旧東海道「藤沢宿」は、境川を渡った西北側に広がっています。
遊行寺橋からの点線が旧東海道・藤沢宿。
遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡
江戸からの東海道を進むと、東海道第6の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋―だいぎりばし―)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江ノ島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。
上記のように、境川沿いに歩く今回の旅は、宿の江戸方付近のところで離れていきます。
藤沢宿の成り立ち・しくみ
藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され、五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数宇4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を活かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町家がわずかに残っています。
※以下、地図上に、①藤原御殿、②本陣と脇本陣、③問屋場、④見附、⑤高札場、⑥旅籠屋、⑦桝形の位置が記されています。
1880年代のようす。藤沢宿の繁華街・中心部。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
現在の繁華街、JR藤沢駅はもう少し南に位置しています。
旧東海道歩きの際の記録を再掲。
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宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。
古く重厚な家屋が残っている。
入口正面に「紙」と。国登録有形文化財(建造物)
桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。
株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
(HPより)
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「江の島弁財天道標」。
遊行寺橋を望む。
旧東海道・遊行寺坂を下り、
境川の手前で右・左折し(桝形・カギ型)、遊行寺橋を渡って宿場の中心部へ入ります。
1880年代のようす。
堂々とした橋柱。藤沢橋。初代は、関東大震災後に造られた。
ここからは東海道から分かれて江の島への道となります。
下流方向。
上流方向。
この先。境川沿い・右岸の道を歩くことに。
こうした観光絵図(浮世絵)が随所に設置。。
にぎやかな街並みが続く中、境川に近づくと、
カルガモの子が急な流れの中、必死に泳ぐ姿が(〇)。
「海から5.0km 標高7.9m」。
御所ケ谷橋。
川幅が広くなってきます。流れも速そう。ここにも、カルガモが。
直線化された流路。
そのまま進むと藤沢市立大道小学校の先で、
JR東海道線にぶつかり、行き止まりになってしまいます。
遠回りして左岸の方を行けば、線路の向こうに行けそうですが。・・・
道なりに回り込むと、藤沢市役所に。そこで、小休止。
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