こうして「アプトの道」を折り返して戻ってきました。行くときはさほど感じなかった道の傾斜。横川へ向かう時にはさっさと下っていきます。足下がどんどん進む感じ。緩やかながらけっこう上っていたのですね。
「めがね橋」を再び通り、「碓氷湖」を眼下に見て下ります。「峠の湯」の手前に「旧中山道」との道しるべがあったので、それに従って右に折れ、「旧18号」を下って行くと、「坂本八幡宮」のところに出ます。ここから先、東が「坂元宿」。西(京方)の木戸口跡があります。振り返ると、「刎石(はねいし)山」。碓氷峠越えはその山を進みます。
今回は、日本橋から京へ向かうコースではなくて、西から東へ歩いての紹介です。左右が反対になっています。
坂本宿(さかもとしゅく)
中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場。
現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、参勤交代の実施に伴い、計画的に造られた。道幅が広く、整然と町並みが整備されている。西に碓氷峠、東に碓氷関所を控え、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人であった。
(渓齊英泉 画)
正面奥に描かれた山が「刎石山」。山容が東海道・平塚宿上方見附付近から見た、お椀を伏せたかたちの高麗山に似ています。また、左側に描かれた用水路が現在もあります。
坂本宿からの「刎石山」。
左手に芭蕉句碑があります。
安中市指定重要文化財 芭蕉句碑
江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連が、春秋庵加舎白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
高さ1.67m・幅 基幅1.37m・頂部幅0.6m・厚さ約0.2m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
書体は「筑羅様」で、句は紀行文「笈の小文」にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。
ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ
安中市教育委員会
「坂本宿・上木戸」。奥に見える山は「妙義山」。
その木戸裏手に「橋供養」塔などが。
各家にはかつての屋号が掲げられてあります。一直線の幅広い道の両側には多くの旅籠があった、盛況ぶりを思わせます。今は、静かな山間の集落です。
お店も少ない。「デイリーヤマザキ」さんとここと・・・。
上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡。 東 江戸へ三十四里 西 京へ百二里
歌人・若山牧水が泊まった「つたや」跡。
さらばなり 信濃の国の ほとゝぎす 碓氷越えなば また聞かめやも (「独り歌へり」所収)
わかれても 十日ありえず あわただし また碓氷越え 君見むと行く
秋かぜや 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰の唄
小林一茶の定宿「たかさごや」
信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。
坂本や 袂の下は 夕ひばり
その付近から刎石山を望む。
坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
間口6間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは8畳二間に廊下、中庭をはさんで8畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。
刎石山方向を望む。右手奥に。
(「別離」所収)
「坂本宿」の案内図。
「めがね橋」を再び通り、「碓氷湖」を眼下に見て下ります。「峠の湯」の手前に「旧中山道」との道しるべがあったので、それに従って右に折れ、「旧18号」を下って行くと、「坂本八幡宮」のところに出ます。ここから先、東が「坂元宿」。西(京方)の木戸口跡があります。振り返ると、「刎石(はねいし)山」。碓氷峠越えはその山を進みます。
今回は、日本橋から京へ向かうコースではなくて、西から東へ歩いての紹介です。左右が反対になっています。
坂本宿(さかもとしゅく)
中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場。
現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、参勤交代の実施に伴い、計画的に造られた。道幅が広く、整然と町並みが整備されている。西に碓氷峠、東に碓氷関所を控え、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人であった。
(渓齊英泉 画)
正面奥に描かれた山が「刎石山」。山容が東海道・平塚宿上方見附付近から見た、お椀を伏せたかたちの高麗山に似ています。また、左側に描かれた用水路が現在もあります。
坂本宿からの「刎石山」。
左手に芭蕉句碑があります。
安中市指定重要文化財 芭蕉句碑
江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連が、春秋庵加舎白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
高さ1.67m・幅 基幅1.37m・頂部幅0.6m・厚さ約0.2m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
書体は「筑羅様」で、句は紀行文「笈の小文」にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。
ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ
安中市教育委員会
「坂本宿・上木戸」。奥に見える山は「妙義山」。
その木戸裏手に「橋供養」塔などが。
各家にはかつての屋号が掲げられてあります。一直線の幅広い道の両側には多くの旅籠があった、盛況ぶりを思わせます。今は、静かな山間の集落です。
お店も少ない。「デイリーヤマザキ」さんとここと・・・。
上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡。 東 江戸へ三十四里 西 京へ百二里
歌人・若山牧水が泊まった「つたや」跡。
さらばなり 信濃の国の ほとゝぎす 碓氷越えなば また聞かめやも (「独り歌へり」所収)
わかれても 十日ありえず あわただし また碓氷越え 君見むと行く
秋かぜや 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰の唄
小林一茶の定宿「たかさごや」
信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。
坂本や 袂の下は 夕ひばり
その付近から刎石山を望む。
坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
間口6間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは8畳二間に廊下、中庭をはさんで8畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。
刎石山方向を望む。右手奥に。
(「別離」所収)
「坂本宿」の案内図。