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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

古隅田川跡をたどる⑤(千住柳原付近)

2012-07-10 21:25:17 | 河川痕跡
 さて、荒川を越えて、足立区千住柳原付近。最寄り駅は東武牛田駅、京成関屋駅。このあたりは、道路となっていて、かつての川筋(水路)は、道路の様子から偲ぶのみ。牛田駅、関屋駅周辺の探索です。

正面が荒川。この道がかつての水路跡と思われます。現在、千住旭町と柳原との境となっています。

少し下ったところ。正面が荒川側。

牛田駅方向から東北を望む。1947(昭和22)年撮影の航空写真(gooの地図)では、この通りが水路となっています。北の方から少し東に向きを変えて流れていました。少しカーブしているのが分かります。
このあたりで、水路が二つに分かれていきます。一つは、そのまま関屋駅の東南側に、もう一つは、ほぼ南に下って隅田川につながります。



1880年代のようす。明治初期の「柳原」付近。
 綾瀬川(東南)、古隅田川(西)、隅田川(南)とに囲まれた田園地帯。西側は千住の宿。水路が入り込んでいます。浸水湿地帯でもあったようで、集落の周りはぐるりと土手で囲まれています(南にその一部が見える)。ただ、中央の二股の水路は「古隅田川」ではなさそうです(用水路か)。
 その囲みの外側に流れているのが「古隅田川」(水路の変更あり)。その跡が、現在の写真の道路だと思われます。現在、その道路に沿って内側に同じように湾曲した道がありますが、それがその土手(輪中のようなもの?)の跡かもしれません。下(南)のところで二つに分かれています。



2010年代のようす。
 「荒川(放水路)」の開削、京成・東武線の線路敷設など、さらにその後の宅地開発などで大きく様変わりしていますが、何となく輪郭は残っているようです。

一つ目の水路。
この道は行き止まり。かつては道路だったようで、白線などが残っています。

東武牛田駅上り線ホーム下。鉄橋として残っています。
反対側。下り線ホーム下になります。

堀切橋をくぐっていきます。関屋駅方向を望む。この堀切橋よりもかつては今よりも南側に橋がありました(東武「堀切」駅近く)。ちなみに、荒川をはさんで東には京成電鉄の「堀切菖蒲園」駅があります。明治末期から大正にかけて人工河川としての荒川放水路ができる以前は、この辺り一帯、同じ葛飾区内としての地域でした。荒川が開削される前、柳原村は葛飾区に属していました。東武線の線路も今よりももっと東側に大きく曲がり、現在の荒川の真ん中辺りを通っていました。

荒川と旧綾瀬川を結ぶ水門。正面が荒川。このあたりにかつての「堀切橋」がありました。

葛飾区側から望む。かつての堀切橋は、木製の橋でした。
旧堀切橋への道路(葛飾区堀切)。

「足立共済病院」の前の道路は、かつての水路跡。左手手前が、病院。これがもともとの古隅田川跡。綾瀬川に合流し、さらに下流の鐘ヶ淵付近で隅田川に注いでいたと思われます。

もう一つの水路。
東武牛田駅改札口西側にある公園。「隅田川関屋の里」を再現したはめ絵がありました。富嶽三十六景の一つ。このあたりを水路が通っていました。

京成関屋駅ホームから見た、かつての水路跡。奥が隅田川方向。この辺は、工場地帯。隅田川を利用しての海運が盛んなところでした。

京成線のガードをくぐっていきます。

東京水辺ラインの船着き場があります。隅田川の上流を望む。

左側に巨大なモニュメント。
 この水路は、近代になって、「古隅田川」からの支流を開いた運河の跡のようです。

 こうして足立区千住の古隅田川をさぐっていくと、明治時代に掘削された荒川がなかった時には、埼玉県南足立郡綾瀬村であった日ノ出町、葛飾区に属していた柳原などこの川によって県境や区界になっていたことが分かります。
コメント (2)
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