おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

取手~藤代~若柴~牛久。その2。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-13 21:37:47 | 水戸街道

 (9:41)「サイカチ」の木から20分ほど歩くと、小川にさしかかります。ひたすら直線の道を歩いてきます。
振り返って望む。

橋のたもとに道標。

   「水戸 十八里 江戸十一里 来應寺七丁」。
           


はるか一面、田んぼ。

まだまだ直線の道は続きます。

真夏じゃ歩けません。自販機もなし。

次第に沿道に民家。 

 (10:20)JR常磐線の踏切が前方に見えてきます。
    

踏切の名称に「旧陸前浜街道」とあります。

藤代駅方向。                                   取手駅方向。
    

 「国道6号線・谷中本田」交差点を越えて、「藤代宿」へ。
    

 (10:34)まもなく道は直角に右に曲がります。その手前、右手の角には立派なおうち。
    
 「坂本呉服店」が奥に昔ながらの屋敷を構えて、お店を開いています。

その前にも商家があります。

左手の角には「相馬神社本殿」。龍の彫刻が見事だそうです。

 その先、「藤代公民館」はかつての本陣跡。建物はなくなったが、当時の「本陣松」と「サルスベリ」が公民館脇に移築されている、とのことでしたが、あいにく耐震工事中で中に入れません。


藤代宿
 水戸街道千住宿から6つ目の宿場町。現在の茨城県取手市藤代・片町付近。
 藤代宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、藤代宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 藤代宿は、宿場町としてはひとまとめで扱われることが多いものの、内部では江戸側(藤代庁舎側)の藤代宿と水戸側(藤代駅側)の宮和田宿に分かれていた。本陣などの宿場町としての役務も持ち回りとなっていた。藤代宿側の本陣は、現在の藤代中央公民館となっている場所にあり、名主は飯田家が代々務めた。戦中も被災せずに残っていたが、1950年2月に昭和の町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊された。その後、この地に本陣があったことを記した看板が本陣の玄関前にあった百日紅の木と共に設置された。
 なお宮和田宿にも本陣が置かれていたが、記録が残されておらず詳細は不明。

本陣玄関脇にあった百日紅と本陣跡の看板

                                    (以上、「Wikipedia」参照。写真も。)
そこから宿内を望む。

 まっすぐに進み、道なりに左に曲がって、「宮和田」地区に入ります。

(10:47)来た道を振り返って望む。写真の左奥が「藤代駅」。

 藤代駅のベンチで小休止し、再開。

直線で続く「旧宮和田宿」の街並み。

小さいながら重厚な印象のおうちがあります。

現代的な建物の中に昔風の建物。

 旧街道らしい建物はほとんど見当たりません。振り返って望む。


 県道は左にカーブしますが、旧道はそのまま、まっすぐ「小貝川」の土手に向かいます。


    
                 「小貝川」。上流には「文巻(ふみまき)橋」。

土手から「宮和田」地区を望む。

(11:16)「文巻橋」を渡って対岸へ向かいます。

 古くは小貝川の川筋が下総国と常陸国の国境でした。旅人は「宮和田の渡し」と呼ばれる渡船によって小貝川を越えました。「宮和田の渡し」は、現在の文巻橋の100m程下流にあったようです。



 現在のようす。上にある橋が「文巻橋」。下が常磐線。中央斜め左に旧道。「小貝川」で分断されているが、対岸に旧道の痕跡あり。



 1880年代のようす。流路が現在よりも西寄り。対岸の街道筋に集落があった。
コメント
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