おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛川一里塚。七曲がり。「掛川宿」。掛川駅舎。・・・(金谷駅から掛川駅まで。その7。)

2015-03-05 23:06:35 | 旧東海道

 「本村橋」を左に折れます。「成滝」。

 20分ほど「掛川駅」方向の道を進みます。

    

 

 この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。
 元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている。

補足:

 大物主命を祭る大頭龍大権現(菊川市大頭龍神社)と大福天という天狗を祭る福天権現(菊川市竜雲寺)への道標です。
 掛川から川崎湊(牧之原市)まで続く川崎街道の起点でもあり、大頭龍大権現まで2里(約7.9キロメートル)、福天権現まで1里(約3.9キロメートル)川崎湊まで6里(約23.6キロメートル)の道程でした。

HPより)

「大頭龍権現 福天権現 の両参道標について」
 2012年10月に一部修正作成された、「西山口地区郷土史研究会 平岩孝一」氏の詳細な説明板。二百数十年前のこの道標の内容の吟味・考察と、明治以降、道路整備等で長い間放置されていた道標がここに置かれた経緯が実に詳しく述べられています。申し訳ありませんが、省略します。

常夜燈。

「馬喰橋」の袂にある「金の豚」。

「馬喰橋(ばくろうばし)」を渡ってすぐ左にあるのが、「葛川一里塚」。

日本橋から58番目(56番目)。

「掛川宿案内図」。

 いよいよ掛川宿です。26番目。「東海道53次」の半分に近づきました。「掛川」という地名は、市の中心部を流れる「太田川」の支流「逆川」が、両岸に懸崖が多いので、古くは「懸河(かけがわ)」と言っていたところから、らしい。

   
    創業200年の和菓子屋「もちや」。          名物「振袖餅」。

 しばらく進むと、「七曲がり」にさしかかります。道路工事が進んでいて、ちょっと分かりにくい感じですが、何とか・・・。

 これまでは二股だった地点。未開通だった部分の工事が最近完成し、新しく広い道(「連雀西」方向を結ぶ)になり、そのため三叉路になりました。その一番左の道に折れます。
 正面には「東海道線」の線路が見えるはず。「旧東海道」の表示が小さい上、工事車両が停まって隠れていました。
 市街地の渋滞緩和・交通事情から、旧来の家屋を立ち退かせて、一直線の広い道路にする理由は理解できますが、宿場町・城下町特有の故意に曲げられた道筋がなくなってしまい、次第に忘れ去られていくのは惜しい感じがします。
 しっかりした道標やこのかんの説明板を設置していただければありがたい。

 今後、「掛川宿」の西のはずれ「十九首」辺り(故意に曲げられた道? )も道路拡張などで大きく変化していきそうです。

振り返ってみたところ。
 「ひぐち呼吸器内科→」の示す方向へ進む。
 

 線路の一つ手前の道を右に曲がる。遠く正面に常夜燈。


突き当たり(常夜燈)を左に曲がる。

振り返ったところ。

   
 道の両側は住宅街。この中を「七曲がり」だといって、うろうろ、ぞろぞろ歩かれたらさぞ迷惑でしょうね。中に道を尋ねる人もいたりして・・・。


「茶の蔵かねも」にぶつかるので、右に曲がる。


その先も右に曲がる。正面奥、右手に何やら案内板が。

「塩の道」。

塩の道

 静岡県の西武地域は、古来遠州と呼ばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が各地にできていた。
 この中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交通の道である。

「御前崎」方面への道が示されています。

「掛川宿東番所跡」。

たしかに「かぎの手」になっています。

そして、「七曲がり」説明板。

七曲り

 葛川と新町の境に堀割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
 新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和6年(1620)町として認められました。

 ここを過ぎて、次の十字路を左に曲がります。
振り返ったところ。


次の角を右に曲がる。

    
  右に曲がって通りの向こう、正面に「桂花堂」が見えれば、正解。ここを左に折れる。あとは、まっすぐな道を行く。

    
                 着物と振袖の店「ます忠」。蔵造りを意識した建物。

「掛川座」。

「商店街」。

そして、「掛川信用金庫連雀支店」。

 今回はここまで。

 なんといっても掛川市内の建物で一番は、「掛川駅舎」。昭和15年の木造駅舎が使用されています。

    

 新幹線停車駅では唯一、木造駅舎(北口)を有している。掛川市長であった榛村純一が木の文化を大切にするという姿勢をとっていたため、1940年(昭和15年)に建築された駅舎が現在も残っている。一方で駅舎の耐震化がなされていないことから、掛川市では駅舎を建て替えの上で元の木造駅舎の資材を利用して外観を復元する工法による耐震化工事を2012年(平成24年)12月から開始、2014年(平成26年)1月26日に駅舎の供用を再開した。(以上、「Wikipedia」より)

「天竜浜名湖線」駅舎。



 東京や横浜の私鉄は何となく知っているし、乗ったこともありますが、静岡県内の私鉄。ローカルながら頑張っていることに改めて驚きます。

《伊豆箱根鉄道駿豆線》 (三島~修善寺)
 地元では社名をもじって「いずっぱこ」と呼ぶことも多い。

《岳南電車》(吉原~岳南江尾)
 富士市東部の工場地帯と住宅地を結ぶ路線。存続の危機にあるとか。

《静岡鉄道》(新静岡~新清水)
 平日は朝ラッシュ時間帯に最大1時間あたり15本、土曜休日の終日と平日の昼間は6-7分間隔の高頻度運転を行っており、昼間の普通列車は新静岡 - 新清水間を21分で結んでいる。ともかく運転本数が首都圏並み。

《大井川鐵道》(大井川本線 金谷~千頭 井川線 千頭 - 井川) 
 大井川本線は日本でも数少ないSLが走る鉄道として有名。また、通常の運行で使用している電車車両も、全国の私鉄で使われていた旧型車両を集めて運行している。

《天竜浜名湖鉄道》 (掛川~新所原)
 主に静岡県西部地区の北部を走る鉄道。もともとは、JR(国鉄)の路線。全線電化はされておらずディーゼルエンジンを積んだ車両を使用。

 2003年(平成15年)4月から、天竜川川下り事業を行っていたが、2011年(平成23年)8月17日に5人が死亡した転覆事故の影響により運航を中止、その後、事業撤退。
 
 以上が、これまで見てきた鉄道。それにプラスして。

《遠州鉄道西鹿島線》(新浜松~西鹿島)
 浜松市内を南北に走り、浜松市浜北区に住んでいる人たちの、大切な足となっている。

《伊豆急行》(伊東~伊豆急下田)
 伊豆東海岸の観光地に向かう観光客に多く利用されている。


 この中で乗ったことがあるのは、「伊豆急」のみです。

 次回は、「掛川」からになります。次の「袋井」宿が27番目で、ちょうどど真ん中。
 「東海道新幹線」の駅でも、「品川」「新横浜」「小田原」「三島」「新富士」「静岡」そして「掛川」と来たわけですから、だんだん遠くなってきて、いよいよ泊まりがけで移動しなければならなくなった?  
 でも、まだ「東京」~「沼津」~「「浜松」と、各駅停車はあるので、もう少し頑張りますか。このへんになると、夜行バスとかもありそうだし、・・・。

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