緑の多い道をゆっくり下って行きます。強く甘い香りが鼻に。ヤマユリの花が庭先に。この先けっこう見かけます。ちょうど花盛り。
次第に道は右に曲がっていきます。
(09:07)正面が開けてきて「前沢橋」を渡ると、目の前には「浅間山」勇姿が見えてくる、はずですが、残念ながら雲に隠れて見えません。
振り返ると、「離山」が。
左手奥に「しなの鉄道・中軽井沢駅」を見ながら、ガードをくぐり再び国道の方へ進みます。江戸時代の初期の「中山道」、そして「沓掛宿」は駅の南側にあったようで、「宮之前一里塚」が駅裏にあります。そこで、中軽井沢駅方向に進みます。
「宮之前一里塚」跡の石碑は、坂を上がった左手、フェンスの中にあり、墓地の一角にあるため、見落としてしまいそうです。
中軽井沢駅。
(09:26)国道に出て左折すると、「沓掛宿」の入口。
沓掛宿
中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。
古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出。「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあった。甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となる。
1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となるが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業する。
しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展している。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人であった。
「木曾街道六拾九次 沓掛(渓斎英泉画)」。
この碑の奥には「長倉神社」があり、その境内の裏手に長谷川伸の芝居や映画などで有名な「沓掛時次郎の碑」(「千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」)がありますが、省略。
↓が碑のあるところ。
「沓掛」の名はほとんど見当たらない。
(09:32)左手に旧脇本陣の一つだったとされる「旅館 枡屋本店」。かつての面影はまったくなく、廃墟と化しています。
「中軽井沢」駅前。「鬼押出し」の看板。
鬼押出しの溶岩は、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。
(以上、「Wikipedia」参照。写真も)
「中軽井沢駅」。夏休みとはいえ、平日のせいか閑散としています。
(09:36)右手に「本陣土屋」という表札のあるおうち。
その先、「上田信用金庫」の向かいにあるのが「草津道道標」。草津温泉への道を記したもの。
その先で国道から離れ、左手に延びる側道を進みます。
(09:46)すぐ右手には「道祖神」。
下り坂から上り坂に変わると「古宿」と呼ばれていた集落に入ります。
振り返って望む。
車もほとんど行き交わない旧道。
「二十三夜塔」。
(10:04)「古宿公民館」前。
(10:10)「馬頭観音」他。
この付近の旧道沿いには「馬頭観音」「二十三夜塔」などが数多く残っています。「馬頭観音」が多いのは、この辺りは古くから「佐久の三牧」と呼ばれ、馬の産地で有名だったからだそうです。
振り返って望む。
すると自販機が何台も並んでいるのが目に入りました。助かった! 水分補給します。この自販機群、これから先、「中山道」に度々見かけます。炎天下の歩きに大変助かります。
「馬頭観音」。
次第に道は右に曲がっていきます。
(09:07)正面が開けてきて「前沢橋」を渡ると、目の前には「浅間山」勇姿が見えてくる、はずですが、残念ながら雲に隠れて見えません。
振り返ると、「離山」が。
左手奥に「しなの鉄道・中軽井沢駅」を見ながら、ガードをくぐり再び国道の方へ進みます。江戸時代の初期の「中山道」、そして「沓掛宿」は駅の南側にあったようで、「宮之前一里塚」が駅裏にあります。そこで、中軽井沢駅方向に進みます。
「宮之前一里塚」跡の石碑は、坂を上がった左手、フェンスの中にあり、墓地の一角にあるため、見落としてしまいそうです。
中軽井沢駅。
(09:26)国道に出て左折すると、「沓掛宿」の入口。
沓掛宿
中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。
古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出。「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあった。甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となる。
1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となるが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業する。
しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていない。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展している。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人であった。
「木曾街道六拾九次 沓掛(渓斎英泉画)」。
この碑の奥には「長倉神社」があり、その境内の裏手に長谷川伸の芝居や映画などで有名な「沓掛時次郎の碑」(「千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」)がありますが、省略。
↓が碑のあるところ。
「沓掛」の名はほとんど見当たらない。
(09:32)左手に旧脇本陣の一つだったとされる「旅館 枡屋本店」。かつての面影はまったくなく、廃墟と化しています。
「中軽井沢」駅前。「鬼押出し」の看板。
鬼押出しの溶岩は、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。
(以上、「Wikipedia」参照。写真も)
「中軽井沢駅」。夏休みとはいえ、平日のせいか閑散としています。
(09:36)右手に「本陣土屋」という表札のあるおうち。
その先、「上田信用金庫」の向かいにあるのが「草津道道標」。草津温泉への道を記したもの。
その先で国道から離れ、左手に延びる側道を進みます。
(09:46)すぐ右手には「道祖神」。
下り坂から上り坂に変わると「古宿」と呼ばれていた集落に入ります。
振り返って望む。
車もほとんど行き交わない旧道。
「二十三夜塔」。
(10:04)「古宿公民館」前。
(10:10)「馬頭観音」他。
この付近の旧道沿いには「馬頭観音」「二十三夜塔」などが数多く残っています。「馬頭観音」が多いのは、この辺りは古くから「佐久の三牧」と呼ばれ、馬の産地で有名だったからだそうです。
振り返って望む。
すると自販機が何台も並んでいるのが目に入りました。助かった! 水分補給します。この自販機群、これから先、「中山道」に度々見かけます。炎天下の歩きに大変助かります。
「馬頭観音」。
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