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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その3。磯見川。下って、上って。ソバの花。遠くに水平線が。小浜町。青面金剛像。風力発電。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-04 18:53:57 | 銚子往還

「磯見川」に向かって下ります。

来た道を振り返る。けっこうな急坂です。

左手小高い丘の上に、

                  「日本ペット診療所」の施設。

右手遠くに海。

          かつてはもっと向こうに陸地が続いていたのでしょうね。

ソバ畑。白い花が咲いています。

        

「磯見橋」。

かつて、河口付近に「通蓮洞」がありました。

・・・

今回ご紹介する「通蓮洞」は、「磯見川」の河口付近にある「洞窟(どうくつ)」のことで、「名所」として賑わい、「通漣洞」、「通漣坊」、「潮漣洞」とも読み書きしていました。
 「千葉縣海上郡誌」の「潮漣洞」の「項」には、
 「豊岡小浜磯見川の河口にあり、一名「通漣坊」ともいう。
 潮汐(ちょうせき)沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
 一洞崩壊すれば、随(したがって)って一洞を生ず。
 世俗之(これ)を「延命淵」と称す。
 数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
 小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
 海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出(こしゅつ)するが如く、実に奇観なり。
 遠近伝えて奇異の顕象(けんしょう)となし、夏季観客常に絶えずという。」
 と記され、「通蓮洞」の「項」には、
 「小浜磯見川の河口に「通漣洞」あり。
 往昔(おうせき)「安倍晴明(あべのせいめい)」、垣根長者の娘「延命姫」の慕(した)うところとなる。
 「晴明」之(これ)を厭(きら)い、夜に乗じて逃れ去る。
 姫追慕、踪跡(そうせき)を尋ねて此(ここ)に至る。
 「晴明」履(くつ)を岩上に残し、去て「真福寺」に入る。
 姫至り之を見て、「晴明」既に死せりとなし、身を踊らして怒涛(どとう)の淵に投ず。
 空洞此(この)時より生じ、随(したがっ)て破るれば随て成る。
 居民此処(ここ)を称して「延命が淵」と云う。」
 と記されています。

 要約しますと「陰陽師(おんみょうじ)」の「安倍晴明」と「夫婦」になった「長者」の「娘」、「延命姫」は、醜い顔の「痣(あざ)」のために「晴明」に嫌われ、逃げられてしまいます。
 後を追った「延命姫」が「通蓮洞」のところに行ってみると、そこには「晴明」の「衣類」と「草鞋(わらじ)」が。
 絶望した「姫」は「晴明」を慕って「海」に「身」を投げてしまいました。
 しかし「晴明」は死んでおらず、「姫」を騙したという「悲しい物語」です。

 上記のような「延命姫伝説」の「舞台」でもある「通蓮洞」は、「旭市」との境にあり、「小浜側」の「男竃」は、「小浜通蓮洞」、「上永井側」の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていて、「男竃」は明治30年代に消滅し、「女竃」は「岩山」の「残骸」が昭和30年代まで見られ、河口の「砂洲(さす)」が広く美しかったそうです。
 また「岩」が「潮」を噴き上げる壮観な「景観」は、素晴らしく風光明媚(ふうこうめいび)な場所であったそうです。

 現在「通蓮洞」へは「畑」の中の「道」を入った奥にある「空き地」に「車」を停めて、徒歩で「海岸」まで降りていくことになりますが、「通蓮洞」跡へ続く「遊歩道」は現在「立ち入り禁止」となっていています。

 「悲しい物語」の「舞台」であり、風光明媚な「観光地」であった「通蓮洞」。
 「通蓮洞」に想いを馳せ、「景勝地」「屏風ヶ浦」「刑部岬」にお出かけしてみませんか?

(この項「」HPより)

来た道を振り返る。

今度は上り坂になります(標高55m→4m→55m)。

振り返り、振り返り、上がってくる。

「小浜町」の集落に入ります。

左手の高台にずらり「青面金剛像」「庚申塔」等の石仏。

青面金剛(しょうめんこんごう)神は庚申とも呼ばれる。 中世以降、庚申といえば阿弥陀、山王権現、帝釈天などであったが、江戸時代に至って、6臂[ぴ]の像が盛んに造られた。 その像の足下に、「見ざる・聞かざる・言わざる」の3猿が彫刻されたものが多く、2羽の鶏が、使いとして彫られているものもある。

お昼前、のどかなひととき。

  

と、右手には風力発電の巨大な風車が。

おうちの森に重なるかのように。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その2。谷戸。当時の銚子往還道が、ほぼそのまま。日本ペット診療所。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-03 16:38:55 | 銚子往還

静かでのどかな道。農作業で軽トラなどの行き来は多い。

                         

谷戸の風景。 田んぼや畑。 

多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸・谷津・谷地などと呼ばれている。

これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多い。

これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している

多摩丘陵・三浦丘陵における谷戸地形の成因は、主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進み、谷あいの平坦面が形成されたと考えられている

(この項、「Wikipedia」より)

路傍に集められた石仏等。

畑が広がる。

急な下り坂にかかります。海抜55mから4mへ、

                                

この付近の今昔。

(現在)流れは、塩見川。河口が「通蓮洞」跡。海岸の浸食が激しい。そのため、防潮テトラが築かれている。

(1880年代)当時唯一の往還道。海岸線は、かなり南方にあった。

前方が開ける手前に、「日本ペット診療所」の看板。

日本ペット診療所は千葉県旭市の海沿いの山の中にある動物病院です。
動物園動物など幅広い動物を日常的に診察し、そこで得られる膨大なデータ・知識・経験のすべてをペット医療に還元するために2017年この地に開院しました。

決して通院しやすい場所ではありませんが、ペットとパートナー様のために最良かつ最新の動物医療を適正な価格で提供していくことを第一に考えております。

人の生活様式の多様化に伴い、家族として迎えられる動物の種類も多様化しています。
日本ペット診療所では、犬・猫・ウサギや小鳥などの小動物に加え、インコやカナリア、オウムなどの鳥類、爬虫類や珍獣、猛禽類などのエキゾチックアニマルなど、幅広い動物を診察しています。

母体であるアジア動物医療研究センターとの連携により、キリンやカバなどの動物園動物を含む多種多様な動物の健康管理や診察を日常的に行っています。
そこで得られる膨大なデータ・知識・経験をペット医療に活かすことで多様なペット事情への対応を可能にしています。

病気の治療はもちろん、ペットの問題行動についての相談も承っております。
詳しくは診療案内をご覧ください。

(この項、「」HPより)

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その1。もう一つの銚子往還。「海抜59.6m」。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-02 20:08:40 | 銚子往還

今回から、もう一つの銚子往還道(「従銚子港 至千葉町道」)を歩くことにします。

この道は、飯岡を抜けて銚子に向かう旧道で、海岸寄りの道になります。

旭駅からコミュニティバスに乗って刑部灯台の手前まで。そこから銚子駅を目指して歩きます。

途中から国道126号を歩くので、国道沿いにある「イオンモール銚子」まで歩き、バスに乗ることにします。

旧道の今昔。

     

(現在)上永井から東北に向かい、小浜町から三崎に向かう道が旧道。※通蓮洞は、すでに崩壊している。

(1880年代)「従銚子港」「至千葉町」として存在している。

立体地形図だと、

台地の縁を旧道が通っている。

・・・

さて歩き始めます。

「海抜59.6m」。

右手にキャベツ畑が広がります。左手は住宅。

時折、農作業用の軽トラや耕運機が通るだけ。

一面、畑やハウスが広がる。

この道が下の畑に下りる道?

    眼下、遠くに田畑が。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その6。飯岡刑部岬展望館。「刑部岬」の由来。標高65.9m・日本橋から108㎞。「海辺里」。千葉交通バスで旭駅へ。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-30 20:26:53 | 銚子往還

そろそろ昼飯時。旭駅周辺で買い物ができず、ここまで。帰りのバス時間も考え、刑部灯台から帰途へ。

「上永井公園 飯岡刑部岬展望館 ~光と風~ 」

この展望館は、千葉県立九十九里自然公園内に位置し、自然とふれあう活動の場として平成13年3月にオープンしました。

展望館のある刑部岬からの眺望は、「日本の夕陽百選」「日本の旭百選」「日本夜景遺産」「日本夜景百選」「ちば眺望百景」「関東の富士見百景」に選定されています。空気の澄んだ晴天時には、水平線に浮かぶ富士山や夕陽に映える富士山のシルエットを見ることができます。特に2月下旬には父子山頂に夕陽が沈む「ダイヤモンド富士」という珍しい現象が見られます。

ここ刑部岬からいすみ市太東岬に至る約66㎞の九十九里浜は、ハマヒルガオなどの植物群落のある美しい海岸として「日本の白砂青松100選」日本の渚百選」に指定されています。この海岸は、昔から海水浴場、地引き網、海釣り場等に利用され、近年は年間を通して、サーフィン等のマリンスポーツの場としても親しまれています。

「刑部岬」の由来

この地名は、平安時代末期に飯岡の海岸近くにあったとされる佐貫城の城主片岡常春に仕えていた家老鬼越刑部栄定の居宅が、この岬の崖下近くにあったことから呼ばれるようになったといわれています。常春は軍記物で「源義経四天王」として登場する人気者です。

屏風ヶ浦

展望館のある刑部岬から銚子市名洗まで約10㎞にわたり高さ35~60mの断崖絶壁が続いています。太平洋のていへうようの荒波がつくり出した海食崖が屏風ヶ浦です。その雄大な景観がイギリスのドーバー海峡に似ていることから、「東洋のドーバー」と呼ばれています。

  

「つなみ避難場所 上永井公園」。標高65.9m。

地点標示「標高 66.24m 日本橋から 108㎞」。

                         「飯岡灯台線拡幅改良工事竣工碑」。

(旧)飯岡町のマンホール。

屏風ヶ浦の絶壁の上に立つ飯岡灯台、そこから眺めた飯岡の港、はるか彼方まで続く九十九里浜をデザイン。灯台の手前には町の木「クロマツ」。右端に飯岡町の町章。用途は不明。

※2005年(平成17年)7月1日、(旧)旭市と香取郡干潟町(ひかたまち)、海上郡海上町(うなかみまち)・飯岡町が対等合併し新しい旭市となった。

「海辺里」。ここで昼食。

海鮮ちらし寿司。地魚づくし。

しらすのお吸い物もおいしい。お土産に「さば寿司」を購入しました。これもたいそう美味でした。

少しくつろいで、「国道126号」沿いにある旭駅行きの千葉交通バス「灯台入り口」まで。

左下からカエルのの鳴き声が、湿地帯・水たまりから聞こえてきます。

       

遙か遠くに水平線が。

                   飯岡漁港の方向。

「国道126号」銚子方向。

大きなお屋敷。

「国道126号」に合流。

バス停「灯台入口」。→「飯岡灯台」「屏風ヶ浦」。 

飯岡から旭駅に。

次回は、「飯岡刑部灯台」下から銚子に向けて歩きます。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その5。飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。東日本大震災の被害状況・「復興かわら版」より。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-29 19:19:33 | 銚子往還

飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。

                      (現在)砂州が沖に伸びています。

かつての海岸線が浸食により後退している、と思われる。

                     (1880年代)岬のような地形ではありません。

100年間の海岸地形の変化は著しい。港湾施設の建設などで潮流の変化があったことも、大津波の一因になったのでは?

         

                  

     

「・・・自宅兼店舗は、海に向いた玄関から津波が入り周囲の壁を壊して突き抜けていた。幸い家族は避難して無事だったので、しばらくは友人やボランティアの力を借りて私は週末だけ帰り片付けを手伝った。再建に時間がかかったが12月にオープン。私は郷里に戻り父と二人で店を経営してゆく決心をした。経営は難しいが、私なりにインスタグラムやフェイスブックなどを活用して、会席料理をもっと気軽に若い人に楽しんでもらえるよう頑張る。」

「大地震の日は飯岡中学校で帰りのホームルームの最中だった。津波が来るかもしれないと言うので先生方の引率でスポーツ公園に避難した。帰宅後避難の準備をして玄関を開けたら、すでに津波が来ていて立ちつくすしかなかったのを覚えている。その後、東北の被災地でボランティア活動をする中で、規模の大小にかかわらず、被災者は心に傷を負っているから、心の復興が大切だと思うようになった。成人を機に、飯岡のために何かしようとSNSでよびかけたところ15人ほどが賛同してくれた。市の協力を得て、震災の紙芝居や防災パンフレットの配布、小学校での防災教室などを行ってきた。・・・」

「大震災に遭ったのは小学3年の時だった。3階に避難したとき窓から見た海は、真っ黒い波が黄色の建物を飲み込んでいく光景だった。次々と避難する人達が集まってきて、担架で運ばれる人もいた。父が迎えに来てくれて自宅に戻った。自宅は大きな被害はなかったが、友だちのおじいさんが津波で亡くなったことはショックだった。日が経つにつれ、地震や災害のニュースを見るたび、津波が建物をのみ込む光景や津波が人の命を奪ったことがフラッシュバックして恐怖心がよみがえる。・・・」

「3月11日は銚子の市場に入ったところで大地震に遭った。2回目の地震で大津波警報が出たので自分の店の船が繋いである飯岡漁港に戻ったのは4時くらいだった。港は引き波のあとで海底が見え船が何艘も横倒しになっていた。持ち船の一艘は祖父が津波をぬって沖に出していて助かった。もう一艘に父と二人で乗り込み、ロープで固定したがすぐに第二波が押し寄せ、港の中で渦を巻き始めた。ロープは切れ、船は渦に巻かれて死ぬかと思うほど怖かった。・・・忍耐の11年間だったが、主力商品を増やしたり、産直やネット販売など工夫しながら飯岡の地場産業を守っていくつもである」

「・・・防潮堤のかさ上げ、河川開口部のゲートフラップ、復興住宅も竣工しました。グループ補助金などにより産業も復興しました。津波避難道路の用地取得も進んでいます。皆様のご協力、ご理解のたまものです。防災・減災のためには事前の計画・準備が重要です。しかしながら、市役所だけでは災害を防ぐことはできません。皆様の自助、共助、日常の備えをお願いします。市民の絆、人と人とのつながり、チーム旭で安全安心のまちづくりおをすすめましょう。」(旭市長 米本弥一郎)

(「復興かわら版●いいおか津波●」より)

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その4。刑部岬の先端。「屏風ヶ浦と刑部岬」。沖合洋上風力発電所。東日本大震災の被害状況(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-28 19:36:45 | 銚子往還

断崖絶壁の下は、

                太平洋の海が広がる。

           

                           刑部岬の先端。

「屏風ヶ浦と刑部岬」。

飯岡台地が断崖となって太平洋に落ち込む屏風ヶ浦は、高さ60m、現在地には飯岡灯台がたち、刑部岬と呼ばれている。灯台周辺は公園に指定されており、水平線と九十九里浜が織りなす眺望は、昼夜を問わず絶景であり人気が高い。

ここ刑部岬から銚子市名洗にかけて、高さ40~50mの絶壁が屏風のように約10㎞にわたり続いており、屏風ヶ浦は俗に「東洋のドーバー」と呼ばれています。太平洋の荒波が直接打ち寄せるため、その浸食により形成されたもので、700年余りに約6㎞近く陸地が後退したといわれています。

平安時代末期にはこの地に源義経の四天王の一人、片岡常春が佐貫城をかまえていたが、その城跡は激しい浸食による海岸線の後退で今では海中に没してしまい、昔の姿はありません。わずかに地名でサヌキとして残っております。

文豪山本有三の小説「波」に出てくる「ビョウブのように突っ立った岩」とは主人公が盛岡出身で飯岡の海を紹介しているところです。

※ドーバー海峡の両側の英仏とも海底含め同じ岩石であるチョークでできており、海峡になる前の氷期は地続きであったと考えられる。これより北海側に存在した氷河との間に、ライン川やテムズ川から流れてきた水が湖を形成したが、何らかの作用で決壊し浸食した所が現在の海峡で、氷河期後に海面下に没したものと推定されている。

(この項、「Wikipedia」より)

国内初の着床式の沖合洋上風力発電所(↓)。
2009年8月より、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(以下、NEDO)の公募事業として研究を開始し、風況・海象の把握、海洋構造物が環境に与える影響などについて調査を行ってきました。
2013年1月からは、NEDOと共同で本設備による実証試験を実施し、2019年1月1日より商用運転を開始。

方位標。

りっぱな記念碑が建っています。

「沖縄飯岡友好交流記念碑」。

飯岡町と沖縄との交流は、平成9年5月に篤志家上原清吾氏が当町を訪れたことに始まります。・・・その後、上原氏は飯岡町の「教育」「福祉」に多額の浄財を寄付されるとともに、飯岡の子供たちが、沖縄の歴史・文化を通じて平和の尊さを学び、沖縄の子供たちと友情を育む交流の機会を与えて下さいました。かくして、この事業は、21世紀の社会を託す飯岡の子供たちに貴重な経験となり、将来を託するところ多大であると思われます。・・・沖縄と飯岡町の友好の絆を更に深めるため、この沖縄飯岡友好交流記念碑を建立するものであります。

「飯岡刑部岬展望館」。

 遠くに続く「九十九里浜」。

        

                        

・・・ 

九十九里浜は、「旭市(旧飯岡町)刑部岬」から「いすみ市(旧岬町)」のあいだ66キロメートルの海岸をいいます。
 源頼朝が太東岬から刑部岬の間を6町を1里とし、1里ごとに矢を立てたところ99本にたっしたことから九十九里とよぶようになりました。

九十九里浜のちょうど真ん中は山武市!?
 1町は約109メートル。計算すると6町×109メートル×99里=64,746メートルでほぼ一致します。
 『蓮沼村由来分地録』に「六町を一里に積り」や九十九の半分にあたる、49本目の矢を蓮沼の箭挿(やさし 矢指ともいう)神社に奉納したと書かれているなど、後世の作為も伺えますが、九十九里浜のへそは山武市蓮沼です。

九十九に関係した地名
九十九里浜には九十九を意識した地名があちこちに見うけられます。山武市のとなりの九十九里町、大網白里町、白子町などがそうです。
 白は百に『一』が足りないことから九十九を指します。ちなみに、九十九歳のお祝いを白寿)と言います。

九十九を「つくも」と読む理由
 百は「もも」とも読みます。つまり百に次ぐ(つぐ)「ツグモ」が訛り(なまり)「ツクモ」と呼ぶようになりました。

九十九のもう一つの意味
 九十九折り(つづらおり)・九十九湾(つくもわん)・九十九島(くじゅうくしま)のように「多く」「たくさん」をさす言葉です。

(この項、「山武市・さんむしキッズ」HPより)

・・・

展望館からの飯岡漁港。

このフロアには展示コーナーがあって、13年前の東日本大震災の被害状況が写真展示されています。

当時、旭市が大きな被害を受けたことは知っていましたが、どうして九十九里浜で大きな被害が出たのか、という程度で関心がないまま、今日まできてしまいました。

千葉県九十九里浜北端の旭市飯岡海岸では,3.11 の地震津波により大きな被害が出た。特に,飯岡海岸に沿う九十九里ビーチライン(県道 30 号)と市街地内を走る道路沿いの民家や商店を中心に死者 13 人,行方不明 2 人,全壊 427 棟,半壊 335 棟,床上浸水 387棟(朝日新聞 2011.4.10 現在)の大災害となった。下永井の飯岡漁港の防波堤を越えた最大 6mの津波は,その後飯岡の市街地を襲い,中心部ではビーチラインを越えて場所によっては標高 5m付近まで駆け上がった。海岸の波打際から 200mほど内陸の旧農協裏の住宅(標高 3.7m地点)では,津波によって 1.54mの高さまで浸水した。

ベストアンサー

(「」より)

         

報じられないことは「仕方がない」 東北の陰で「忘れられた被災地」は 【#あれから私は】

 それから10年。今もさまざまな活動が地元で続いている。昨今、高齢化や新型コロナ禍の影響も受けているが、自分たちの暮らす地域で起きた出来事や教訓を先につないでいこうという思いは変わらない。

(2021年3月6日 14:00 |「千葉日報」銚子・海匝支局 橋本ひとみ)

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その3。眼下に飯岡漁港。「希望の鐘」。TVドラマのロケ地。「あしたのジョー」ちばてつや。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-27 21:34:27 | 銚子往還

眼下に「飯岡漁港」が広がります。

飯岡の町並み。

           右奥の遊歩道を上がってきました。

遠く九十九里浜が連なる。

けっこう高台に上がってきます。左手奥が刑部岬の先端。

「飯岡刑部岬展望館」が正面に。

屏風ヶ浦先端に立つ「飯岡刑部灯台」。

  

眼下に広がる大海原。

  「希望の鐘」。

2011年3月11日東日本大震災が発生し飯岡地区も大地震、大津波により多大な被害を受けました。震災の早期の復活と強く生きることを祈願して飯岡ライオンズクラブはこの地に「希望の鐘」を設置しました。ここでぜひ鐘を鳴らしてみてください。心地よい鐘の音が未来に向けてすべての皆様の幸せの金になりますよう希望いたします。

        

「打ち上げ花火 下から見るか 横から見るか」ロケ地。   

東日本大震災により大きな被害を受けた本作のロケ地と東日本復興への願いをこめて」と、2011年7月22日から8月31日まで岩井俊二の公式サイトにて、無料で動画配信された

※Aパート、Bパートがあるようです。

Bパート
足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、ギリギリまで粘った典道はなずなとの約束を優先し、バスに乗り駅で降りた。なずなは時間が経つにつれ態度を変え駆け落ちせずバスで戻り、学校のプールに忍び込み水遊びをした後、「2学期で会おう」と叶うことのない約束をして典道の元を去っていく。一方祐介達は灯台に向かうも花火はすでに終わってしまった。典道は祭りで彼氏を連れた三浦先生から花火師を紹介してもらい、一発の花火を打ちあげてもらう。典道は下から、祐介達は横から花火を見ることができた。

使われている楽曲は、全曲REMEDIOS(麗美の別名義)によってこの作品のために書き下ろされている。

この作品の撮影はプロデューサーの原田泉がこのドラマのプロットを読み、この町以外にないと断言した千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)で実際に行われた。また、ロケは飯岡町以外に千葉県海上郡海上町(現在の旭市)、旭市の隣の市である銚子市でも行われており、子供たちが通う小学校は銚子市立豊岡小学校で当地の生徒をエキストラに撮影された。

特に、典道となずなが電車を待つシーンで使われた飯岡駅、典道の自宅として使われた釣具店などは、放送後数年間に渡り、この作品のファンが訪れる姿が見られたという。この地は、この作品の大ファンである山崎貴が監督して2000年に公開された映画『ジュブナイル』の舞台にも使用された。

(この項、「Wikipedia」より)

「ちばてつやが育った町(『あしたのジョー』・矢吹丈)」。

※敗戦後、中国・満州から引き揚げてきた、ちばてつやの父親の故郷が飯岡町だった。

東京山谷ドヤ街に、ふらりと一人の少年が現われた。矢吹丈ジョー)と名乗るその少年に一方的に叩きのめされたアル中の元ボクサー・丹下段平は、ジョーと地元暴力団・鬼姫会の連中との乱闘から天性のボクシングセンスを見いだし、一流のボクサーに仕立て上げようと口説き始める。しかしジョーは、自分に向けられる段平の情熱を利用し、小遣いをもらってはドヤ街の子供たちを引き連れて乱行を繰り広げた揚げ句、犯罪にも手を染め、警察に逮捕されて少年鑑別所へと送られてしまった。

そんなジョー宛てに段平から「あしたのために」の書き出しで始まるハガキが届いた。その内容は、左ジャブの打ち方から始まるボクシング技術の講義であった。時間と体力を持て余していたジョーは、そのアドバイスに従ってボクシングの練習に身を入れるようになり、やがて自分のパンチの切れが、今までと比べものにならないほど向上していくのを実感する。

鑑別所から西寛一と共に野菊島の東光特等少年院へ移されたジョーは、豚小屋掃除の際に、西の提案で豚たちを暴れさせ脱走を試みた。しかし、ライバル・力石徹にその邪魔をされてコテンパンに叩きのめされた。その後、小馬鹿にしていた青山とのボクシング対戦で防御法を身に着けたものの、宿命の対決が再戦されないまま力石は先に少年院を出た。遅れて少年院を出たジョーはなんとかプロボクサーライセンスを取り、強引な手腕でウルフ金串との対戦を実現させて、フェザー級からバンタム級へ転向した力石との対戦をも実現する。

減量による力石の変わりようは見られたものではなかったが、激闘の末にジョーは敗れた。しかし、勝った力石は減量の無理がたたって試合終了後に倒れ、そのまま死亡する。力石を死なせたショックで対戦相手の顔面を打てずに満足な試合を行えなくなったジョーは、それでもボクシングを捨て去ることなく、ドサ回りのボクサーに身を落とし罵声を浴びながらも試合を続けるのだった。

ボクシングに対する苦悩の末、強敵カーロスとのスパーリングで顔面を打てないという後遺症を乗り越えて復帰を果たし、本格的にボクシングの道へと足を踏み入れることとなったジョーは、金竜飛ハリマオとの対戦を経て遂に、世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー・ホセ・メンドーサとの闘いに挑んだ。

しかし、パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしくホセに判定負けを喫して敗れ去ってしまう。試合後、ジョーはグローブ葉子に手渡した。灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。

(この項、「Wikipedia」より)

ということで、けっこう話題が豊富の岬でした。記念碑があといくつか続きます。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その2。飯岡漁港。刑部灯台を望む。森の中の遊歩道・かつての往還道。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-26 20:42:58 | 銚子往還

飯岡漁港付近の今昔。

      

(1880年代)銚子港への道は、飯岡村(飯岡漁港)を抜けて、北東に向かいます。  

        

(現在)飯岡漁港付近は港湾施設が整備され、道筋は変化していますが、東側には旧道が残っています。

刑部灯台を望む。

 

釣り船が出航。 

           

灯台の方へ向かいます。

この道はかつての往還道。現在は、遊歩道になっています。

山を回り込みながら進む。

右に「海津見神社」。

                 通称「永井の妙見様」。 

急な石段を上っていきます。

坂道を振り返る。かつての往還道になっている。

50mほどの高さを一気に上がり、

                 灯台に向かう舗装道路に出ます。

 

銚子に向かう旧道はここから台地の縁を東に進みますが、次回に回すことにして、刑部灯台に向かいます。

この付近の今昔。  

        (1880年代)            (現在)〇が分岐点。

灯台への上り坂を行くと、絶景が待っていました。  

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その1。コミュニティバス。床屋談義。飯岡漁港。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-25 20:40:24 | 銚子往還

今回は、もう一つある「銚子往還道(従銚子港至千葉町道)」を歩く、その前に。

旧道に連なる「飯岡漁港」から刑部岬・灯台付近を探訪します。

4・19(金)。晴れ。

「旭駅」から旭市コミュニティバスを利用して、

「玉崎神社」下車。(ここまで運賃100円。)

※小学生、75歳以上、運転免許返上者は100円。通常は200円。数人乗ってきました。

飯岡漁港まで歩きます。

道路が整備され、新築のおうちが目立ちます。実は、それには背景があったのですが、後で知ります。

さらに、

19日に出かけた翌日、整髪に行ったとき。行きつけの床屋さん、飯岡の「三川」出身だということが判明。

「昨日、歩きましたよ。旭駅からバスに乗って、飯岡漁港から刑部灯台まで」

「高校まで三川に住んでいました」

そこから、話が弾んで、玉崎神社までのコミュニティバスの停留所を停留所一つひとつ挙げて、「三川」という停留所はないんですよ」と。

「八畝田」~「三川犬林」~「三川目那」~「三川曽根」・・・

そして、「3・11の東日本大震災で大きな被害があったんです。中学校も震災で高台の方に移ったんですよ」

「それでけっこう新しい家が目立つののですね」。

「自分がいた頃、30年前の話ですが、藁ぶき屋根の家もありました。自分の家は農家、兄貴が後を継いでいます。自分は、早く家を出ようと思ってました。高校を出たらすぐ、東京に」

「旭中央病院はずいぶん大きいですね。駐車場も広いし、満車でした」

「そうなんですよ、銚子の人や小見川の人もやってきます。このへんでは唯一の総合病院ですね。おじさんもおばさんもそこで亡くなりました。火葬場も旭にありますし」

・・・

海岸に出てきました。

                遠くに見えるのが「刑部灯台」。屏風ヶ浦の断崖上にあります。

飯岡漁港。

               

ここは、「屏風ヶ浦」の西端であると共に、南西に向かって「九十九里浜」が始まるところでもある。「九十九里浜」が始まるところでもある。

 

   飯岡漁港・刑部岬の東側が屏風ヶ浦、西側が九十九里浜。西が旭市、東が銚子市。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。柴崎町。利根水郷ライン。海上(うなかみ)。「銚子街道」との追分。銚子縮。水郷・田植え間近。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-23 20:16:07 | 銚子往還

総武本線・上りの電車。 

古い石塔。

旧道沿いの街並み。

「塙廣屋」。屋号?

「柴崎町」交差点。国道356号「利根水郷ライン」を横切る。

※利根水郷ライン=千葉県銚子市から、我孫子市に至る全線に渡って利根川右岸に沿う。

角に大きな記念碑。

「銚子市立海上幼稚園」。奥に「海上小学校」。

海上=うなかみ。

海上村(うなかみむら)は、千葉県海上郡に存在した。現在の銚子市の、おおむね松岸駅椎柴駅猿田駅の間の沿線に位置していた。

海上は広域地名であり、1954年から2005年まで存在した海上町(現旭市)は本村と位置も異なる別の自治体である。銚子市立海上小学校などにその名をとどめている。

いよいよゴール地点へ。

                 正面は、「藤兵衛支店」。

来た道を振り返る。

「銚子信用金庫松岸支店」。

佐原方面から利根川沿いを進む「銚子街道」と出会う(追分)。ここから飯沼観音までが銚子街道とされる。

今回は、ここを大網からの歩いてきた「銚子往還」(従銚子港至千葉町道)のゴールにします。

この付近の今昔。

(現在)〇が追分(今回のゴール)。赤い線が「国道356号(利根水郷ライン)」。

(1880年代)当時、銚子往還(従銚子港至千葉町道)との追分だったことがわかります。

松岸駅に向かいます。

少し銚子方向に戻り、右折。

銚子市のマンホール。

            中央に犬吠埼灯台と太平洋の波とカモメを描き、周囲に市の魚イワシをデザイン。

途中で見かけた「銚子ちヾみ」のお店(作業所)。

            「無形文化財 本場銚子ちヾみ 千葉県伝統的工芸品」。

       

解説板。

銚子縮(ちぢみ)

銚子縮の特徴は、木綿糸をスカイ、普通系の何倍もの縒りをかけた左縒りと右縒りの二種類の横糸を交互に通して織り込む。織りあがった生地を湯に浸けて揉むと、縒りが戻る時に互いに反発する弾力で生地に細かな凹凸ができる。これをシボ出しといい、何回洗っても縮まない丈夫な織物が出来上がる。縮の生地は丈夫で染色もしっかりしており、快適な肌触りの良さから広く庶民に親しまれている。

銚子縮の発祥は定かではないが、江戸時代後期に産業化したといわれる。しかし、大正時代を境に銚子縮の生産は途絶え、戦後、常世田真次郎氏が銚子縮の復活を心がけ、苦心の末に銚子縮を再興した。現在、銚子縮の製作技術は息子の秀雄氏を経て、孫の眞壱郎氏が継承している。

JR「松岸駅」。

「成田線」で成田まで、そこから京成線に乗り換えて帰宅しました。

総武本線・成東経由千葉行き。

成田線・車窓から。

            左手に東総台地。台地の南側から歩いてきたわけです。

小見川駅を過ぎると田んぼが広がります。

          

田植えも間近です。

「旭駅」からの「銚子往還」道は、今回の道だけではありませんでした。JR旭駅付近から東南に向かい、飯岡漁港を通り、東総台地の東の縁を歩き、国道126号に合流して銚子に達する道がありました。この道も旧「従銚子港 至千葉町道」。

次回、その付近を探ってみます。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。平地が広がる。キャベツ畑。総武本線「柴崎街道踏切」・成田線踏切。総武本線・成田線。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-21 20:50:11 | 銚子往還

収穫済みのキャベツ畑。

 平地が広がる。

「標高8.5m」。約50m下がってきたわけです。

前方遠くには「JR線」。

東方向。

西方向。

キャベツ畑。

JR総武本線踏切。

                      「柴崎街道踏切」。

  

銚子方向。                 旭方向。  

 成田線「柴崎踏切」。

  

佐原方向。                 銚子方向。

この際、まとめて路線図。

成田線

総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線と、成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線(我孫子支線)と、成田駅から約2 km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう支線(空港支線)を持つ路線である。

本線の佐倉駅 - 松岸駅間では総武本線よりも13.4 km営業キロが長い

成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、千葉駅を発着する成田線発着・経由列車は、総武本線成東駅方面行きの列車との誤乗車防止の観点から、同駅以東で列車の前面・側面表示を含めて「成田線」と案内表示される。(「Wikipedia」より)

表示上の「成田線」線路図(千葉~銚子)

  

総武本線路線図(千葉~銚子)

安孫子線路線図(成田~我孫子)

                                 (「ジョルダン」より)

※「松岸」から成田線を帰途に利用し、「成田」で京成電車に乗り換えることに。

踏切を越え、市街地に入っても、ゴールの追分までは、まだまだ。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。旧道筋の集落。下り坂。高台から平地へ。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-20 20:29:31 | 銚子往還

三叉路に石碑などがいくつか。

小さな集落に入ります。

右手には畑が広がります。

路傍には明るい色のキク科? の花々が。

            ガーベラ?

この花の名は?

            

右手下にも住宅が。 

剪定された見事な槙。

県道に合流します。

その手間に作業所。

       ダイコンを水洗いながら先端を切り落としています。カートに山積みされたダイコン。  

その作業所の前に、

                木彫りの熊?   

振り返る。

合流地点に記念碑。

この付近、旧道の道筋ははっきりしません。

                     (1880年代)丘陵と丘陵の間を進む。

                     (現在)黄線が県道。白線が旧道。

西側には畑が広がる。

         遠くには風力発電の大きな風車(プロペラ)群。

 

この道が旧道の一部? 

東総台地の北端から下り坂にかかります。台地に上った分、下るわけです。

坂の途中に古い石碑。

          

右手は谷筋。

前方が開けてきます。

平地に降り立った印象。

来た道を振り返る。

                      遠く東総台地を望む。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。銚子市。青空の下にキャベツ畑・ダイコン畑。収穫時期をずらしての農作業。銚子にはメロンも。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-18 20:28:16 | 銚子往還

銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。

収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。

こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。

何を植えるのでしょうか?

       

         どういう工場・施設だったのか? 廃業になっているようです。

ダイコン畑。

シートをかけた畝。

これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。

キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。

また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。

         遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。

シートを外したダイコン畑。

緑濃きキャベツ。

             キャベツ畑が遠くまで続いています。

県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。

              

ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。

           「何の苗ですか? 」「メロンの苗でしすよ。」

メロン農家は、加瀬さん、萩原さん、常世田さんなど生産者がいます。

ハウスで種を蒔き、発根、発芽、苗移植と気の抜けない作業が続く。
交配はミツバチがお手伝い。
収穫まで約150日、水、温度を管理し、太陽の恵みと、海からの南風を受けて甘さぎっしりのメロンが仕上がる。

銚子のメロン
 
果肉が甘く、香りと食感もよく、メロンの中でも人気のブランドです。 また、最高級品は「金印」とされ、糖度は16度以上もあり、日本農業賞を受賞した実績もあります。 高品質な銚子メロンは6月から7月しか流通しないので、銚子市外に出回ることが希(まれ)なため幻のメロンと言われてます。          
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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。畑の中に風力発電施設。国内3位の生産量・キャベツ。国内1位のダイコン。旭市から銚子市へ。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-17 20:22:05 | 銚子往還

大きな風車(プロペラ)の下にも畑。

千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。
関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。
車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、
丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基)と銚子屏風ヶ浦風力発電所(1,500kW×1基)も見えてきます。
そして126号線を外れて東総広域農道へ入ると、右も左も風車だらけの風景になります。
この広域農道を東進した終点付近に、域内最大の風力発電所である銚子風力発電所(1,500kW×9基)が道路を囲むように建っています。
さらにこの風力発電所群の北にも、椎柴風力発電所(1,990kW×5基)や銚子ウィンドファーム(1,500kW×7基)があり、一大風力発電所群となっているのです。国道が走り、車も人も行き交う農道や生活道路が何本も走る中に建っています。
国道を走っていると突如として現れる風車の群れという景色は、初めて訪れる人を驚かせるものでしょう。
風車の近くに行ってみると、本当に畑の一部の区画が切り取られてフェンスで囲われ、風車と付帯設備がこぢんまりと建てられています。
風力発電機はこんなに小さなスペースで建てられるのかという驚きと、こんな場所に建てることができてしまうのだという二つの驚きが得られます。 
畑の中に風力発電機が立ち並ぶ景色というのは、ヨーロッパを思い起こさせる風景ではあります。・・・

(この項、「TOPIC 東総台地風力発電所群」より)

キャベツ畑。

ダイコン畑。

 

キャベツ畑。

               

群馬、愛知に次いで、国内第3位のキャベツの産地は、千葉県です。

千葉県は、11月から1月、3月から5月にかけて旬を迎える冬キャベツ、春キャベツの生産が盛んに行われています。特に有名なのは、銚子市、旭市、野田市などです。

冬でも温暖な海洋性気候が特徴の千葉県。そのため、柔らかくて甘いキャベツが育つといわれています。

※キャベツの語源は、フランス語のカボッシュ(頭でっかち)から来ています。

おいしいキャベツの選び方

  • 切り口が小さく、持ってみて重量感があり、緑色で新鮮なもの
  • 春キャベツは、主に春から6月頃に出荷され、形が丸くて、巻き方が緩く、葉は柔らかくてみずみずしいもの
  • 冬(寒玉)キャベツは、主に秋から初春に出荷され、形が楕円で葉の間には隙間がなく、葉は硬くて厚いもの

ダイコン畑。 

            

生産量1位の千葉県では、生産体制の整備とトンネル栽培などの栽培方法が普及したことで、高い反収を誇っています。

 主産地の銚子市をはじめとした千葉県の大根は、自家漬物用として昭和初期に栽培が始まったといわれています。1955年には秋系品種の栽培が始まり、商用として売られ始めたとされています。

その後、1966年に「秋冬大根」の産地指定を受けたため、栽培面積が拡大しました。これに伴い用水施設や農道が整備され、機械や資材の運搬体制が整備されていきました。

こうした動きも支えとなり、トンネル栽培が普及したことで、1986年に「春大根」の指定産地を受けることになりました。

また、トンネル栽培普及のおかげで、6~9月の高温期以外の出荷が可能になりました。無被覆栽培よりも労力がかかるため、1人が担当できる栽培面積は30aほどが限界ですが、気温が低い環境でも栽培ができます。

旭市から銚子市に入ります。  

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。東総台地に向かう。「従銚子港 至千葉町道」。塙十字路。風力発電。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-16 21:01:17 | 銚子往還

4月13日(土)。晴れ。

今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。

歩くとかなり時間がかかり、途中、東総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。

この付近の今昔。

(現在)道筋はほとんど変わらない。

(1880年代)「従銚子港 至千葉町道」。

塙新町。

集落になっています。

ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。  

塙十字路。 

左の角に「塙十字路祠」。

集落から次第に離れていくと、

左右が開けてきます。 

                

      風力発電施設の大きな風車(プロペラ)が目に入ってきます。びっくり!

             

起伏にとんだ丘陵。 

緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。

        谷の向こうに雄姿を見せる巨大な風車(プロペラ)。

        振り返り、振り返りしながら。

坂を上った向こうには、、   

見渡す限り、畑が広がる。

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