(13:04)商店街を抜けて、「吉田町」。
ここから港にかけての今昔。
1880年代のようす。Aが都橋、Bが吉田橋。北東に延びるのは「馬車道」。海側は外国人居留地。現在の横浜球場は、大きな「横浜公園」そこから港に伸びる広い道が「日本大通り」。東波止場:通称「象の鼻」が右上に。また、上方に、日本最初の鉄道の終点(現在の桜木町駅付近)。
2010年代のようす。Aが「都橋」、Bが「吉田橋」。大桟橋の左にあるのが「象の鼻」。この付近は、現在、もっと整備され、公園風に。また、「吉田橋」の下は「首都高横羽線」となっている。
(13:10)「吉田橋関門跡」碑。
安政6年(1859)6月2日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久4年(1864)2月に吉田町側に移設されました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。
吉田橋
神奈川県横浜市中区の馬車道と伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋である。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られる。現在の橋は1978年に完成した5代目である。
江戸時代に吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。
3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた。これを受け、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で、工費は当時の額で7000円であった。
1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1銭、人力車5厘の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』、三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』などの錦絵に描かれた。
吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5m扛上する工事が行われた。
1910年5月には16万円余りの工費を投じ、橋長約20間(約36.4m)、中央径間60フィート(約18.3m)、側径間25フィート(約7.6m)の鉄筋コンクリート製3連アーチ橋への架け替え工事を着工し、1911年10月に完成した。幅は12間(約21.8m)で、7間(約12.7m)の車道の両脇に各2間(約3.6m)の歩道が設けられた。ヨーロッパ様式のモダンなデザインで、橋詰と橋脚上にはバルコニーが設けられた。車道部分には1912年に横浜市電の軌道が敷設されたが、関東大震災後に軌道は60mほど下流側の羽衣橋に移された。
第二次世界大戦後には地盤沈下によりアーチに変形をきたしたため、軟弱地盤に耐えうる橋に架け替えられることになる。1957年9月に着工、4714万円の工費をかけ、翌年5月には橋長38.5m、総幅22mのゲルバー式混合橋が完成した。
派大岡川は1971年に廃川となり、その跡には1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。両岸の地上部は新横浜通り(山下長津田線)の上下線が通る。この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられることになった。
現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。2層構造で、上部は2車線の車道とその両側の歩道からなる。車道は馬車道方面から伊勢佐木町方面の一方通行で、イセザキモールは歩行者専用道路であるため、橋を渡った車両は新横浜通り桜木町方面または吉田町通りへの右折のみ可能である。欄干は、2代目の「かねの橋」をイメージした意匠が採られた。
(以上、「Wikipedia」参照。)
長崎の「くろがね橋」につぐ国内2番目の鉄製の橋で、1911年(明治44年)に鉄筋コンクリート製に架け替えられました。
左が鉄製。右が鉄筋コンクリート製。
(この項、「」HPより)
「馬車道」側にある「解説板」。
鉄(かね)の橋
明治2年(1869)、英国人R.H.ブラントン(1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24㍍、幅員6㍍の日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。
その横にある解説板。「ブラントンと横浜」
明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
1870年の実測「横浜居留地図」が掲載されています。
方角を修正。
左上に「吉田橋」。それに続く道が「馬車道」。外国人居留地は右下の一角に。「日本大通り」は中央の広い道。
その「馬車道」を進みます。
ここから港にかけての今昔。
1880年代のようす。Aが都橋、Bが吉田橋。北東に延びるのは「馬車道」。海側は外国人居留地。現在の横浜球場は、大きな「横浜公園」そこから港に伸びる広い道が「日本大通り」。東波止場:通称「象の鼻」が右上に。また、上方に、日本最初の鉄道の終点(現在の桜木町駅付近)。
2010年代のようす。Aが「都橋」、Bが「吉田橋」。大桟橋の左にあるのが「象の鼻」。この付近は、現在、もっと整備され、公園風に。また、「吉田橋」の下は「首都高横羽線」となっている。
(13:10)「吉田橋関門跡」碑。
安政6年(1859)6月2日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久4年(1864)2月に吉田町側に移設されました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。
吉田橋
神奈川県横浜市中区の馬車道と伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋である。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られる。現在の橋は1978年に完成した5代目である。
江戸時代に吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。
3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた。これを受け、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で、工費は当時の額で7000円であった。
1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1銭、人力車5厘の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』、三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』などの錦絵に描かれた。
吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5m扛上する工事が行われた。
1910年5月には16万円余りの工費を投じ、橋長約20間(約36.4m)、中央径間60フィート(約18.3m)、側径間25フィート(約7.6m)の鉄筋コンクリート製3連アーチ橋への架け替え工事を着工し、1911年10月に完成した。幅は12間(約21.8m)で、7間(約12.7m)の車道の両脇に各2間(約3.6m)の歩道が設けられた。ヨーロッパ様式のモダンなデザインで、橋詰と橋脚上にはバルコニーが設けられた。車道部分には1912年に横浜市電の軌道が敷設されたが、関東大震災後に軌道は60mほど下流側の羽衣橋に移された。
第二次世界大戦後には地盤沈下によりアーチに変形をきたしたため、軟弱地盤に耐えうる橋に架け替えられることになる。1957年9月に着工、4714万円の工費をかけ、翌年5月には橋長38.5m、総幅22mのゲルバー式混合橋が完成した。
派大岡川は1971年に廃川となり、その跡には1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。両岸の地上部は新横浜通り(山下長津田線)の上下線が通る。この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられることになった。
現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。2層構造で、上部は2車線の車道とその両側の歩道からなる。車道は馬車道方面から伊勢佐木町方面の一方通行で、イセザキモールは歩行者専用道路であるため、橋を渡った車両は新横浜通り桜木町方面または吉田町通りへの右折のみ可能である。欄干は、2代目の「かねの橋」をイメージした意匠が採られた。
(以上、「Wikipedia」参照。)
長崎の「くろがね橋」につぐ国内2番目の鉄製の橋で、1911年(明治44年)に鉄筋コンクリート製に架け替えられました。
左が鉄製。右が鉄筋コンクリート製。
(この項、「」HPより)
「馬車道」側にある「解説板」。
鉄(かね)の橋
明治2年(1869)、英国人R.H.ブラントン(1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24㍍、幅員6㍍の日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。
その横にある解説板。「ブラントンと横浜」
明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
1870年の実測「横浜居留地図」が掲載されています。
方角を修正。
左上に「吉田橋」。それに続く道が「馬車道」。外国人居留地は右下の一角に。「日本大通り」は中央の広い道。
その「馬車道」を進みます。
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