2009年8月から練習を始めた、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番だが、
最近ようやく第3楽章の最後まで通すことが出来るようになった。
しかしどうかすると、まだあと1年は追求し続けたい気がする(爆)。
時間をかければそれだけ良いものになると決まっているわけではないが、
私は性格的にとにかくシツコいので、何かを得心するまでやろうと思うと、
どんなことでも人一倍、手間暇が必要なのだ。
これが趣味の話でなく、仕事で仕上げなくてはいけないものがある場合は、
何より納期優先だから、そこまで自分本位には、やらないけれども。
しかし一方で、現在の自分は、自分が願っているほどの力量はない、
ということも、謙虚に受け入れなくてはならないと常に思っている。
自分の想定する「完成」に辿り着けないのは、時間が足りないからではなく、
自覚しているよりもっと、今の自分に力がないことが理由なのであり、
その場合は、出来映えには不本意でも、一旦、妥協するほかはない。
眼高手低ならぬ、耳高手低というわけだ。
未解決の部分を多々残したまま、手を引かなくてはならないときは残念だが、
また何年か経って再会することがあれば、
もう少しマシなものとしてやり直せるかもしれない、
と、まあ明日を信じて気長に構えるのが良いだろう。
一昨年弾いていたモーツァルトのピアノ・ソナタKV545は、その典型だった。
子供の頃は、練習して譜面の音を拾っても、到底音楽になっていなかったが、
オバさんになって再開してから弾いたら、少しは自分で「わかる」ものがあった。
かつては「こんな簡単な曲が弾けない私はヘタだ」と自己嫌悪があったが、
今になってみると、「限られた音でこれほど難しい曲を書いたモーツァルトは神だ」
ということがよくわかった。
だからどこが課題なのか、なぜ、音が並んだだけでは駄目な演奏になるのかを、
自分なりにわかった上で、再び、弾き直すことができた。
自分流にでも、理解があった上で弾いた曲は、
昔の自分の弾き方より、格段に良くなった実感があった。
ということで、5月には再びモーツァルトが待っている。
ピアノ協奏曲第27番の第2楽章だ。
しばらくベートーヴェンを弾いていた感覚で、モーツァルトに再会すると、
欲求不満がたまる(爆)。
ベートーヴェンなら、タメておいてガツン!と行ったに違いない節目節目の音を、
モーツァルトの場合は、そのような決め方をしてはいけないので、
私のように洗練されない弾き手は特に、意識して自分を抑制する必要があるのだ。
本番で緊張すると、途中でいきなり、不用意な音を出してしまいそうで心配だ。
更に怖いことに、本番のピアノはスタインウェイだ。
今更ブランド名にビビっているのではない。
『スタインウェイは黒鍵の幅が狭い』ということが不安の種なのだ。
聞いた話によると、実際には鍵盤の土台の横幅は狭くないということだったが、
打鍵のとき指に触れる部分の幅が、スタンは普通より狭いのだ。
フォルムとしては、このほうがすっきりと美しく見えるのは確かだが、
何か演奏上のメリットがあって考案されたものなのだろうか?
私のような弾き手からすると、狭い黒鍵は外しそうで、
視覚的な部分だけでも既に怖いのだが(汗)。
ポゴレリチみたいに、普通より明らかに指の太い演奏者なら、
黒鍵の間に指が挟まる危険が少なくなって、かえって弾きやすいのか(爆)。
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