに、ここ西新井大師への参詣者が増えてきたため、再び営業を開始しました。
 駅名は、「西新井大師」の門前を表して命名されています。その後、環七が開通することになり、現在地に移転しました。もとは、現在地よりも環七をはさんで南西方向にありました。
 写真は、最初に開業した駅があったあたり。 ほとんど痕跡はなく、強いて言えば、この道路が線路跡? 昭和22年、38年の航空写真(goo)で確認してみましたが・・・。
 まだまだ空き地やこんもりした土地も残っていて、環七からわずか一本、道を入っただけで、環七の喧噪とは無縁の、住宅と商店のある路地裏でした。
〔歴史〕
1931年(昭和6年)12月20日 - 開業
1945年(昭和20年)5月20日 - 営業休止
1947年(昭和22年)5月21日 - 営業再開
1968年(昭和43年)12月1日 - 環七通り拡幅のため移転
1991年(平成3年)7月 - 大師線高架化に伴い高架化
2003年(平成15年)3月19日 - ワンマン運転に。

 いったい西板線は、西の方にどのように延ばす予定だったのでしょうか。環七のはずはありませんので。特に王子の辺りからは西へは・・・。
 西新井駅~大師前駅。ほんとうに短い単線の区間です。2両編成の電車が往復してしています。「大師駅」は立派な駅舎でした。
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106 大平山神社あじさい坂(番外編2)

2009-07-03 22:50:27 | つかのまの旅人
 久々のハイキング? 大中寺、清水寺から晃石山、桜峠、大平山とホントはぐるっと一回りしてから大平山神社に向かう予定が、早々予定変更。
 大中寺(なかなか風情のある古刹。早々にここで昼食休憩でした)の裏手からちょっとした山道をせっせこ登って、太平山へ。今回のお目当ては、あじさい見物なんですから、これもまたヨシ!
 途中、謙信平にも立ち寄って。ここは、なかなかの絶景。少し曇っていたが晴れていたらさぞかし・・・。周囲には、4,000本の桜が植えられており、4月上旬は桜のトンネルとなるそうだ。上杉謙信がその眺望を感嘆したところから名付けられたという「謙信平」。
 ここからは、富士山、東京の高層ビル、みかも山、岩舟山などが見え、雲の間から山々が見えるところから“陸の松島”と言われている。また、夜景が大変きれいな所。是非晴れた日に、再び訪れてみたい場所でした。
 そして、大平山神社に。以下、面倒なので大平山神社の公式ページによります)
 神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
 『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。
 この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
 さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。
 戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。
 さらに寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
 太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。
 
 おわかりだったでしょうか、実に由緒ある神社なのですね。特に、大平山の旧名が「三輪山」だったということは、奈良の三輪山信仰と関係があるのでしょうか。奈良の三輪山は、ご神体自体が山そのものなのです。
 でも、今回は、あじさい坂。神社から下っていくことにしました。よかった!ここから、石段が1000段もあるそうで、登ってこなくて助かった!登ってくる人は、息も絶え絶えの人もいました。これじゃ、あじさいどころじゃなさそうな・・・。
『六角堂』まで続く『あじさい坂』は、2000株以上のアジサイが咲いている歩道。
 途中に茶屋もありました。下りもけっこう、膝ががくがくしてきました。それに振り返り振り返りあじさいを見るというのも何だか疲れてしまう。上り下り、人も大勢出ていましたが、ゆっくりと味わい、楽しむことが出来ました。花の種類と多さにびっくりしました。
 実は、去年のこの時期、違うメンバーと鎌倉に行きました。あじさい寺・明月院は混みそうなので、江ノ電で、長谷寺と成就院に行きましたが、さすが鎌倉、もう大混雑!江ノ島の方に早々と向かいました。
 その経験があったので、今回の旅、大平山も捨てたものじゃないな、鎌倉よりよほど風情があるな、と思いました。曇っていましたが、雨にも降られなかった6月最後の日曜日でした。この頃、東京は、激しい雨だったそうです。
 写真は、坂の途中の御茶屋さん付近のようす。
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105 日光例幣使街道(番外編)

2009-07-02 19:56:29 | つぶやき
 例幣使街道(れいへいしかいどう)。東武線「新大平下」駅とJR「大平下」駅との間にある道路が、今でも「例幣使街道」と呼ばれている街道に当たります。
 徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され 日光東照社に祀られ神となりました。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣されました。以降、毎年家康の命日の祭礼には、「日光例幣使」が派遣されることになりました。「例幣使」とは神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使です。
 この行事は、慶応3年(1867)迄221年間休むことなく続きました。その勅使が通る道を「例幣使街道」と呼びました。
 例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ります。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。
 例幣使の一行は「幣(金幣)」を納めた、葵の金紋付きの黒革長持を中心に例幣使が座乗した輿や随員が乗った駕篭が続きました。
 一行(五十人前後)は4月1日に京を発ち、近江草津宿から中山道を進み、倉賀野宿から「日光例幣使道」に入りました。
 楡木宿で「壬生道」に合流し、今市で日光道中に合流、4月15日鉢石に到着しました。14泊15日の旅。翌16日は幣帛を奉納し、帰路は日光道中で江戸に出て、東海道で京に戻りました。
 この日光例幣使道はのちに道中奉行扱いとなり五街道並に昇格しています。
 ところが、この例幣使の慣例は徳川幕府の威光をしめすものにほかならず、朝廷にとってははなはだ屈辱にみちていました。
 例幣使の一行は横暴の限りを尽くし、とりわけ中山道から離れ日光例幣使道に入ると、その増長振りは目を覆うほどと謂われています。
 乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は「強請(ゆすり)」の語源になったくらい。実に怖い街道だったわけです。宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん)」を用意してユスリに対処しました。
 一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の緒大名屋敷に送りつけ金品を要求する始末だったという。
〔道中宿場名〕
倉賀野宿(群馬県高崎市)-玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)-五料(ごりょう)宿(群馬県佐波郡玉村町)-柴宿(群馬県伊勢崎市)-境宿(群馬県伊勢崎市)-木崎宿(群馬県太田市)-太田宿(群馬県太田市)-八木宿(栃木県足利市)-梁田宿(栃木県足利市)- 天明宿(栃木県佐野市)-犬伏宿(栃木県佐野市)-富田宿(栃木県下都賀郡大平町)-栃木宿(栃木県栃木市)-合戦場(かっせんば)宿(栃木県下都賀郡都賀町)-金崎宿(栃木県上都賀郡西方町)-楡木宿(栃木県鹿沼市)-奈佐原宿(栃木県鹿沼市)-鹿沼宿(栃木県鹿沼市)-文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)-板橋宿(栃木県日光市)-今市宿(栃木県日光市)
 写真は、街道に面した病院の旧住居(大平下病院)。
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104 両毛線「大平下」駅・ホーム線路跡

2009-07-01 22:18:23 | 鉄道遺跡
 栃木県の大平山は、ちょっとしたハイキングには手頃な山です。東武線でもJRの両毛線でも、山の麓に駅があります。JRが「大平下」、東武が「新大平下」。
 すぐ隣の栃木市は、駅も立派ですが、ここは、ほんとにひなびた雰囲気の駅。観光客も、それほどどっと降りるわけではなさそうです。東武の東側には、日立の大きな工場があります。平日は駅の乗降も多いのでしょうか。
 今日は、日曜日のせいか、しんと静まりかえっています。昼の弁当を調達したいと思いましたが、周りにはコンビニ、なし。コンビニ生活に慣れていると、こういうときはしまった! 浅草を出るときに買っておけば、とつくづく思います。
 たまたま通りすがりの人に聞いて、大きなスーパーに。歩いている途中でも、誰にもすれ違いません。所々あった店も、どうも営業はしていないような・・・。
 スーパーで驚いたのは、商品の値段。実に安い!50円台の菓子パンなどもあったりして・・・。年寄り向けなのか、小分けにした食品が目立ちました。
 やっと弁当を調達。大平山に向けて出発です。JRの線路脇を抜けて、道沿いに山の中へと入って行きます。その途中、踏切を渡りながら、JR「大平下」駅を見ると、お目当ての「廃線」が! かつての引き込み線の跡でしょうか、すっかり枕木は撤去され、無造作に(?)ポイント連結部分の線路が、線路際に置かれています。そこで、パチリ!もう今日の目的は一つ達成しました、満足!満足!
 両毛線。「小山」から「新前橋」まで近郊ローカル路線。下(毛)野-しもつけ-今の栃木県、上(毛)野-こうずけ-今の群馬県というように両毛地域と呼ばれていた、栃木県南西部から群馬県南東部に至る平野部の諸都市を結んでいます。
 もともとこの地域で盛んに生産されていた生糸や絹織物(桐生や結城など)の輸送のために建設された路線です。かつては、線路の周辺には、桑畑などが目立っていました。現在では、地元の通勤通学客の利用が中心となっています。
 東京方面へは、浅草・北千住等に直結している東武鉄道が優勢で、沿線の町や市から東京(浅草)に直通する特急をはじめ、急行電車等を多く走らせていますが、両毛線は地域内輸送が中心で、ほとんどの列車が普通列車となっています。
 ただ、前橋市内については、両毛線が他地域とアクセスするための主要な公共交通機関となっています。
 関東平野の一番北側の平野部、山沿い近くを走る路線で、沿線の主要な都市に立ち寄るように建設されたため、路線は大きく蛇行してます。
 大平下駅(おおひらしたえき)は、栃木県下都賀郡大平町富田にあります。
かつては、プラットホームは、複合式ホーム2面3線の地上駅でしたが、現在は2番線と3番線のホームを閉鎖し、プラットホームは単式ホーム1面1線です。
 写真の線路跡はその2番線、3番線のホームにつながっていた線路の一部です。
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