こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

希望を土台に据えて

2020年01月24日 | 自己実現
感じていることを隠して「感じないようにする」のは、心の安定を図る方法として子供時代にはよくあることらしい。自分の傾向として気づいた時には自分の生育史の特異性と思い込んで暗くなったけれど、間もなく多かれ少なかれ誰もがやってきたことらしいと知って安心したものでした。もちろん安定を図るために感じないようにする方法は同じでも、内容は人の数だけ強弱も千差万別であるわけです。

本音を自分自身にも隠すそのやり方には、絶望の回避という側面があるのかもしれないな。つらつら考えますが、それを感じてしまったら生きられない、希望がなくなる、、のごとくの状況があるようにも思えるのですが、どうでしょう。

先日、ある裁判のニュースが飛び込んできたときに、偶々部屋に一人いて速報を聞いた瞬間、涙がとどめなく溢れて、いったいどういうことなんだ?ありえない(と思い込んでいた)現実を受け止めることと、自分の意識と泣けて泣けてという状況のギャップがあまりに大きいので、何が起こったのか?ちょっと混乱してしまったのです。

デタラメがまかり通っている現実があるとして。その現実の不愉快に潰されないために、心の安定を図るために諸々のネガティヴな感情を感じないようにしてきたと思うのです。小さな裁判もその一部として、いつのころからか進捗状況など諸々の現実を知ることから距離を置いていたようです。遠ざかっていれば不快な感情を感じなくてすみますから。よいわるいの問題でなく、大人になっても人は(私は)感じないようにして安定を図ることがあるのだと、思いがけない出来事、よろこびの涙を通して再確認したわけです。

大きな希望を土台に据えて、どんな感情がやってきても慌てない、不快に心を占領されない。大らかな目で小さな現実をしっかり見つめ感じてゆくのがいいな。感じないようにして生き延びてきた傾向を小さくリセット、希望から出発!したいですね。

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よろしく、ニャン太朗

2020年01月08日 | 自己実現
2020年、令和二年を迎えて、新しい年はこうしてみよう、こうしてみたい、年末から年始にかけて目標めいたことが心にチラチラ浮かんできました。それらは何かを達成させるというようなことでなく、すべて心の持ち方や意識してみたいことで私自身のあり様に関する、ささやかな事柄ばかりです。ささやかすぎて忘れてしまって、すぐに思い出せないくらいなのですが、、、というか、こころの持ち方という、すぐに実践可能な領域のことなので、浮かんできた端から実行しているということかもしれません、わかりませんが。

たとえば今年は微笑を心がけてみたいなと浮かんだとして。今ここで、即実践できることですものね。誰かと一緒でも一人部屋の中にいたとしても、即やれることです。このように心のあり様、意識の持ちように関しては、小さいけれどすぐに実践できることばかりです。小さなことが実は一番力ある・・・秘められた力がある・・・なんて囁きが聞こえてきそうです。

心に浮かんできた小さな目標の中で、しっかり留めておきたいことを一つ記しておこうと思います。「死ぬ」という言葉をやめて「離脱する」と言うことにしよう。通常の使い方において、この言葉には死をもってすべてお終いのニュアンスがあるけれど、私はそうは思っていないので自分にしっくりくる「離脱する」を使いたいと思うのです。私としては体から魂が離脱した。これがしっくりする表現であると。年頭にこのようなことが浮かんできたのは、頭で(理屈で)理解していたところから感情的に解ったというところへ一歩前進したということかもしれません。死で終わるわけではない。魂が永遠とは本当にそうなんだという実感が強まったしるしなのだと思います。

元旦未明に愛猫が離脱するという出来事がありました。ニャン太郎と暮らしていたのは姪の家族で私は一度しか会っていないのですが、彼はメッセンジャーだったし今も変わりなくメッセンジャーであり続けます。ふしぎな現れ方をして9ヶ月を姪と暮らして、突然、離脱してしまいました。前日までいつもと変わりない様子だったのに寝床で眠りながら離脱してしまうなんて。不意をつかれた人間たちはひどく落胆しました。彼はすべて承知で前の飼い主の家を出てはみたけれど(性格から可愛がられていた猫であることがわかります)、偶々立ち寄った家に住んでみたくなって、離脱をちょっと先延ばしして住み着いたのだというのが人間の考える物語です。

ちょっと予定をのばして、このおばさん(姪のこと)のそばにいてやるぜ。たぶん、こんな調子で住み着いたのでしょう。先月半ばに姪から送られてきた写真を見ていると、今になってカメラ目線の一枚が「オレはもうじき離脱するぜ、、」と言っているように見えてきます。人間の心がもう少し澄んでいたならば、それを感じ取れたのだろうな。。。まあ感じ取れたからといって何も変りはないのですが。ニャン太郎は瞬間移動可能な世界の住人になったので、私たちが思い出せば即会えるし、心の交流はすぐに叶います。

死ではない、それは離脱である。と、ここまで書いてきて、魂は人間に通用する概念で猫は違うのでは?という声があるかもしれません。私にとっては違いはないのですが、そういう声があるならば、魂をエネルギーという言葉に置き換えることにしましょうか。死は終わりでない。体という乗り物から離れてエネルギーの世界に入っていったのだと。ニャン太郎の愛のエネルギーは不滅です。

この一年、小さな、こうしてみよう。実践できる心の持ちよう。ささやかな目標を思い出すたびにニャン太郎のエネルギーとともに生きることになるでしょう。新しい年を私たちが自己実現の歩みを進めてゆけますように。小さな一歩を大切に進んでゆけますように。

よろしくね、ニャン太郎

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