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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR外房線「三門」~「御宿」。その2。グリーンスパいすみ。新田川・塩田川。いすみ鉄道「房総往還踏切」。木戸泉。ギャラリー泉。大原駅。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-21 18:43:04 | 房総東往還

「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。

          右手奥には、「JAいすみ グリーンスパいすみ」の建物。

   房総らしい低い山並みが見える。

街道は右に大きくカーブします。

右手奥に緑豊かな低山。

「宮元橋」で「新田川」を越えます。

※新田川 - 千葉県いすみ市を流れる塩田川水系の二級河川。

すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。

「房総街道踏切」。

※今夏。内房線・五井で乗り換え、小湊鐡道」、「いすみ鉄道」と乗り継いで大原まで列車の旅をしました。

いすみ鉄道の終点「大原駅」方向。

「大多喜駅」方向。

「大原駅」に向かう坂。

「塩田川」を渡ります。上流方向。

                  千葉県いすみ市流れる本流の二級河川。

下流方向。いすみ鉄道の鉄橋。

「大原はだか祭り」のポスター。

9月下旬の2日間にわたって行われる雄壮な祭りです。十数基の神輿が一斉に海へとかつぎこまれ、もみあう″汐ふみ″が祭りのハイライト。勇ましく、雄々しく、神輿が海の中を駆け巡り、投げ上げられます。そして夕闇のせまる頃、花火を合図に大原小学校校庭に集まり、神輿を高く上げて別れを惜しむ″大別れ式″。海の男たちの情熱と優しさの両面を十分に感じることのできるこの祭りには熱心なファンも多く、毎年多くの観衆でにぎわいます。関東随一とも言われる、大原はだか祭り。強烈な感動が、心の中を駆けぬけていくようです。

現在の行事は、昔のものと少し異なるが、初日午前9時頃大原地区の神輿十社は親神(おやがみ)である鹿島神社に参集、法楽施行、午後大原漁港に向う。東海・浪花両地区の神輿もそれぞれ地区の行事後大原漁港へ集結。十八社がそろって五穀豊穣・大漁祈願ののち汐ふみの行事にうつる。
 この汐ふみは、この祭りの三大みどころの一つで、怒濤の中で神輿が数社もみあうさまは勇壮豪快の一語につきる。汐ふみ行事後は、木戸泉酒造前に全部の神輿が打ちそろったのち、二社が並列で唄いおどり、もみあって大原小学校の校庭へ向かう。

(この項、「」HPより)

右手に「木戸泉」酒造。

永年頑に守り続けている木戸泉独特の酒母造り
「高温山廃酛(モト)」

木戸泉では、天然の生の乳酸菌を用いて高温で酒母を仕込む高温山廃酛で、
麹菌・乳酸菌・酵母菌の3つの菌がのびのび発酵する酒母造り手法を
50年以上変わらず守り続けています。

天然の乳酸の可能性を追求し続け、健康や安全・個性をテーマに掲げて挑む『旨き良き酒づくり』。
揺らぐことのない木戸泉の蔵ビジョンのもと、邁進しています。

添加物や農薬、化学肥料を
一切使用しない日本酒を造りたい

明治12年の創業から時を経て、現在の木戸泉を特徴づける大きな転換期を迎えたのは昭和31年。3代目蔵元の決断により、醸造法を「高温山廃酛」仕込みへと切り替えました。
当時は大量生産が必須の高度成長期。調味液で量を増す三増酒が大衆のニーズを賄っていた時代に、防腐剤として使用されていたサリチル酸の危険性にいち早く気づき、防腐剤に頼らずとも長期間貯蔵できる酒造りに取り組んだのです。

「添加物や農薬、化学肥料を一切使用しない日本酒を造りたい」

という三代目蔵元の強い想いから、昭和42年には、添加物はもちろん、原料となる米も農薬や化学肥料を一切使わない、自然農法米を100%使用した、自然醸造酒(現在の銘柄名「木戸泉 自然舞」)の製造も始めました。・・・

(この項、「」HPより)

               

向かいには「ギャラリー泉」。

石造っぽい見た目はモルタル。三連の半円アーチ窓の隣に何故か一枠のみアーチでなく、シンメトリーを崩している。  

 振り返る。

メインストリートを進む。

古い商家の趣。

大原駅への道。

               右手には、古びた銅板葺きの看板建築。

この付近の今昔。

                                                                                                                                     

(1880年代)街道沿いに町屋。               (現在)大原駅中心に市街地が発展。

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JR外房線「三門(みかど)」~「御宿(おんじゅく)」。その1。日在(ひあり)踏切。車の交通量多し。大山堰。日在城址。三省学校跡。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-20 18:09:14 | 房総東往還

12月9日(土)。晴れ。

外房線「三門駅」。

旧道に復帰します。 

街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。

外房線の線路沿いに「征清 征露碑」。

「日在(ひあり)踏切」。

               

右手の土手は、「大山堰」。

        大山堰の奥には、「老人ホーム エスポワール大原」。

左手には外房線。

右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。

(「古城盛衰記」HPより)

※山裾沿いに進む「伊南房州通往還(房総東往還)」。

遠く海方向。

住宅地に入っていきます。

旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。

けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。

手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。

           

水準点。奥に田畑が広がる。

「三省学校跡」碑。

明治の初期に安藤誠道はこの地に三省学校を設立した。普通部・英語部があり、熱心な若者がここで学んだ。明治33年に閉校する。 大原町文化財保護協会

まさかこの空き地がその跡とは思えませんが。

右手には田畑が山裾まで大きく広がる。

          

「いすみ市立東海保育所」。

ここまで来てやっと道幅も広くなり、歩道もあります。

それまでのヒヤヒヤしながらの歩きから解放され、やっと一安心。

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                                                                                                                       

(現在)住宅や田畑が広がっている。              (1880年代)往還の道筋は変わらない。 

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その8。旧江場土村。水準点。旧道らしいカーブが続く。国道128号を渡る。三門駅・きわどいところで乗車。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-18 20:12:59 | 房総東往還

この先、静かで落ち着いた住宅地を進みます。

            房総らしい屋根。

空き地や廃屋も目立つ。

手入れの行き届いた槙の生垣。

大きなお屋敷が連なる。

                    街道らしいカーブが続く。車の行き来はあるが、人通りはなし。

「本寿院」入口にある水準点。

                  かつて、この道がこの付近の主要な道として存在していたことが分かります。

この付近の今昔。

                             (現在)水準点が表示されている。

                             (1880年代)道沿いに街並みが形成されている。

※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。

来た道(旧道)を振り返る。

旧江場土村。

国道128号を斜めに通過します。

                交差点にあるのは、「北向き地蔵」。

国道128号・長者方向を望む。

「三門駅」付近の道を進みます。

と、上総一ノ宮に向かう列車が近づいてきて、この先の踏切の警笛音が聞こえてきます。 

「三門(みかど)駅」が右奥に。

この列車を逃すと、1時間後。必死に走りました。長いホームの先の方に列車が停まります。

下車した方に乗車ボタンを押し続けてもらい、危うく乗り込むことができました。

感謝! 感謝です。こうして、今回の旅は終了。次回は、御宿まで歩く予定です。 

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その7。長者。飯島喜美・宮本百合子。三門駅へ。外房黒潮ライン。江場土川。~夷隅川の河童どん~ (「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-16 18:29:50 | 房総東往還

右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。

複雑でユニークな屋根。

こちらは房総らしい屋根のおうち。 

「長者」。

一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)

左手に最近出来たと思われる記念碑が。

中央に「飯島喜美」。

匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ 東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導 モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)

左右の碑には、プロレタリア作家 宮本百合子の短歌と一文が刻まれています。 

・ひろひろと夷隅の川の海に入る 岬のかなたに虹立ちて居り

・よしきりのここだ来啼ける河口に かかる木橋は年古りにけり

・虹かゝる岬のはての叢松は 小さく群れて目にさやかなり

もう一つには、

うらゝかな春は きびしい冬のあとに来る 可愛い蕗のとうは 霜の下で用意された

・・・

※飯島 喜美(いいじま きみ、1911年12月17日 - 1935年12月18日)は、日本社会運動家

千葉県匝瑳郡太田村(現旭市)で提灯職人の家の13人兄弟の長女として生まれた尋常小学校卒業後、2年間女中奉公1927年女工として東京モスリン紡織亀戸工場に就職した。やがて共産主義の研究会に参加するようになり、1928年の同工場の賃上げ争議では500人の女工たちの副責任者を務め勝利に貢献した1929年四・一六事件亀戸警察署に検束されたが、日本共産青年同盟に加盟、同年5月日本共産党に入党1930年モスクワに渡り、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンルテン)第5回大会に日本女性として初めて参加し演説、のち東方勤労者共産大学(クートヴェ)に入学した1931年10月帰国、党中央婦人部員を務め地下活動に投じた1933年5月に検挙、投獄され、のち栃木刑務所で獄死した。享年24

評伝に、山岸一章「紡績労働者の飯島喜美 コンパクトに『闘争・死』の文字」(『不屈の青春―ある共産党員の記録』新日本出版社、1969年、所収)、鹿野政直「飯島喜美 革命運動史上の光芒」(『鹿野政直思想史論集 第6巻』岩波書店、2008年、所収)などがある。

(この項、「Wikipedia」より)

 イチョウ並木。

「国道128号」と交差。

「外房黒潮ライン」と名付けられています。

           往還道は、正面の道に。

「国道128号」上総一宮方向を望む。

「三門駅」方向へ進みます。

「江場土橋」。

「江場土川」。下流方向。

           

穏やかな房総の夷隅川にはこんな民話が残されています

~夷隅川の河童どん~

昔むかし、天神様のお祭りの見世物小屋に河童の親子が出されていたそうな。
珍しいものだから、たくさんの見物人でにぎわっていたが、それを見た江場土村の者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「おらほの村の氏神様(六所神社)では、河童どんを水の神様としてうやまっているのに、見世物にするとはあんまりだ」
急いで村に戻り、みんなして六所神社の神主さんにお願いした。
「神主さん、あんとか河童の親子を助けてやって下せえ」
話を聞いた神主さんは、急いで見せ物小屋にかけつけてわけを聞くと、この河童の親子は悪さばかりの困りものの河童だったので、捕まえられて見せ物小屋に売られてしまったのだそうな。
神主さんはこの河童の親子を可哀そうに思い大金を出して買いとると、よく言い聞かせ、六所神社の裏を流れる「後っ川」に放してやったそうな。
この川は、鴨根の清水寺の山から流れてきて夷隅川の河口に出るが、上流にある将監淵という深い淵に住みついたこの親子の河童を、村人たちは「将さん河童」と呼ぶようになったそうな。
それからは、他の村がいくら日照りで困っても、将さん河童が、夜のうちに将監淵から田畑に水を汲んで来てくれたおかげで、江場土の村だけは水に困らなくなったそうだ。
そんなことで、村人たちも河童を大切にし、きゅうりやぼた餅を供えてやってたそうな。
そんなある年の夜、大雨が降って、江場土の橋が流されてしまった。
とある家の嫁さんが急に産気づいて苦しみ出し、家の者が川向うの産婆さんのところへ連れていこうとしたが流れが早くて船が出せない。困っていると、将さん河童が現れて、
「おらたちが、向こう岸の産婆さんの所まで連れていくから安心しな」 と、嫁さんを背中に乗せ、水かさが増して流れの早い川を渡り始めた。 河童の親子は何度も何度も流されかかったが、とうとう向こう岸までたどりついて嫁さんを陸に渡した。そして、親子の河童も岸に上がろうとしたが、どうしたことか、足元の岩に、つるりんとすべって、まっさかさまにひっくりかえると、荒れ狂う水の中に落ちてしまった。
その後、嫁さんは無事に男の子を産んだが、親子の河童はそれからはいつになっても姿を見せなかった。
村の衆は今までの事は河童の親子の恩返しに違いないと言いあったそうな。

いすみ市教育委員会発行「いすみの民話」より

この項、「」HPより)

この先に上記の「六所神社」があります。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その6。いすみ市岬ふれあい会館・文化センター。健康マラソンコース。サザエさん一家。池田屋菓舗。長者。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-15 19:24:10 | 房総東往還

ここにも親子連れが。

周囲は、広々と。               

バス停「小福公民館前」。

左手に大きな建物。

こちらは小さなぬいぐるみたち? 

 

振り向くと、一家勢ぞろい。    

こうして「スタート」地点に。

「いすみ市岬ふれあい会館・文化センター」。

歩いた日が、11月30日。翌々日の大会のために準備に慌ただしいようす。

   

     

当日は、なかなかの盛り上がりを見せていたようです。

この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。

と、角にあるお店。

「池田屋菓舗」。

               かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?

このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。

バス停「岬郵便局前」。

長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、

商店街らしい雰囲気はありません。

バス停「千葉銀行長者出張所前」。

                               (「今昔マップ」より)

往還沿いに町場が形成されていたようです。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その5。夷隅川。「いすみ健康マラソン」・かかしたちの応援、歓迎。田園地帯。農免道路。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-14 20:27:37 | 房総東往還

「椎木商店街」もここまで。

「福原橋」で夷隅川を渡ります。

夷隅川(いすみがわ)

千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ

勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である

夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある

夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。

江戸中期から明治中期にかけて耕作地の拡大と流下阻害要因の解消のために「川廻し」という流路の直線化が盛んに行われた

(この項、「Wikipedia」より)

《生物》

夷隅川流域は、国の天然記念物に指定され絶滅危惧種であるミヤコタナゴの分布域にあたり、流域内の細流やなどに現在も生息が確認されている。同じく絶滅危惧種であるメダカなども細流や池に数多く生息していたが、近年は生息数が減少している。過去にはミヤコタナゴの稚魚の放流が行われていた。

コイフナウグイウナギアユの放流も行われており、1991年まではサケの試験放流が行われていた。その効果もあってか、アユの遡上が確認されている。平成6年および11年に実施された魚介類調査結果(河川水辺の国勢調査)によれば、現地確認された魚類は86 種で、純淡水魚23種、回遊魚11 種、汽水・海水魚52 種となっている。 平成6年調査では72種が確認されたが、その種数は、全国で実施された「河川水辺の国勢調査」結果で見ると長良川の88種に次いで、木曽川揖斐川と並び全国第二位にランクされた。

(この項、「」HPより)

上流方向。

ここにもたくさんのかかしが並ぶ。

その脇の横断幕には、

           「いすみ健康マラソンにようこそ! 楽しくパワー全開! 」。

マラソン大会の歓迎と応援に、たくさんのかかしたちが登場しているわけです。

※もともとあった、かかしも含まれているようです。

JR外房線の高架が見えてきます。

来た道を振り返る。

 のんびりと街道歩き。

梨園。

「手打ちそば ひらが」。

ここにもかかしたちが、並んで応援。

田園地帯が開けてきます。 

「農免道路」の表示が。    

バス停「東中滝」。      

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その4。椎木商店街・椎木宿。「かさや」。椎木下宿。「まるへい」。かかし達がお出迎え。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-13 20:47:28 | 房総東往還

都内下町などの商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。

車が行き来するも、人通りは、少ない。

売り地。細長い土地。

「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手(桝形)になっていた。

椎木宿

「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。

南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。
岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。
夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。
椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在郷町へと発展していきます。
国道128号線は町の東側を大きく迂回した海岸沿いを走りますが、町の中心市街はこの椎木や長者といった旧道沿いにあります。所々に残された古い建物には、塗籠造りのものはほとんど無く、板張り二階建ての商家はみな昭和初期に建てられたものではないかと思います。

(この項、「」HP参照)

この付近の今昔。

                             (現在)〇がかつての「曲尺手」跡。

                             (1880年代)宿の南で屈折し、東方に向かう。

バス停「房信岬東支店前」。市内循環。1日に5本運行。

               まっすぐな道沿いの家並み。

商家。店先に自販機。

            店自体の営業はしていないようです。

「かさや」。

激盛りメニュー人気 重さ4キロカツカレー かさや食堂(いすみ) 【今夏も房総スタミナ飯】(3)

 
ご飯が丼3杯分、カレーは3人前、とんかつ3枚がトッピングされる「バカツカレー」=いすみ市
 
 
スーパーマーケットに併設されている「かさや食堂」

 昭和期の雰囲気を残した商店街にある「かさや食堂」。「各メニューが1・5人前」というボリュームたっぷりの料理が人気の店で、群を抜く大きさを誇るのが「バカツカレー」だ。直径約33センチのすしおけに盛り付けられ、重さは約4キロ。厨房(ちゅうぼう)から登場すると、圧倒的な存在感に来店者から驚きの声が上がる。

店は2015年、併設しているスーパーマーケットが店舗の一画を改装してオープンした。

2006年から姉妹店が約5キロ離れた一宮町内で営業しており、バカツカレーは話題づくりや楽しいひとときを提供しようと考案した「激盛り四天王」メニューの一つ。3人前の量だが料金は約2人前分の1999円とリーズナブルにした。複数人で取り分けることもできるので、家族連れや友人同士の注文が多いという。

四天王メニューはこのほか、同じすしおけを使った「激盛りとり唐揚げ定食」(1999円、重さ約3・5キロ)、いずれも直径30センチの丼で出す「バカツ丼」(1999円、同3キロ)、メガチャーシュー丼(1580円、同3キロ)。どれもびっくりするほどの大きさだ。

スーパーの仕入れルートを生かして原価を抑え、大盛りメニューで客に還元する。白鳥忠利社長は「料理は家庭の味」と謙遜する一方、「想像よりちょっと多い食事量でサプライズを狙う」と人気の秘けつを明かす。「楽しく食べれば、おいしさが広がる。笑顔いっぱいの店にしたい」と日々知恵を絞っている。

(この項、「」HPより)
 
◇店舗情報

営業は午前11時~午後2時、午後5~9時。月曜定休。各種定食のほか、うどんやそば、洋食もある。JR外房線太東駅から徒歩8分。圏央道市原鶴舞ICから約40分。駐車場30台。いすみ市岬町椎木1844。(電話)0470(87)2953。

商店街を振り返る。

「小安商店」。

          「商家」らしい店構え。米穀、肥料、農薬、資材などの販売。

バス停「椎木下宿」。

かつての商家。

隣は、きもの館「まるへい」。

                    天保元年創業、とか。

奥には、大きなおうち。

                      房総らしい趣の屋根と建物。門も立派。

来た道を振り返る。

この先「椎木三叉路」を左折します。

曲がると、左手に衣装を凝らした「かかし」がいくつも並んでいます。

      

いったいどういうわけ? 街道を進む内に、理由が分かってきます。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その3。いすみ市岬町椎木(しいぎ)。梨園・「一宮・岬梨組合」。椎木商店街へ。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-12 20:03:06 | 房総東往還

落ち着いて静かな街並み。

すっかり色あせた看板。

                       写真屋さん? の広告。

この先で「いずみ市」に入ります。

緩い下り坂。

右手のおうち、軒先までサボテンの木。

!!

鮮やかな紅葉。

下ると、町並みが開ける。

左右の森も少なくなり、

              

「岬町椎木(しいぎ)」。

「梨販売所」。

             梨の収穫時期も終わり、閉店中。

            

千葉県は梨の生産高全国1位ですが、中でも「一宮・岬梨組合」の梨は、大きくて甘い早出し産地として有名です。

主な栽培品種は「幸水」「豊水」「新高(にいたか)」で、人気上昇中の新しい品種「あきづき」も年々生産量が増えてきています。

梨は水分と食物繊維の含有量が比較的多く、便秘予防、高血圧予防の他、夏バテ解消にも効果があると言われています。

せん定、緑枝管理等各種講習会、出荷査定会等をこまめに開催し、甘くてみずみずしい梨を出荷するよう心掛けています。 

                

(この項、「」HPより)

千葉の「梨の産地」というと、白井や船橋などがなじみ深いですが、この地方でもけっこう栽培されているのですね。

「太田和農園」。

             

奥に梨農家のおうち。 

庭先や路傍に色とりどりの野菊を植えているおうちが目立つ。

             

「山田梨園」。

            他に「関」「土橋」「太田」などの梨園が広がります。

※ところで、「梨園」といえば、歌舞伎社会をさすことも。読みは「りえん」。

梨園(りえん)とは中国宮廷音楽家養成所である。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。

語の由来は、玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達をが植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊妓女、宮女の一部とが属した。玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。

安史の乱で宮廷の音楽も壊滅して衰退したが、その後再興され、838年には法曲を仙韶曲と改め、梨園を仙韶院と改めた。後、唐末の動乱によって、消滅した。(この項、「Wikipedia」より)

「椎木商店街」に入ります。 

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その2。梨街道・椎木(しいぎ)商店街へ。出征土偶。綱田。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-11 20:17:24 | 房総東往還

斜め右に進みます。

「梨街道・椎木(しいぎ)商店街・みさき」。

南下する「国道128号」。

門扉のみの敷地。

右に小さな祠。「出征土偶」とあります。

「土偶」について、

作られた理由

採集生活をしていた縄文人にとって自然の恵みがいかに大切かを考えると、1万年近く日本各地で作られていたことも不思議ではない気がします。縄文時代については謎が多く、土偶が何のために作られたのかについてはいくつかの説があります。ここでは代表的な二つの説を紹介しましょう。

①身代わりにするため

日本では古代から病や怪我の原因を「ケガレ」のせいと考えてきました。このケガレを身体から移し取り除くために使われたのが身代わり、形代(かたしろ)と呼ばれるものです。

同じように縄文人が形代=土偶を使ったとすると、ケガレを移した土偶を破棄する、つまり壊す必要があります。
この説なら、土偶が欠けた状態で見つかる理由も説明できそうですね。

②霊を慰めるため

古代人の死因として考えられるのが出産にともなう死です。成すすべもなく死んでしまった妊婦や胎児を弔うこともきっと多かったことでしょう。

土偶が妊娠した女性をモチーフにしたものが多いと説明しましたが、この霊たちを鎮め、安らかに送るために土偶が作られたとも考えられています。

・・・

土偶の作られた理由や使い方については諸説あり、謎が多いのも事実です。

はるか昔の縄文時代の人々が何を考え、何を大切にしていたのか。

それをわたしたちに想像させてくれるのが土偶の魅力とも言えます。ぜひ一度土偶を間近で見てみて、縄文時代に思いを馳せてみてください。

(この項、「つなぎ WATSUNAGI」HPより)

土偶の作られた理由や使い方は諸説ありますが、近現代に至るまで「土偶」が存在していたのですね。

上り坂を進みます。

              遠くに水平線が見えています。

            

坂道の途中から右に下って行きます。

 旧道。

旧道は外房線で消滅。跨線橋を回り込みます。

線路で中断された旧道。線路方向を望む。 

       「伊南房州通往還(房総東往還)」へ。

のどかな田園地帯。

               「伊南房州通往還」に合流します。

この付近の今昔。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                                                 

(1880年代)                        (現在)→が旧道。

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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門(みかど)」。その1。旧道から国道128号(房総横断道路)に合流。「東浪見」(とらみ)。(「房総東往還」を歩く。第5日。)

2023-12-10 20:00:34 | 房総東往還

11月23日(祝)。晴れ。

「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。

外房線。

旧道。駅方向。

旧道に復帰します。

上総一宮町のマンホール。 

・町の木クロマツと太平洋の荒波をデザインした集落排水管。 町章は宮の「み」を一宮の「一」で丸く囲んだデザイン。

右手に「国道128号(房総横断道路)」が見えてきます。

国道に合流し、南に向かいます。

              けっこう車の量が多い。

房総らしい屋根のおうち。

右手の家並み。

左手、海方向。

左手にほんの少し旧道が。

               右手に見えるのが、国道128号。

                       

  

せがい造りの立派なおうち。 

        

右手丁字路のところに「浪切地蔵」。

 

「忠魂碑」等。

「一宮町立東浪見小学校」。

駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか? 

・・・「とらみ」と読みます。 

※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「泥海」(ドロウミ)の名前が転訛して「トラミ」⇒虎見⇒東浪見となったと言われています。(「まほらにふく風に乗って」HPより)             

「なのはな 東浪見店」。 

この先、国道から右に入って行きます。

→「岬町長者」方向。 

 

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JR蘇我~安房鴨川~館山~蘇我。わかしお3号。B.B.BASE。「館山・渚の博物館」。「南房総やまと寿司館山本店」。

2023-12-05 19:37:03 | 房総東往還

鉄道好きな孫を連れて、外房線から内房線をぐるっと一周の旅に。

JR船橋駅で待ち合わせ、蘇我で「特急わかしお3号」に乗り、安房鴨川まで。そこから在来線に乗り換え、館山まで。

孫のもう一つの目的は館山に新規開店した「やまと寿司」でマグロを食べたい。と。

11月27日(日)「曇り時々雨」というお天気でしたが、朝は母親が、夕方は父親が送りと迎えに。ま、小学生なので、そう心配することもなく、出かけました。

房総東往還を電車でいち早く実行してしまったわけです。

※房総往還(内房線沿い)は、すでに歩きました。

以下は、その時の記録。孫がスマホで撮ったものが多い。

「蘇我」9:37発。自由席で。 

 

  海が見えてきます。

 

 

サーファーの姿が。

勝浦付近。

安房鴨川付近。

安房鴨川駅 10:54着。

「普通列車」安房鴨川駅 10:59発。

遠くに海が。

停まって電車に孫が、

            「この列車、知ってる!」

B.B.BASEは東京・両国駅を始発に、千葉県内の4エリアをつなぐサイクリスト専用の列車です。自転車を輪行せずともそのまま電車に乗り入れ可能で、車内の自転車専用ラックに固定し、のんびり座りながら目的地まで向かうことができます。
つまり、輪行する手間もなく、必ず座ることができ、乗り換えなしで自転車の遊び場に連れて行ってくれる、サイクリストにとってこれ以上ない乗り物なのです!

 (この項、「CYCLE HACK」HPより)

(「サンケイニュース」より)

館山駅 11:38着。

そこから海岸の方に向かい、

「渚の博物館(館山市立博物館分館)」に立ち寄ります。

 

                             (「」HPより)

さかなクンと。

           

晴れていれば、素晴らしい景色が眼前に広がるのですが。

今回の旅の目的は、お寿司をたべることなので、事前予約していた待望の「やまと寿司館山本店」へ。

お腹も空いていたので、写真など撮る暇もなく、ただ次々と注文してマグロを食べるのに夢中。

そこで、HPを拝借します。

旗艦店『南房総 やまと寿司 館山本店』は、 9月30日(土)グランドオープンしたばかりです。

       

マグロや近海ものなど次々と注文して、結局、二人で(孫はマグロ専門)4800円ほどになりました。

   (「食べログ」より)

具も大きく、新鮮で美味しい。あれこれ注文して食べているうち、帰りの電車の時間に。急いでお店を出ましたが、ほんの少しのタイミングで乗り遅れ、一時間近く待つことに。この時間、「内房線」は、1時間に1本なんですね。待つこと1時間。予定よりも大幅に遅れて船橋駅に到着、迎えに来た父親と合流し、一安心。

実は、「やまと寿司」。総武線・亀戸駅近くの「カメイドクロック」にお店があることを知りました。今度はそこに連れて行きますか。  

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その9。「芥川荘」。「芥川龍之介文学碑」・「小高倉之助歌碑」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-04 20:01:54 | 房総東往還

「一宮館」本館の裏手にあります。

芥川荘は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。

(「解説板」より)

一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。

 芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。

 建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建で、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

アプローチ。

                

         

      

 

      

「芥川龍之介文学碑」。

文学碑を建立して      一宮館 金沢 良一郎

 九十九里浜の南端に位置するここ上総一の宮は、かつては別荘が立ち並び、東の大磯と言われたところです。
 芥川龍之介先生は、友人久米正雄氏と大正五年八月十七日から九月二日まで、当一宮館の離れで一夏を過されました。滞在中は夏目漱石師にボヘミアンライフぶりを紹介したり、のちの夫人文さんに愛をうちあけた長い求婚の手紙をお書きになっています。
 この稀にみる偉大な作家の人生の舞台の一つとして、当一宮館が選ばれましたことは、幾多の偶然が重なったとはいえ、たいへん誇らしいことと思っています。先生は当館滞在時代の思い出を「微笑」や「海のほとり」その他の作品に綴られていますが、近年、文学散歩で当館においでになるお客様が、年ごとに増えております。
 龍之介先生のご滞在以来、その離れを“芥川荘”と名づけて、大切に守って参りましたが、先生ゆかりのこの地に記念碑を建てることは、私どもの長い間の夢でした。
 本年は、先生の生誕数えで百年、また恋文を書かれてから七十五年を閲みしました。当館では、このことを記念して、このたび芥川瑠璃子さんはじめ芥川家の皆様方の快いご了解をいただき、また関係の皆様方のご賛同と、身にあまるお力添えを賜りまして、“芥川荘”を包む松林の碑と一隅に、恋文全文を刻した文学碑を建立する運びとなりました。
 私どもはこれを機会に、この偉大な作家の更なる理解と、文学の啓蒙につとめて参りたいと、意を新たにいたしております。どうか末永くご支援くださいますよう、お願い申しあげます。

  

             

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから奮発して 一つ長いのを書きます

ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。

東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでう。(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。

僕は 世間の人のやうに結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くと も頂かないとも 文ちゃんの考へ一つで きまらなければならないと云ひました。

僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身元しらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より僕の方が 余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角 僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちゃん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちゃんの考へを 無理に 脅かすやうな事があっては文ちゃん自身にも 文ちゃんのお母さまやお兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちゃんは 完く自由に 自分でどっちともきめなければいけません。万一 後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。

僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。

一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。

これでやめます 皆さまによろしく

                  芥川龍之介

碑の後ろには、松林が広がっています。

「小高倉之助歌碑」。

地元の農民歌人。桑の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。

              

再び「一宮川」沿いを歩いて「上総一ノ宮駅」に向かいます。

観光案内板。

次回は、街道歩きに戻る予定です。が、その前に鉄道の旅を。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その8。「芥川龍之介愛の碑」。「黄塵碑」。「延宝地震の再来想定津波高」。「一宮海岸海水浴場」。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-03 19:45:40 | 房総東往還

丘の上から海岸を望む。

今年春、海岸におよそ30頭のイルカが打ち上げられたことがありました。

午前6時半ごろ、千葉県一宮町の海岸で、サーフィンをしていた女性から「波打ち際にイルカが打ち上げられている」と通報がありました。

一宮町役場によりますと、海岸のおよそ500メートルにわたってイルカおよそ30頭が打ち上げられています。そのうち、およそ5頭は死んでいることが確認され、役場などが対応にあたっています。

(「TBSテレビ 2023年4月3日(月) 10:26」より)

広場には、

「芥川龍之介愛の碑」。

芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。

当時彼は吉田弥生という女性に初恋し 激しい相愛の仲になったものの 養家(彼の母の実家)芥川家が士族 吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。

彼の親友堀内利器はそれを見かね 堀内の故郷一宮に誘い 大正三年七月中旬からこの地に滞在した。

しかし 彼女への恋情はいよいよ深くなり 止宿先で綴った悲恋の歌の一つに

     美しき人妻あらむ かくてああ

        わが世かなしく なりまさるらむ

もう美しき彼女は自分のものにはなり得ないという 一宮時代からはじまる悲恋の苦悩こそは 人間の醜いエゴイズムを古典の世界をかりて表現したユニークな芥川文学を誕生させた。

大正五年二月出世作「鼻」が恩師夏目漱石に賞賛を受け華やかに文壇にデビューし 失恋の痛手も癒えて 再び思い出の地一宮に 久米正雄と二人で訪れ 一宮館の離れ家(現在芥川荘として保存)に止宿した 大正五年八月十七日から九月二日まで

その時第二の恋人塚本文子宛に「文ちゃん」ではじまる有名な求婚の手紙が身を結び 新しい芥川人生が出発した。

当時 夏目漱石宛に太陽と海と空と砂丘の大自然を背景とした一宮海岸に青春を投げ出している楽しい様子を また晩年にも「微笑」「海のほとり」と題してこの一宮の思い出を書いている。

今日 青春芥川龍之介のロマンスを記念し 郷土の鉄道作家故上田廣氏の発想どおり「芥川龍之介愛の碑」とした。

また新たなる感慨を禁じ得ない。

隣は、この碑を建てることに尽力した上田氏の碑。

「黄塵碑」。

          全景。

           ここには、かつて「国民宿舎 一宮荘」がありました。その跡地になります。

「一宮海岸広場マップ」。

      

ここから「一宮館」にある「芥川荘」を訪ねます。

「延宝地震の再来想定津波高」。遥か目の上です。

延宝(房総)地震

延宝5年10月9日1677年11月4日)に房総半島東方沖付近で発生したと推定される地震。規模はM8 - 8.34とされている。「延宝地震」とも呼ばれる。房総沖地震の一つと考えられているが、震央位置については諸説あり、詳しい地震像については解明されていない。

地震動による被害が確認されないのに対し、津波被害が顕著な津波地震との見方がある。約半年前には1968年十勝沖地震に類似し、三陸沖北部が震源と推定されている延宝八戸沖地震があった。

地震津波の記録

延宝5年10月9日夜五つ時(刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。

「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある

  • 「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
  • 「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
  • 「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
  • 「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)

「一宮海岸海水浴場」。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その7。農免道路。平沼騏一郎別荘跡。釣り人。ペリカン。「一宮庵」。「一宮館」。九十九里浜・一宮海岸。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-02 18:30:43 | 房総東往還

「農免道路」という標識が。

農免農道というのは、その農道を作った事業名に由来し、その事業名とは、「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」と呼ばれている公共事業で農林水産省の補助事業です。

どこにも“免”の字はありません、それは、S28年に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」で揮発油税の収入は、国道や県道の道路の整備に使うことが決められたのですが。

「農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費として税金を“免除”してほしい」との声が強くなり、その声に答えるように発足したのがこの事業です。

個人を特定して税金の免除は、できないから、その替わりに農道の整備を行うと言う主旨で発足した事業です。

そこで,免税の“免”の字をとって略称で「農免農道」と呼ばれています。
「農林漁業用揮発油税財源身替農道」は名称があまりに長いこともあって農免農道と呼んでいます。

(この項、「教えて! Goo」HPより)

※国会で議論になっている「トリガー条項」にもつながる?

周囲に田畑が広がる。

       

「一宮川」近くに、大きなお屋敷。

「平沼騏一郎元総理大臣別荘跡」碑。

慶応3年~昭和27年(1867~1952)・・・大正8年頃、一宮川沿いに別荘を建設しました。・・・一宮町は、明治末期から昭和初期にかけて財界人や軍人など、名士の別荘が数多く建設され、房総半島有数の観光地として賑わいました。

「一宮川」。上流方向。

下流(海)方向。

ひと群れの水鳥。

                      釣り人の姿も。

川沿いの家並み(一宮町)。

対岸(長生村)。

大きなペリカンが門柱の上に。

         

  右手に、

「一宮庵」。

         1棟貸切大型ゲストハウス

《クチコミ》カラオケ・室内BBQ・足湯・サウナなど楽しめる設備が十分すぎるほど揃っており非常におすすめな場所です!室内も広く大人数での宴会やサークルなどで利用するのがいいかと思います!今後も利用したいと思える施設です。(「Goole」より)

芥川龍之介ゆかりの「一宮館」。

九十九里浜の南端に位置し、かつて「東の大磯」とも呼ばれた一宮。別荘や旅館が立ち並び、白砂青松の海岸に誘われ多くの著名人が訪れた。一宮川の河口付近で1897(明治30)年に創業した一宮館は、当地での旅館開業の先駆け的な存在と言われる。文豪・芥川龍之介(1892~1927年)が滞在した離れが今も残り、芥川ゆかりの宿として親しまれている。

 明治30年は両国-一宮間に鉄道が開通した年で、一宮が避暑地として栄えるきっかけになった。同館はこれを見越して創業したとみられ、近年、地元の名士に宛てた「開業通知」の文書が見つかった。

 所蔵する一宮町教委によると、同館は開業記念の式典のようなものを催したらしく、船でこの名士を迎えに上がると記されていた。昔の一宮川は、上総一ノ宮駅近くの船着き場から同館がある海岸付近まで船が往来し、客を運ぶ情緒ある光景が広がっていた。・・・

(この項、「千葉日報」より)

敷地内にある「芥川荘」には帰途に寄ります。

「新一宮橋」。

釣り人も両岸に。

        大きなハゼなどが釣れるようです。

川沿いの遊歩道から回り込むと、前方に、海(太平洋)が見えてきます。

陸地側。

駐車場に車がたくさん。海には大勢のサーファー。

           

「房総往還」(内房歩き)では、対岸に三浦半島が見えていましたが、ここでは、はるかに海が広がるのみ。

          

                     九十九里浜。

一宮海岸の今昔。

                             (現在)

        東西に伸びる、黄色い直線路が風船爆弾基地への引込線跡。

                             (1880年代)

       砂地と水田・畑が広がる。家屋はない。

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JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その6。引込線。風船爆弾打ち上げ基地跡。直線道路。(「房総東往還」を歩く。第4日+α。)

2023-12-01 18:31:04 | 房総東往還

「上総一ノ宮駅」東口。

駅を出て、斜めの道を進み、「伊南房州道往還(房総東往還)」旧道へ。

「大原」への道筋を確認。

一宮町のマンホール。

         町の木「クロマツ」と太平洋の荒波をデザイン。

駅東口からの海岸への直線道路を進みます。

実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。

↓。

                                       (「今昔マップ」より)

            

■「奇妙な気球が空に消えた」

昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。

 海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。

 気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。

 当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が悪化した19年、大勢の鉄道部隊の兵士らが一宮町に現れた。上総一ノ宮駅から約2キロ東の海岸に向けて引き込み線を建設した。また、放球台や兵舎など打ち上げ基地も整備された。

 「なんのためにレールを敷いているのか、住民には秘密だった。基地が完成した頃には、列車の窓の鎧(よろい)戸が閉じられ、海側を見ることは禁じられた。私は基地に近寄ったことはありません。憲兵に捕まりますよ」と回想する。

奇想天外の兵器、風船爆弾は、陸軍登戸(のぼりと)研究所(川崎市)が主力となって開発した。同研究所は謀略・秘密兵器専門の機関だった。風船爆弾は「ふ号兵器」と秘匿名称で呼ばれた。

 構想は壮大だ。風船爆弾を冬季に吹く偏西風に乗せ、太平洋を横断。米国本土に落下させる作戦だった。一宮海岸で試作品の飛行実験が行われた。実験と改良を繰り返し、実戦に投入できる見通しが立った。

 ◆「米国まで飛ばしているのではと推測した」

 風船爆弾の気球は巨大だ。直径約10メートル。和紙とコンニャク糊で造った。多くの人手が必要で全国の女学生らが動員された。気球に爆弾と焼夷(しょうい)弾を装着。水素ガスを充填(じゅうてん)して打ち上げる。偏西風が吹く上空は酷寒の世界だ。気球が収縮して落下する恐れがある。精密な高度維持装置も考案された。約1万発が製造されたという。

打ち上げ基地は太平洋に面した一宮町と茨城県北茨城市、福島県いわき市の3カ所に建設された。19年11月から翌年春まで計約9300発が断続的に放球されたという。

 「一宮町の基地で爆発事故が起きたことがある。そのとき私は、気球に爆弾を付けて米国まで飛ばしているのではと推測した。偏西風の存在は、旧制中学の授業で習ったので知っていましたよ」と長谷川さんは語る。

 米軍は風船爆弾の出現に驚いた。太平洋上で発見すると、戦闘機で撃墜した。それでも多くの風船爆弾が、警戒網を突破して米国本土に到達した。各地で山火事が発生した。電線が切断され、停電も起きた。オレゴン州では子供ら6人が死亡している。

 一宮町の風船爆弾基地は20年春、作戦を終えた。部隊の主力はひそかに去った。

 70年後の現状を長谷川さんが案内してくれた。上総一ノ宮駅に向かう。

 「戦後、引き込み線は解体されました。今では駅の一番線のレールに面影を残すだけです」

(「千葉から語り継ぐ戦後70年 風船爆弾基地(一宮町)長谷川英美さん」産経新聞015/8/10 より)
 
〇付近。風船爆弾打ち上げ 基地跡。
 
風船爆弾打ち上げ基地跡

風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土への攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で張りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この計画は「ふ」号作戦と呼ばれ、一宮、茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3カ所の打ち上げ基地より、昭和19年(1944)の11月から翌年にかけて合計で約9000個が打ち上げられました。そのうち300個弱がアメリカ本土に到達したといわれ、オレゴン州では民間人6名が犠牲になりました。
一宮の打ち上げ基地は打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、風船爆弾の資材の運搬のために、打ち上げ基地に向かった上総一ノ宮駅より引込線(線路、現在の一ノ宮停車線に沿う)が敷かれました。戦後、基地は旧日本軍によって破壊されたため、現在は当時の面影は残されていません。
※実際の打ち上げ基地は看板の建てられている場所の道を挟んだ海側の一帯にあったといいます。

  平成31年(2019)3月  一宮町教育委員会
 

風船爆弾(ふうせんばくだん)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した気球爆弾を搭載した爆撃兵器である日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図した

1944年昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで9000個余りが放たれて、少なくとも300個程度が北アメリカ大陸に到達したとみられ、アメリカ合衆国西海岸オレゴン州では6人が死亡した。実戦に用いられた兵器としても約7,700 km茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃であった。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である秘匿名称は「ふ号兵器」

「風船爆弾」は戦後の用語で、終戦間際に陸軍登戸研究所神奈川県)へ配属された元職員は、「ふ号」「風船」は防諜のための符号であって当時の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」は戦後のマスコミによる造語と述べているが、名古屋陸軍造兵廠学徒勤労動員された女学生は「今日から君たちは風船爆弾を作ることになる」と訓示されたと回想している

日本陸軍日本海軍が開発し、陸軍が特殊兵器として実戦投入した。日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出し、放球する方式を想定していた。

材質は製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液(水酸化ナトリウムを塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった。気球内には水素ガスを充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマとコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している

埼玉県比企郡小川町では1933年(昭和8年)頃、小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ日本国内の他の地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前から軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている。その後は生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった

気球一基に対し和紙は約600枚必要であった。気球紙のサイズは2種類あり大判は635分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた。

(この項、「Wikipedia」HP参照)

かつての線路跡の道路の両側には、のどかな田園地帯が広がります。

          

線路跡の直線道路から離れ、「一宮川」方向へ進みます。

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