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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その5。鯛の浦遊歩道。大・小弁天島。昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。生きた貝が穴を空ける?  岩(磐)笛。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-18 20:24:42 | 房総東往還

内浦湾。

                遙か遠く、正面奥は安房鴨川方向。

             

                  テラス風になっていますが。

「遊歩道」案内板。

          ←誕生寺・鯛の浦遊覧船 →大弁天・小弁天 →行幸啓記念碑

国指定特別天然記念物「鯛の浦タイ生息地」

内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へぐらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、このあたりを「妙(たえ)の浦」と呼んでいます。

「鯛の浦」とも呼ばれるこの周辺海域は、日蓮聖人ゆかりの聖地で、古来殺生禁断の地として、代々地元の人々から題字に守られてきました。明治36年(1903)には漁業法に基づく禁漁区となりました。・・・

海洋に関連する国指定の天然記念物は、本件を含めて全国で2件しかありません。千葉県唯一の国指定特別天然記念物です。

           「鯛の浦遊歩道」先端。小弁天島。

右端の島は、大弁天島。

「昭和天皇行幸啓記念碑」。

       昭和皇后の短歌を刻んだモニュメント。

水際まで下りてみました。

そこには、こんな風に穴の空いた石がたくさんあります。

                  

はて?

生きた貝が穴を空けるというケースがあります。
これはボーリングシェル(穿孔貝せんこうがい)と呼ばれる貝が、柔らかい砂岩や泥岩を削ったり、あるいは酸で石を溶かして穴を明けたものです。
石に穴を開ける貝としてはタガソデガイモドキ、トマヤガイ、カモメガイ、モモガイ、キナマツカゼガイ、イシマテガイヤエウ、メノハナガイ等があり、貝の大きさやによって穴の径や、角度が変わってきます。

一般的な磐笛の多くはこの貝由来のタイプをいい、酸に溶けやすい石灰岩や泥岩や砂岩の場合が多く、深い穴が特徴です。

岩(磐)笛

磐笛には決まった形というものはありません。
岩石の種類も様々ですが、「自然の穴ありて、吹けばなるもの」であり、種々の要因で穴があいたものです。

約5000年前の縄文時代中期頃に使用され始めたと推測される楽器です。

さまざまな自然現象によって小石の一部分に穴が穿かれ、天然自然の楽器としてこの世に生まれたのが岩笛です。やがて縄文人たちは巧みな技術を用い、自然への畏敬をこめて自分たちで岩笛を作り始めたのでした。

もともとが天然自然の石でしたから、他の管楽器のような指穴などありません。しかし穴が一つあいただけのこの石で、1オクターブを上回る音程と旋律を吹き分けることができるのはまさに奇跡の業(わざ)とも言えるでしょう。

岩笛の音は 素朴なものです。
人工的な楽器のように自由自在に旋律を奏でてくれるものではありません。
しかし、その音色を聞くと、あたかも故郷の母の懐に抱かれたような安らぎを憶えるのは不思議です。古くからこの楽器と親しんだ日本人のDNAを刺激するばかりではなく、その音色を聞いた多くの外国人が「なつかしい音だ」という感想を述べるのは不思議なことです。

それは人間もまた自然の一部に過ぎず、人間の英知も所詮は自然現象のひとつでしかないことを教えてくれるようにも思えます。岩笛の音色があらゆる人間の心の奥底を揺さぶり動かすのは、すべての人間がおなじ自然を共有していることの表れではないでしょうか。東洋思想の「身土不二」(身体と大地は一元一体である)は、まさにこうしたことを指しているのでしょう。

(この項、「にっぽん文明研究所」HPより)

岩場。しばらく広がる青い海と抜けるような青い空を眺めます。

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その4。「誕生寺」・日蓮聖人誕生の地。鯛の浦タイ生息地・遊歩道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-17 20:23:13 | 房総東往還

小湊山誕生寺 総門」。 

 誕生寺は、日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立されました。
 明応7年、元禄16年の2度の大地震、津波により水没したこともあり、寺域を現在地に移して堂舎を再興しました。
 宝暦8年(1758)の大火で誕生寺の諸堂は焼失しましたが、宝永3年(1706)に建立と伝えられる「仁王門」のみ焼失をまぬがれました。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年に県の有形文化財として指定されました。
 また、日蓮聖人が下総の富木常忍の妻に宛てた「富城殿女房尼御前御書」は、日蓮聖人58歳の時の御真筆と思われ、聖人の閲歴を知る上で貴重な資料として県の有形文化財に指定されています。他に、本堂と祖師堂に安置されている中世期の「木造日蓮聖人坐像」2軀は、日蓮聖人の古肖像として重要な作例で、市の有形文化財に指定されています。

・・・

(この項、「」HPより)

※上記にもあるように、日蓮聖人誕生の地は海底に沈んでいるようです。

                              (「今昔マップ」より)             

境内から小湊漁港を望む。

境内図。

       祖師堂。

           日蓮聖人御幼像。

小湊漁港。

小湊漁港から誕生寺を望む。

「鯛の浦遊覧船乗り場」。

「鯛の浦遊歩道」を歩くことに。

               「特別天然記念物 鯛の浦タイ生息地」

内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で5分ぐらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、この辺りを「妙の浦」と呼んでいる。ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混ざっている。マダイは、深さ30~150㍍ぐらいの海中に生息し、普段はその中層あたりを泳いでいる定着性の近海魚である。しかし、鯛の浦は、10~30㍍の浅海で、しかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切り身など)をよく食べるのは、ほかに見られない現象である。日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり、観光船の船ばたをたたくと海底から浮上させあらそって餌をもとめるのは不思議なことといわれている。

・・・

通常の鯛は、定着性の深海魚です。水深約30mから150mまでの、海底が岩や砂利のところにすんでおり、水温8度以下の海にはすんでいません。また、マダイは深海性の魚で小回遊の習性があり、群れをなさないといわれています。
通常の鯛と違い、鯛の浦の鯛は年中一定、海中に群れをなしてすんでいます。鯛の浦の鯛が年間を通じて船べりをたたく音を聞くと水面近く群れをなして出現し、与えられた餌を食べるという事は、非常に珍しいことなのです。鯛の浦の現象は、科学的には完全に解明されていません。その習性が珍しいので、「鯛の浦のタイ生息地」として指定を受け保護されているのです。日本でこのような習性を持つ鯛が鯛の浦だけに生息しているのは、鯛の浦周辺に住む人々の遠い昔から続いてきた信仰の歴史と、素朴な鯛保護の精神が生きているからなのです。

(この項、「」HPより)

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その3。雀島。「おせんころがし」から「誕生寺」へ。隧道。林間の道。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-16 18:14:36 | 房総東往還

背後には山が迫っています。

房総の海が広がる。

                  内房では対岸に三浦半島が見えますが、はるかかなたまで海が。

雀島。磯釣りが盛ん。

この付近から海沿いの道から山中の道(峠道)になります。

隧道を抜けると安房小湊の町へ。                   

                      隧道の先は森の中へ。

木洩れ陽の中を下っていく。

隧道を振り返る。

林道風な道。

           

                  隧道の上を進む旧道?

住宅が現れます。左手は廃墟?

正面奥に「誕生寺」が見えてきます。

      誕生寺。裏手に来たようです。

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その2。おせんころがし・伊南房州通往還=旧国道128号線。落石注意。広大な房総の海・青さがまばゆい。雀島。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-15 20:29:39 | 房総東往還

古びた木製の案内板。

                     「←・・・ 誕生寺→」。

この付近の今昔。

明治以前、山側に古道があった(「日蓮寺」方向)が、その後は、ほぼ廃道。

左図・左端に描かれている道は、大正時代に国道としてあった道。

(「今昔マップ」より)

※1969(昭和44)までは、「おせんころがし」道は、国道128号線として位置づけられていました。

現在の国道128号線は、「行川アイランド駅」前からトンネルを通過して、小湊方面へ進む。

さて、旧道(「伊南房総通往還=房総東往還」)を海沿い(崖沿い)に歩くことに。

振り返る。「大沢漁港」から北の道は、廃道に近い。

             眼下に房総の海が広がる。

           風もなく、穏やかな日差しのもと。

  車も行き来するので、ちょっと怖い。頑丈なガードレールはあっても、左は垂直の崖が続く。

右手は崖。コンクリートで固められているが、そうでないと、・・・。

       

「落石注意」の看板が随所に。

               しかし、地震などで崩壊したら、にっちもさっちもいかなくなりそう。

それでも、雄大な景色を堪能しながら歩きます。

振り返り、振り返りしながら歩く。

※太陽が左上にあり、反射するので、写真がうまく撮れないせいもあり。

頑丈なガードレール。

遠くに雀島。その向こうは、入道ヶ岬。

貝類(アワビ・サザエ・トコブシ等)・海藻類の密漁禁止!

ここは、東安房漁業協同組合小湊支所の漁業権が設定されており、資源及び漁場管理をしている漁場です。組合員は貝類・海藻類を重要な生活の糧にしておりますので、海のルールを守って下さるようお願いします。これに従わない場合は、「犯罪」として取締機関への通報・告訴の手続きを執りますので、ご注意下さい。

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外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」。その1。行川アイランド閉園・乗車人員19人。おせんころがし。大沢漁港。(「房総東往還」を歩く。第8日。)

2024-01-14 19:35:12 | 房総東往還

今回。前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは、電車(二駅 「鵜原」「上総興津」)で移動。

そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。

1月8日(祝)。快晴。

「行川アイランド駅」。

           下車したのは、小生のみ。日陰に位置しているせいか、よけい寂しい雰囲気。

・行川アイランド駅

2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。

・行川アイランド

1964年8月13日に開園してフラミンゴショーの人気などから1970年に年間117万人もの入場者数を記録し、外房線行川アイランド駅が設けられた。しかし、レジャー施設が皆無であった近隣の鴨川町(現:鴨川市)に大規模水族館の鴨川シーワールドが1970年10月に開園すると、当園の入場者数は同年から減少しはじめた。

1973年には年商10億円強、1974年には年商15億円強と好調さを取り戻すものの1975年には不況で入場者が激減。1976年には約50億円の負債を抱えて会社更生法を申請。その後、株式会社行川アイランドが運営を受託する形となったが、同年以降は一度も黒字になっていない。

1970年代にかけて、現在の鴨川市・南房総市館山市や周辺地域で太海フラワーセンター(鴨川市)・ロマンの森共和国君津市)・マザー牧場富津市)など中小規模の観光施設、リゾートホテルが相次いで開業したが、1983年東京ディズニーランド開園で観光客を大きく奪われた。バブル景気時期は南房総のレジャー施設を泊まりがけで周遊するなど入場者数は一時持ち直したが、バブル崩壊後の景気低迷やレジャーの多様化で、入場者数と宿泊者数が減少して累積赤字の増加が続いた。

1997年東京湾アクアラインが開通して房総半島へのアクセスが改善されるも、鴨川市や館山市方面と異なり接続道路から大きく外れ、また開通当初は通行料金が高額で通行量が少なく恩恵はほとんど得られなかった。

近隣の鴨川シーワールドは東京湾アクアライン開通を見越して施設拡張し、日本で初めてシャチが出産するなど話題性から集客力を得るが、行川アイランドはアトラクションの陳腐化などもあり2000年の入場者数は年間19万人まで減少し、売上高も最盛期の半分の6億円となった。開園以来ショーを行ってきたフラミンゴが高齢化し、1羽50万円の購入費用も困窮し、2001年8月31日に閉園した。

(この項、「Wikipedia」より)

懐かしい写真(フラミンゴ)。

(「」より)

車がけっこうたくさん行き交う「国道128号」。

「ご案内 行川アイランド 東方200M おせんころがし 南西200M」。

看板もすっかり色あせてしまっています。

ここで、道を間違えてしまいました。「孝女・おせんの身投げ供養塔」(旧道)に行くためには、トンネルの手前で海の方に向かわなければならなかったのです。

※左手の駐車場のような空き地のところを海の方に進むが、その付近は寒々しい印象が強く、ちょっと逡巡してしまった。

現・旧の国道128号。

おせんころがしトンネルへ伸びる現国道128号線は昭和44年に作られた3代目の道路。側道の旧道は大正10年代に作られた2代目の国道。初代国道は明治に作られ(当時は県道、後に国道へ昇格)、それこそが「おせんころがし」に他なりません。

                                        (「絶景を求める旅」HPより)

(勝浦市)お仙ころがし

むかし、房州大沢一帯を領地にした、古仙家(こせんけ)という豪族がありました。

古仙家は、代々領内の人たちをよくめんどう見たので、みんなから大変親しまれていました。

あるとき、古仙家では、かたいおきてを破り、年貢を高くすることに決めました。領内のはげしい不満の声もよそにして、見る見るうちにさらにお金持ちになりました。

ところが、古仙家の夫婦の間には、子供がありませんでした。夫婦はいろいろ手をつくしましたが、神だのみより仕方がなくなり、9月13日の月姫にお願いしました。ようやく願いかなって、翌年かわいい女の子が生まれました。

「これこそ月姫さまのお授け下さった子だ」

と領主は仙という名をつけ、年貢にあえぐ領内の人たちとは別に、古仙家はよろこびにつつまれていました。

お仙は、大きくなるにつれて美しくなって、父と母のかわいがり方はいっそう深まりました。お仙の好きなものはなんでも買ってやりましたが、父と母はそれでもまだ物足りないくらいでした。

ところが、領内の人たちはこうした蔭で、だんだん重くなる年貢にすっかり困ってしまいました。血気にはやる若者たちは、

「仙の顔も三度だっぺ、悪領主をやっつけて、この大沢をむかしの土地にしべえじゃねえか」

といきり立ちました。こうしたたびごとに老人たちにとめられ、仕方なく泣き寝入りをしてしまいました。

こうしたことが、いつの間にか賢いお仙の耳に入りました。ちょうどお仙は13歳になっていました。ある日、思いあまったお仙は両親に向かって、

「仙からお願いがございます。おききください。本当に仙がかわいいのでしたら、私の着物は木綿にしてください、下々の近頃の苦しみをきく仙の心は苦しいのです」

とかたい決心をのべました。さすがの父も、このいじらしいお仙の言葉に、

「それほどいうなら仙よ、お前の心のままにするがいいぞ」

とゆるしてくれました。

お仙が娘盛りの18歳になった夏のことでした。稲の穂は重くみのり、領内の人たちは久しぶりにあかるい顔になりました。しかし、領主はこの豊作に目をつけ、さっそく回状を出して、今年から6分4分の割合で年貢を納めるよう伝えました。

一番はじめに回状を受け取った男は、隣りへ持ち込み、

「あんだ回状か、あんて書いてあるのかしらねえが、どうせろくなことじゃねえだっぺ」

「おいさ、おれもさっぱりわからねえよ」

とつぎつぎに回状をまわしたものの、だれにも6分4分の年貢の納め方がわからず頭をひねりました。

ようやくわかったのは、名主の久右衛門のところでした。字の読めない人ばかり大勢集まったなかで、回状を持ち、

「みんな、よくきけよ、6分4分というのはな、6分が領主で、残りの少ない4分が作人のもんだ」

と説明し終わると、これをきいた人たちは、たちまち真剣な顔になり、

「おらあ、今度こそ命をはってもいやだ」

と一人がいいだしたところ、

「おれもそうだ、おれもそうだ」

と大変なさわぎになってしまいました。

名主は仕方なく、また立ち上がり、

「みんながこうしておこるのも無理はねえ、だがこのままじゃおとがめがあるぞ、そればかりじゃなく、先代さまにも申し訳がねえ、ここんところは名主のわしにまかせてくれねえか」

となだめて、さっそく書面を持って領主のところへお願いに行きました。

ところが、欲に目のくらんだ領主は、名主の静かな願いもきかず、頭から噛みつくような応待でした。ところが隣の部屋で心配していたお仙は、大変なことになったと心を決し、

「おとっつあん、望みがかなった豊作だからといって、6分の取立てじゃ百姓が困ります。生きる瀬がないでしょう、仙はきれいな着物も、ぜいたくな食べ物もほしくありません、どうか百姓の願いをきいてやってくんなさい」

と必死に頼みました。それでも父のは、どうしてもわかってもらえませんでした。

こうしているうちに、秋の祭りの日が来ました。

その夜のことです。祝いの酒に酔いつぶれた領主を、火の玉のようになった若者たちがおそい、とうとう神輿をもむようにかつぎ出し、目もくらむ断崖から投げ落としてしまいました。

翌朝集まった人々は、

「どうだい、欲の固まりも、ゆんべはいい往生をとげたっぺ」

「ああ、そのとおりだよ」

「どうだこれから、そのざまを見てやるべえ」

と断崖をぞくぞくと降りて行きました。しばらくたって先の方から「ああっ」という声がしたので、仲間はおどろき駆けよったところ、なんとそこには、みんなから親しまれ頼りにされていた、お仙のいたましい死体がありました。

だれもお仙が父の衣裳を身につけて、身替わりになっていたことを知りませんでした。人々はおどろき、不覚を恥じて、変わりはてたお仙をなかにして男泣きに泣きつづけました。

こうしたことがあってから、おせんころがしという地名ができたということです。

(この項、「千葉県」HPより)

国道128号のトンネルを通って海の方へ。

「大沢漁港」へ下ります。

                小さな漁港。背後の崖と海に挟まれた坂道周辺に数軒の家が。

※「大沢集落」の中心は「国道128号」の右上奥の山側になる。

      正面が「孝女・おせんの身投げ供養塔」方向。そこへつながる、断崖絶壁の道がかすかに残る。

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JR外房線「御宿」~「勝浦」。その4。古い商家。勝浦魚市場。勝浦タンタンメン。勝浦駅。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

2024-01-13 13:23:40 | 房総東往還

朝市通り沿いに商家。               

    左は、「貸切宿」。

朝市通りを振り返る。

魚市場に向かいます。観光案内図。

勝浦魚市場。

             水揚げする活発な時間を終え、静かなひととき。

             

「仲本町朝市通り」。

         振り返る。

今回はここまで。勝浦駅に向かいます。

「勝浦タンタンメン」広告。

勝浦のタンタンメンは、当地の海女さん・漁師さんが寒い海仕事の後に、冷えた体を温めるメニューとして定着してきました。

 メニューの特徴は、通常のゴマ系と違い、醤油ベースのスープにラー油が多く使われたラー油系タンタンメン。

 具材はミジン切りの玉ネギと挽肉が入ることが一般的で、お店によってニンニク、ニラ、ネギが入ったり、スープも味噌ベースのお店もあったりと各店が特色を生かしたメニューを提供しております。

                 

熱血!!勝浦タンタンメン船団 船団長の磯野典正です。
2011年に勝浦市をもっと元気にと立ち上がった市民団体!
地域に根付いたご当地グルメを活用し全国に勝浦を発信しています。
勝浦を知っていただき、『勝浦に行こうぜ!』と言ってもらえるような活動を続けています!
『まちおこしは人おこし!』
『人が変わればまちが変わる!』
そう信じてたくさんの仲間と大好きな勝浦のために楽しみながら活動しております。
皆様のお越しを心からお待ちしております。

(この項、「」HPより)

外房線「勝浦駅」。

     駅前は小さなお土産屋さんがあるのみ。御宿駅も同じで、出発時間が迫っていて、お土産を買い損ねました。

その代わり(?)酒屋で地酒を買いました。

                        地元勝浦のお酒「腰古井」。                              

駅構内「勝浦ひなまつり」。

裏手には山が迫っています。

市街地方向を望む。

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JR外房線「御宿」~「勝浦」。その3。「松の家」。日蓮宗本行寺・芭蕉の句碑。勝浦朝市」・下本町朝市通り。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

2024-01-11 20:28:30 | 房総東往還

商店が立ち並ぶ通りへ。

              

昔ながらの商家。空き家?

ここは商いをしているようです。

振り返る。

「松の家」。

                国の登録有形文化財に指定されている旅館。

              

 
江戸時代創業の純和風の当館・松の家(本館は国の文化財)は、こじんまりとした小さな古い宿です。
設備など大きな温泉旅館さんやホテルさんにかないませんが、勝浦近海の新鮮な海の幸をリーズナブルにご提供致しますとともに、自然と心の安らぐ家庭的な雰囲気を持ってお客様をおもてなし致します。
 
夜。正面のようす。
 
           中のようす。
 
(この項、「」HPより)
 
                   
 
通りを進むと、左奥に「日蓮宗本行寺」。
 
日蓮宗寺院の本行寺は、長寿山と号します。本行寺は、大同2年(807)に僧空海が創建したと伝えられ長寿院と号していましたが、暦応2年(1339)当地へ教化に来た宝乗院日続が、当寺を真言宗から日蓮宗へ改め、長寿山本行寺と改号し開山したといいます。上総五十座説教の発祥地となり、享保8年(1723)の日顗聖人五十座説教に際して(池上本門寺より)宗祖日蓮聖人の御歯骨を分与され、御歯骨を奉安するために釈迦堂が建立されました。釈迦堂は勝浦市有形文化財に指定されています。
(この項、「」HPより)
 
境内に芭蕉の句碑があるようです。
 

御命講や油のような酒五升

(おめいこうや あぶらのような さけごしょう)

 日蓮消息文に、日蓮が信徒からの贈り物への礼状に、「新麦一斗、筍<たけのこ>三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向<えこう>いたし候」とあるから採った。このことからして、芭蕉は日蓮文書を読んでいたことが分かる。
 一句も、芭蕉が門人の誰彼から酒を貰ったのに対しての謝礼吟または酒に対する褒美の吟であろう。実際油のようなコクのある酒であったかどうかは怪しいが、そこはあくまで日蓮の用いたコードを使いたかったのであろう。
 江戸童歌に、
   「お正月はよいもんぢや
    油のような酒飲んで
   木っ端のような餅食って
    雪のようなまま食って
   これでもとつさん正月か」
がある。
 一句にある「油のような酒」は、こちらに近いのかも知れない。

(この項、「山梨県立大学」HPより)

門前が「朝市」の通りになっています。
 
     
               「下本町朝市通り」。昼前だったので、路上は、ほとんどは開いていませんでした。
 
              
 
勝浦朝市は
毎月1日~15日は 下本町朝市通りで 6時頃~11時頃まで
開催されます。
 
毎月16日~月末までは 仲本町朝市通りで
かつさん・うらさん※定休日 毎週水曜日、1月1日
 
            
     HPより)
 

"朝市仲間"輪島を支援 「ひとごとでない」「復興の力に」と募金箱 勝浦、能登半島地震受け

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市で開かれていた「輪島朝市」の復興の力になればと、勝浦市の朝市出店者らでつくる「勝浦朝市の会」(江沢修会長)が義援金募金箱を朝市通りに設置し、支援を呼びかけている。

 勝浦と輪島の朝市は、飛騨高山(岐阜県高山市)と並んで日本三大朝市とされ、特に勝浦と輪島は朝市活性化を図る「全国朝市サミット協議会」で交流を深めてきた。今回の地震で輪島朝市が開かれていた一帯で大規模火災が発生し、店舗や住宅など200棟ほどが燃えて"焼け野原"になった。

 輪島の状況を知った勝浦朝市の会のメンバーの中から「同じ朝市。何かできることをしたい」と声が上がり、同協議会を通じて各地の朝市で義援金を募ることに。勝浦は朝市開催時間帯に通り2カ所に緑色の募金箱を設置し「輪島朝市は壊滅状態にあります。一日も早く復旧復興するため義援金箱を設けました。ご協力ください」と訴える。

 観光客らが買い物の釣り銭などを募金箱に入れ、朝市出店者も売り上げの一部を寄付。毎日のように朝市を訪れる同市の田井智之さん(50)は「海のそばで塩づくりをしているので(津波など)いつ自分も被害に遭うか分からない。輪島朝市が立ち直れるよう支援したい」と話し、朝市通りの近くに住む女性(71)も「頑張って一日も早く復興できますように」と願っていた。

 義援金は当面続け、同協議会を通じて輪島朝市関係者に届ける。勝浦朝市の会副会長の塩田和彦さん(55)は「商店街で開かれる輪島朝市は勝浦と似ていて、ひとごとでないと思った。同じ朝市仲間。大変な状況だが、気持ちだけは負けないでほしい」とエールを送った。

(この項、「千葉日報」より)

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JR外房線「御宿」~「勝浦」。その2。部原海岸・部原漁港。「箱岩」。関東ふれあいの道。高架橋。起伏に富んだ勝浦市。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

2024-01-10 21:04:02 | 房総東往還

部原海岸。

             

部原漁港に寄ってみます。

                 

                 小さな漁港。漁船が数隻。突堤では釣り人が。

背後に迫る岩山。

街道に戻り、先を行くとトンネルが見えてきます。 

                      北側入口から南側を望む。 

南側の扁額には「風早隧道」とあります。         

来た道を振り返る。

「箱岩」が海中に。

         

豊浜港。

「妙海寺宿坊 自在堂」。

ここを左折して海岸方向へ。

        左の角に「加賀屋旅館」がありましたが、「売地」の看板が。                          

「水準点」。かつての街道であったことが分かります。

海岸沿いの道。「新官港」。

勝浦の市街地に入っていきます。

前方にこんもりした山。 

「関東ふれあいの道 ←部原三叉2.0KM 勝浦駅6.4KM→」。

前方頭上に高架橋。

            

左手に使用不能のアパート。

丘の上には「日本武道館研修センター」。

ところで、勝浦市とは?

勝浦は古くから漁師町として栄えた。中心部の勝浦地区にある勝浦漁港銚子漁港に次いで千葉県第2位の漁獲量でありカツオの漁獲量は関東地方の漁港では最大である

日本三大朝市のひとつである勝浦朝市かつうらビッグひな祭りなど、祭事・催事も盛んである。ご当地ラーメンとして2015B-1グランプリin十和田でゴールドグランプリを受賞した、まちおこし団体「熱血!!勝浦タンタンメン船団」の地域PR活動により有名になった勝浦タンタンメンは勝浦を代表するご当地グルメ。また、観光都市であり、リゾート開発が進んでいる守谷海水浴場快水浴場百選日本の水浴場88選日本の渚百選に選定されており、鵜原海水浴場などとともに水質は関東地方屈指の透明度である

佐賀県の呼子朝市、石川県の輪島朝市、千葉県の勝浦朝市が「日本三大朝市」と呼ばれています。その一つの輪島朝市が元旦の「能登半島地震」で、大火災が発生し、ほぼ焼き尽くされてしましました。

(「佐賀県呼子朝市」ではなく、「飛騨高山朝市」をあげる説もあります)

広い市域の北東部を総野地区、北西部を上野地区、南東部を勝浦地区、南西部を興津地区と呼称する。これは、昭和の大合併で「勝浦市」が成立する前の自治体の行政区域と一致する。太平洋沿岸部は国道128号、内陸部は大多喜方面へと接続する国道297号が縦貫している。

太平洋外房)に面しており、関東平野に含まれ、市街地は太平洋の勝浦湾沿いに形成されている。市の北西部である上野地区は房総丘陵であり、海抜150 - 250メートルの丘陵性山地が広く分布している。南西部である興津地区は勝浦海中公園を持ち、海岸線のほとんどはリアス式海岸になっており、南房総国定公園に指定されている。市域の3分の2が山地である

(この項、「Wikipedia」より)

実際、ここまで歩いて来ると、けっこう切り立った崖状の山地・丘陵が海に迫り、海岸沿いの旧道も起伏に富んでいる。

家並みも海岸と崖との間に立ち並んでいるようす。しかし、眼前に青海原が広がり、真冬でもすがすがしい印象の歩きでした。

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JR外房線「御宿」~「勝浦」。その1。御宿駅の海女さん像。部原(へばら)海岸までタクシー。旧道へ。右手は山、左手は海。(「房総東往還」を歩く。第7日。)

2024-01-09 21:11:06 | 房総東往還

今回は、夕方から予定があるため、一駅間のみの歩き。

1月5日(金)。晴れ。

外房線「御宿駅」。

  ホームに海女さんの像があることに気づき、パチリ。

房総の海女(あま)は、三重県和具、石川県輪島市舳倉島と並んで「日本の三大海女」として知られていました。房総の中でも外房の御宿と南房総市白浜は代表的な地域で観光面でも有名でした。 しかし海女が全盛期だったのは1960年代あたりまでで、今はこの地に海女さんはいません。

(「月の沙漠記念館」HPより)

さて、この先、「国道128号」にはトンネル(隧道)が4つほど続きます。路肩もなく、車も行き来があり、危険。

※旧道は山道で、後半は道なき道になるようなので、最初から遠慮。国道を歩くことにしていました。

         道として標示されていますが実際は廃道に近いようです。    (「今昔マップ」より)                    

駅前にタクシーが停まっていたので、事情を話すと、「けっこう危ないですよ。自転車とか人とか、避けようとして車同士が接触したりして、・・・」。

結局、トンネルを越えた「部原(へばら)海岸」まで乗ることにします(タクシー代1,200円)。

道の途中で、勝浦市に入ります。「上総国」から「安房国」になるわけです。

部原海岸。

            

御宿方向。

国道右手の「大勝軒」裏の道が旧道(伊南房州通往還=房総東往還)。

               

山が迫ってきます。

民家越しに海が。

右手は高台。

                「広域避難場所・津波避難場所 部原荘(海抜33m)」。

          

左が旧道、右が国道。 

                    モダンな「トレーラーハウス」が二棟。

      

右に大きくカーブする国道から左に進むのが、旧道。

車の通りも少なく、静かな街並み。正面にはこんもりした山。

             

河口。

上流方向。

山が迫ってくる旧道。左手は海。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その8。「月の沙漠記念公園」へ。童謡『月の沙漠』。駱駝に乗る姫と王子の像。加藤まさを。ロペス通り命名趣意碑。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-29 21:38:25 | 房総東往還

海岸に向かいます。観光案内図。

御宿海岸は、はるか昔、高校時代。ま夜中、友人と養老渓谷から麻綿原高原を抜け、外房線・上総興津駅まで歩き、電車で移動して御宿まで来たことがあります。それ以来の訪問。

当時の記憶は薄れてしまいましたが、その後、長く登山を趣味にするきっかけとなった、思い出の徹夜行でした。

「御宿町営ウォーターパーク」。

「清水川」河口。

「月の沙漠記念公園」へ。

童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像

月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。

御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。

ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。

このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられました。初代の像は、姉妹都市の長野県野沢温泉村に寄贈されています。

(この項、「」HPより)

           

晴天ですが、風が強く、歩いている人もいません。

                         工事現場の方のみ。

    足跡もほとんどなく、

              

           

               「月の沙漠」記念像譜

小麦色の柔らかい 美しい砂丘

この砂丘に寄せては返す波の音は

優しい余韻をもっている

夢とロマンに満ちた童謡の名曲

「月の沙漠」は、一九二三年青年詩人

加藤まさを氏によって

御宿のこの砂丘で綴られた

このことを永遠に記念とするために

御宿町民が挙ってここに記念像と詩碑を建てる

らくだに乗った王子と姫が

美しい御宿海岸のシンボルとして

多くの人に愛されることを祈ってやまない

・・・

月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品の1つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名になった。「朧(おぼろ)にけぶる月の夜」の「沙漠」を、「駱駝」(らくだ)に乗った「王子様」と「お姫様」が旅していく情景を描写した作品である。

概要

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、大日本雄弁会講談社(現講談社)発行の雑誌『少女倶楽部』(しょうじょくらぶ)1923年大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として『青い鳥楽譜』と呼ばれる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収められている。

上記の経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年ラジオ放送されたことから評判となり、1932年柳井はるみの歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つとなっている

作詩の経緯

加藤は1965年(昭和40年)、朝日新聞記者本多勝一のインタビューに答えて、作詩の経緯について、「動機って、ただ少女倶楽部から『何でもいいから』と注文されただけですよ。ぼくは沙漠どころか、外国へはどこも出たことはないけれど、沙漠にはなんとなくあこがれがありましてね。沙漠の歌でもって気になったんです」と語っている。念頭に置かれていたのはアラビアの情景だったという。ただし、初出時に加藤自身が描いた挿画では、ラクダはアラビアのヒトコブラクダではなく、中央アジアのフタコブラクダになっていた。後年に加藤が描いた絵では、ヒトコブラクダに修正されている

「沙」の字について[この詩は異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」という表記が一般的ではないことからか、しばしば「漠」と誤記されるが、題名、詩文中ともに一貫して「」の字が用いられている。この字が用いられる理由として

  • 「沙」には「すなはま」の意味がある。
  • 学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した。
  • 海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「漠」ではなく「漠」としている。

というものが良く知られている

モチーフとなった場所

「月の沙漠」のモチーフとなった砂浜については、以下の2説がある

千葉県夷隅郡御宿町御宿海岸
加藤は1923年(大正12年)に関東大震災が起こるまでの数年間、毎年夏、結核の療養のために御宿海岸を訪れていた
静岡県焼津市(旧大井川町)の吉永海岸説
加藤の出生地である西益津村(現・藤枝市)に近く、加藤が少年時代によく遊んでいたといわれる(藤枝市自体は海に面していない)。加藤まさをの長男で写真家の嶺夫は、「生まれ故郷は静岡県の藤枝市。海にも近く、よく浜辺に行って泳いだそうです。その記憶がヒントになった、と親類に話しており、私もそう信じているんです」と証言している

このほか鳥取砂丘や、伊豆大島三原山なども候補に挙げられたことがあるという

加藤まさを自身は、1969年(昭和44年)に御宿町が御宿海岸に「月の沙漠記念像」を建てたころから、御宿海岸がモチーフだと公言するようになり、1976年(昭和51年)5月には自らも御宿町に移住し、翌1977年に同地で死去している。加藤は「月の沙漠は御宿の砂丘」という揮毫も書き残している。一方で加藤嶺夫は、「『月の沙漠』に関しても、特定の場所などを描いたりはしていないといっていいだろう」とし、御宿海岸説は御宿町による観光宣伝だと主張している。嶺夫は、「二十年ほど前のことだったと思うが、まさをの生まれ故郷の静岡県藤枝市に在住の方が、その件について本人に質したところ、「せっかく観光のメダマにしてくれているのに反対するほどのこともないでしょ」と笑いながら答えたという」と記している。童謡研究家の上田信道は、この加藤嶺夫の証言を紹介した上で、「結局のところ、「月の沙漠」のモデルの地については、この唄の聴き手の判断に任せるしかないでしょう」とコメントしている。

(この項、「Wikipedia」より)

1 月の沙漠をはるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました

2 金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕はそれぞれに
紐で結んでありました

3 さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人はおそろいの
白い上衣を着てました

4 広い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えてゆきました
黙って越えてゆきました

加藤まさを」レリーフ。

帰りの列車の時間が近づいたので、駅に向かいます。

清水川の対岸。

「ロペス通り」。

                 「ロペス通り命名趣意碑」。

1609年(慶長14年) メキシコのガレオン船サンフランシスコ号は、折からの暴風雨で岩和田田尻海岸で沖で座礁してしまいました。村人たちは総出で救助にあたり、乗組員376人のうち317人を助けました。
中でも若い海女たちは素肌で遭難者を温め蘇生させたと伝えられています。この史実をもとに昭和53年 御宿とアカプリコは姉妹都市となり、同年行われたメキシコ記念塔建立50周年記念式典には メキシコのホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領が来訪し「エルマーノ!」(兄弟よ)私はやってきた」と歓呼し 歴史に培われた友情をさらに深めました。このロペス大統領の来町を記念し この通りを「ロペス通り」と名づけました。

御宿駅。

駅前は意外に閑散。

市街地を望む。

次回は勝浦まで。ただ、トンネルが続くのでちょっと逡巡。

※旧道は途中からは廃道同然になるようなので、国道を歩くしかなさそう。

さて、どうするか? 

勝浦まで電車で行ってしまおうか。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その7。新旧混じった家並み。「御宿小学校」。「ロペス通り」。清水川。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-28 20:15:50 | 房総東往還

風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。

             

房総らしい屋根のおうち。

この建物は? モルタル2階建て。

どんな商いをしていた建物なのか? 

今は廃業中。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。

         

「御宿小学校」正門前を左折。

             

                    

この三叉路を右に。

「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。

※「ロペス通り」の由来は、後で。

「ロペス通り」。海岸方面を望む。

この細道が旧道にあたるようです。

左奥「御宿駅」方向を望む。

「清水川」に突き当たります。

旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。

この付近の今昔。

                             (1880年代)「伊南房州通往還」はジグザクに進む。

                             (現在)学校前の細道が旧道。

昔からの御宿の中心は、街道沿いに南に広がっている。

※当時は、「濱村」。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その6。いすみ市から御宿(おんじゅく)町へ。「第二房総街道踏切」。山道を行く雰囲気。「WELCOME TO ONJUKU」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-27 21:35:42 | 房総東往還

しばらく「国道128号」を進みます。

                  振り返ると、「Welcome toISUMI」。この先、御宿町に入ることに。

       

洒落たスープカリーのお店。

この先で、国道から右に分かれて進む。

       

国道は一直線で御宿の町へ。

来た道を振り返る。

外房線の踏切を越えます。

「第二房総街道踏切」。

                

しばらく線路沿いに進みます。

山道を行く雰囲気。 

舗装されていますが、車が来たら大変! しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。

切通しの道が続く。

前方が開け、やっと広い道に。

来た道を振り返る。

「御宿町B&G海洋センター」。右奥には、弓道場や野球場などが広がります。

外房線を越える。

左手上に「WANぱく館」(廃業)。

山道(?)を振り返る。

国道128号に合流、御宿町に入ります。

            「WELCOME TO ONJUKU」。

        街路樹が南国的な雰囲気。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その5。国道から右、小さな集落へ。外房線「浪花駅」。特急「わかしお7号」が通過中。「第三やまか丸」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-26 20:01:25 | 房総東往還

「ログハウス」など住宅地が奥に広がる。

しかし、道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。

崩れ落ちた家。

      

どれくらい経過したのか? 

集落を抜けると、

田畑が広がり、住宅も。

               「浪花駅」方向。

水準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。

旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。

             (「Googleマップ」より)

外房線「浪花駅」。

島式ホーム1面2線を有する地上駅。国鉄の房総東線時代は有人駅で木造の立派な駅舎があった。

駅舎側に貨物ホームもあり、現在のような単調な配線ではなかった。また、いすみ鉄道が国鉄の木原線時代に機械式気動車だけで運転されていたころは現在の上り線の外側に側線が一本あり(プラットホームの写真の上り線外側にある草むらが側線の跡)、廃車されたレールバス・キハ01がしばらく留置されていた。側線がいつ廃止されたかは不明だが、電化して外房線と改称された時には撤去されていた。外房線となってからもしばらくは跨線橋が整備されず、ホームの大原寄りに長いスロープを付け構内踏切で駅舎とホームを行き来するようにしてあった。電化時に客車時代の低いホームはある程度かさ上げしている。ホーム待合室の床面がホームより低くなっているのは電化前にホームをかさ上げした名残り。現在は駅舎とホームは跨線橋連絡している。(「Wikipedia」より)

※今回の目的地「御宿駅」の、一つ手前の駅。

右手にホーム。

川沿いの道を進む。

               

左奥に「国道128号」。

右手には住宅が。

のどかな「田舎」道風。

「国道128号」に接近しますが、旧道はまだまだ続く。

振り返る。

この先で、国道に合流します。 

来た道を振り返る。が、すぐ右に折れます。

しばらくのんびりと歩く。

大原台への高架橋をくぐる。

      特急「わかしお7号」が通過中。

「安房鴨川」行き。

「国道128号」に近づきます。

                   土産屋「やまか水産」の裏手。

「第三やまか丸」という漁船。

国道に復帰します。

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JR外房線「三門」~「御宿」。その4。追分回国供養塔・追分道標。房総らしい屋根構え。平(上総)広常お手植えの大銀杏。国道から分かれて。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-25 18:31:53 | 房総東往還

左に折れて、今度は右に折れます。

その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。

    

  正面上部  如意輪観音半跏座像。
  下部左 「四國西國/秩父坂東」
  下部右 「此方、かつうら/ぼう志ふ なこ/こみなと みち」(勝浦/房州那古/小湊道)
  右側面    右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)
  左側面    左指差し図、下に「一の宮 江戸/きよみづ、道」

この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。

    

この先で県道に合流します。

さらに「国道128号」に合流。

右側に立派なおうち。

    

右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。

                 「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。

※「上総広常」

平安時代末期の武将豪族上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね、上總介廣常とも)の呼称が広く用いられるが、上総介は官位であり、本名は平 広常(たいら の ひろつね)である。房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。

前方左に森が見えてきます。

     

森の近くで、「伊南房州通往還」は国道から離れて、右に向かいます。

  

外房線「浪花駅」方向へ進みます。

                    

                       ↓が「伊南房州通往還」道。(「今昔マップ」より)

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JR外房線「三門」~「御宿」。その3。古い商家が残る道筋。二ヶ所、旧道が。「第一房総街道踏切」。(「房総東往還」を歩く。第6日。)

2023-12-24 20:17:02 | 房総東往還

大原駅で小休止し、南に向かいます。

元酒屋さんらしい。

道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。

現役のおうちが二棟。

振り返る。

               

かつての曲尺手の名残でしょうか? 

県立大原高校付近。

     

この先、旧道が左に。

「大原小・わんぱくランド」のところを右折。

「忠霊塔」の先で、行き止まり。

振り返る。

県道に戻ることに。

この右手に旧道があるはずですが。

この先で外房線の踏切を越えます。

                   「第一房総街道踏切」とあります。

「大原」方向。御宿方向。

踏切を渡ってすぐ左折します。

左手にジグザグに旧道が残っています。

この付近の今昔。

                                                                 

(1880年代)西に流れる「塩田川」との関連あるか?     (現在)二ヶ所の○が旧道。

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