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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その1。線路はそのままに。(「荒川」を遡る。番外編。)

2021-05-04 18:34:17 | 鉄道遺跡

「熊谷駅」に着いて、もう一箇所探索したいところがあります。それが「東武鉄道 熊谷線跡」。

久々の廃線跡歩きです。

「熊谷線」は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた

もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年昭和18年)12月5日に熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。

熊谷市石原付近(上熊谷駅 - 石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間はないため秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用し、熊谷駅 - 上熊谷駅 - 熊谷市石原付近を仮線として開通した。軍事路線であったため、ほぼ一直線に邑楽郡大泉町を目指すルートとなっている。住民の生活路線として建設されたものではなかったので、沿線の集落、交通を考慮したルートではなかった。

しかし、第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤内の1脚のみが群馬県側に残っている。

東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが、急を要するため一部の路盤は単線分しかなく、残った用地での耕作は事実上黙認され、熊谷市妻沼町の台帳に登録されていない幻の耕地ということになり、戦後の食糧難時にそこで収穫された物はヤミ食料として出回ったといわれ、熊谷線はヤミ食料の買い出しで大変混雑した。今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である。

開通以来赤字続きだったこともあり、1983年(昭和58年)5月31日の運行限りで廃線となった。

開通当初は、館林機関区所属の蒸気機関車B2型27・28号機牽引で運転されていた。熊谷駅 - 妻沼駅間は工員輸送しか行われず、資材輸送は行われなかった。日夜を違わずピストン輸送が行われ、妻沼駅から工場までの連絡は東武バスによって刀水橋を経由して行った。妻沼駅に着いた列車からバスへの乗り換えがうまくいかないと憲兵が飛んできたそうである。また熊谷線は米軍機による被害はいっさい出さなかったが、乗務員は乗客を守るために米軍機を見つけると木立の陰に列車を停車させ隠すなどしていた

終戦後は工員輸送も終わり、利用者の比較的少ない熊谷線は本線よりも低質な石炭をまわされたため、高崎線とのオーバークロスで蒸気機関車の蒸気圧が上がらないために勾配を登るのが大変で低速運転となり「埼玉県立熊谷商業高等学校の生徒たちはあまりに遅いので列車を飛び降り、土手を下って学校に行ってしまった」という話も聞かれた。後にはやや改善したものの、その鈍足ぶり(熊谷 - 妻沼間10.1キロを24分)から、沿線乗客には揶揄混じりの「のろま線のカメ」「カメ」と呼ばれていた。

1954年(昭和29年)に旅客列車の無煙化を図り、3両導入した東急車輌製の気動車キハ2000形は17分で走破し、またその姿から「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、「カメ号」に戻った。

熊谷線で使用されていたキハ2000形。
                 (熊谷市立妻沼展示館の保存車キハ2002)

(以上、「Wikipedia」参照)

                                          1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

この時点ですでに廃線化されているような様子ですが。

 

その廃線跡が公園、遊歩道として残されています。「中山道」歩きのときに公園の一画に立ち寄りました。その時以来、気になっていた廃線跡です。

(「」HPより)

ということで、廃線跡をたどっていきます。

秩父鉄道線の隣に途切れた線路。熊谷駅方向。

この先、踏切の向こうには線路が続きます。右はJR高崎線。

秩父鉄道・上熊谷駅。

「国道407号線」の陸橋から西を望む。

          

草地の続くところに線路が。

次の踏切から熊谷駅方向を望む。

西を望む。左は新幹線の高架。

新幹線、秩父鉄道、熊谷線(跡)、JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)と並んでいます。

この先で高崎線は右に曲がっていきます。秩父鉄道と併行して熊谷線(跡)が進みます。

 

線路はそのまま残っています(右手奥)。

新幹線敷地と秩父鉄道との仕切りには枕木が。

次の踏切から廃線跡を望む。この先で秩父鉄道と離れ、右方向に進む「熊谷線」。右奥の茂みまで続く線路。舗装道路にも跡が。                                                                         

 

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名鉄線「旧美濃駅」。路面電車。野口五郎。うだつが上がる。美濃和紙。関の孫六。美濃焼。・・・

2020-01-29 18:41:49 | 鉄道遺跡
                      1月26日(日)晴れ。所用ではじめて岐阜県美濃市に出かけました。
 新幹線「岐阜羽島」駅まで迎えに来てもらいました。開業当時は周りには何もなかったこの駅もビジネスホテルなどができて、少しは賑やかな感じ。
 車で約1時間。高速道路ができ、名古屋に行くのにもけっこう便利になった、とのこと。
 美濃市は、日本の中心部または岐阜県の中心部に位置しています。夏の猛暑でも有名。2007年8月16日には最高気温40.0°Cを観測、2018年には7月18日(40.6°C)、8月3日(40.3°C)、8月6日(40.3°C)、8月8日(41.0°C)の計4回、40°C以上の最高気温を観測した。このうち8月8日に観測した41.0°Cは、岐阜県下呂市金山(2018年8月6日)、高知県四万十市江川崎(2013年8月12日)と並んで国内観測史上2番目に高い記録で、岐阜県内の観測史上最高気温でもあった。・・・

 この地はいろいろ見所があるところのようですが、ちょっと帰りの車で寄っただけでした(それも一か所)。

          
美濃町線 旧美濃駅
 名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44年(1911)2月に神田町駅から上有知間を開業しました。
 大正12年(1923)10月に美濃駅が当所に開設されて以来、地域住民をはじめ多くの方々の重要な交通機関として、地域相互の交流・発展に貢献してまいりました。
 しかし、日本経済が急速な発展を遂げるとともに車社会の進展により、平成11年(1999)4月1日には、美濃町線新関駅から美濃駅間が廃線となりました。
 ここに残る旧美濃駅は、美濃町駅から美濃駅間の廃線にあたり、先人が築き上げられた功績を称えるとともに、永く歴史にとどめるものであります。
                                                                美濃市
より詳しく。
登録有形文化財旧名鉄美濃町線美濃駅本屋・プラットホーム及び線路
指定年月日 平成17年2月9日
 旧名鉄美濃駅は、大正12年10月1日に現在地にて開設されたもので、平成11年4月1日の名鉄美濃町線新関-美濃間の廃止により、当時の駅舎、プラットホーム、線路が保存されているものです。
 名鉄美濃町線・岐阜市内線の前身である美濃電気軌道株式会社は明治42年資本金50万円、社長才賀藤吉(大阪電気商)、取締役松久永助・正木三郎四・須田清英(美濃町)他4名で設立されました。明治44年2月1日に神田町(岐阜柳ヶ瀬)-上有知間24.9㎞を開業し、開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。大正12年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
 保存されている駅舎・プラットホーム・線路(カーネギー製、1919年)はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。美濃橋(重要文化財)とともに、大正期の貴重な近代化遺産です。
(この項、「」HPより)

 地元の方々の保存運動、維持などが熱心に取り組まれているようです。
駅舎内。右の電車は段ボール製。

使用車両のパネルが掲示されています。

改札窓口には何やら写真がいっぱい。
「野口五郎」の出身地だそうで、気がつくと、至る所に若い頃の写真などが所狭しと飾られています。

 「西城秀樹」「郷ひろみ」とともに、新御三家の一人として、男性アイドルとして一世を風靡しました。妻はタレントの三井ゆり。子供は一女一男。
芸名は北アルプスにある「野口五郎岳」に由来する。現在では歌手・野口五郎の知名度が高く、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人もいるという。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補となっていた。野口五郎とどちらかを選ぶように言われ「山の名前を芸名にするなら高い山のほうがいい」と考えて、黒部五郎岳 (2840m) よりも高い野口五郎岳 (2924m) にちなんだ野口五郎を選んだという。当初は「水城哲也」という芸名でデビュー予定であった。(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに初代「御三家」は、「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」だったかな?

 すでに齢65歳を過ぎているようです。
 ちなみに、我が家の近所に「野口六郎」商店というのがありました。そこは、更地になり、マンション建設中です。

 旧ホームにはモ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号(前の部分だけ)が保存車輌として展示されています。


                          

 
                          路面電車なのが魅力。地元密着の庶民の足という印象。

車内にも入れます。家族連れが運転席に。楽しく操作しています。

この先が旧線路跡で、道路となっています。

          

 また、うだつの上がる町並み」も観光地として有名なようです。

 ・・・「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
美濃市は、江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っています。
 ・・・
(「ぎふの旅ガイド」https://www.kankou-gifu.jp/ HPより)
ここは、車から横目で眺めただけでしたが。

 岐阜県美濃市は、美濃和紙を基幹として栄えた商人の町です。長良川左岸の小倉山城の築城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核とした「うだつの上がる町並み」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、2014年(平成26年)11月には本美濃紙「日本の手漉き和紙技術」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙とうだつが上がるのどかな町並みを歩いてみませんか?
(「」HPより)

 そう、「美濃紙(和紙)」の町としても有名です。

和紙とは・・歴史が産み、育てた紙
・・・
 日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子で朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。
 明治時代、インクや印刷機、洋紙が流入し、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれることがほとんどです。
 現在、優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への注目が高まっています。江戸時代以降に海外から入って来た、木材パルプを原料とした機械生産による紙を、和紙と区別して言います。ここでは、和紙と用紙との違いを、歴史背景も絡めて紹介します。
 「洋紙は100年、和紙は1000年」という言葉があります。文字通り、和紙と洋紙では紙の耐久性に大きな違いがあります。
木材パルプとインクを使用した洋紙は、多くの薬品を使いほとんどが酸性であるため、100年も経つと黄ばんでボロボロになってしまいます。
 しかし、和紙は天然の植物繊維を、漉くことによって繊維を絡ませることができるため、強靭で保存性に富んでいます。日本で漉かれた紙で最も古いものは、正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の日付のある美濃、筑前、豊前で作られた戸籍に使われたもので、洋紙は、19世紀中ごろに作られた本の3分の1が、今では補修もできないほど劣化してしまっていたといいます。
 見た目の美しさも、大きな違いです。洋紙では白くするために薬品などを使います。和紙の中にも化学薬品を使っていて、時間がたつと黄ばむものがありますが、そうでない和紙は逆に時間とともに光線にあたって白くなる性質があります。和紙は長く大事に使うことによって、時間とともに味わいとすっと手になじむ触感が感じられます。手漉きのため一枚一枚いちまい違った持ち味の和紙は、天然素材で地球に優しく、美しい和紙は、世界からも注目されています。
加工しやすく、強靭であるという点でも違います。洋紙は、低コストで大量生産するために、木材の繊維をすり潰して粉末のようにして使います。
しかし、和紙は繊維をすり潰さず、漉すことでそのまま生かすため、繊維が持つ本来の強靭さを失わず、加工性に富んだものができます。
 和紙は加工用として、雨傘・提灯・行灯・下駄の泥よけ・着物・食器など、私たちの生活と密着な関係にありました。現代では、国内だけでなく世界中で、美術品や文化遺産の補修など、さまざまな用途で和紙が使われています。

「美濃和紙」1300年の歴史
 美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
 和紙の生産に必要なものは、原料である楮、三椏、雁皮がとれること。そして良質の冷たい水が豊富にあることです。美濃は、その二つの条件を満たしており、しかも都にも近かったため、和紙生産地として栄えました。・・・
 民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後でした。
美濃の守護職土岐氏は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開きました。紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなります。
 大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
 そして、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。
こうして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
 明治維新以後も、国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
 しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
・戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。 昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
・・・
「美濃和紙」は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般のことを指します。美濃和紙の中でも、重要無形文化財指定の決まった材料、決まった道具を使って認められた一部の職人が漉いた和紙のみ「本美濃紙」と呼ぶことが出来ます。上品な色合いと、薄くても布のように丈夫で陽の光に透かしたときの優雅な美しさから、本美濃紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきました。
 長い歴史の中で伝統の技を受け継ぎ、本美濃紙は昭和44年に国の重要文化財に指定されました。平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙和紙技術(石州半紙・本美濃紙・細川紙)が登録され、世界的に評価されました。
和紙の原料
楮(こうぞ) クワ科
 現在の主な産地は高知県、茨城県。かつては岐阜県美濃でたくさん取れました。繊維が太く長いため、強い紙が作れます。奉書紙、水墨画用紙、書道用紙などから、和紙人形、工芸品の紙にいたるまで幅広く使われます。
三椏(みつまた) ジンチョウゲ科
 主な産地は四国・中国地方の山地。繊維が短くやや強さをかきますが、表面が滑らかで光沢のある紙ができます。襖(ふすま)紙、印刷用紙などに用いられます。
雁皮(がんぴ) ジンチョウゲ科
 栽培が難しいため山野に自生しているものを使います。細かい繊維で、薄くて強い光沢のある紙ができます。また虫害に強いので保存が必要な紙などに使われます。
トロロアオイ アオイ科
 紙漉きに欠かせないネリ(粘液)として、トロロアオイの根が使われます。くだいた根を水につけると、ドロドロの透明の粘液がとれます。粘液を入れることで、原料が漉槽全体に浮遊するので、漉簀(すきす)の上に汲んだ原料をうまくからませることができます。これにより薄くても強い紙が作れるわけです。・・・
(この項、「」HPより)

 「美濃和紙あかりアート展」(「© 美濃和紙あかりアート展実行委員会」HPより)
 

帰りに、「関」という地名を目にしました。運転してくれた方に、「この関というのは《関の孫六》で有名な日本刀の・・・」「その通りです。」

 鎌倉時代の昔から孫六の息吹が現代によみがえる、日本刀鍛錬。まさに秘伝の妙技。

 関市に刀鍛冶が誕生したのは鎌倉時代。刀祖「元重」がこの関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたといわれています。良質の焼刃土と炉に使う松炭、そして長良川と津保川の良質な水・・・刀鍛冶にとって理想的な風土条件を備えたこの土地にいつしか多くの刀匠が集まりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれた関の刀は、その名を全国に広めていきました。戦国時代には、武将の間で愛用され、無類の切れ味を発揮したといわれています。
 特に「関伝」を有名にしたのは、「関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。兼元(孫六)は、独特の鍛刀法(四方詰め)により頑丈な刀を作ることに成功しました。その後、関市は日本一の名刀の産地として繁栄し、この卓越した伝統技能が現代の刀匠や刃物産業に受け継がれています。そして、今や世界でも有数の刃物の産地として知られています。
(この項、「」HPより)

 「美濃焼」にも触れたいところですが、字数に関係で残念ながら省略。・・・

 岐阜の「高山」にはかつて何回か出かけたことがありましたが、岐阜県は印象の薄い県でした。「美濃」は初めて。まだまだ見所がありそうな、岐阜も奥行きの深いところのようです。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」でご当地は盛り上がっているようです。「美濃国」といえば、斎藤道三。それに仕えたとされるのが明智光秀が、主人公。一時期、女優交代劇で、話題になりましたが・・・。
 次回(2月2日)は「美濃」が舞台のようです。

 また、機会があったら、じっくりと歩いてみたい、と。案内してくれた方に感謝、感謝。
 冬の最中、穏やかな日差しのもとでの一日でした。暑い夏はちょっと遠慮したいですが。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その1。成宗電車線路跡。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-29 21:09:53 | 鉄道遺跡

              久々の街道歩き。今回は成田駅から成田市大栄(たいえい)支所まで、ほぼ国道51号線をなぞる歩き。



 5月25日(土)。快晴。駅を下りると、日ざしが強い(9:46)。街道はまっすぐ門前町として成田山新勝寺まで進むのですが、ここは、かつて路面電車が走っていた「電車道」を行くことに。
 帰りに参道の商店街を歩くことにします。

駅を出てから右手を行き、「成田会館」のところを左折します。
                    遠くにトンネルが見えてきます。

左手奥、高台に表参道。

「第2トンネル」。煉瓦造りで重厚。

                            

 かつてこの道は、「成宗電気軌道(せいそうでんききどう)」という路面電車が通行する軌道でした。


                     

成宗電気軌道(せいそうでんききどう)
 かつて千葉県成田市において軌道事業と電気供給事業を兼営していた企業である。後に成田電気軌道と改称し、さらに千葉県から鉄道路線を譲り受け成田鉄道(2代)と改称した。同社は鉄道事業廃止後成田バスを経て千葉交通となった。
 千葉県唯一の路面電車であった。成田鉄道(現在の成田線の前身)の成田駅から、古くより参拝客の多い成田山新勝寺・宗吾霊堂への路線を敷設する計画は古くからあった。最初は宗吾馬車鉄道という馬車鉄道を敷設する計画が立てられたが、諸種の問題で流れた。
 次に、大阪の資本家才賀藤吉の援助を得ることによって計画が立てられ、これがようやく実現する見通しになった。しかし成田山の門前町が参拝客が通らなくなって衰退することを恐れて反対したため、そこを東に避けてトンネルを掘るなどし、ようやく1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。
 しかし開業前に電気軌道の作業場から出た火の手が宗吾霊堂に引火して、堂宇と周辺民家の多くが焼けるなどしたこともあり、電気鉄道に懐疑的な人が多く反対運動も多かったことから、利用者はなかなか伸びなかった。さらに才賀藤吉が事業に失敗して資産を失い、援助が得られなくなったりするなど苦境も襲いかかった。
 そして東京の投機業者に買収され、おりしも第一次世界大戦で鉄の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。これに対しては地元から猛反対の運動が起こり、千葉県知事が乗り出すなどして、ようやく複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。
 その後京成電気軌道(現京成電鉄)の傘下に入るが、乗合自動車(バス)の登場で客を奪われるようになり、さらには通行の邪魔ということで今度は地元から廃止論が出るようになった。しかし戦時体制によってガソリン供給が統制されると、バスの運行もできなくなったことからこのときは存続した。
 だが結局、1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。

路線距離:不動尊 - 宗吾間5.3km、本社前 - 成田駅前間0.1km
停留所数:9
1925年3月当時 運行本数:6:30-20:30に5-10分間隔  所要時間:成田山門前 - 宗吾間21分
(以上、「Wikipedia」参照)
運行当時の写真。

                        

                             

 廃線跡の道路は「電車道」と称され、標識も立っています。
「電車道」。

続いて「第1トンネル」。

右手に解説柱。成宗電車のトンネル」。
 このレンガ造りのトンネルは成宗電車という千葉県内で一番古い電車が通っていたトンネルです。成宗電車は通称チンチン電車と呼ばれ、明治43年に成田駅前~成田門前前まで、翌明治44年に駅前から宗吾霊堂まで開通し、昭和19年に廃止になりました。門前前側が第一トンネル(長さ約12メートル、幅約9メートル、高さ約5メートル)、成田駅側が第二トンネル(長さ約41メートル)です。


当時の電線支柱か何かの跡? 

振り返る。 

そのまま参道の商店街へ続きます。

(10:04)正面付近が終点の停留所。

 廃止が決まったあと、残された車両はどいうなったか? 興味深い記事がありました。

 以下、www.hakodate150plus.com/spl/2010/09/100.html HPより)


 箱館ハイカラ號こと39号は今を遡ること100年前の1910年(明治43年)12月に千葉県成田市で路面電車を運行していた成宗電気軌道が導入した車両である。ということで今年は製造100周年の記念の年である。
 何故成田山の御膝元を走っていた車両が函館へやってきたのかを調べていくうちに、39号がいかに幸運かを窺い知ることが出来た。
・・・
◎阪急電鉄に渡った同型車
成宗電気軌道から放出された車両のうち4両は1920年(大正9年)に現在の阪急電鉄が購入した。 
・・・

 函館では現在も現役として走っているのでしょうか?
 思いがけない廃線跡歩きです。
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その4。

2019-03-12 18:37:30 | 鉄道遺跡
            廃線跡の道路が「新奥多摩街道」と合流する地点にある「転轍機」「車両止め」のモニュメント。

 「新奥多摩街道」に合流して進みます。
この付近に「武蔵田中」駅がありました。

 ここから「多摩川」河川敷に向かって貨物線が分岐していました。
交差点の向こう側、左手に廃線跡の道路が延びています。「砂利運搬専用の五日市鉄道拝島支線」跡。

 「堂方上」交差点からは「国道16号線」となります。
「横浜まで47㎞」ポスト。「日光千人同心街道」でもおなじみです。

《参考》
 「多摩川」に架かる「拝島橋」の手前で。「横浜から45㎞」ポスト。

「国道16号線」。

 「植え込み」付近で、「国道16号線」から右に分かれていきます。その付近に「南拝島」駅がありました。
 
                                     そこから「16号線」を振り返る。
住宅地を進みます。

                         ゆるやかなカーブ。

「五日市鉄道」由来のネーミング「五鉄緑3駐車場」(↓)。

このカーブがいかにも廃線跡らしい雰囲気。振り返る。

             

 線路当時のように、道路の左右は盛り土をしたり、崖状になったりして、緩やかな勾配になっています。
(↓)

                    (○)

「切り通し」の箇所も。

「拝島三小西」信号を越えると、左にカーブします。

「遊歩道」になるとまもなく拝島駅へ。

来た道を振り返る。

 「五鉄通り」の案内板と解説板。


                         

「江戸街道」にぶつかります。

江戸街道」解説板。
 鉄道や車がない時代、多摩地区では東西に走る道を「江戸街道」と呼ぶことがあり、「江戸街道(江戸海道とも書く)」の名前は今でも各地に残っています。青梅線にはほぼ平行して昭島市域を貫くこの道もその一つです。一部は昔の経路とは異なりますが、今も昔も重要な道です。

 立川「産業サポートスクウェア」交差点のところで分かれた道(「立川南通り」)とここで再会することになります。

その先は拝島駅構内へ。今回はここで終了。

「JR・西武拝島駅」。

駅前広場の向こうに「大岳山」の姿が見えます(↓)。

 「日光千人同心街道」、「五日市街道」そして今回の「五日市鉄道・廃線」道と「大岳山」とはけっこう縁がありました。

帰りは西武新宿線で。JRホームを望む。
 
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その3。

2019-03-08 19:24:55 | 鉄道遺跡
                           「八高線」を地下道で越える。

小休止のあと、先に進みます。

「五鉄通り」の右手は小高くなっています。

振り返る。

 「五日市鉄道」の線路は、この付近では切り通し(堀割)で、現在もその名残があるようです。なお、「八高線」は鉄橋で「五日市鉄道」を越えていました。
 その鉄橋は2000年頃まではそのままあったようですが、その後撤去され、「八高線」と交差する地下道がつくられました。

「八高線」をくぐる地下道方向を望む。

振り返る。左手(立川側では右手)に土盛りがあり、空間が存在します。

地下道脇の梅が満開。

                        

八高線をくぐり抜けると、左手は雑木林。

その先に「大神」駅のモニュメントが設置されています。

                    解説板。
五日市鉄道大神駅跡
 この場所には昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、大神駅という小さな停留所(無人駅)がありました。東西の道路は、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡です。
 現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通し、この駅も誕生しました。
 立川・拝島駅間には、「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。
 旅客用にはガソリンカーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は、昭和15年(1940年)に南武鉄道と合併し、昭和19年(1944年)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。

 このモニュメントに使用した鉄道資材は、青梅線(昭島駅・奥多摩駅)で使用していたものを利用した、とのこと。(このモニュメントを含め、周囲はポケットパークとして2000年に整備されました。)



 当時の駅(線路)は、現在よりも2,3m地下にありますが、右手にあるサクラの古木は当時からのようです。満開頃には見物客が大勢、見に来るそうです。

手前の交差する道は「昭和通り」。
 1937(昭和12)年、青梅線北側の広大な雑木林に昭和飛行機が進出し、まもなく航空機の製造が始まりました。翌1938(昭和13)年には工場通勤者のために青梅線に昭和前(今の昭島駅)が開設されました。こうした工場や駅に向かうこの道は、当時「昭和道路」ともいわれました。時代を経て道は整備され、今では、「昭和通り」と名付けられています。

昭和飛行機
 1937年(昭和12年)6月5日、元、三井合名理事長團琢磨の長女「めい」の夫である牧田環(初代社長、三井鉱山会長等も歴任。工学博士)の尽力により昭和飛行機工業株式会社が設立される。
 当時の日本航空機業界は、すでに欧米に匹敵する優秀な軍用航空機を製作していたため、昭和飛行機はこれを追従するのではなく、日本が立ち遅れていた輸送機の製作こそが使命と捉え、当時のベストセラー機であったダグラスDC-3に目を付け、その国産化(ライセンス生産)を目指すこととなった。
 航空機を製造するあたり、飛行場を併設した工場が必要であり、それには広大な土地が必要だった。検討した結果、北多摩郡昭和町、拝島村(以上現昭島市)、砂川村(現:立川市)の3町村にまたがる土地に、航空機製造工場である東京製作所を作ることを決め、工場および飛行場の建設に着手し、1938年(昭和13年)に稼働を始めた。稼働開始に合わせて、通勤者の便に配慮して、青梅線に新駅の開設の認可をもらい、昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担して、昭和前駅(現:昭島駅)が開設された。
 工場は稼働したものの、DC-3の国産化には困難を極め、実現に3年の月日を費やすこととなる。DC-3国産化に成功し、順調に量産化を始めた頃、太平洋戦争が勃発する。1940年(昭和15年)には、日本海軍にDC-3を零式輸送機として制式採用されたことにより、終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造した。戦時中には他にも、愛知航空機(現:愛知機械工業)の九九式艦上爆撃機や、川西航空機(現:新明和工業)の紫電改などもライセンス生産した。
 1945年(昭和20年)の敗戦とGHQ占領により、航空機事業が禁止され、この間に会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなる。占領終結後の1957年(昭和32年)から始まった民間輸送機YS-11、続くC-1計画にも参加し、分担生産を行った。現在開発中のC-2輸送機・P-1哨戒機でも分担生産に参加している。
現在、航空機事業は主力ではなく、特殊車両(タンクローリーなど)やライフサポート機器、ハニカム構造体などの製造が中心である。
 また、工場跡の広大な敷地を活用した不動産事業やレジャー事業にも積極的で、昭島駅前の大型ショッピングセンター「モリタウン」のほか、「フォレスト・イン昭和館」、「ホテルS&Sモリタウン」、「昭和の森ゴルフコース」、「昭和の森テニスセンター」、「フィットネスクラブ・フォーラス」などのホテルやレジャー施設を運営している。
 2015年3月には、モリパーク・アウトドアヴィレッジを開業した。

(以上、「Wikipedia」参照)



2010年代のようす。この周辺一帯が「昭和飛行機」の土地。ショッピングモールなど大規模開発が行われている。

「大神」駅の隣には信号機などのモニュメントが設置されている。

                     

                          

その先、右手に見事な梅林があります。

  

              

 ふと見ると小鳥の囀りがしきりに。「メジロ」の一群です。「向島百花園」以来、1年ぶりに姿を発見。
                         

「立ち入り禁止」になっていますが、いつまでも残っているといいですね。  

右手が大きく開けてきて、畑が広がっています。    
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その2。

2019-03-07 21:06:12 | 鉄道遺跡
                              右手の建物が廃線跡の上?

いったん「奥多摩街道」に出て、右手の路地を進みます。

 公園の先のところで行き止まりになった付近に「武蔵福島」駅があったようです。

線路跡の直線をたどると、このアパートに突き当たります。
                                   さて通り抜けられるか?

抜けると、その先はこんな広い通りに。これが廃線跡。
  
来た道を振り返る。 

右手が廃線跡上の建物? 

西北に向かって線路跡は続きます。

航空写真(「歴史的農業環境閲覧システム」HPより)。


2010年代のようす。赤い直線が「五日市鉄道」線跡。中央付近が廃線跡上の住宅列になっている。

「多摩大橋通り」と交差します。右手に古木が並んだ空き地が。

                   停車場跡? 
 
振り返る。

その先で廃線跡の道は住宅地(団地)の中に入り、不明となりますが、団地の先で復活します。


2010年代のようす。団地内に「南中神」駅がありました。

この建物は廃線跡に建てられたような趣。

                          

またまた迂回していくと廃線跡の通りに。

振り返る。この駐車場スペースは廃線跡?

住宅地を進みます。廃線から70年以上も経過し、その面影はありません。
 
                 

カーブを過ぎると、遠く前方に奥多摩の山々が見えてきます。

春先の花々が咲く庭先。

静かな住宅地を振り返る。

左手には梨畑が広がります。

                         

そのフェンスのところに「五鉄通り」の標識。
 この付近に「宮澤」駅があったか?

 その先のベンチで小休止。
 
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その1。

2019-03-06 20:50:56 | 鉄道遺跡
                           「青梅短絡線」。旧五日市鉄道線。拝島方向を望む。
 青梅線と南武線をつなぐ線路で、「青梅特快」の下り電車が通る線路として利用されています。この線路が「五日市鉄道」としてつくられた線路の一部です。

 「五日市街道」歩きで乗換駅として利用した「拝島駅」(JR青梅線、西武新宿線)は、「八王子千人街道」歩きでも立ち寄った駅。その拝島から立川まで、現在の青梅線のほぼ南側にあった鉄道が「五日市鉄道」の一部。この廃線跡が「五鉄通り」として残されていることを知りました。

 そこで、3月2日(土)。立川~拝島。約2時間半の行程。
 快晴のもと、久々の廃線歩き。

 
 「拝島」~「武蔵五日市」。現在のJR「五日市線」。        「立川」~「拝島」。この区間が廃線。

注1:立川、拝島間には「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮澤」「大神」「武蔵田中」「南拝島」と8停車場がありました。また、「武蔵田中」からは支線が分岐し、多摩川まで線路が続いていて砂利採取を行っていました。
注2:「武蔵五日市」駅の手前から北西に進む鉄道は廃止されています。

 1929年(昭和4年)9月に工事に着手し、1930年(昭和5年)7月に拝島駅-立川駅間が開業した。この区間は各集落ごとに駅を設けており駅間距離が短かった。
 立川駅へは西側で中央本線を乗り越して南側にある南武鉄道線(現JR南武線)と直結する配線をとった。そして同じホームの南側を南武鉄道が、北側を五日市鉄道が使用した。
 日中戦争が開戦し戦時体制のなか、五日市鉄道は輸送の円滑化を図るためとして南武鉄道と合併することになり、1940年(昭和15年)9月1日、南武鉄道五日市線となった。
 その後戦争の激化に伴い南武鉄道は青梅電気鉄道とともに石灰石、セメント輸送の重要性から国に買収されることになり1944年(昭和19年)4月1日に国有鉄道五日市線となった。しかし並行した立川駅 - 拝島駅間については旧青梅電気鉄道は複線化工事中で沿線には軍事上重要な施設があったことから残り旧五日市鉄道線は不要不急線として休止となった。なお西立川駅から分岐して南武線に連絡するルート上にある立川駅-武蔵上野原駅間は撤去されず貨物列車直通に使用され青梅線の一部となった。
 立川-拝島間は戦中に線路が撤去されているが古くから廃線跡のレポートが発表されている。1963年のレポートによれば各駅のプラットホームや建物の基礎部分、八高線交差部前後の切り通しなどが残っていたが、やがて都市化の波が押し寄せ廃線敷は拡幅され道路となり周辺は宅地へとかわっていった。五日市鉄道と交差していた八高線の鉄橋は2001-2002年まで残っていたが取り外され地下道が作られた。2004年昭島市では市制50周年を記念して廃線跡の道路を五鉄通りと命名し大神駅跡にはホーム、レール、台車などのモニュメントがつくられた。なお実際の大神駅は切り通しで地表より2-3m下にあり当時の姿とは違うが桜の木は戦前からあるものだという。

(以上、「Wikipedia」参照)

JR立川駅を10時に出発。「立川南通り」に向かいます。

右手から線路が近づいてきます。この線路がかつての五日市線の線路。

 「中央線」を越えてしばらく進むと、「上野原踏切」。最初の停留場「武蔵上ノ原」駅がありました。
立川駅方向を望む。


 
2010年代のようす。↓が「青梅短絡線(旧「五日市鉄道」線)。○が旧線路との分岐点付近。旧鉄道線路は、「立川南通り」として西に進む。

「立川南通り」。

「残堀川」。これで「青梅街道」以来4度目。上流にさきほどの「青梅線」が。

                  

左手には「農林総合研究センター」の広い敷地が広がります。

そして「多摩職業能力開発センター」。この付近に「郷地」駅がありました。

「産業サポートスクウェア」交差点。ここで、廃線跡が途切れます。


向かい側、斜め左に線路跡に沿ったようなおうち。

「立川南通り」は「江戸街道」として西に向かいます。

その裏手に回ると、広い道路に。これが廃線跡の道路。



2010年代のようす。赤い線が廃線跡。交差点の左手に廃線跡上におうちが並んでいる(○の部分)。

振り返って望む。 

このカーブが廃線跡らしい雰囲気。

昭島市に入っていきます。「クジラ」のデザイン。

「昭島」と「クジラ」の関係は? どうして昭島にクジラなの?
 
生きていた頃のアキシマクジラのイメージ                         赤い部分が発掘された部位

およそ200万年前、昭島市の辺りは海でした。今では想像もつきませんが、かつてこの辺りには多くの海の生き物が生息していました。近海を好む種類のクジラ達は、海の浅瀬だった昭島のあたりを、仲良く悠々と泳いでいたのではないでしょうか。
 あるとき、一頭のクジラが海底に横たわり、目を閉じて永遠の眠りについたのです。
 クジラの身体は、食いちぎられたり激しい海流に流されたりせず、比較的早く砂などの堆積物に覆われたようです。化石となったクジラの骨は、幾多の地表の隆起などの地殻変動や火山活動の熱の影響を受けずに静かに眠り続けました。
 そして約200万年後、眠っていた昭島の多摩川河川敷で、ついにその姿をあらわしたのです。
 現在の昭島は東京都のほぼ中央で、東京湾までは、おおよそ40キロメートル。標高も海抜100メートルほどの場所に位置していますが、200万年前の昭島は海の中でした。
 かつてこの辺りには多くの海の生き物が生息していました。アキシマクジラの化石とともにサメの歯や魚や貝の化石が発見されたことが、それを物語っています。
 また、陸上にもアケボノゾウなどの生き物がいて、海の中を含め多くの生き物が、生まれては死んでいくを繰り返してきました。この中で早期に堆積物に埋もれるなど、ほんの一握りの幸運なものだけが化石として保存されます。
 さらに埋まった後も、幾多の地表の隆起などの地殻変動や火山活動などで、地層が移動しバラバラになったり、高い温度や圧力を受けて化石自体が失われたりするため、さらに幸運な化石のみが残存できたのです。
 アキシマクジラも亡くなったばかりの好条件とその後の劣悪環境にも耐え、離れ離れになることもなく一定の地層にとどまり、奇跡的に化石として昭島で発見されたのです。

発 見

いつ 昭和36年(1961年)8月20日 昼過ぎ
どこで 多摩川河川敷 JR八高線多摩川鉄橋の11番橋脚の下流約36メートルの地点
だれが 当時、昭島市立玉川小学校の教諭だった 田島政人さん(故人)と長男芳夫さん(当時4歳 朝日町在住)
どうして 夏休みを利用し、親子二人で貝や魚の化石採取と飯盒炊さんをするため多摩川河川敷を訪れて発見した
どんな状況だったの 当時、砂利採掘により露出した河原の地表から、化石の先端(長さ10センチ、幅3センチ)が露出しているのを発見。付近を観察すると10数メートルにわたり化石の痕跡である小穴を発見。大型の化石と確信し、最初の化石を岩で隠し帰路につく。百科事典などで調べたがわからず、数日間現場通いと専門書を読みあさる。同僚に相談し、教育委員会職員と現場を確認後、専門家を呼び8月28日より発掘を始める。

 記者会見で「500から200万年前のクジラの化石。骨の長さ11メートル。体長15,6メートルの中型のヒゲクジラと思われるが種類は特定できない。これだけそろった化石は日本では初、世界でも珍しい貴重なもの」と発表。
 成隣小学校の空き教室に運ばれた全化石は、その後一年間をかけ復元作業が続きました。
 その作業は、最初に化石の周りに付いた泥や砂を除去するクリーニング(剖出作業)で、化石がもろいため慎重に行いました。灰色の砂を取り除くと濃い茶色の化石が現れ、その都度感動したそうです。
並行して復元作業も行いました。折れた部位ややバラバラになってしまった化石の繋ぎ合わせをボンドで、もろくなった化石はボンド液(水で薄めたボンド)に浸して乾かしたそうです。
 組立は、小さいものは山のように積まれた段ボールから部位合わせをし、長い物や大きなものは重みで崩れないよう保管に工夫をしたそうです。
 こうして発見から1年間を費やし、復元作業は携わった方々の地道な努力と並々ならぬ情熱により昭和37年(1962年)8月23日に終わりました
 アキシマクジラがたどった200万年は、想像を絶する奇跡の連続でした。
 そして化石が発見され、人の手に触れてから今日の論文発表を迎えるまで、多くの情熱をもった方々に携わっていただいたこと。これも奇跡のひとつではないでしょうか。
 奇跡の積重ねと感謝の念を心に刻み、昭島市の宝としてアキシマクジラを後世に伝えていくことが大切なことではないでしょうか。
 昭和38年(1963年)、鯨類研究所 西脇昌治博士と国立科学博物館尾崎博博士によってアキシマクジラという通称名が命名されました。
 平成30年(2018年)1月1日日本古生物学会の英文学会誌に論文掲載
 この論文は、同館の長谷川名誉館長、木村主幹主幹学芸員と国立科学博物館の甲能博士の連名で、コククジラ属の新種として認められ、世界にひとつしかない模式標本に指定されました。
 現在生息しているコククジラは、1属1種(学名Eschrichtius robustus) エスクリクティウス ロブスタス(和名はコククジラ)とは異なる新種として

学名:Eschrichtius akishimaensis(ラテン語)
エスクリクティウス アキシマエンシス(和名はアキシマクジラ)と発表されました。

 現在、コククジラは、1属1種のみが北太平洋に生息している。アキシマクジラはほぼ全身の化石が発掘され、その頭骨周辺の位置や形状の違いから、現在生息しているコククジラとは異なる系統であるため、アキシマクジラを「エスクリクティウス アキシマエンシス」として報告する。これは、前期更新世では少なくともコククジラの2つの系統が生き残っていたことが分かったとしています。

 昭島市では、平成32年3月につつじが丘南小学校跡地(昭島市つつじが丘3-3-15)にオープン予定の教育福祉総合センターのエントランスに、原寸大13.5メートルのレプリカを飾り、2メートルほどの生きていた頃(生体復元)の模型やアキシマクジラの化石の一部も展示する予定です。

 昭和36年の化石の発見から市内にはクジラをデザインされたものが至る所にあります。アキシマクジラはずっと長い間、市民に愛され親しまれてきました。昭島市を訪れた際には、まちの中のクジラに是非注目してみてください。

(以上「昭島市」公式HPより)

 さて廃線跡歩きに戻って。「公園」に「五鉄通り」の標識。

そこから振り返る。

梅が満開。

五日市鉄道の線路跡」解説板。
 この東西の道路は、昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡で、すぐ西には武蔵福島駅がありました。
 現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通しました。
 立川・拝島駅間には、「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。
 旅客用にはガソリンカーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は、昭和15年(1940年)に南部鉄道と合併し、昭和19年(1944年)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。

住宅地を進みます。

ユニークな郵便受け。

手入れの行き届いた庭木のあるおうちが目立ちます。

その先で道は行き止まりになってしまいます。
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京成電鉄博物館動物園駅。整備し、一部公開へ。

2018-06-20 19:08:16 | 鉄道遺跡
レトロな上野 見つけた 京成「旧博物館動物園駅」公開

 企画的には興味深いものが。

 以前ブログに掲載したことがあります。これを機会に再掲。2012年5月15日

                   
                    「博物館動物園駅」。
 1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、「Wikipedia」参照)

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 ただし、当時の京成上野駅も今のこぎれいな雰囲気の駅・ホームとは違って、地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だった。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。
ひっそりとした佇まい。気がつかない通行人も・・・。屋上の部分の彫り物も、西洋風。

博物館側の出口。

動物園側の出口。

東京都美術館本館の建物と道路を隔てた場所にある。現在何に使われているか不明。出入り口、窓はすべて封鎖されている。
旧駅舎壁面のプレート。

京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。

ついでに掲載前日は「寛永寺坂駅」跡についての記事だったので、併せて再掲。2012年5月14日


 京成電車がJR線を越えて上野の山のトンネルに入っていく。これから終点・京成上野駅までは地下線となる。
トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。
寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま保存されている。

 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
 1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。


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軽井沢駅 信越線・廃線跡。(「旧中山道」をゆく。第11日目。番外編)

2016-08-24 23:16:21 | 鉄道遺跡
 小海線で小諸まで乗り、そこからしなの鉄道線で軽井沢駅に戻ってきました。
 JRの在来線(信越本線)は長野(北陸)新幹線の開通とともに「しなの鉄道」と名称を変え、軽井沢から篠ノ井まで運行されています。高崎から横川までは「JR信越線」。「碓氷峠」越えの線路は廃止され、「横川」と「軽井沢」を結ぶ鉄道はなくなり、バスでの往復。
 「横川」駅から群馬側の廃線跡は「熊ノ平」まで遊歩道として整備され、歩くことができます。ここは、この前歩きました。
 峠から長野側(軽井沢駅方向)は廃線後はどうなっているのでしょうか? 実はそれを見たくて軽井沢駅まで戻ってきたわけです。はたして?

信越本線の変遷
(「news.mynavi.jp/series/trivia/278/」HPより)

「軽井沢」駅構内には信越線時代の車両が展示されています。

軽井沢駅から東には線路はあるものの・・・

線路は残っていますが、架線は撤去されています。

その線路も草に埋もれつつあります。軽井沢駅方向を望む。

東に向かって歩いてみます。「立ち入り禁止」なので遠くから眺めるだけですが。向こうに見えるのは新幹線。手前の草むらが旧線跡。


なかなか近づけません。遠目に目に見るだけ。 

    

しばらく行き、右に折れると、踏切跡があります。
    

 たまたまなのか、フェンスが開いていたので、ちょっと入りました。草むらの中に線路が。
    

 架線柱。
    

「碓氷峠」方向に伸びる架線。


この先は遠慮します。このまま線路をたどれば碓氷峠に進むのでしょうか?
軽井沢から「熊ノ平」まで廃線跡が遊歩道になれば、「横川」から「軽井沢」まで歩くことが可能に。
 また、横川から廃止になった「新線」跡も整備されたら、すばらしい遊歩道になると思いますが。・・・

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横川~熊ノ平。アプトの道。その4。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-28 21:09:54 | 鉄道遺跡
 「10号トンネル」を抜けると、「熊ノ平」。「熊ノ平」は信越本線が当初単線で会った期間、横川~軽井沢間で唯一の平坦地でした。「熊ノ平」駅で上下線の列車が待ち合わせてすれ違いをしていました。その頃の熊ノ平駅は、行楽の季節には乗降客で賑わっていましたが、信越本線が複線化すると、熊ノ平駅は変電所の機能を残して、駅の期の王は必要とされなくなりました。現在は、「アプトの道」の折返し地点となっています。

手前、左手広場に「熊ノ平殉難碑」があります。

 この殉難碑は昭和25年6月9日早朝、突如として山くずれが起こり、一瞬にして埋め去られた職員と家族の50のみたまを末長くまつるため、全国の国鉄職員から寄せられた浄財で設立されたものであります。
 設立当時は線路の反対側にありましたので、参拝するためには線路を横断しなければならず、危険かつ不便なので、昭和43年12月現在地に移設しました。
 しかしながら現在のみたまには雨雪にさらされ誠に忍びない状態にありますので、今回ささやかながら霊堂を建立して、みたまをおなぐさめ申し上げることにした次第であります。

 昭和44年11月 高崎鉄道管理局

ここで「新線」(複線)と単線が合流します。

レールも架線もそのまま残り、西(軽井沢方向)へ向かっています。

                        「熊ノ平」駅の遺構。
    

信号機。

               

熊ノ平駅
 熊ノ平駅は、碓氷線が単線であったため、上り列車と下り列車のすれ違いと、蒸気機関車への給水、給炭の目的で設置されました。
 碓氷線は幹線鉄道でありながら、その急勾配ゆえアプト式よいう特殊運転方式をとらざるを得ず、動脈に出来た血栓のように隘路になってしまう宿命を負っていました。このため碓氷線には常に輸送力の増大が求められ、新技術の投入によって解決が図られ、熊ノ平駅も待避線の設置や突っ込み隧道の設置などの改良が加えられました。
 碓氷線は急勾配のため、隧道が煙突の役割を果たし、煤煙によって乗客や乗務員が大変な苦痛を強いられました。この煤煙問題の解決と輸送力増大のため、明治45年、我が国の幹線鉄道として初めて電気機関車が導入されました。
 その後、昭和38年アプト式の旧碓氷線の廃止と同41年の碓氷新線の複線化により、熊ノ平駅は信号場に降格となり、平成9年の碓氷線の廃線とともにその使命を終えました。
 熊ノ平駅周辺は、モミジの名所としても知られ、文部省唱歌「紅葉」は作者の高野辰之がこの周辺の紅葉を詠ったと云われています。

 安中市

 ここに出てくる「紅葉(もみじ)」は今でも歌いつがれている名曲です。

「もみじ」(高野辰之 作詞、岡野貞一作曲) 

1.秋の夕日に 照る山紅葉
 濃いも薄いも 数ある中に
 松をいろどる 楓や蔦は
 山のふもとの 裾模様

2.渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
 波に揺られて 離れて寄って
 赤や黄色の 色さまざまに
 水の上にも 織る錦



 高野辰之作詞の唱歌は「故郷」、「朧月夜」、「春がきた」、「春の小川」など今も口ずさまれています。。

「アプト式開通の碑」。

    
   軽井沢方向を望む。                        横川方向を望む。

 かつて賑わっていた「熊ノ平」駅付近の写真が掲示されいます。

    

突っ込み隧道?  

横川駅前にある「動輪」

    
 全国JR路線のなかで、最大の難所と言われた信越本線 横川~軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した「EF63―3号」機関車の動輪です。

横川駅構内にある「アプト式レール」。
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横川~熊ノ平。アプトの道。その3。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-27 19:53:09 | 鉄道遺跡
 次は「第3号トンネル」、「第4」「第5」と続きます。「5号トンネル」を抜けると、いよいよメインの「第3橋梁」=通称「めがね橋」となります。

狭いし、暗いし、蒸気機関車の時代は煙で、・・・さぞかし大変だったでしょう。

「5号トンネル」。

トンネル側面には金具がいくつか取り付けられています。

(11:07)着きました、「めがね」橋。

「5号トンネル」を振り返って望む。

北側には「新線」(新幹線開通後、廃線)の橋梁。

南側。ヘアピンカーブが続く「旧18号線」。

 めがね橋から旧18号まで下る遊歩道があります。下から見上げるとその迫力に圧倒されますす。
     

 碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。設計者は、1882年(明治15年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)[1]と古川晴一。
 1891年(明治24年)着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年(明治26年)に竣工した。
 開業直後から強度不足による変形が指摘され、これに伴い翌1894年(明治27年)に耐震補強名目で橋脚・アーチ部の双方に対する大掛かりな補強工事が実施された。
 その後は信越本線の電化を経て1963年(昭和38年)に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。
 全長91m、川底からの高さ31m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年(平成5年)には「碓氷峠鉄道施設」として、他の4つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。
(以上、「Wikipedia」参照)

            

国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設 碓氷第3橋梁(めがね橋)
                      平成5年8月17日 指定
 高崎~横川間は明治18年(1885)10月、軽井沢~直江津間は21年にそれぞれ開通しましたが碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定に紆余曲折し、明治26年(1893)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。
 横川~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アプト(アブト)式が採用され、昭和38年(1963)まで走り続けました。
 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、現存しているなかでも、この碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

 文化庁 安中市教育委員会

                

旧信越本線の碓氷第3アーチ
1、建 設 明治25年12月竣工
2、設計者 イギリス人、パウネル技師
      日本人、古川晴一技師
3、構 造 煉瓦造、アーチ橋
       (径間数4、長さ87.7メートル)
4、建設してからのあゆみ
 碓氷の峻峡をこえるため、「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
 その勾配は1000分の66.7という国鉄最急勾配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止となりました。
 このアーチ橋は廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しています。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。

  昭和45年1月1日 高崎鉄道管理局 松井田町教育委員会 

       

                              

 橋の手すりには写真と解説が並んでいます。
    

碓氷峠は日本を代表する「片峠」。

 「横川」~「軽井沢」間。11.2㎞で、標高差553㍍。横川からほとんど上り道が続きます(タモリの番組の写真付き解説)。

 この先は「6号」「7号」「8号」「9号」「10号」と連続してトンネルを通過します。いくつも排気孔のあるトンネルも。

    

 ところが、「6号トンネル」には「熊出没注意」の掲示。去年4月、この付近で撮った大きな熊の写真とともに何カ所にも掲げてあります。ビックリ!
 もしトンネル内に入ってきたらお手上げ。熊除け用の大きな鈴もないし、ラジオも持ってないし、大声でしゃべる相手もいないし、・・・。

 急いでトンネルを抜けると、いました! サルが何匹も。日光と違ってえさを求めて近づいては来ないだろうけれど。
    (↓)

 「第6橋梁」。「めがね橋」に次ぐ長さ。補修の形跡がなく、建設当時のまま残されているようです。
    

    
 こうして次々と現れるトンネルを過ぎると、終点の「熊ノ平」。「アプトの道」の折返し地点。
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横川~熊ノ平。アプトの道。その2。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-25 21:26:40 | 鉄道遺跡
 碓氷峠を行き来する列車に電力を供給していた建物。かつて、軽井沢から出て碓氷峠を下る車中、このところを通過中に車窓から見たようすは廃墟のような印象で、かえって興味深く思いましたが、現在は立派に修復され、以前のような荒廃した姿はありません。

    

国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設  変電所(旧丸山変電所)二棟
                               平成6年12月27日 指定
 丸山変電所は、明治45年に建築され西側の建物が機械室で回転変流器と変圧器があった。東側の建物は蓄電池室で、列車が上り勾配にかかるときに必要な電力を補うための蓄電池312個が整然とならんでいた。
 建物の性格としては、工場建築に近いから、同じ煉瓦造り建築と言ってもたとえば東京駅のような華やかさはない。しかし、建物正面出入り口や側面には控えめながら装飾が施され、落ち着いた格調の高いものとなっている。
 煉瓦造り建築の最盛期の所産であることが実感され、今に伝える残り少ない遺産である。

 文化庁  安中市教育委員会

 実は裏手に回ると、かつての、荒廃したままの建物が存在します。
    

 煉瓦造りの趣がよく伝わる意匠になっています。
    

 ちなみにこの建物の他、「碓氷線」関連施設に用いられた(当時の)煉瓦は、ついこの前、廃線跡歩きをした、深谷市にあった「日本煉瓦製造株式会社」製です。不思議なご縁が続きます。

                            

 見飽きませんが、先に進みます。建物の前には、トロッコ列車の停車場・まるやま駅があります。

振り返って望む。

平日のせいか、散歩する地元の方数人以外、誰にも会わず。

この先、沿道に「熊出没注意」の掲示が。

(10:03)「霧積川橋梁」。

古い煉瓦壁なども残っている。

 その先で「アプトの道」(初期の旧線路・単線)とその後の複線化した「新線」(この線も新幹線の開通で廃線となりました)が分岐します。右に進む新線は藪の中に消えてその先にトンネルが見えます。次に合流するのは、「熊ノ平」となります。

    

    

 線路の下をくぐります。左手の大きな建物が「天然温泉 峠の湯」の裏手。

建物の背後に見えるのは妙義山。

 (10:21)トロッコ列車の終着駅「とうげのゆ」駅のところで小休止。そこで出会った方。宿の車で熊ノ平まで送ってもらって下りてきた、とのこと。のんびり歩いてきて1時間くらいだったとか。上りもたいして変わらないと思います、と。
 ここからがトンネル、橋梁が続くハイライトシーン。かつての単線時代の線路跡をゆるやかに上って行きます。

 (10:32)北原白秋の「歌碑」。
    

白秋の歌「碓氷の春」について

                    白秋
 うすいねの
    南おもてと
       なりにけり
 くだりつゝ思ふ
    春のふかきを

 この歌は近代日本詩人の巨匠である北原白秋が詠んだものです。
 大正12年春、当時38歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと言われています。

 この碑は、元松井田町長の武田弘氏が白秋自筆の色紙をもとに昭和42年に横川駅近くの国道18号線沿いに建てたものです。平成13年に鉄道文化むらの開設に伴い、現在の場所に移設されました。
             松井田町
 
「第1号トンネル」。ここからは線路はなく、簡易舗装された道。

トンネル内はひんやりとしています。足元は濡れていたり、凸凹して、照明は暗め。

西側の坑口。一人で歩くと、少し不安になりそう。

振り返って望む。外に出るとホッと。 

続いて「第2橋梁」。     

 橋の上は舗装され手すりもありますが、橋梁の土台部分は煉瓦造りです。 

 続いて「2号トンネル」。
    

ちょっと広くなってそこに古いレールが。 

トンネル内、地下部分のライトアップ。

 (10:50)「2号トンネル」を抜けると、左手の眼下に「碓氷湖」が広がります。1周約1.2㎞。紅葉シーズンは最高のようです。    
                          

「2号トンネル」を振り返って望む。

湖水を見下ろす「中尾小屋」。 
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横川~熊ノ平。アプトの道。その1。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-24 21:54:47 | 鉄道遺跡
 さて、「横川」から「坂本宿」を抜けて、「碓氷峠」、そして「軽井沢宿」へ、と。
 その前に横川駅から信越線の廃線跡「アプトの道」を歩いてみようと出かけました。「熊ノ平」まで行き、帰りは途中で「坂本宿」に立ち寄って、再び「横川駅」に戻る、という計画。
 3月23日(水)。薄日が差す、そんな一日でした。
 この年になってひどい「花粉症」になって大変なようだ、と知人の噂を耳にし、さぞかし辛いでしょうね、と同情しながら、まさにその花粉が飛び始める、まっただ中での歩きでした。

 はじめにお断りしますが、前日の22日に携帯電話を変えて(といっても相変わらずのガラケイですが)写真撮影の要領も慣れないままの撮影。色が飛んでしまって、何だかセピア色の世界。色鮮やかな現地の色彩・表情とはずいぶん違っています。かえって、廃線跡の雰囲気が伝わった、昔懐かしい古い写真という感じになっていいなあと思ってもいますが。

 歩く前に学習を!

アプトの道
 JR東日本・信越本線の横川駅を基点として、旧上り本線跡を整備、丸山変電所、峠の湯を経て、旧熊ノ平信号場(駅)までの遊歩道。
 1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡のうち、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。その後、第三橋梁から熊ノ平信号場までが整備され、横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成した。

横川~軽井沢・鉄道の変遷
 上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると碓氷峠区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。
 ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。
 1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があり、鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用い、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。
 延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また「横軽(よこかる)線」とも呼ばれる。
 トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
 電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強された。
 太平洋戦争後は、1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された。
 しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
 碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の北陸新幹線高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。
 その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。
 代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。
 旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている)。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている。

(以上、「Wikipedia」参照)



 JR上野駅を6時40分過ぎの高崎行きの普通電車に乗って、「横川駅」に着いたのが、9時15分頃。「峠の釜めし・荻野屋」さんのところから再開。旧道らしい雰囲気の町並み。「庚申塔」や「二十三夜塔」などの石塔が並ぶ通りを行きます。



その先右手に「横川茶屋本陣」。   

 この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣のほうは二階を作らず天井を高くしてある。
 居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖が奥まで通じている。本陣は型通り控の間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。
裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。

    昭和五十六年三月 群馬県教育委員会 松井田町教育委員会

     

その先に「碓氷関所跡東門の位置」碑。

 右手の少し高台のところにあるのが「碓氷関所跡」。
    

 碓氷関所は1616年、江戸幕府によって設置されました。中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。
 その東門が昭和35年、柱や門など当時の部材を使って復元されました。

「碓氷御関所絵図」と東門の解説板。

おじぎ石。
                    通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。

 (09:31)いよいよ「アプトの道」へ進みます。入口左手には「鎮魂碑」と「招魂碑」。
           

「招魂碑(右)」は、「アプト式鉄道」建設工事に伴う、500名にもおよぶ犠牲者の慰霊のため当時建設されたものをここに移転。「鎮魂碑(左)」は、信越線廃止に当たり、交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊するために建立された、とのことです。

左手には「碓氷峠鉄道文化むら」が広がっています。

 旧信越本線の上り線を遊歩道にしてあります。レールが埋め込まれ、頭上には架線柱もそのままに残してあります。左手は、下り線を利用した、現役の「碓氷峠トロッコ列車」専用線。
    
                                         振り返って望む。

施設の解説の他、信越線にまつわる解説が随所に。

緩やかに上っていく、まっすぐに伸びた線路跡。 

かつてのコンクリート造りの崖崩れ防止壁。

 「上信越自動車道」のかなり高い橋脚をくぐると、すぐ右手に煉瓦造りの「旧丸山変電所」が。

妙義山方向を振り返る。

(09:51)「旧丸山変電所」。
                       信越線での帰り、左手によく見たものです。当時はすでに廃墟のようで、かえって印象深い建物でした。
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中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その3。

2016-03-16 22:30:05 | 鉄道遺跡
 しばらく「国道20号線」を行くと、「小菅」交差点。そこを右に折れます。この道も旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。
 「仙台屋食堂」の手前に先ほどのトンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いているはず。注意して歩いていましたが、「仙台屋」の前を過ぎてそのまま「猿橋」への階段を下りてしまいました。
 どうも遺構(煉瓦積み)の前にあった、大きな神社の掲示板が視界を邪魔したようで、気つかずに通り過ぎてしまいました。もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のために目視することはできないようです。また、「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。
 ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。

猿橋
 江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

《構造》
 猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
 刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

《歴史》
 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
 猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
 室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
 1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
 江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
 1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
 木造で現存する刎橋はない。る
 古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
 なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。

               (以上、「Wikipedia」参照)



 10年以上前の秋、ここを訪れています。そのときの写真。
          

 今回は目的が違いますが、やはりここはきちんと押さえておきます。

    

名勝 猿橋 昭和7年3月25日指定
 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば、「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
 史実の中では文明19年(1488)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶景なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
 応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行われてきました。
 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
 昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生活は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。
 今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
 昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8千300万円であります。
 橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。

 大月市教育委員会

    


目の下の淵瀬。                                           西側。
    

目の下には水路橋。

    
                「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。

↓がトンネル抗口と思われます(対岸より)。

案内板。広重の描いた浮世絵。

橋のたもとにある「忠治そば」。

    
              「猿橋宿」の家並み。
 旧線路は桂川の橋脚も撤去され、さらに「猿橋」駅への線路跡も「国道20号線」との交差地点地点も含めて、その痕跡は見当たらないようです。

「猿橋駅」から東を望む。
                                  左手奥の方で現在の線路と合流していました。
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中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その2。

2016-03-15 23:02:08 | 鉄道遺跡
 しばらく「国道20号線」沿いに進むと、右手の小高い丘が公園になっています。緑色のネットで囲まれた、この公園。国道から入るのには、階段を上らなくてはなりません。いったいどういう利用者がいるのか? 朽ちたようなベンチと奥の方に遊具がある、さびれた公園のようす。実はこれがさっきの築堤の延長で、廃線跡なのです。

西側を望む。たしかに線路跡のようです。

 私有地なのかどうなのか、そこを歩いていくと、竹藪が覆い被さってきます。
               

 かき分けて抜けると、まだ先が続きます。

が、しばらくすると、もう進むのには無理な状態に。

そこから来た道を振り返って望む。

 仕方なくここで引き返そうと思いましたが、左手のちょっとした盛り土に細道がついています。農作業用の小道なのでしょう。その道を辿ってみることに。すると、右手下の藪の向こうに、トンネルが見えます。


藪越しですので、写真でははっきりしませんが。

 直接さっきの線路跡をたどっていけば、あるいは降りてみようかと一瞬思いましたが、冒険は禁物。若ければ、たぶん藪漕ぎをしたでしょうが・・・。でも、上からでも発見できたので満足です。

再び国道に戻り、進みます。

「東京から89㎞」ポスト(13:45)。

なまこ壁の倉。

 しばらく行き、斜め右の道に入り、すぐ先で右手の坂道を上ります。
 振り返って望む。

 突き当たりには「富浜公民館小向袴着分館」。館名「・・・袴着」も興味深いですが。


(13:50)その右手奥に先ほどのトンネルの猿橋側の入口が見えます。
    

 「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。
              

 坂を下りて、今度はさっきの分岐点を右に進みます。この道が「旧甲州街道」にあたります。「行き止まり」の表示があって、この先は、私有地になるようです。

    

行き止まり。

 なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
 この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。

遠く南には現在の中央本線。かなり高い橋梁。

 「国道20号線」に戻り、「宮谷川」を過ぎる途中、道路沿いの目の下に古びた橋梁。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。(14:00)
    

名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。

「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
 東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
 建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
 取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
 八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
 わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)

激しく車が行き交う国道のすぐ近くにあります。

 下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、なかなか見上げても壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。


(14:10)しばらく行くと、左手に築堤跡の空き地。
                                線路は正面奥から続いていました。

右手の高台にトンネル入口跡。

 道路からそこまで踏み跡があり、ほとんど垂直の崖を上れば近くにまで行けそうな雰囲気ですが、ここも、自重。

    

「東京から90㎞」ポスト(14:15)。
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