転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



頼春風は、山陽が脱藩事件を起こしたあと、
跡継ぎを失ったに等しかった長兄・春水の懇願に応えて、
自らの長男を、広島の頼家に跡継ぎとして送り、
春風自身は相続者をその後得られなかったため、養子を迎えた。

その養子というのが小園で、復古館は小園の三男・三郎の旧宅だったものだ。
春風館の西側、すぐ隣に建っており、頼惟清の旧宅ともほんの目と鼻の先だ。

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ということで、私の頼山陽趣味に主人はよくつきあってくれた(笑)。
そのあと、ふたりで某お蕎麦屋さんに行って、
初志通り、お蕎麦で昼食をとった。

私は温かい「鴨南蛮蕎麦」で満腹してシアワセになったが、
「通」である主人は、迷わず「せいろ」を注文し、
蕎麦を味わい、つゆを楽しみ、更に「せいろ」の二枚目も平らげたのち、
「あんた、もうちょっと観光しとって。ワシ、もう一軒、行くから」
と私に言った(爆)。

私はそれで、地酒のお店や無料公開の旧家などを覗きつつ
最初の頼山陽の銅像まで戻ってきて、写真を撮ったりして、待った。
主人はそのあと、別の店で「とろろ」蕎麦を食べたそうだ。
戻ってきての感想は、「まあまあじゃった」とのことだった。
滅多に絶賛はしないヒトなので、きっと美味しかったのだろう(^_^;)。

ちなみに本日は、娘は学校があったので一緒ではなかった。
彼女は学校が終わると、家で独りで昼食をとり、パソコンを独占して遊び、
午後から中高生絵画教室へ、という平凡な、かつ自由な土曜日を過ごした。

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山陽の叔父・頼春風の旧宅。
残念ながら、内部は未公開となっている。
春風は、父・惟清に仕え、頼家を守りつつ、その最期を看取り、
自らも晩年まで竹原の地で過ごし、この春風館に没した。

医師であった春風は、躁鬱病の傾向のあった甥の山陽を
常に見守り支え続けた、第二の父とも言える存在であったようだ。

叔父・甥という単なる親戚関係でなく、
一族誰もが、ものごとをすべて「家」の単位で考え、
頼家の繁栄を第一に考えて生きた時代だったということが、
伝えられている様々な逸話から強く感じられる。

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竹原の街並み保存地区の一角に、頼山陽の祖父の、
頼惟清(ただすが/これすが)の旧宅が残されている。
頼山陽を読む者にとっては、頼家発祥の地として、
重要な史跡と言えるだろう。

写真は、奥まで入って中庭側から撮影したものだ。

成人後、山陽がこの家での往事を懐かしんで作った、
『吾家昔日読書山』の詩が、石碑として庭の一角に建てられている。

頼家はもと紺屋を営んでいたが、
惟清の長男春水(山陽の父)と三男杏坪は、広島で藩の儒官となり、
次男春風は医者となって竹原に居を構えた。

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天気が良いようだったので、朝からバスで竹原に行って来た。
私は前から、頼山陽の関係の史跡を辿ってみたいと考えていたのだが、
先日、ふと気づくと主人が竹原の案内パンフレットを眺めていて、
訊いてみたら「蕎麦、食いに行きたいなあと思って」と言うので、
それなら一緒に行こうかという話になったのだ。
主人も私も、竹原に行きたがっているのは自分だけだと思っていたが、
話は聞いてみなければわからないものだ(笑)。

芸陽バス『かぐや姫』号に乗れば、広島駅―竹原駅が一時間ほどで、
しかもその大半は山陽自動車道をノンストップで走行するので、
とても快適で、あっという間だった。
竹原駅前で降りて、商店街を抜けて町並保存地区のほうに行くと、
最初に目につくのが、本川のそばに建てられている頼山陽像で、
「鞭聲粛々夜過河」の漢詩の刻まれた石碑もあった。

頼山陽本人は主として広島城下の育ちで、
名を挙げたのは成人して京都に出てからだったが、
頼家はもともと竹原の出であり、市内には今も山陽の祖父や叔父の住居跡があり、
山陽も存命中には、たびたびこの地を訪れた記録がある。

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