石神井公園に初めて行きました。所用のついでに。暑い日差しを感じないほど、こんもりとした木々と二つの大きな池。石神井池・三宝寺池。特に、三宝寺池は武蔵野台地からの地下水が湧き出る池として存在していました。園内には、沼沢植物群や雑木林が見られ、23区内とは思えないほど緑豊かな武蔵野の面影を残しています。しかし、年々水量が減少し、景観維持のため、池の水も人工的に地下水から揚水しているようです。石神井池は、ボート場となっていますが、水辺には葦など水辺の植物があります。南側の散策道は、かなり古い樹齢のアカマツなどの鬱蒼とした林の中の小道となっています。
三宝寺池は石神井川の水源の一つとされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、この池の南の台地に石神井城を築城したとされています。
石神井池(ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で人工的に作られたもの。もともと三宝寺池から周辺の田んぼに水を引いていた水路でしたが、それを人工的にせき止めて池としました。その整備の歴史も古く、80年近くの昔の1933(昭和8)年に作られています。
かつては石神井川(小金井~王子~隅田川)の本流は、三宝寺池から流れ出す川とされ、小金井からの流れは大川と呼ばれる支流でした。しかし、徐々に流域の都市化が進行し三宝寺池の湧水が減ると、池から合流点(山下橋)までの流れは、三宝寺川と呼ばれるようになり、大川が石神井川本流となりました。
石神井川の名称は、石神井村を貫流する川だったために村の名前にちなんで呼ばれたと言われています。石神井村の名前は、村内に昔からあった「石神」(石棒を神体として祭ったもの)に由来し、この「石神」は三宝寺池から出たとも、井を掘っていたら土中から出たとも伝えられています。
石神井川は、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」とも呼ばれています。石神井川が隅田川に注ぐようになっているのには、諸説があるようで、もともと上野の不忍池に通じていたとも。
木漏れ日の中の久々の散策でした。写真は、三宝池のようす。何か深遠な雰囲気のする池でした。
散策道の一部。
石神井池遠望。
実がなっています。
水辺の草花。
池からの落ち口。三宝川となって石神井川に合流します。
実際の流れは暗渠で、遊歩道になっています。
石神井公園駅のホーム。古くなったレールを柱に。現在、大改造工事中。いずれ取り払われる運命に。
屋根も木製。レールには、記号がそのまま残っています。
三宝寺池は石神井川の水源の一つとされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、この池の南の台地に石神井城を築城したとされています。
石神井池(ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で人工的に作られたもの。もともと三宝寺池から周辺の田んぼに水を引いていた水路でしたが、それを人工的にせき止めて池としました。その整備の歴史も古く、80年近くの昔の1933(昭和8)年に作られています。
かつては石神井川(小金井~王子~隅田川)の本流は、三宝寺池から流れ出す川とされ、小金井からの流れは大川と呼ばれる支流でした。しかし、徐々に流域の都市化が進行し三宝寺池の湧水が減ると、池から合流点(山下橋)までの流れは、三宝寺川と呼ばれるようになり、大川が石神井川本流となりました。
石神井川の名称は、石神井村を貫流する川だったために村の名前にちなんで呼ばれたと言われています。石神井村の名前は、村内に昔からあった「石神」(石棒を神体として祭ったもの)に由来し、この「石神」は三宝寺池から出たとも、井を掘っていたら土中から出たとも伝えられています。
石神井川は、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」とも呼ばれています。石神井川が隅田川に注ぐようになっているのには、諸説があるようで、もともと上野の不忍池に通じていたとも。
木漏れ日の中の久々の散策でした。写真は、三宝池のようす。何か深遠な雰囲気のする池でした。
散策道の一部。
石神井池遠望。
実がなっています。
水辺の草花。
池からの落ち口。三宝川となって石神井川に合流します。
実際の流れは暗渠で、遊歩道になっています。
石神井公園駅のホーム。古くなったレールを柱に。現在、大改造工事中。いずれ取り払われる運命に。
屋根も木製。レールには、記号がそのまま残っています。
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