おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

出合之像。予科練の碑。尾崎一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その1。)

2015-07-05 13:00:18 | 旧東海道

 いよいよ今回は、「七里の渡し」跡まで。日程的にはちょっとゆとりのある行程のはず。かといって、一日では無理。そこで、今回も一泊。時々合流する「国道1号線」の標示ですと、《(日本橋から)330㎞ポスト付近から358㎞ポスト付近まで》。

 6月16日(火)、17日(水)の2日間。

 東海地方も梅雨入りしたので、事前にホテルを予約しても、当日、強い雨ならばちょっと面倒、と思いながら、予約。「刈谷」駅直結の「名鉄イン刈谷」。朝食付きで5,900円。
 「矢作橋」から行けるところまで進んで、泊まる先には戻る感じ(前回の岡崎とは異なって)。ただし、「東海道」の道筋からは少し離れる。天気の予想は、16日は曇り時々雨、17日は曇り。果たしてどうなることやら?

 16日早朝、自宅を出て「東京」駅6:33発の「こだま631号」で「豊橋」。そこで、名鉄線に乗り換えて「矢作橋」駅に9:28着。何となく天気は持ちそうな雰囲気ですが。
 駅を出て、「国道1号線」を「矢作橋」まで10分ほど戻り、ここからスタート。午前9時40分。

    
                            「出合之像」。

出合之像  太閤伝説・日吉丸と小六

 日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八才のころから奉公にだされましたが、十二才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸が
あると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。
 日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。
 史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間みる挿話となっています。
 この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。

 実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされていますが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられました。像の裏側には「平成元年十二月」とあります。
 「矢作橋」の掛け替え工事のため、一時、出合之像は撤去されたいましたが、工事終了後の2014年1月に元の場所に戻されました。

そこからの「矢作橋」。

         葛飾北斎「矢作橋」(「Wikipedia」より)

旧矢作橋の遺構。

 橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきたようです。土手を下り、左手の道に入ります。右手には「勝運寺」。
「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っています。

「東海道」の標示。


 その先の右手には、

    

誓願寺十王堂

 長徳3年3月(997年)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
 時代は下り、寿永3年(1138年)3月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。

 〈十王とは・・・、以下「十王」のいわれを記した部分は省略(注:「十王堂」の「十王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。〉


 この堂内には、これらの十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。

 寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

まもなく国道1号線と合流、振り返って望む。

「(日本橋から)330㎞」ポスト。

 しばらく国道沿いに進みます。「安城市」に入ってまもなく「尾東」の信号のところで、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になります。

分岐点正面は「マック」。

    

 松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいます。

    
                             「予科練の碑」。
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて
予科練習生揺籃の地なり

 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
 生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦
 爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである

 昭和48年5月15日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会



第一岡崎海軍航空隊の由来

 第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和19年2月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急據訓練を開始することとなり名称も昭和19年4月1日岡崎海軍航空隊となり、作戦機能も独立して同年5月より本格的訓練が開始され、その後昭和20年2月第一岡崎海軍航空隊と改称された。
 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、昭和19年五5月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実践航空隊へ実務練習生として巣立って行った。しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和20年8月15日ポツタム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。
 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人々の脳裡から消え去らんとしている。
 こゝにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。

 昭和61年5月18日

 左には、その広大な敷地のようすが図解されています。

現在のようす。

「予科練の歴史」

 1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。
 当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担当が変更された。
 1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。
 1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。
 戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。
 昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。
 1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

(以上「Wikipedia」参照)

 以前茨城県の阿見町に出かけたことがあります。かつての霞ヶ浦海軍航空隊が設置されていた町です。戦後、その跡地は一部を除いて農地として開拓され、その後、整然とした町並みになっています。コンクリートの滑走路などを掘り返しての農地開拓の歴史を調べるためでした。その時に記念館に立ち寄りました。以下は「阿見町」HPより。

 「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。
 14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へと赴きました。
 阿見町は、大正時代末期に東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置されて以来、昭和14年には飛行予科練習部いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう土浦海軍航空隊が設置され、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うこことなりました。
 このように長く海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、日本の近代史の中でも特別な時代を過ごし、戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。
 阿見町では、この貴重な予科練の歴史や町の戦史の記録を保存・展示する「予科練平和記念館」を開設しています。

HPより

 「予科練」生存者は、戦友への複雑かつ感傷的な感慨もより深いでしょう。記念碑、遺品などでそうした想いを感じます。
 一方で、前途ある多くの青少年を「特攻」に駆り立てていったことへの反省・評価があいまいなままに、またしても対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、その総括にきちんと取り組まなければならないと思います。
 こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいます。

 さらにその並びには鎌倉街道の説明板が設置されています。


鎌倉街道跡

 1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。
 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印しの松」が残されている。

 昭和54年10月1日  安城市教育委員会

「目印の松」。

その下には一里塚跡碑。日本橋から83里目「尾一里塚」。     
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