有馬稲荷神社から車で温泉寺の近くまで。
これが狭い道で苦労しましたよ。
私の前に一台先に走っていましたが、
大きいボックス車だったのでカーブを曲がるのもギリギリ。
私の車も何とか狭いカーブを曲がり、
対向車が来ないことを祈りながら走ったよ。
一方通行じゃないから、
もし対向車が来ていたら泣いてました。(^^;
<2012年3月3日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/6245d8c98c11c68471140a69179334b0
【本堂】
【堂内】
いつ見ても堂内の仏様達はしびれますね。
【石造五輪塔】
「この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、
元禄14年(1701)の摂陽群談では平相国平清盛塔と慈心坊尊恵塔だと記し、
ともに平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立したものだと説明している。
平家物語、古今著聞集、温泉寺縁起などによると、
慈心坊尊恵は承安年間(1171~75)に清澄寺(現、宝塚市)に住んでいた時、
幾度も閻魔大王に招かれてあの世に赴いたと伝えられている。
閻魔の庁で大輪田泊での清盛主催の千僧供養が話題になった時、
閻魔大王は清盛を平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。
尊恵はそのことを清盛に話し、清盛が喜んだこと。
また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて閻魔王府の東門に当たる
聖地有馬の温泉山に納めるように伝えたことなど、
尊恵には有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。
歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中断し、清盛に関して入湯の記録や伝説はない。
兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ百年のころに
供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、
江戸前期に摂陽群談という解説が信じられていたのであろう」
御朱印は前回参拝時にいただいていますので、
今回はいただきませんでした。
これが狭い道で苦労しましたよ。
私の前に一台先に走っていましたが、
大きいボックス車だったのでカーブを曲がるのもギリギリ。
私の車も何とか狭いカーブを曲がり、
対向車が来ないことを祈りながら走ったよ。
一方通行じゃないから、
もし対向車が来ていたら泣いてました。(^^;
<2012年3月3日参拝>
http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/6245d8c98c11c68471140a69179334b0
【本堂】
【堂内】
いつ見ても堂内の仏様達はしびれますね。
【石造五輪塔】
「この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、
元禄14年(1701)の摂陽群談では平相国平清盛塔と慈心坊尊恵塔だと記し、
ともに平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立したものだと説明している。
平家物語、古今著聞集、温泉寺縁起などによると、
慈心坊尊恵は承安年間(1171~75)に清澄寺(現、宝塚市)に住んでいた時、
幾度も閻魔大王に招かれてあの世に赴いたと伝えられている。
閻魔の庁で大輪田泊での清盛主催の千僧供養が話題になった時、
閻魔大王は清盛を平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。
尊恵はそのことを清盛に話し、清盛が喜んだこと。
また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて閻魔王府の東門に当たる
聖地有馬の温泉山に納めるように伝えたことなど、
尊恵には有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。
歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中断し、清盛に関して入湯の記録や伝説はない。
兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ百年のころに
供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、
江戸前期に摂陽群談という解説が信じられていたのであろう」
御朱印は前回参拝時にいただいていますので、
今回はいただきませんでした。