相国寺を後にし本日の参拝エリアである
京都御所の横にある上京区寺町通方面へ。
この辺りには廬山寺や本禅寺や清浄華院等、
今まで行きたかったけどなかなか行けなかったお寺があるのです。
所在地:京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:(伝)貞観2年(860年)
開山:(伝)開創開山・慈覚大師円仁
改宗開山:法然
開基:(伝)清和天皇
中興:村上天皇
札所:法然上人二十五霊跡23番
【歴史】
時の天皇である清和天皇の勅願により天台宗の慈覚大師円仁が宮中に
禁裏内道場として建立したのが始まりです。
当時は円(円教、天台のこと)・密(密教)・戒(円頓戒)・浄(浄土教)の四つの学問を学ぶ
四宗兼学の道場であり、かつまた国家泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもありました。
当時の仏教界に新風を吹き込んだ法然上人の教えは道俗・身分を問わず潮のように広まっていき、
その教えに触れようとしたのは時の天皇も同様でした。
後白河法皇は法然上人を宮中に呼び寄せ教えを請い、
高倉天皇・後鳥羽上皇とともに上人を戒師として円頓戒のご受戒も受けられました。
後白河天皇は法然上人の教えに大変感動され参内の宿舎とされていた当院を法然上人に賜りました。
これによって清浄華院は浄土宗に改められ、以後念仏道場としての道を歩むことになったのです。
応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が勃発し以後十年にわたって京都は戦火に包まれました。
室町第に近かった清浄華院も度々戦場となり伽藍は灰燼に帰してしまいました。
これにより清浄華院の勢力は大きく衰退してしまいます。
仏殿を再興したのは乱勃発後二十年もたった後のことでした。
しかしながら皇室や公家衆の帰依は変わらず、
皇室帰依の寺院としての威厳は保ちつづけ歴代の住職は朝廷より紫衣勅許を賜わり、
度々参内して天皇に浄土法門を説くなど親密な関係を築いていました。
天正年間(1573~1592)、政権を握った豊臣秀吉は京の町の改造に乗り出し、
鴨川西岸に洛中の寺院を集め寺町を造ります。
清浄華院が現在地に移ってきたのはこの時で以後清浄華院はこの御所の東、
寺町広小路の地で現在まで法灯を守り続けています。
【総門】
高麗門と呼ばれる形式をとり両脇には番小屋が付属しています。
現在番小屋は南北それぞれ地蔵堂、不動堂として改築されています。
駐車場は境内にあります。
【勅使門】
称光天皇が阿弥陀堂を再建したときに寄進され、
昭和9年(1934)に再建されたもの。
菊の御紋があり皇室と所縁のあるお寺だと分かります。
比較的小さな勅使門です。
【鐘楼堂】
法然上人八百年大遠忌記念事業の一環として平成22年に再建されたもの。
掛かっている梵鐘は江戸時代のはじめ慶長15年(1610)のに造られたものです。
【御影堂】
大殿と称され本堂になります。
昭和44年(1969)に法然上人700年大遠忌を記念し落慶されたもの。
堂内に入ってくださいと若いお坊さんに言われましたので遠慮なく。(^^
【内陣】
凄過ぎです。
法然上人像が祀られていました。
不動明王等が祀られていました。
海北友賢筆の大涅槃図で描かれることの少ない猫がいました。
内陣の東壇には尊牌壇があり所縁のある天皇・皇族の方々のお位牌が安置されているそうです。
とにかくこの内陣が凄かった。
尼崎の如来院も凄かったけど、
さすが大本山だけあって更に上をいく素晴らしいものでした。
感動しましたよ。
内陣は撮影許可をいただいております。
【阿弥陀三尊像】
こちらは大方丈に祀られており、
御本尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と伝えられているそうです。
両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩像は「大和座り」と呼ばれる珍しい座り方をしています。
この日は若い女の子達が集まっていて、
何かあるのかな?と思っていたら掃除を始めたので退散。
どうやら京都流芳会の女の子達みだいだ。
【阿弥陀堂】
塔頭・松林院の本堂を改築したのが阿弥陀堂。
御本尊の阿弥陀如来坐像は松林院の御本尊だったものが、
そのままお祀りされているそうです。
現存する阿弥陀堂の建物(旧松林院本堂)は大正天皇御大典の際に、
二条城に建てられた饗応所(大廊下)を宮内省より下賜され、
その部材を使って建てられているとか。
現在、阿弥陀堂は佛教大学の浄山学寮(宗門後継者養成道場)の教室としても使われており、
若い僧侶たちが修学に勤しんでいるそうです。
【山王権現社】
寺伝によれば清浄華院創建時に慈覚大師円仁が勧請したと伝えています。
【天明大火供養塔】
天明の大火による犠牲者を弔う供養塔だそうです。
京都市街の大半を焼き尽くし二条城や御所も類焼するほどの大火災が天明の大火と言われる。
周囲には六地蔵の石仏がと二体の地蔵尊が安置されていました。
【宝篋印塔】
蘭癖大名の一人である島津氏第25代当主で薩摩藩の第8代藩主であった
島津重豪の側室であった智満姫のもの。
智満姫は天璋院篤姫の曾祖母に当たります。
ちなみに島津重豪は正室、後室の他に側室が12人も居たそうだ。
羨ましい。(^^
【納骨堂】
普段私は納骨堂は撮影しないのですが、
参拝した時はまさか納骨堂とは思いませんでした。
よく見ると仏様が祀られている。
この仏様は昭和62年に3,000体に達した納骨を元に、
彫刻家・今村輝久氏の手によって造立された骨仏だそうで。
骨仏と知っていれば写真は撮りませんでしたよ。(^^;
【不動堂】
不動講護摩会で焚かれる煤が付いて無く、
まだ新しいお不動さんだと思います。
何故か安倍晴明像が祀られていました。
【御朱印】
対応していただいた若いお坊さんは礼儀正しく、
きっちりと教育されているようでした。
最近、このようなお坊さんが少なくなって残念に思います。
京都御所の横にある上京区寺町通方面へ。
この辺りには廬山寺や本禅寺や清浄華院等、
今まで行きたかったけどなかなか行けなかったお寺があるのです。
所在地:京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:(伝)貞観2年(860年)
開山:(伝)開創開山・慈覚大師円仁
改宗開山:法然
開基:(伝)清和天皇
中興:村上天皇
札所:法然上人二十五霊跡23番
【歴史】
時の天皇である清和天皇の勅願により天台宗の慈覚大師円仁が宮中に
禁裏内道場として建立したのが始まりです。
当時は円(円教、天台のこと)・密(密教)・戒(円頓戒)・浄(浄土教)の四つの学問を学ぶ
四宗兼学の道場であり、かつまた国家泰平と天皇陛下のご健康を祈る鎮護国家の道場でもありました。
当時の仏教界に新風を吹き込んだ法然上人の教えは道俗・身分を問わず潮のように広まっていき、
その教えに触れようとしたのは時の天皇も同様でした。
後白河法皇は法然上人を宮中に呼び寄せ教えを請い、
高倉天皇・後鳥羽上皇とともに上人を戒師として円頓戒のご受戒も受けられました。
後白河天皇は法然上人の教えに大変感動され参内の宿舎とされていた当院を法然上人に賜りました。
これによって清浄華院は浄土宗に改められ、以後念仏道場としての道を歩むことになったのです。
応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が勃発し以後十年にわたって京都は戦火に包まれました。
室町第に近かった清浄華院も度々戦場となり伽藍は灰燼に帰してしまいました。
これにより清浄華院の勢力は大きく衰退してしまいます。
仏殿を再興したのは乱勃発後二十年もたった後のことでした。
しかしながら皇室や公家衆の帰依は変わらず、
皇室帰依の寺院としての威厳は保ちつづけ歴代の住職は朝廷より紫衣勅許を賜わり、
度々参内して天皇に浄土法門を説くなど親密な関係を築いていました。
天正年間(1573~1592)、政権を握った豊臣秀吉は京の町の改造に乗り出し、
鴨川西岸に洛中の寺院を集め寺町を造ります。
清浄華院が現在地に移ってきたのはこの時で以後清浄華院はこの御所の東、
寺町広小路の地で現在まで法灯を守り続けています。
【総門】
高麗門と呼ばれる形式をとり両脇には番小屋が付属しています。
現在番小屋は南北それぞれ地蔵堂、不動堂として改築されています。
駐車場は境内にあります。
【勅使門】
称光天皇が阿弥陀堂を再建したときに寄進され、
昭和9年(1934)に再建されたもの。
菊の御紋があり皇室と所縁のあるお寺だと分かります。
比較的小さな勅使門です。
【鐘楼堂】
法然上人八百年大遠忌記念事業の一環として平成22年に再建されたもの。
掛かっている梵鐘は江戸時代のはじめ慶長15年(1610)のに造られたものです。
【御影堂】
大殿と称され本堂になります。
昭和44年(1969)に法然上人700年大遠忌を記念し落慶されたもの。
堂内に入ってくださいと若いお坊さんに言われましたので遠慮なく。(^^
【内陣】
凄過ぎです。
法然上人像が祀られていました。
不動明王等が祀られていました。
海北友賢筆の大涅槃図で描かれることの少ない猫がいました。
内陣の東壇には尊牌壇があり所縁のある天皇・皇族の方々のお位牌が安置されているそうです。
とにかくこの内陣が凄かった。
尼崎の如来院も凄かったけど、
さすが大本山だけあって更に上をいく素晴らしいものでした。
感動しましたよ。
内陣は撮影許可をいただいております。
【阿弥陀三尊像】
こちらは大方丈に祀られており、
御本尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と伝えられているそうです。
両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩像は「大和座り」と呼ばれる珍しい座り方をしています。
この日は若い女の子達が集まっていて、
何かあるのかな?と思っていたら掃除を始めたので退散。
どうやら京都流芳会の女の子達みだいだ。
【阿弥陀堂】
塔頭・松林院の本堂を改築したのが阿弥陀堂。
御本尊の阿弥陀如来坐像は松林院の御本尊だったものが、
そのままお祀りされているそうです。
現存する阿弥陀堂の建物(旧松林院本堂)は大正天皇御大典の際に、
二条城に建てられた饗応所(大廊下)を宮内省より下賜され、
その部材を使って建てられているとか。
現在、阿弥陀堂は佛教大学の浄山学寮(宗門後継者養成道場)の教室としても使われており、
若い僧侶たちが修学に勤しんでいるそうです。
【山王権現社】
寺伝によれば清浄華院創建時に慈覚大師円仁が勧請したと伝えています。
【天明大火供養塔】
天明の大火による犠牲者を弔う供養塔だそうです。
京都市街の大半を焼き尽くし二条城や御所も類焼するほどの大火災が天明の大火と言われる。
周囲には六地蔵の石仏がと二体の地蔵尊が安置されていました。
【宝篋印塔】
蘭癖大名の一人である島津氏第25代当主で薩摩藩の第8代藩主であった
島津重豪の側室であった智満姫のもの。
智満姫は天璋院篤姫の曾祖母に当たります。
ちなみに島津重豪は正室、後室の他に側室が12人も居たそうだ。
羨ましい。(^^
【納骨堂】
普段私は納骨堂は撮影しないのですが、
参拝した時はまさか納骨堂とは思いませんでした。
よく見ると仏様が祀られている。
この仏様は昭和62年に3,000体に達した納骨を元に、
彫刻家・今村輝久氏の手によって造立された骨仏だそうで。
骨仏と知っていれば写真は撮りませんでしたよ。(^^;
【不動堂】
不動講護摩会で焚かれる煤が付いて無く、
まだ新しいお不動さんだと思います。
何故か安倍晴明像が祀られていました。
【御朱印】
対応していただいた若いお坊さんは礼儀正しく、
きっちりと教育されているようでした。
最近、このようなお坊さんが少なくなって残念に思います。