おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

松並木。間の宿原川。久津部一里塚復元。どまん中東小学校。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その2。)

2015-03-21 17:39:30 | 旧東海道

 「善光寺橋」を渡ると、「仲道寺」の看板。「東京京都中間地点。由緒ある寺」と。

    

 「善光寺」と「仲道寺」という二つのお寺が並んでいます。特に「仲道寺」のいわれについて、説明板では、

 ・・・その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺が丁度東海道の真ん中で仲道寺という寺名がついたと云われている。

 とあります。 

 「仲道寺」を過ぎると、見事な松並木が続きます。
    

 よく見ると、若い松が多い。さらに、枯れてしまった松の株の脇には新しい松が植えられています。地元の松並木保存に対する熱心な取り組みを感じます。

    

 少し成長した松の木も。

    

 旧東海道松並木 岡津~原川

 官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。
 現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。

 一時期「松食い虫」によって、日本中の多くの松の古木が姿を消したことが話題になりましたが、東海道でもその被害は大きかったのですね。

       

 松並木を過ぎて左手の「金西寺」のところに案内図と説明板があります。

    

 間の宿 原川

 宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。
 原川は、掛川宿まで一里18町(約6㎞)、袋井宿まで33町(約3.6㎞)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。

「原川」地区を振り返る。

大正初期に設置された道標。ここを左折。この先が地下道。

 「国道一号線」に合流。「(日本橋から)234㎞」ポスト。

 「同心橋」を渡ります。土手には菜の花が一面。

「原野谷川」。

 いよいよ「袋井市」に入ります。

 「同心橋」を渡って左に曲がると「名栗」。

 土手の下の小公園「名栗花茣蓙公園」。

北斎の浮世絵「東海道53次袋井宿」。

「公園」全景。

 静かな住宅街を西に向かいます。
 緩やかなカーブが旧道らしい雰囲気。

    

 名栗の花茣蓙

 文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し 軒を連ねた通りをすぎ 瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓、ここは袋井の宿までの合いの宿 旅籠屋のあり 名物の花ござを売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買って行く」・・・

  旅人の 見えかくれする 並木道 
      瀬川のほとり 花ござの里

 「名栗」は、旅人が休息する立場として知られ、特に特産品の花ござは有名でした。

    
 振り返って望む。                         西の方を望む。

 袋井の松並木。

    

 東海道松並木

 江戸時代の東海道沿線の村々を記録した『東海道宿村大概帳』には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。
 東海道の松並木は、慶長9年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と『徳川実紀』は記しています。
 その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。

  平成12年3月10日 袋井市教育委員会

初代歌川広重「行書東海道五十三次之内 袋井」。

 題字が行書で書かれているためにこの名がある。
 童とともに凧を見上げる旅人を描く。大人二人がかりであげているところをみると、相当大きな凧なのであろう。遠くに見える山並みは小笠山か。袋井市域の初夏の風景である。

          
            (HPより)

 見事な松並木。夏の暑い日差しでも遮るような並木道。

「歌川芳員 東海道五十三次之打ち袋井」嘉永6年(1853)

 振り分け荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は「かかし」、早とちりな旅人に農夫もあきれ顔です。
 ユーモラスな場面の背後には松並木が続きます。東海道袋井宿近くの夕暮れです。

 松並木を抜けた右手には、朱塗りの大きな鳥居。富士浅間宮。

 再び松並木。振り返って望む。

 しばらく進むと、左手に「妙日寺」。
                          このお寺は、日蓮聖人の父・貫名重忠に因縁のあるお寺で、貫名氏代々の邸宅跡と伝えられたいるようです。父親の法名を寺名としています。

 その先の左手、袋井東小学校の敷地内には「久津部一里塚」跡の説明板が二つあります。
「袋井東小学校創立百年記念 東海道久津部一里塚跡碑」。

 徳川幕府は慶長9年2月(昭和47年より368年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸より60里の地点であったから道を挟んで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。
 その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅地で国道より3間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治10年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をいたした次第である。
 平成12年8月改修(昭和47年説明板設置)

 ちなみにこの小学校の創立100年が昭和47年ということは、現在は実に143年という長い歴史を持つ小学校ということになります。1872年(明治5年)創立。
 もう一つの説明板。

 久津部一里塚

 一里塚とは、街道両側の一里(約4㎞)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や松がその上に植えられていました。
 久津部一里塚は江戸からちょうど60里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。
 昭和47年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。
 ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。

 平成12年8月改修(平成4年12月1日説明板設置) 袋井市教育委員会

        

 校門には、「東海道どまん中東小学校」という表札。

 秋葉山常夜燈。

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