おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「未闘病記」(笙野頼子)講談社

2015-07-03 22:43:55 | 読書無限

 「二〇代デビュー後持ち込み十年、論争積年の三冠ホルダー、大学院教授にして不屈の純文学さっか、そんな「私」をある日不意に襲う……(プ、女の一代記かよ、て、め、え)、難病、……。」(P5)

 「そう、難病である。難病になったのだ、難病、と判明した。純文学難解派、と分類される難解文学の書き手のこの私がね、それは。」(P6)

 記号論的にいえば(といっても「記号論」なるものへの一知半解の立場だが)、長年、心身を悩ませてきた自らの体調、否、むしろそれをバネとして文学を紡いできた作者が、その病名がはっきりと判明した(名づけられ、記号化した)ことにより対象化しえたことで、新たな文学的地平を切り開いた(プッ、実に通俗的な表現、)作品。   

 膠原病のひとつ、混合性結合組織病の患者となった「私」。言ってみれば、「私」の立場からものを書き、発言した矛先は「私」をつぶそうとする「組織」(文壇、既成の)との果てしなき闘いを挑んできた「私」がよりによって自身が「結合組織病」となった!  これまでの自らの身体性と内面性をどう「私」はとらえ直し、総括するか。読者の興味はそこにあり、作者の興味もそこにあるはず。
 老いて病がちな猫の世話と、看取り、さらに学生相手の仕事、・・・

 「病気と知ったのは最近でも、特徴的な症状は軽く、大昔からあった。」(P22)

 こうして、これまでの「私」の作品の背景(執筆時の心身風景)を解き明かすというサービス(笙野頼子になりかわって)が、とてもけなげな「おばさん」ぶりです。

 「結局、どんなに私小説から遠い作品を書いても、どんなに身の回りの「自分の事だけ」書いても、「他者がない」と言われても私にはこの病がちの肉体があった。どう出るか判らない他者としての持病。そんな中で想像の世界にも現実にも似た、私的虚構を書いた。
 そして、この他、私の書くべきものがあるだろうか?
・・・
 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。
・・・
身体性は私の社会性だから。」(P257)

 誰にでも当てはまる(同質の)「社会性」なるものは存在しない、と。さすが向かうところ敵ばかり(敵に仕立ててきた)「私」の面目躍如の心象風景。自らの中に巣くう「病」を自らのものであってしかも他者として突っ放す姿勢は敵にしたら恐い存在である(「混合性結合組織病」にとって)。そういって「私」は闘いを挑みつつある。病気との、否、そんなものとではない!

 病気そのものでは「死なない」病ではあるが、ステロイド剤の副作用(これは医師のコントロール下にあるかぎり、心配はなさそうそうだが)、あるいは他の合併症で命を奪われる危険性を併せ持つ病。それに留まるような狭い話ではないだろう。広く社会を覆う歪んだ「個」と「全体」との関係を突く、その本格的な闘いは始まっていない。

 作者は主人公の「私」を通して、個から、部分から全体を俯瞰する視野という究極の視点を獲得しようとしている。
 だが、路半ば、「闘い」は始まったばかり。だから、「未」闘病記なのであろうか。

 随所におさめられた猫の写真(時には筆者の指が入った)が「私」にとって、読者にとって励ましになっている。そうやすやすとはは老いさらばえぬ、という決意を込めて。

 アベが「日本の原風景を世界に」と伊勢でサミットを開催する、と。この決定に右はもちろん、左も賛成、賛成の声々・・・。
 さて、地元での開催に「神道左派」としての「私」(筆者自身)はどう対(決)するか? 猫神様は、どのようなご託宣を下すか? 
コメント
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