おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大堰枠。新宿(にいじゅく)。

2012-09-26 23:14:06 | 河川痕跡
 水戸街道の中川大橋を越えて、亀有警察署の先の信号を右折すると、水元公園に通じる広い道路になる。しばらく進むと大きく右にカーブする交差点となる(JR常磐線の高架の手前)。ここが「大堰枠」と呼ばれる地点。以前は信号機に「大堰枠」という表示があったと思った。今回久々に出かけて、それがないことに気がついた。
 この交差点、左に大きく曲がって西南に向かう道。細い道が東西に。開けている割には少し見通しの悪いカーブになっている。ここは「小合溜」→「上下之割用水」(下の割ー現在の江戸川区ーまでつながっていた)→「大堰枠」。ここで、南に向かう「小岩用水」?と南西に向かう「東用水」とに分岐していた。それだけではなく、ここには他にも目についただけでも二本の用水路が残っている。(「東用水」は高砂の手前で「東用水」と「西用水」とに分岐していた。)つまり、「大堰枠」は、多くの水路の分岐点。
交差点近くにあった広告用の看板の中に「大堰枠」との表示が残っていた。
例によって古地図(明治13年当時)出典は、「歴史的農業環境閲覧システム」。
 カギ型に曲がっている道が「水戸街道」。その中心が「新宿」の宿。中央の二股が「大堰枠」。上(北)が小合溜(水元公園)方向。地図の左(西)の流れが中川。左下が亀有からの「渡し」。水戸街道から右下に分かれている道が柴又街道(帝釈道)。
 これを見ると、当時は「大堰枠」は、小合溜からの流れが分岐する地点で、現在見られるようなたくさんの用水路(跡)は明治以降の用水路だということが分かる。「大堰枠」という地点名も後になって付けられたもののようだが。
 今回は、この近辺を探ってみた。用水路がすべて道路などに変貌し(広い道路、歩行者・自転車道、行き止まり・・・)、かつての面影は全くなくなってしまった。JRのガードを越えた、東京理科大校舎建設現場の前の広い道路もかつては用水路。旧水戸街道も国道6号線(現水戸街道)のために寸断されている。それでも、どこかに痕跡が残っていないか・・・。
右奥の道が「東用水」。手前の道が小さな用水路跡、右手の道も用水路跡(ただし、もともとの用水路跡は右の建物の裏手になる)。
正面の広い道が「上下之割用水」跡。南を望む。中央奥が現・水戸街道。
そばの団地の案内図にはまだ水路が掲載されています。「東用水」水路。
すっかり広い道路に変貌。「大堰枠」方向を望む。
少し前には工事中で、新金貨物線の鉄橋が残っていましたが、現在は立派な踏切に。
3年前の同じ地点。鉄橋が工事中の土砂の中に埋もれています。
柴又街道(帝釈道)と新金線の踏切近く。橋桁が残り、水路跡があります。
新金線の線路で行き止まりの歩行者道(用水路跡)。この先が「大堰枠」に通じる用水路跡の道に。
この道も用水路跡。左は公園。
東からの小さな用水路跡。正面が「大堰枠」。
水戸街道から少し北西に入ったところ。水戸街道と佐倉街道の分岐点近くの「金阿弥橋」が架かっていた用水路跡(用水路自体、それほど古くはない)。江戸時代には水戸街道はその分岐点から東に向かい、東用水を越えて北に進み、しばらく進んでから東北に向きを変えます。(北上する道は、現在、東用水路跡と重なって広い通りになっています。)
1990年版の地図。地図上でが「金阿弥橋」。赤い線が旧水戸街道。上方で右下に折れている赤線が「柴又道(帝釈道)」。用水路はそのまま記載されています。
現・水戸街道を越えた「東用水」は、「佐倉道」の東側の広い道路として高砂方面(南)に向かいますが、この用水路は「佐倉道」と「中川」との間を南に流れていきます。水戸街道から見た用水路跡。新しく歩行者道路になっています。
南の部分がまだ完成していないため、ほとんど歩行者もいないようす。
住宅の裏手に流れていたため、けっこうな段差が残っています。このあたりは「佐倉道」とにはさまれた細長い土地になっています。
行き止まり。排水機場跡。自転車置き場(駐輪違反の自転車?)。正面奥は中川の土手。
現在のポンプ場。
 東用水跡の広い道路は高砂に入って二つに分かれ(かつての用水路と同様)、佐倉道とも交差します。
1990年版の地図。 が水戸街道南側の用水路跡の歩道。下方二叉の部分()が西用水との分岐点。
分岐跡。どちらも京成電車のガードを抜けて南に進む。左(東用水)は親水緑道となって小岩方向に向かいます。
「東用水」・京成電車線路脇にあった「火の見櫓」。神社の境内地にありました。
新金貨物線「小松川街道踏切」を通過し、新小岩駅(進行方向・左)に向かう「貨物列車」。偶然出くわしました(9/21)。
 「小松川街道」という名称。「西用水」はそのまま南西に向かい(途中で「中用水」と分岐)、現在の小松川地区にまで続き、中川(京葉道路・中川新橋・東詰付近)に合流していました。その土手道を指していると思われます。新宿から小松川まで、一直線の道のようでした(新宿~高砂~新小岩~小松川~中川)。新中川・荒川の開削、さらに「環七」の開通などで寸断されてしまいましたが、ほぼ道路として残された水路跡を追うことができます。

   

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