おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

坂本宿。その1。(旧中山道をゆく。第9日目)

2016-03-29 21:28:34 | 旧中山道
 こうして「アプトの道」を折り返して戻ってきました。行くときはさほど感じなかった道の傾斜。横川へ向かう時にはさっさと下っていきます。足下がどんどん進む感じ。緩やかながらけっこう上っていたのですね。
 「めがね橋」を再び通り、「碓氷湖」を眼下に見て下ります。「峠の湯」の手前に「旧中山道」との道しるべがあったので、それに従って右に折れ、「旧18号」を下って行くと、「坂本八幡宮」のところに出ます。ここから先、東が「坂元宿」。西(京方)の木戸口跡があります。振り返ると、「刎石(はねいし)山」。碓氷峠越えはその山を進みます。



 今回は、日本橋から京へ向かうコースではなくて、西から東へ歩いての紹介です。左右が反対になっています。

坂本宿(さかもとしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場。
 現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、参勤交代の実施に伴い、計画的に造られた。道幅が広く、整然と町並みが整備されている。西に碓氷峠、東に碓氷関所を控え、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人であった。

    (渓齊英泉 画)

 正面奥に描かれた山が「刎石山」。山容が東海道・平塚宿上方見附付近から見た、お椀を伏せたかたちの高麗山に似ています。また、左側に描かれた用水路が現在もあります。
 
坂本宿からの「刎石山」。

 左手に芭蕉句碑があります。

    

安中市指定重要文化財 芭蕉句碑
 江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連が、春秋庵加舎白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ1.67m・幅 基幅1.37m・頂部幅0.6m・厚さ約0.2m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
 書体は「筑羅様」で、句は紀行文「笈の小文」にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

 ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ 

  安中市教育委員会

「坂本宿・上木戸」。奥に見える山は「妙義山」。

その木戸裏手に「橋供養」塔などが。

 各家にはかつての屋号が掲げられてあります。一直線の幅広い道の両側には多くの旅籠があった、盛況ぶりを思わせます。今は、静かな山間の集落です。
          

お店も少ない。「デイリーヤマザキ」さんとここと・・・。

             
    上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡。   東 江戸へ三十四里  西 京へ百二里 

 歌人・若山牧水が泊まった「つたや」跡。

 さらばなり 信濃の国の ほとゝぎす 碓氷越えなば また聞かめやも       (「独り歌へり」所収) 

 わかれても 十日ありえず あわただし また碓氷越え 君見むと行く

 秋かぜや 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰の唄 



小林一茶の定宿「たかさごや」
 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

    坂本や 袂の下は 夕ひばり
 
その付近から刎石山を望む。

    

坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
 「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
 屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
 間口6間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは8畳二間に廊下、中庭をはさんで8畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
 宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。
 
              

刎石山方向を望む。右手奥に。

            (「別離」所収)

「坂本宿」の案内図。
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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その1。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-07 18:28:36 | 旧中山道

 2月24日(水)。晴。が、気温は低く、風はすこぶる強く。体感的にはかなり寒い。そんな中での、旧中山道歩き。
 「上野」~「高崎」~「群馬八幡」まで、在来線を乗り継ぎ、着いたのが8時50分少し前。
 前回の最終地まで戻って、「横川」駅を目指します。

 今回は、「14 板鼻」→「15 安中」→「16 松井田」~「17 坂本」宿の手前まで。上州7宿のうち「新町」・「倉賀野」・「高崎」を終え、残りの4宿ということに。



 「群馬八幡」駅から「国道18号」少林山入口交差点まで戻るには、けっこうかかります。しばらく進むと、「安中市」の表示。(09:07)右手には駅名の由来となった八幡宮の大鳥居。

 「板鼻東」信号の先に大きな「橋供養塔」。
 
    

寒念仏橋供養塔  安中市指定史跡
 板鼻宿の念仏講中が寒念仏で得た報謝金を蓄積し、享保17年(1732)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。その後年月を重ねて破損したので、享和2年(1802)板鼻宿の木嶋七郎左右衞門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に残したものである。地元ではこの石橋を「かねつ橋」と呼んでいる。
 この塔が建てられた直後に中山道を旅した太田南畝、別名蜀山人がその著『壬戌紀行』の中中で「板鼻川の橋を渡れば板鼻の駅むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり。新建石橋、木嶋七郎左右衞門供養塔といへる石たてり。げに累々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道18号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いあったのをわずかに現在地に移動したものである。

 安中市教育委員会

足元の台座には矢羽根とかが刻まれている。 

(09:21)その先、「群馬日産」の所を右に折れ、またすぐ左の道に入っていきます。
    

双体道祖神」。

    
 双体道祖神は、寛政4年(1792)のもので、祝言形(夫婦和合)です。台座には、「当駅より京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半」と旅程が刻まれています。

沿道には梅などが咲きほこっている。

(09:29)庚申塔など。

JR線を越えます。「第9中仙道踏切」。

宿内には古い街並みが残っています。 

「中山道板鼻宿 板鼻館 名物タルタルカツ丼」?
 懐かしい手押しポンプの消火道具が置かれています。


 養蚕農家だったと思われるおうち。蚕のための室温調整用の小屋根が乗っている。

板鼻宿(いたはなしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて14番目の宿場。日本橋より28里24町40間(112.7km)、京より107里7町20間。
 人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54(天保14年(1843年))町並みの長さ10町30間。
 碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、かつ旅籠の数50軒を数えるのは板鼻宿より京方面では塩尻宿以外にない。
 本陣跡が板鼻公民館近くにある。この本陣の書院に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が、文久元年(1861年)11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。

 (以上、「Wikipedia」より)

渓齊英泉画。

 「板鼻堰用水路」が描かれています。 

(09:40)「板鼻公民館」のところに「板鼻宿本陣跡」碑。

    

「板鼻宿」の案内絵図。

 公民館の裏手には、「皇女和宮資料館」。

    

旧板鼻宿本陣書院(皇女和宮宿泊所)
 この建物は、板鼻宿本陣(木嶋家)に付属した書院であった。書院建設年代は寛永説(1624―1644)と寛政説(1789―1801)がある。
 公武合体運動により皇女和宮内親王(1846―1877)、孝明天皇の妹)が第14代将軍徳川家重(1846―1866)に降嫁するため中山道を京都から江戸への下向途次、文久元年(1861)11月10日に一夜をこの書院で過ごされた。
 時代は下って、板鼻宿本陣敷地が板鼻公民館用地となり、書院はここに曳き移転され、外装等に補強の手を加えたが、昔日の面影が偲ばれるよう施行はひかえめとした。

 安中市教育委員会

この建物の裏手には「板鼻堰用水路」が流れています。 

板鼻堰用水路
 板鼻堰用水は鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九領川の水を採り入れ、安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中富岡町、下豊岡町を経て、烏川に落水する延長15キロメートル、灌漑面積150ヘクタールの用水路である。
 この用水路は今から凡そ400年前の慶長年間中期~後期(1604~1614)に開鑿されたものと推定される。 

 平成17年10月 板鼻堰土地改良区

「中山道 板鼻宿 海音寺潮五郎書」。

「公民館」の隣にあるお花屋さん。
                           この土蔵造の防火建物は、和宮宿泊当時から存在したとされます。

    
                              八坂神社の双体道祖神
 この双体道祖神は祝言形(夫婦和合)です。子宝祈願・安産祈願の碑で、男は杯、女は徳利を持ち、仲睦まじく肩を寄せ合っています。

行く手を望む。落ち着いた街並みが続きます。

(09:54)先ほどの「板鼻堰用水路」。水量が豊か。
     

 この辺りで「板鼻宿」に別れを告げ、「碓氷川」に架かる「鷹之巣橋」に向かいます。
(10:00)その手前、右に「鷹巣神社」左に「依田六郎城址」と記された石柱や「聖徳太子」などの碑がまとまった一画があります。



 この「依田六郎」は、板鼻城(山城)の城主で、信州佐久出自の戦国武将の依田一族だったようです。鷹巣神社の背後にその山城跡がある、とも。国道によって分断された参道の一部のようです。

 そこで、関西から来たというご夫妻にお会いしました。

 今日は、朝「安中」を出て、「倉賀野」まで行って、そこでまた宿泊する、とか。すでに東海道を終えたそうです。奥さんの話だと、私は東海道より中山道の方がよかった、旦那は東海道の方がいいっていうんです、と。「碓氷峠」は軽井沢から来た方が楽ですよ、「和田峠」は思ったほどきつくなかった、と。
 お元気なご夫妻でした。お互いの今後の健闘を祈って別れました。けっこうこうやって歩いている方が多いのですね。
 今回、一日歩いていて、話したのはこの方と道路工事の誘導員と地元の方の、つごう、3人のみでした。
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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その2。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-06 15:29:15 | 旧中山道

 安中市は旧中山道への思い入れがあって、各宿とも充実した「案内パンフレット」などを用意してあり、散策や帰ってからの見直しに大変役立ちます。

     

「鷹之巣橋」のたもとに、かつてのお休み処? 

                   この先辺りで徒渉していたようです。
                       

橋の左奥には「東邦亜鉛安中精錬所」。

 以前、「信越線」で乗って、高崎駅を過ぎて左手に見えてくる。要塞のようなこの施設が眼に入ると、いよいよ関東平野から山の中に入って行くのだな、と旅心をそそられたものでした。再びこうして歩いて遠くに見るとは思いも寄りませんでした。
 この工場は、安中公害訴訟で有名になりました。

上流右手にはクレー射撃場。

ちょっぴり白い頭をのぞかせた「浅間山」。

 渡り終えると、「中宿」。橋のたもとを右折して、すぐ左折します。本来の道は川の向こうから続いていました。(10:08)

    

 右手に土蔵と新しい公民館。
    

 「この地は400年近い家歴を有する大河原家より安中市へ寄贈されたものなるところ、安中地区第一区の住民の総意により新たに公民館を建設した。」とあります。

  「庚申塔」。「従是 一宮/大日 街道」とあります。

(10:18)しばらく進むと、道が二手に分かれるので、正面の道をそのまま進みます。
    
                                       振り返って望む。

その道を行くと碓氷川の土手に突き当たります。 

旧中山道は徒歩で対岸に渡っていたようです。 

「久芳橋」からの「浅間山」。

左手には「妙義山」。 

「中宿」方向を望む。

「下野尻」交差点で歩道橋を渡り、「安中宿」方向へ。 

(10:43)「安中宿・下の木戸」跡。 

安中宿(あんなかしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。
 現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
(歌川広重 画)

安中宿周辺の空中写真。
 北を九十九川、南を碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置する。国道18号南側を東西に並行して走る狭い街道筋が旧安中宿である。1975年撮影の4枚を合成作成。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった。
                                 (以上、「Wikipedia」より。写真も)

 少し補足すると、

 安中城の城下町。町並みの長さは、3町44間。日本マラソン発祥の地と言われ、毎年碓氷峠の熊野権現まで走る「侍マラソン」が行われている。これは安政年間に藩士の鍛錬のために始めた「安政の遠足」が起源。同志社の設立者で、キリスト教布教に尽力した新島襄は安中藩士の子。

 宿内のようす。落ち着いた町並み。古い建物も。
    

(10:46)「安中郵便局」前に「本陣跡」説明板。    

「案内図」。史跡の案内が充実しています。

史跡は右手、坂道を上った所に点在。「大泉寺」。

 「伝馬町」(宿場によくある地名)交差点を右折し、坂道を上った突き当たりにあるのが「旧碓氷郡役所」。

    

旧碓氷郡役所 安中市指定重要文化財
 明治11年(1878)、・・・群馬県に17の郡(のちに11に統合)が設置され、郡役所が開設された。碓氷郡役所は旧安中宿本陣に置かれたが、約10年後の明治21年に旧安中城内町口門北側(現在、旧碓氷郡役所があるところ)に新築された。
 郡役所の新築から約22年後の明治43年、原因不明の火災によって焼失してしまった。このため、翌明治44年に竣工したのが現在も残る旧碓氷郡役所の建物である。
 しかし、郡は地方自治体としての歴史がなく、郡住民の自治意識もきわめて低く、自治体としての発達にも見るべきものがなかった。このため、大正10年郡制は廃止され、郡は行政区画に戻った。大正15年には各郡役所も廃止となり、郡は地理的名称に戻った。 その後、この建物は碓氷郡農会、碓氷地方事務所(昭和17年から)、安中農政事務所(昭和32年から)と移り変わったが、昭和48年には空き家となり、翌昭和49年に県から安中市へ移管された。県内の郡役所はここだけとなり、この県内唯一の郡役所を保存するため、平成8年に安中市指定重要文化財に指定し、平成8~9年に修復工事を行い、当時の写真や建物に残る痕跡から創建当時の姿に復元した。

 平成10年2月
 
 今も各県などに残る「○○郡」には、いきさつ、歴史があったのですね。

 「旧郡役所」の前の通りは「大名小路」と呼ばれています。
     
 
「安中城内現況対照図」(明治初年)。

 図中にもある「安中教会」。大正8年、新島襄召天30周年を記念して建てられた「新島襄記念会堂」は建築史上の意義の高い建物、らしい。

(10:57)通りの左側に「旧安中藩郡奉行役宅」と「武家長屋」が復元されて残されています。

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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その3。(旧中山道をゆく。第8日目。)

2016-03-05 22:47:06 | 旧中山道

    

旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家) 安中市指定重要文化財
 この建物は「旧安中藩郡奉行役宅」で、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠が安中藩の郡奉行として住んでいました。
 郡奉行とは安中藩の民政をつかさどる役職で、安中藩には3人の郡奉行とその配下に4人の代官がいて、年貢の割り当てから徴収、お触れの通達、領内の地安・裁判などの仕事をしていました。
 このたび、猪狩芳子氏から安中市へ建物が寄贈されたのを機会に、安中市の重要文化財に指定しました。
・・・
 母屋は、県内では珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関、茅葺き屋根、武者窓、砂ずりの壁など、」いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめています。
 この役宅は、安中城址の南西の部分に位置し、この役宅の西には「旧安中藩武家長屋」や旧安中城西門枡形(ますがた)、役宅の長屋門の北には大名小路、袋小路や藩士の学校であった造士館跡及び安中藩会所跡があります。
・・・

 平成7年4月 安中市教育委員会

                             

 通りをはさんだ西側には、「旧安中藩武家長屋」。
 かつて安中城内には家臣の屋敷が建ち並び、その一部は長屋でした。この建物はそのうちの4軒長屋で安中城西門のすぐ東にあったものです。

    

「大名小路ふれあい公園」案内図。

再び旧道に戻ってきます。宿内のようす。

少し進んだ左手に「便覧舎」跡。

 湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。便覧舎は無料で利用でき、自由な閲覧が可能。人々は一心不乱に本を読み、新しい思想を身につけようとしました。これが民間人が創設した最初の図書館です。その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。

(以上、HPより)

湯浅治郎(1850~1932年)
 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長子として生まれる。実家の有田屋は父・治郎吉の代に南京米や魚油の輸入・蚕紙の輸出・販売も手がけていた。元治元年(1864年)に有田屋3代目当主となる。
 福澤諭吉の著書を読んで教育の重要性を認識した湯浅は明治5年(1872年)に安中に私立図書館「便覧舎」を設置し、図書館事業の先駆となった。同郷の新島襄と親しく交わり、明治11年(1878年)彼を中心に安中教会が建設された時にキリスト教の洗礼を受けた。 翌年、碓氷郡書記、更に明治13年(1880年)には群馬県会議員となり、同16年(1893年)には県会議長に就任して廃娼運動の先導役となった。
 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員(自由党所属)となるも1期で国政から引退し、家業の発展と社会・文化運動に力を尽くす。安中小学校設立に関与し、新島の同志社や義弟・徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援したほか、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事を務めた。また、警醒社(後に警醒社書店)を設立して内村鑑三らの出版事業を助けた。警醒社では『六合雑誌』を刊行している。明治25年(1892年)には京都に移住し、新島後の同志社理事として立て直しに尽力した。
 また文化人としても活動し、海老名弾正、山室軍平、深井英五などと親交があった。
 晩年は家業を息子・三郎に譲って同志社のある京都や警醒社のある東京で過ごした。昭和7年(1932年)6月7日、肺炎で死去。83歳。

 「中山道」をはさんで向かいにその「有田屋社屋」があります。

    

醤油醸造元 有田屋
 江戸末期・天保3年(1832)に味噌・醤油醸造元として創業。かつては安中藩の御用達を勤め、、味噌・醤油の醸造の他、穀物、油脂、肥料、塩等を扱う商家として営業をしてきた。
 有田屋は本来の事業の他にも、明治、大正、昭和の3代に亘って、日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られている。 
 現在、醤油も大量生産、速醸の時代であるが、有田屋は昔ながらの天然醸造法で、じっくり発酵・熟成させる本物の醤油造りをかたくなに守り続けている。

 株式会社 有田屋

奥に煉瓦造りの煙突が見えます。

全貌はご覧の通り。 (HPより)


「安中大木戸跡」碑。ここが安中宿の「上(京方)の木戸」となります。

宿内を振り返って望む。
「軽井沢(まで)31㎞」。

  「新島襄旧宅入口」碑と「道祖神」。

 ここで、「新島襄」について。 

 天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)は日本の宗教家、教育者。学位は理学士。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。
 天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。
 当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
 明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団に参加、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。
 明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。
 明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。
 同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。
 明治8年(1875年)11月29日、同志社英学校を開校し初代社長に就任。
 明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。
 明治17年(1884年)4月6日、2度目の海外渡航に出発する。ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。
 明治18年(1885年)12月に帰国。
 明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズである。
 明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。
 明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。
 明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
 
 遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「東海道」大磯宿で新島襄の終焉の地を訪れています。(2014.10投稿)

                          「新島襄終焉の地」
            

 明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
 その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中、病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
 徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられた。
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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その4。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-03 20:17:49 | 旧中山道
(11:27)道幅が広くなって、かつてはここから1㎞にわたり、杉並木が続いていた「安中原市杉並木」跡にさしかかります。安中宿側には1本も杉はなく、その代わりに花壇が道の両脇に続いています。かつての記念碑が建っているだけです。

    
                   「昭和九年建設 文部省」「天然記念物安中原市杉並木」。 

 安中市のバイパス道路の西外れから原市に至 る旧中山道沿いにある。かつて延長約1㌔あっ たが、現国道18号線沿いの部分は枯死はなはだ しく、昭和42年に指定解除された。指定当時321本あったが現在は目通り50㌢以上のスギは24本残るのみとなり、その平均は2.2㍍で、北側11本、南側13本である。
 1604(慶長9)年中山道を改修し、同時に江戸日本橋を基点として、1里ごとに一里塚を築いたことが記録にあり、この改修当時に植樹されたものといわれる。以来、安中藩が管理補植に当たってきたが、幕末の天保 年間には732本のスギを数えたという。明治以降は道路管理と一体的に維持されてきた。
 1970(昭和45〉年の群馬県林業試験場のスギ並木の実態調査によると、樹高は最高41㍍、最低11㍍、平均31㍍、目通り周は最高5.9㍍、最低0.8㍍、平 均2.8㍍であり、伐採木8本の年輪調査では、最高320で280前後が多かった。ヨシノスギの若木29本が南側に植えられ、新しい並木の復活に期待したい。

花壇の端に腰掛けて小休止。目の前にはたぶん「桑畑」。

 養蚕の盛んだった頃は、北関東のあちこちで桑畑を見ましたが、今回、歩いていて沿道に桑畑を見ることはありませんでした(気づかなかっただけかもしれませんが)。はじめての遭遇。
 桑は蚕のための葉だけではなく、実がなって、食べると甘酸っぱくおいしかったことを記憶しています。昔、勤務先の一画にどういうわけか桑の木が1本植わっていて、初夏の頃、その実を摘まんだことを思い出します。

    
                                (写真は、「Wikipedia」より)

   以前、「地図」を広げると、関東地方ではこの記号をあちこち見ましたが、今は・・・。


(11:44)「国道18号線」を横切ります。

振り返って望む。

左側に「道祖神」等、3基の石塔。

 応急給水施設「並木配水池」の大きなタンクの前面には、杉並木の中を5人の藩士達が駆けぬける「安中の遠足(侍マラソン)」の大きな図柄が。
 

 その先から「杉並木」がしばらく続きます。今の時期、「花粉症」にはたまらない赤茶けた杉、杉、杉。
      

 整然と植えられています。東海道は松並木でしたが、こちらは杉並木が基本。


説明板。  

安中原市の杉並木 国指定天然記念物 昭和8年4月1日指定
 中山道の杉並木として江戸時代初期から植え継がれてきたが、その後の様子は左記の通りである。

・天保15年 安中分 387  原市分 345  合計 731
・昭和7 年    〃  118     〃  203   〃   321
・昭和42年    〃   67     〃 155  〃   222
・昭和43年    〃 全て伐採  〃   94  〃    94
・現  在     〃    0    〃    14   〃    14
・昭和60年以降植樹  0      〃   54  ミニ杉並木

 今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない。 
 中山道しのぶ 安中杉並木(安中かるたより)

 平成25年3月 碓氷安中ロータリークラブ 

 古木も残っていますが、昔日の面影はまったくなさそうです。切り株が痛々しい。枯死した原因は排気ガスなのか、それとも、・・・。

     

 有名な「日光杉並木」。総延長が35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録され、周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、江戸時代の街道の景観をよく伝えています。
 しかし、その杉並木も、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消しているそうです。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていません。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされています。

(以上「Wikipedia」参照)

 「花粉症」の原因として今や厄介者扱いされる風潮もあるようですが、・・・。この先、長野県、岐阜県に入ると、こうした「杉並木」という光景が見られるのでしょうか?

原市側にも「記念碑」が建っています。    

「杉並木」を振り返って望む。 

 (12:10)しばらく進むと、落ち着いた家並みに。
    

「原市村戸長役場跡」。

 (12:16)その先、左手に「原市高札場跡」碑と「明治天皇小休止跡」石柱。以前は民家があったようですが、現在は更地になっています。

    

説明
 明治11年北陸東海巡幸の際9月3日御小休所となりたる処にして主要部分はよく旧規模を存迫りせり。・・・昭和15年5月 文部省 

当時を偲ばせるものは奥にある庭なのか?

「真光寺の釣り鐘」(奥の左手)
 安中市で、戦災を免れた数少ない時の鐘。真光寺が廃寺となった後も、鐘のみが残されています。

蔵造りの建物。なまこ壁が。

緩やかな上り坂を進みます。振り返って望む。

「中山道 松井田宿←4.9K  安中宿→ 4.2K」。


 小学校、中学校を過ぎると、左手に「八本木旧立場茶屋」。
    

道の反対側には「八本木延命地蔵堂」。

                    (12;37)行く手には「妙義山」と「浅間山」。
    
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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その5。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-02 21:05:59 | 旧中山道

 次の「松井田宿」へ向かいます。「国道18号線」から1本北側の道。のどかな道筋が続きます。郷原地区。「道祖神」や「馬頭観音」などの石碑が道端に点々とあります。

    

(13:02)日枝神社。

妙義山がだんだん近くに。

      
     左;道標「中山道 ←松井田宿 2.9K →安中宿 6.2K」。右;「道祖神」、「百番供養塔」。

その左手に「高札場跡」碑。

      まもなく「国道18号線」に合流。

(13:24)旧道が「国道18号線」と合流すると、国道の向こう側に「妙義山道」常夜燈があります。


    

郷原の妙義道常夜燈 安中市指定重要文化財

 この常夜燈は、文化5年(1808)、地元の碓氷郡郷原村を中心とする「妙義講」の人々が、 当時原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村民吉」という石工に建造させたものである。
常夜燈の露盤には16弁の八重菊の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化五年戊辰四月七日」、西面に「当所講中」と刻まれている。
 また台座には「是より妙義道」と刻んでおり、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。台座には建立者62名の姓名と石工の名前が刻まれている。当時の人々の妙義山への深い信仰心を示している。
なお、元々この常夜燈はここから東へ50メートルの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和六十年三月に現在地に移転したものである。

   安中市教育委員会

 周囲には、「道祖神」や「山中貞輔」の歌碑などがあります。

    

 山中貞輔は、江戸末期の寺小屋の教師で、群馬県の中後閑から郷原の山中氏の養子に入り、山中家12代当主となった人物。
 《碑文》月の入る 西の都を さし行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし 

 もともとの道はもう少し東(「妙義道常夜燈」が本来あったところ)を左に入る「逢坂」でしたが、地震や水害で崩れて失われてしまったようです。現在は、400メートルほど国道を進み、左に下る道(明治天皇が行幸の際、開通した「明治天皇道」)を行きます。

「妙義山」と「碓氷川」。

「国道18号線」から分かれるところに「郷原地区長役場跡」の立て札。

下り坂になります。

「碓氷川」。旧道の痕跡はなさそうです。

右手に石仏、石碑群。

 眼下の家並みと「妙義山」。
    

(13:44)県道33号線に合流。振り返って望む。

(13:48)県道の正面には「浅間山」。

 右手にある「松井田下町郵便局」の先付近から「松井田宿」に入るようです。


(14:00)「下町」信号の手前、左手に「下の木戸跡地」「ももんが堀」の解説板。松井田宿内はこの看板が目印。

    

松井田宿名所・旧跡①下木戸跡地・ももんが堀(木戸東外)
 下木戸はこの西辺り 「下町」信号のT字路から南へ向かう道路は、近年になってから新しく整備された道である。

 下木戸から上木戸までは、全長6丁6間(約677m)木戸内は両側に堀割(巾・深さとも3尺)が完備していた。
 ももんが堀(現在は案内板下暗渠)は、堀割の用水を集めて南方の碓氷川へと放流する役目がありました。

松井田宿
 江戸から16番目の宿場。信州各藩から集まる年貢米の中継地として賑わい、「米宿」とも呼ばれていたという。
 西に碓氷関所を控えており、馬子唄に「雨が降りゃこそ松井田泊まり降らじゃこしましょ坂本へ」唄われたように面倒な関所を越しておきたいと、松井田を通過してしまう大名や旅人が多かった。
 町並みの長さ 9丁8間 人口 1,009人 総家数 252軒 本陣 2軒 脇本陣 2軒 旅籠数 14軒

歌川広重画

「下町」交差点を振り返って望む。

左手にある道標「中山道 松井田宿 → 」。

                            宿内の様子。
    

脇本陣(字下町 徳右衛門屋敷)跡」。

 江戸時代の宿駅で、旅する大名やその家中、勅使や宮門跡、幕府公用の役人などのため休憩所・宿泊所として設けられた公認の屋敷跡。凡そ建坪73坪、玄関門構無御座候と松井田宿明細帳に記述されている。

商家風の建物が見られます。

「畑中医院」という看板がある古い建物。

「辻中薬局」。「伊勢屋」という屋号があり、かつては商家?

その先、左手に「どっと混むイベント広場」。

(14:10)ベンチがあり、小休止。    

(14:30)ここら辺りが宿場の中心。

「お休み処 みなとや」。

 案内板⑦「どうぞ、どなた様もお時間が許すならば、お気兼ねなく立ち寄りください。みなとやは、旅を楽しむ人に地元ならではのひとときを提供するため、松井田に店開きした、古くて新しい(無料の)お休み処です。」

 この案内板の前にあるはずの⑥「松本本陣(字上町 駒之亟 屋敷)跡」の看板が見当たりません。行き過ぎたと思い、戻ってみましたが、はて? 右手、クリーニング屋さんのところにあるはずだが・・・。そこは、更地になっていました。

 その案内板には「凡そ建坪174坪玄関門構有之候。部屋数23室、表門両脇から東側に10軒の店舗が配されていた。裏門は非常之節御開所となる不動寺への通路。当時の敷地内には往時の名残を留める庭園、井戸、土蔵が残存する」とあったようです。(「松井田宿まち歩き」マップより)

 そこで細道を上がってみて、行ったり来たり探しましたが、それらしき標識やめぼしいものは見当たりません。古い祠などはありましたが、住宅やアパートになっていて入り込むことは出来ず。ロスタイムあり。

    

(14:45)「脇本陣(字上町 安兵衛 屋敷)跡」。

 ・・・松井田宿明細帳に凡そ建坪82坪、玄関門構え無御座候と記述されている。

 そこに「間口は街灯55番から65番まで」とあったので、注意して歩くと、実に長いものに。

歩道橋の右下に「→松井田宿」との標識。

「松井田宿上木戸跡地・案内板下に立が堀」。案内板の東方10m歩道橋下に表示あり

 松井田宿は慶長年間より街道の改修が行われ、30年程後町並みも整い、更に50年程後、宿駅の構造としての機能を持つに至ったとされる。立が堀の水は上木戸で二手に分け、軒下を流れ生活用水に使用されていた。

 先ほどの表示付近が「松井田宿」の上木戸(京方出入口)に当たっているようです。

(14:50)正面には「浅間山」。 
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JR「群馬八幡」駅から「横川」駅まで。その6。(旧中山道をゆく。第8日目)

2016-03-01 20:02:14 | 旧中山道
 上の写真は、「安中市松井田町商工会」の建物。昭和14年(1939)松井田警察署として建てられました。2階建て・切妻・瓦葺・腰壁等石造り、屋根は破風でなかなかどっしりとした趣。

左手の古民家の門前。特定日に「中山道分間延絵図」を公開しているそうです。 

モダンな感じの道標。   
                                          まだまだ先は長い!

 「松井田宿」でけっこう気になったのは、空き地が目立つこと。商店もあまりやっていないようだし、人の通りも車の通りもあまりない。これまでの道中でも見かけた、過疎の町、という印象を持ちましたが。

(15:12)「安中署松井田分庁(松井田警察署)」の手前を左に入る道が旧道。
    
                                           右手には「庚申塔」。 

 その先には藪の中に「一里塚跡」碑。

一里塚跡(江戸より32里目)
 この場所は松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
 明治20年代まではこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。この立て札の南方およそ10メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。

 平成12年2月吉日 松井田町教育委員会

裏手にはその塚跡があるとか、この木の付近? 

(15:20)突き当たりは、JR線の踏切「製紙踏切」。

 旧道はそのまま踏切を渡って進んだらしいですが、現在は途中で道がなくなっているので、線路沿いに歩いて「第十中山道踏切」を渡ります。

左手には特異な山容の「妙義山」。

 若い頃、2,3回「妙義山」に登ったことがあります。表妙義、裏妙義とごつごつした岩肌や切り立った崖があったりし、鎖場があったりして、変化に富んでスリル満点でした。

 「T」字型をした「丁須岩」が印象深く残っています。丁須岩の上に登るのは意外と簡単でしたが、下りは・・・。後に、奥穂高・ジャンダルムの時にその経験が活かされましたが。

 てっぺんにあったその岩はここから見えるだろうか、期待を込めて歩きます。

 踏切を越えた辺りから地元の方とご一緒に。農作業を終えて帰宅中とか。おしゃべりをしながら妙義山を見上げると、てっぺんにT字形の岩が。写真ではまったく分かりませんが。

 左にある「佐藤産業建設」のところを左折し、その先のT字路を右折すると、旧道に復帰します。

振り返って来た道を望む。

(15:35)「国道18号線」との合流の手前に、「石灯籠」。右手におなじみの「道標」。
          

 「中山道」は国道によって分断されるので、いったん「国道18号線」を左に行き、「五科」交差点から「上信越自動車」の橋脚の下に出ると、旧道。

振り返って望む。さっきの道の延長上です。

(15:39)行く先を望む。

庭先に「庚申塔」と「二十三夜塔」。

 このあたりで携帯電話が電池切れになって、むやみに写真を撮れない状態になりました。

 その先を右に入ると、「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」の立て札。

   

 その先の「お東踏切」を渡ると、正面に五料茶屋本陣「お東」・その西側に「お西」が並んでいます。「松井田宿」と「坂元宿」・碓氷関所の中間に位置し、参勤交代の大名・公家等の休憩所として置かれていました。
 両家共に中島姓であった為、お東・お西と呼ばれ、天保7年(1736)から明治5年(1872)までは、1年交代で名主を勤めていました。
 木造二階建ての建物は、共に文化3年(1806)建立で、間口13間・奥行7間の切妻造りで、母屋の規模や平面は同じ。群馬県の史跡に指定されています。

    
   「お東」。                                   「お西」。
妙義山。

 「榎踏切」を渡り、「丸山坂」を上っていきます。坂の頂上付近の左手に「夜泣き地蔵・茶釜石」や石塔があります。
(15:54)  

茶釜石
 この奇石はもと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った(太田)蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色にさっそく次の狂歌を作ったといいます。
 五料(五両)では あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人と
 この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名があります。
 人々はこの石をたゝいてその不思議な音色を懐かしんでいます。
 五科七不思議の一つに数えられています。 

 「夜泣き地蔵」の解説文はありません。

振り返って望む。

のどかな里山道を下って行きます。

 「信越線」にぶつかるので、線路に並行して進みます。右手に「碓氷神社」。その前にある「高墓踏切」を越え、すぐ目の前の横断歩道を渡っての先の高墓踏切で信越本線を渡り、直進して突き当りを右折して進みます。
 「臼井小学校」を過ぎ、庚申塔等の石塔群が祀られている先で、「国道18号と」合流します。

「高崎から27㎞」ポスト。

「小山沢川」を小山沢側道橋で渡り、「小山沢」交差点から斜め左の旧道に入ります。

(16:19)国道に再び合流する手前、右側に「百合若大臣の足痕石」があります。
    
 百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれています。

 百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、北九州に多くの話が伝わっている。
 力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。
 これを見ていた家来の一人も負けずと、腰にぶら下げていた弁当のむすびを 力一杯放り投げ、山には二つの穴があいた。今でも二つの穴がここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われる。
 百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されている。

 しばらく「国道18号線」を行き、「下横川」交差点で信越線の踏切を渡り線路の右側を進みます。途中、右側の崖から飲めるような雰囲気の湧き水が流れ出しています。

(16:31)振り返って望む。「横川」発「高崎」行き電車が通過中。

(16:44)そろそろ本日の行程も終了、「峠の釜めし」の「荻野屋」さんを左に曲がれば「横川駅」に到着です。

    
                                             「横川駅」。

 JR「横川」駅は信越線の終着駅。「長野(現北陸)新幹線」の開通で、ここから「碓氷峠」を越えて「軽井沢」に向かう鉄道は、今はもうありません。
                  

久々に「峠の釜めし」を買って来ました。

 群馬八幡駅~板鼻宿~安中宿~松井田宿~横川駅 約28㎞。

 次回は、いよいよ「碓氷峠」を越えて軽井沢入りです。その前に「アプトの道」を歩くことになりそうですが。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-17 21:02:05 | 旧中山道

 中山道歩きも、もう第7日目。新町から倉賀野、高崎へ。さらに板鼻へと進みます。前の2回はそれぞれほぼ半日の行動だったので、今回は少し家を早めに出て何とか5~6時間くらいは、と。

 2月6日(土)。天気予報ではあまりよくない、とのことでしたが、朝方の予報で群馬は「」マーク。2月は来週、再来週と予定が込んでしまうので、思い切って出かけました。
 次第に道のりもはかどってくる感じ。これならあと3回、4月までには「軽井沢」まで行けそうかな、なんて「甘い」思惑もあってのこと。

 それでもまだまだ寒さが、ともたもたしてて在来線(高崎線)で上野から乗って、結局、「新町駅」着がすでに9時30分過ぎ。これではあまり距離が稼げません。コンビニでおにぎりなどを買って、さ、出発!

中山道に復帰し、すぐ右手の駐車場のところに「旅籠 高瀬屋」跡碑。

    

小林一茶宿泊の高瀬屋跡
 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化7年(1810)5月11日に次のような記述があります。
 「前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前4時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった」

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

 その時に一茶がこれらの句を詠みました。  

 石碑の碑文はこのくだりが「七番日記」の原文そのままに刻んであります。

  ・・・さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思ふ十二文きしんす

   手枕や古語といふても来る蛍

  迹へ帰らんとすれば、神奈川の橋なく前へ進んと思へば烏川舟なし
  ただ篭鳥の空を覗ふばかり也

   とぶ蛍うはの空呼したりけり
   山伏の気に喰はぬやら行蛍

その先の左手の大きなおうちのところには「小林本陣」跡。

解説板。 

 新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享2年(1745)の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄4年(1691)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。
 
 ここであらためて新町宿(しんまちしゅく)とは、
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて11番目の宿場。
 現在の群馬県高崎市新町にあたる。はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は、烏川北岸の玉村を経由するルートだったが、慶安4年(1651年)に落合新町、承応2年(1653年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、ルートが変更された。これに伴い、中山道で最も遅く新町宿が成立した。これにより67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、新町宿の宿内家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。

               (歌川広重)

(以上、「Wikipedia」参照)

 余談ですが、中山道にも恵那に「歌川広重美術館」があるそうです。

 右手に「温井川」の土手が見えてくると「新町宿」のはずれ。

(10:00)温井川に架かる「弁天橋」の手前に「スリーデイマーチ発祥の地」碑。

 スリーデイマーチとは、埼玉県東松山市で行われる「歩け歩け大会」のこと。日本では最大規模で、全国各地で行われるようになったウォーキング大会のはしりとなったイベント。例年、11月上旬、3日間でのべ10万人の参加者たちが比企丘陵を歩きます。
 1978(昭和53)年に群馬県多野郡新町(現高崎市)で第1回日本スリーデーマーチが開催されたことを記念する碑です。1980(昭和55)年から宿泊施設や交通の便の関係から埼玉県東松山市に開催地が変更になりました。

温井河畔からは周囲の眺めがいいようですが、今日は霞んでいて、今一つ。
                                                   北から西へ赤城、榛名、浅間、妙義と見えるそうです。

橋を渡ると、藤岡市へ。

旧道は右の細い道を進みます。    

梅の花もちらほら。 

 右手に庚申塔などの石碑がずらっと並ぶ「伊勢嶋神社」を過ぎると、長い白壁が続き、その奥には土蔵が並ぶ、大きな屋敷が現れる。国の登録有形文化財の「川端家住宅」(10:08)。
     

振り返って望む。

中山道は関越自動車道をくぐっていきます。トンネルの向こうは「烏川」の土手。

その手前に木製の道しるべ。この先、随所に立てられています。「倉賀野宿まで4.4㎞」。

(10:17)旧中山道はこの先あたりからほんの一部を残してなくなってしまいます。烏川沿いにサイクリング・ロードがあるので、景色が広がる道を進むことになります。土手の左手、県道沿いには三菱鉛筆の工場。


 河川敷は野球場やサッカーグランドがいくつもあり、土曜なので小学生など球技に興ずる歓声が聞こえてきます。その土手下に木々が生えている一角が見えます。「中山道お伊勢の森」と呼ばれているようです。

    

 「中山道」は初め「お伊勢の森」の北側を通っていましたが、寛保2年(1742)の大洪水以後、川の浸蝕による、文化年間に森の南側を通るようになったそうです。
 広重の「中山道新町宿」はこのあたりを描いたものらしい。
 ということは、その辺りに中山道が通っていたということに? たしかにこんな立派な土手の上を通っていたはずはありえません。しかし、土手下も整備され、唯一この森だけがかつての姿を伝えるのみ。旧道がそのまま残っているわけもなく、・・・。結局、眺めのいい土手上のサイクリング・ロードを歩くことに。

 

                             
 菜の花が一本咲いています。季節になると一面菜の花畑に。              「利根川合流地点から7㎞」表示。

 この土手道。これまでの方々もサイクリング・ロードを歩かず、右の土手下(烏川河川敷)か、左の土手下の小道(県道脇)、さらに県道沿いに歩くケースがあるようです。いずれも、この先、右手のこんもりした森の辺りで左に折れ、土手下の住宅地を歩く道に「旧道」が残っている、というのは共通しているようです。



(10:32)住宅地の一角。小道が交差する。

道の真ん中に下水溝。    

それなりにおうちが集まっているので、旧道らしい感じもするが・・・。

突き当たりを右折します。

生け垣の中に、古びてかすれた「中山道」案内板。

 再び、烏川の土手に上がります。その右手前に蔵造りのおうち。さらに左には「旧中山道」の表示。 

    
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新町宿から藤塚一里塚まで。その2。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-16 21:48:18 | 旧中山道
 土手に上がります。かつての中山道は「烏川」をこのあたりで「舟渡し」によって向こう岸に渡っていたのでしょうか?



 現在はもう少し上流にある「柳瀬橋」を渡って行きます。

    

川の中州に棒杭のようなものが点々と立っています。



 1880年代のようす。当時の橋(明治になってから架橋された)は旧中山道に架かっていた。
 これ以降、大がかりな堤防整備などが行われている。



 ほぼ同じ所の1970年代のようす。現在の「柳瀬橋」は上の図よりも250メートルほど上流に位置する。

                                     (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

(10:53)上流を望む。鉄橋は高崎線。

「柳瀬橋」を渡ると、再び「高崎市」へ。
    

 上の古地図でも分かるように、旧道はもう少し「烏川」の下流付近を通っていたので、その道に出るため、橋を渡ってすぐ土手を右に折れ、土手上をしばらく進み、土手から左の道に入ります。

土手上から対岸(新町宿側)を望む。

(10:56)土手の階段を下りて旧道に進むと、「旧中山道」の表示。
                                          「Old Nakasendo」とあります。

旧道は、岩鼻町交差点方向に進みます。

旧街道沿いらしいおうちも。

交差点を渡ります。向こう側に「旧中山道」の表示。

おなじみの道しるべ。

(11:07)すぐに左手の道に進みますが、ほんのわずかで先ほどの道に合流します。

    

合流点から見た道を振り返る。

「←倉賀野宿1.3㎞、→新町宿3.9㎞」

 広いほぼ直線道路を西に向かいます。
    
(11:18)「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。

けっこう広い道。振り返って望む。

 「東京マツシマ」という会社のところを左に。

    

ここもすぐに右に曲がって、合流。

そこに「慰霊碑」のような大きな碑。碑面、確認出来ず。

(11:34)しばらく進むと、「追分の閻魔堂」。

 ここが「中山道」を京からやって来ると「江戸(中山道)」と「日光(例幣使街道)」へと分かれる地点。
左奥の道が「例幣使街道」。

「解説板」。

高崎市指定史跡 例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
 江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国桧木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から桧木までとされる。
 この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
 常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人312名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など38名も含まれている。
 勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五科(玉村村)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
 常夜灯
正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1818)正月十四日 
              高橋佳年女書」
総高 373㌢ 台石高 67㌢
灯籠高 305㌢ 灯籠屋根幅 105㌢

 道しるべ
正面「従是 右 江戸道 左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏 亀涌書」
総高 172.8㌢ 台石高 8.8㌢
石柱幅 一辺33.7㌢

 平成8年3月  高崎市教育委員会

             
   「常夜灯」。                          「道しるべ」。

例幣使街道と倉賀野常夜燈」。
 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
 ・・・(中略)
 日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五科・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割を果たしていた。

 高崎市 高崎観光協会

お堂の裏手には「馬頭観音」「庚申塔」などが。

ここから「倉賀野宿」となります。
                      右が「中山道」、左が「例幣使街道」。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その3。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-15 20:53:10 | 旧中山道

 昨日、今日と春の嵐。だんだんと春が近づいてくる時節。このところ連続でお葬式があったりして、ばたばた。
 間があきましたが、「中山道」歩きの続きを。

 倉賀野宿の中心部に入っていきます。格調高く大きな古いおうちが目に付きます。上の写真は、「吉野家 叶家」。

 続いて「大山家(大山小児科)」。どちらも見上げるほどの立派な造り。
         

                                通りのようす。

「矢島家」。

「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地」碑。「倉賀野資料館」とあるが、どうも私的なものらしい。

 ところで、小栗上野介と徳川埋蔵金。いっときはTVでも扱っていたが、今は下火? 隠したところは赤城山山中、とか。この碑では倉賀野の地も関係するようです。

 そこで「Wikipedia」を参照して。

埋蔵金伝説

 1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していた。ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まった。
 探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗忠順にも及んだ。小栗は奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していた。彼が幕府の財政責任者であったということから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れた。加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一命に関わる刑罰(斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みた。

 その後、埋蔵金研究者達により赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義された。

 ・幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。
 ・井伊直弼が横死した後、軍学者であった林梁によって埋蔵が実施された。
 ・埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記に「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。
 ・埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。
 ・山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。
 ・小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。

 物的証拠もいくつか挙げられているようです。
 ・大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)
 ・意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅版 (双永寺の床下から出たとされる)
  ・・・

 赤城山での発掘が次々と失敗に終わって行く中、これを見た一部の人々は赤城山を本当の埋蔵場所を隠すための囮だと考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて持論を展開するうちに各地で埋蔵金伝説が誕生した。以下にその一部を記す。
・日光山内(東照宮、二荒山神社など、それぞれの論により詳細な場所は異なる)
・男体山、中禅寺湖、明智平(いずれも奥日光)
・榛名山、妙義山(赤城山を加えて上毛三山と言われる)
・備前楯山(足尾銅山の坑道)
・上野東照宮、久能山東照宮、日吉東照宮、世良田東照宮など各地の東照宮

 都市伝説上ではあるが、童謡「かごめかごめ」の歌詞中に埋蔵金の在り処を示すとされているものがある。

 実際には、徳川埋蔵金は多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれているが、そのほとんどが全く成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されていない。

マスメディアによる推理・発掘

 ・TBSのテレビ番組『ギミア・ぶれいく』で、糸井重里を中心としたプロジェクトチームを結成。自称超能力者の助けを借りるなどして埋蔵箇所を「源次郎の井戸」と推定し、大型重機を使用した大掛かりな発掘を試みた。江戸時代以降に掘られたと見られる穴や遺物を多数発見したが、埋蔵金に直接繋がるような発見は無く、プロジェクトチームも解散した。糸井はのちにこの番組について「世界唯一の土木番組」だったと自嘲している。
 ・2008年にもこの番組の後継番組『バラエティーニュース キミハ・ブレイク』が同様の発掘企画をした。
 ・TBSのテレビ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』で「埋蔵金伝説の赤城山とは世良田東照宮に作られた擬似赤城山である」という推理が紹介された。
 ・テレビ朝日のテレビ特番『水曜特バン! 徳川埋蔵金大発掘』で群馬県内の別の場所が掘られた。TBSのプロジェクトと同時期に行われ、埋蔵金研究者の八重野充弘が企画・出演した。
 ・日本テレビの『TVムック謎学の旅』においても「かごめかごめ」の説を元に別の場所を予想し、金属探知機による調査が行われた。


 ただの「夢物語」といったら、身も蓋もないですが・・・。最近でも世界でもナチスの隠した財宝が発見されたとかのニュースが話題になりました。こうして「埋蔵金」があることを確信し、今でも粘り強く探している方々の存在はやはり「貴重」ですね。

「丁子屋 房右衛門」。


倉賀野宿(くらがのしゅく)
 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。
 5世紀頃、この地域には浅間山古墳などの大古墳が築造されました。鎌倉時代には武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名のり、南北朝の頃には倉賀野城を築城、戦国期になって上杉、武田、北条氏の勢力争いに巻き込まれ、天正18年(1590)に倉賀野乗は落城して廃城となった、そうです。
 江戸時代に入り、中山道が整備されると、倉賀野宿となりました。また、烏川には倉賀野河岸が整備され、江戸と信越方面を結ぶ物資輸送の中継地であったことから、宿場は参勤交代や旅人、船頭、人足、町人などで大変賑わいました。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人。明治に入っても明治16年(1883)に鉄道が敷設されるまでは、東京や信越方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった、ということです。
         

(11:45)しばらく進んだ右手に「倉賀野古商家おもてなし館」。

 最近、つくられたようです。大きな座敷と湯茶の接待などもあって、ゆっくりできます。
 この建物は、かつては「大黒屋」の屋号で穀物商を営んでいた蔵造りの商家。中山道からの路地に並んで建つ土蔵のナマコ壁が続きます。明治後期に曳家をしたもので、明治6年(1873)の築造といわれています。



 そろそろお腹も空いてきたので、中にお邪魔してお茶をいただきながら、コンビニで買っておいたおにぎりを。



 さて、再開。すぐ先には「太鼓橋」。
    

 五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり、板橋であったため、度々の大水で押し流されました。享和3年(1803)、当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。
 その石は、倉賀野宿の繁栄を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進したと伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
 参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です。

 解説板には「宝蔵橋」(正式な橋名)と刻んだ柱石の写真が載っています。橋の下に流れていた五貫堀(「倉賀野城」外堀)はすでに暗渠になっています。

 (12:12)左側にあるスーパー「ベイシアマート」の駐車場に「倉賀野本陣」の石碑と解説板があります。

     

倉賀野宿本陣跡
 倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・久下などが休息・宿泊する場でした。倉賀野の本陣は1軒で、元和年間(1615~23)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。
 往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330㎡)もある広大なものでした。

向かい側に古民家。空地には現代的な建物が建つのでしょうか? 

 倉賀野駅前交差点先に「倉賀野仲町山車倉」があり、その前に「中仙道 倉賀野宿 御傳馬人馬継立場跡」という石碑があります。「問屋場」があったところ。

    

そこから来た道を振り返って望む。まだ雪が残っています。

    
                             「脇本陣」だった須賀家。

 倉賀野宿の建物は、幕末・安政期の大火や旧中山道の拡幅工事などで明治に入って建てられた建物が多いようですが、かつての宿場町のようすをよく残した建物が残っています。

向かいの民家の前にはもう一軒の「脇本陣」だった跡碑。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その4。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-14 21:46:31 | 旧中山道

 (12:19)街道の右手には「高札場」が復元されています。
    

高札場・上町問屋場跡
 江戸時代を通じてこの辺りには高札場・上町の問屋場・二軒の脇本陣などがあり、倉賀野宿の中心街をなしていました。
 高札場は、問屋役兼年寄の須賀長太郎家(須賀長)の前にあり、高さ3.6m、屋根付きの大きなもので、幕府の禁令や高崎藩のお触れなどの高札が十数枚掲げられていました。
 問屋場は、宿場の重要施設で、幕府が定める公用の人馬及び物資・書状などの継ぎ送りを主要な業務とする一種の役所でした。
 倉賀野には三ヶ所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町の閣問屋場が十日間ずつ務めました。
 上町の問屋場は、ここ須賀長の前に設けられ、毎月中旬の十日間、毎日問屋一人、年寄一人、帳付一人、書役二人、馬差一人以下二十人ほどが勤務していました。

                      

「高札場」の裏手に、一本の樅の木と解説板が。    

 安政3年(1855)3月、倉賀野宿が大火に見舞われ、一面、焼け野原になったが、ただ一軒焼けなかった。どこからか大天狗が現れ、楓の木から樅の木と飛び移って迫ってくる猛火を鎮めた、という。その楓と樅の古木は枯れ、現在の樅の木に植え替えられたそうです。(かなりの長文の解説文なので、要約)

宿場独特の間口が狭く、奥行きが長い敷地がそのまま今も。

ところどころにしっかりした古いおうちが。

しばらく進むと、安楽寺境内に異形板碑がいくつか。

    

 板碑は中世仏教で使われた供養塔のこと。板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。現代の卒塔婆に繋がる。
 板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。(以上「Wikipedia」参照)

 ここの板碑は室町時代のもので、砂岩でできた将棋の駒形をしています。なお、「安楽寺」付近が倉賀野宿上の木戸(京側出入口)があった場所らしい、とのこと。

(12:30)少し先の「上町西交差点」に『一里塚』跡の解説板。
    
中山道の一里塚跡
 一里塚は、江戸幕府が慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。
 ここにあった塚は日本橋から26番目のもので、規模は径が約15m、高さが約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、「一里山」と呼ばれていました。
 明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。

 「一里山」という地域名は「東海道」でもおなじみでした。道路が広く整備された時に解説板が設置されたようです。
                    

 この先、右手には「松並木」が続きます。最近整備されたようで、若い松の木が植えられています。 
    

    
 (12:49)ドラッグストアや車屋さんが並ぶ街道を進むと、左手前方にこんもりした森が見えてきます。「浅間山古墳」です。の裏手を斜めにあぜ道を進むと古墳に登ることが出来るようですが、「ダイハツ」さんの駐車場から遠景をパチリ。

「浅間山(せんげんやま)古墳」。

 全長171.5mの前方後円墳。後円部の直径105.5m、高さ14.1m。前方部の長さ66.3m高さ5.5m(現状は畑地)。周囲の環濠部は現状、畑地や水田となっている。築造された年代はおよそ1,200~300年ほど前。4世紀末から5世紀初頭。地方豪族の墳墓と考えられている。群馬県内では2番目の大きさ。


1880年代のようす。○が「浅間山古墳」。上の街道が「中山道」。長い(杉)並木になっている。

この辺りで松並木も終わり。来た道を振り返る。

右手に「旧中山道」の標識。

左手には高崎駅名物「だるま弁当」の工場。 

(13:02)この先で旧道は広い道路から右の道に入って行きます。



 途中行き止まり。その先で再び右に入って行きます。路地裏のような道ですが、先達の案内ですとこれが旧道らしい。再び合流すると、そこに「旧中山道」という古びた矢印があります。

 ②

 ④ 

(13:06)分岐点から振り返って望む。  

「高崎宿」に向かいます。「→高崎宿 1.5㎞ ←倉賀野宿 1.8㎞」。

「国道17号(現中山道)」をくぐる。

(13:29)そこを越えて、次の交差点。「高崎宿まで0.5㎞」。

 (13:35)新幹線の高架橋をくぐり、「上信電鉄」の線路を越えると、「高崎宿」。
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新町宿から藤塚一里塚まで。その5。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-13 21:19:28 | 旧中山道
 高崎宿は、城下町だったことで本陣や脇本陣もなかったようです。

高崎宿(たかさきしゅく)
 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて13番目の宿場。また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。

      (歌川広重)

(以上、「Wikipedia」より)

 「三国街道」は「本町1丁目」交差点から「中山道」と分岐して北に向かう街道。
 ちなみに、日本橋から「現・中山道」として進んできていた「国道17号線」とも「君が代橋」東詰でお別れ。「国道17号線」は「三国街道」の一部を継承しつつ、新潟に向かいます。「旧中山道」は、その先、「国道18号線」とつかず離れずで進みます。

    
 広い通りを進みます。                      振り返って望む。特に宿場町らしい特徴はなし。

 高崎駅広場で小休止して、再開。

高崎駅西口からの中心街の一画「連雀町」。

連雀町の由来」碑。

 連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
 さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。

 高崎の散歩道より 

 「連雀町」は、「掛川」「浜松」「岡崎」など、東海道中の城下町でもなじみの町名です。いずれも上のような共通の根拠があります。

村上鬼城俳句・英訳句。  念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな

村上 鬼城 むらかみ きじょう(1865〜1938) 境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星

痩馬の あはれ機嫌や 秋高し
いささかの 金ほしがりぬ 年の暮
麦飯に 何も申さじ 夏の月

 鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。
 実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。

五月雨や 起き上がりたる 根無草
蟷螂の 頭まわして 居直りぬ

など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。

浅間山の 煙出て見よ 今朝の月
雹晴れて 豁然とある 山河かな

 郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。
 また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。
 村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。
 鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。
 24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。
 「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。
 子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。
 大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。
 大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。
 昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)
 鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。

    (HPより)」

    

 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きで賑わいました。その「絹市場」の雰囲気を今に伝える飲食を主とした「市場」が再現されています。

絹市場の由来
 高崎生絹大織売買所は通称「絹市場」と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。

(14:37)本町3丁目の交差点を左折します。

黒い重厚な印象の土蔵造りのおうち。

こんな造りのお店も。

 「旧中山道」は、「本町1丁目」交差点で国道354号と離れてまっすぐ「赤坂通り」という細い道に入ります。この交差点が「三国街道」との分岐点。

             「赤坂通り」。

(14:52)左手に煉瓦造りの煙突。「岡醤油醸造」。

    

岡醤油醸造の事務所と煙突
 岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
 中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
 裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。 

その向かい側にあるのが「山田文庫」。

 その先の「常盤町」を右折し、烏川方向に向かいます。「ボーリング」などの施設があるスポーツセンターを過ぎると、道が広くなります。
右手奥に三層? の建物は「常仙寺」。
 
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新町宿から藤塚一里塚まで。その6。(旧中山道をゆく。第7日目。)

2016-02-12 21:17:11 | 旧中山道
 (15:05)「君が代橋」を渡る手前の広場にあるのが「君が代橋」親柱。

君が代橋親柱
 君が代橋という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されました。 
 この君が代橋親柱は、昭和6年に木橋から鉄橋に架け替えられたときのものですが、昭和53年より10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられた際、ここに移設されたものです。
 昭和62年3月 建設省高崎工事事務所

 自動車道が複雑に交差して、なかなか橋への道が分かりにくい。橋の向こうから自転車通学の高校生がやってきた、その道筋を確認して、何とか歩行者用の道を渡ることに。

    
                                        橋桁の向こうは「榛名山」。

    
 下流方向(高崎市街地)。                       上流方向(榛名山)。

(15:15)「烏川」を渡ってすぐに右折し、「国道406号線」へ。

 まもなく「下豊岡町西」の信号で、国道から離れて左に進みます。その角に追分の道標・石標「右 くさつ道」があったはずですが、見逃しました。けっこう辺りが寒くなってきました。先を急ぎます。 

 (15:30)この通りには高崎名物のだるまの製造工場をいくつか見かけます。
    

かなりの直線道路。けっこう長い!

上豊岡町交差点で「国道18号線」に合流する手前に、「茶屋本陣」。
 上豊岡の茶屋本陣は、中山道の高崎宿と板鼻宿との間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食等のために用いられた休憩施設です。宝暦7(1757)年には日光例弊使であった五條宰相菅原為成が、また文久元(1861)年には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄ったことがわかっています。
 茶屋本陣の建物は、既にあった居住用の主屋(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として19世紀の初めに増築されています。大名などが休息をとる「お座敷(オザシキ)」は8畳2室からなっており、北側の部屋は「上段の間(ジョウダンノマ)」、南側の部屋は「次の間(ツギノマ)」と呼ばれ、上段の間には違棚、床の間、書院が設けられています。


(以上、「」HPより)

(15:51)「国道18号線」と合流します。土手沿いに進みます。

振り返って望む。正面奥の道から来ました。

 本来、ここから土手に上がるのはなくて、まだ先の方で。ジグザク道をしばらく行って国道に合流し、「一里塚」の先でやっと土手に上がるのが正しい、らしいです。

左手、国道沿いの駐車スペースの先に「藤塚一里塚」。

    

(16:03)道路をはさんで右側にはお宮が。

説明板が不鮮明な箇所もあるので、「」HPより。

 一里塚というのは、慶長9(1604)年に江戸幕府2代将軍秀忠(ひでただ)の命令で主な街道が整備された時、街道一里(約4キロメートル)ごとに目印として築かれたものです。
 江戸時代、江戸(現在の東京)から京都までのルートには、海沿いの東海道と山沿いの中山道(なかせんどう)がありました。
 高崎市上豊岡町にある一里塚は中山道沿いに設置されたもので、、群馬県で唯一形の残っている一里塚です。塚の上には、樹齢400年と言われるムクノキが茂っています。
 この一里塚は江戸日本橋から28里にあたり、中山道で江戸からの距離は約112kmになります。
 なお、中山道は中仙道と記されることもありますが、正徳6(1716)年に幕府から、「海道に対する山道であるから、公文書では中仙道の文字はあやまりである」というお触れが出されたそうです。

土手の上からの一里塚。

草むらの中には祠が。

「碓氷川」の土手はまだまだ続きます。「←板鼻宿 2.5㎞ →高崎宿 3.6㎞」

  

 一里塚からその先を進んできて、携帯の電池が切れかかってきました。これ以上行っても「板鼻宿」にとうてい着けません。今回はここまでとします。
 しかし、「群馬八幡」駅まで戻るにはけっこうかかりそう。国道から駅に向かう途中にあったラーメン屋さんでビールを飲んで、ひと休み。

 「藤塚一里塚」付近のようす。



 1880年代のようす。



 ほぼ同じ場所の1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

(17:25)「群馬八幡」駅に着く頃には陽もすっかり落ちて、残照。「妙義山」が遠くにシルエットで。

 
 
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本庄宿から新町宿まで。その1。(旧中山道をゆく。第6日目。)

2016-02-07 21:13:10 | 旧中山道

 2月2日(火)。午後からの予定がなくなって、せっかくの晴れ間。11時少し前の上野発高崎行きに乗って「本庄」までやってきました。到着は12時20分過ぎ。車内で弁当を食べて、準備万端、のつもり。
 ところが、降り立ってみると、かなり風が冷たく吹く昼下がり。時々雲がお日様を遮り、体感的にはけっこう寒い! せめて3時間くらいは歩いて「新町宿」までは、と歩きはじめました。思ったよりも北風が強く、寒さにちょっとくじけそうに。

本庄宿

 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて10番目の宿場。
武蔵国の北部国境付近に位置し、武蔵国最後の宿場。江戸より22里(約88km)。中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場で、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた。
 市街地の北西端には、中山道と信州姫街道の追分がある。場所は、現在の千代田3丁目交叉点付近。追分はT字路状で、江戸側から見ると、左折すれば信州姫街道、右折してすぐ左折という枡形ルートで中山道京都方面、となっていた。
 元禄6年(1693年)頃では384軒ほどだったが、享保7年(1722年)には500軒となり、文化8年(1811年)には1072軒、文政5年(1822年)には1088軒、天保14年になると1212軒となった。
 中山道では本庄宿に次いで大宿なのが、近江国の高宮宿(64番目)、武蔵国の熊谷宿(8番目)、上野国の高崎宿(13番目)、美濃国の加納宿(53番目)となる。
 商家を中心に構成されていた宿内だが、寛永2年(1625年)に参勤交代が制度化され、この時、本庄宿に田村本陣などができた。しかし、宿泊人数が増え、本陣だけでは対応できなくなってきたため、明暦2年(1656年)頃には内田脇本陣ができた(寛政4年(1792年)には本陣に昇格している)。田村本陣は北本陣と言い、現在の中央1丁目6番付近にあった。
 本陣が2軒、脇本陣が2軒。一般の人々が宿泊する旅籠(はたご)も多く軒を並べた。たとえば、文化元年(1804年)には町並み全体の475軒に対し、77軒と多い。特に仲町の日野屋は上級であったと言われる。これらとは別に、飯盛旅籠屋もあり、天保13年(1842年)には54軒を数えている。
 本庄宿は、商人(あきんど)の町として発展していったため、店の種類が多い。
医師、殻屋、豆腐屋、米屋、酒屋、煙草屋、菓子屋、八百屋、古着屋、桶屋、建具屋、鍛冶屋、傘屋、研師、陰陽師、職人、大工、石工、髪結、畳屋、鋳掛屋、経師屋、薬種屋、魚屋、本屋、質屋、両替屋など。
 本庄宿の19世紀当時の風景を今に伝えるものとして、渓斎英泉作中山道六十九次の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』があるが、その他にも幕府が作成した『中山道分間延絵図』である。これは寛政12年(1800年)から文化3年(1806年)にかけて作成された国内の各道中を集成した測量絵巻。縮尺は約1800分の1で、1982年に国の重要文化財に指定されている。この『中山道分間延絵図・本庄宿』の模写(レプリカ)は、本庄市立本庄歴史民俗資料館の2階に展示されている。
 本庄宿が中山道で最大の宿場町と成り得たのは、早い時期に城が廃城(本庄藩が廃藩)となったことで、城下町全体を宿場町としてそのまま利用できたことによる。文字通り、城下町(武家の領地)から宿場町(商人の町)へと方向転換していった町であり、幕府の政策意向による。結果として、大飢饉や天災が生じた時でも、諸藩が財政難から領民を救えなかったのに対し、本庄宿では豪商達が宿内民の救済処置に当たることができた。
 基が城下町であるため、道が入り組んで細かいことも特徴の一つであり、近年になって道路整備が行われるまで、複雑な町の造りが交通事故の多さに繋がっていた。
 本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けており(特に町の拡大が進んだ18世紀から)、近世当時の面影を残す建物は少ない(明治期の近代建築の方が目立つ)。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されている。これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。その理由は、火事になった時、防火帯の役目をはたしたからである。商家の資産を保管していた、こうした蔵々が火災の時に盾となった。これも近世当時の建物が少ない理由である。

      
               『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』天保6- 8年(1835-1837年)渓斎英泉 画

 宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている)。
(「以上、「Wikipedia」参照)

 歴史のある街並みのようす。「本庄駅入口」で中山道に復帰。すぐそばの「りそな銀行」付近が「田村本陣」跡ということですが、特に標識はありません。
 
 しばらく進むと、「戸谷八商店」。「創業永禄3年」とあります。その前のおうちは「創業 元禄二年」とありました。「永禄3年」は西暦1560年、桶狭間の戦いがあった年。「元禄2年」は、1689年、芭蕉が「奥の細道」に出かけた年。その古さに驚きです。
           

(12:35)続いて「本庄仲町郵便局」。昭和9年建設のもの。

その脇には「中山道 本庄宿」の碑。

そして「ほんじょう かるた」。史跡にちなんだ「かるた」が要所、要所に。


「本庄市歴史民俗資料館」への曲がり角にある「蔵髪」さんのお店。

 古い蔵造りのお家をそのまま再利用。なかなか粋なお店つくり。

    

 その角を右に曲がって少し進み、右に入ったところにあるのが、「本庄市歴史民俗資料館」。そこに「田村本陣」の正門が移築されています。

    

本庄市指定文化財 田村本陣門
 この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
 本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の杭域で寛永16年(1642)から宿泊記録が残されています。

 本庄市教育委員会

 その奥にあるのが「資料館」。明治16年(1883年)に旧本庄警察署として建設されたものを利用しています。 

   建物正面にはコリント式列柱を配したバルコニーがあって、当時のハイカラな印象を今も残しています。

「小倉山房石碑群」。

                                            

 「資料館」から出て、すぐに中山道に戻らずに右に行くと、小さな橋ですが、趣のある親柱が。
    

賀美橋 国登録有形文化財
 この橋は、大正15年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート桁橋です。従来の伊勢崎道の幅員は狭く、「寺坂」と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため、荷車や自動車等の増大する交通量に対応できませんでした。また、利根川には仮設の木橋が架けられているのみであったため、当時の基幹的な産業であった生糸・織物業関係者の通行に不都合が生じ、坂東大橋の架設に伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのがこの橋です。この橋は、近代的な意匠を凝らした装飾をもつ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代化遺産です。

 平成25年3月 本庄市教育委員会

「元小山川」の流れ。

 煉瓦造り倉庫。「本庄商業銀行」。1896年(明治29年)に建てられたもの。生糸産業全盛期に、本庄商業銀行が繭や生糸を担保にお金を貸していた、その倉庫となっていました。
 1976年(昭和51年)からは「ローヤル洋菓子店」の店舗兼工場として使われていましたが、平成23年からは本庄市の所有となりました。現在、修復工事中。

    

左手にあるお蕎麦屋さん。

 ちょっと横町を覗くと、蔵造りの建物が多く残っています。市ではそれを生かした街づくりを進めているようです。詳細な解説版が掲示されていましたが、内容は省略。

    
 ここは「本庄・宮本 蔵の街」です。旧小森商店(酒問屋)の跡地、建物を保存活用しました。

                     
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本庄宿から新町宿まで。その2。(旧中山道をゆく。第6日目。)

2016-02-06 20:24:39 | 旧中山道
 「本庄宿」は町としての奥行きが深く、まだまだ見どころはたくさんありそうですが(たぶん横町に入ったならよけいに)、機会があったらじっくりと見て回ることにして、先を急ぎます。

(13:15)「本庄宿」の西の出口にあるのが「金鑚神社」。その神社に沿って街道は右に曲がります。歩道には中山道の67の宿場名と絵図(ただし、絵図は、武蔵国のみ)のパネルがはめ込まれています。


来た道(「本庄宿」内)方向を振り返って望む。

宿場特有の桝形になっています。


1880年代のようす。○がこの付近。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 歩道を渡った道路の反対側にもあります。  
                                                               「67・草津宿」が最後に。

中山道は左に折れて進みます。遠く正面には山並み。

(15:36)右手が開けてくると、遠くには赤城山。

 道路沿いは、かつては田園地帯だったのでしょう、昔風の大きな家、屋敷が目立つ中、一戸建て建売住宅なども。
「上里町」に入ります。

(13:52) その先の左手に「浅間山古墳」。こんもりした丘になっています。
    

浅間山古墳 町指定文化財
 浅間山古墳古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は、直径約36㍍、高さ約6㍍の円墳と考えられます。主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り両袖型積穴式石室です。石室の規模は、全長約9.48㍍、埋葬部にあたる玄室は長さ6.48㍍、奥壁幅22㍍、最大幅24㍍、天井高25㍍です。入口にあたる羨道は長さ約3㍍、幅1.2㍍、高さ1.8㍍です。

回り込んだところから。

道をはさんだ目の前には「中仙道」の碑。

 その先の右手には「泪橋の由来」碑。
    

泪橋の由来
 此の地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先仲山道に 泪橋なる橋ありき
 昔徳川幕府は大名諸役等通行の砌街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり
 農繁のさ中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々此の橋に憩い家族を偲び身のはかなさを多嘆じてか泪しきりなり と
 
 「東海道」などの街道筋では「泪橋」といえば、刑場に送られる罪人との涙の別れの橋でしたが、この橋は意義の異なった橋です。

のどかな田園地帯を進む。振り返って望む。

(14:10)左手に「庚申塔」。 右手にも

(14:18)しばらく道なりに進み、「神保原1丁目」交差点で右に曲がります。曲がるとすぐ「17号線」にぶつかるので、そのまま交差点を渡って斜めに進みます。
    
  「国道17号線」。                        渡ったところから振り返って望む。

左手に小さな祠があり、参道の両側に庚申塔などの石碑群。

(14:31)その先の右手には「金久保神社」。

 金久保神社は、金窪城主斉藤盛光が大永5年(1525)に鎌倉八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、神流川合戦で金窪城落城ともに焼失したが、その後、村民によりこの場所に遷座したと伝えられています。拝殿には狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描かれた天井絵があり、中央に雲竜図が描かれ、そのまわりに66枚の花鳥図が描かれています。

その先に「金窪城址」碑。    

「三国道入口」碑。

(14:38)はるか右手に「赤城山」の裾野が広がっています。

「中山道解説板」。  

中山道 
 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
 金窪村(元上里町大字金久保)は江戸から23里余。文政期(1818から)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは陽雲寺の東で北へ向きを変えて角淵(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは中山道中最も遅い承応2年(1653)頃です。
 勅使河原村(元上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道はここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺がみえます。

 上里町教育委員会

その付近から振り返って望む。

(14:44)赤城山の雄大さについ見とれてしまいます。

「賀美小学校」の校庭の片隅にポツンと「二宮金次郎像」。

(14:48)そして「賀美村道路元標」が。
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