“期待する”という心の動きは、未来に対する肯定感という意味で、
希望する心にも通ずるように思います。
よい意味での期待感は生きる張合いにもなるでしょう。
あまりよくないのは、誰かを当てにするとか、他力本願の臭いがする期待感です。
誰かに期待を寄せるというのは、期待はずれに合うこともあるので、
がっかりしたくないから人には期待しないことにしているという人もいます。
同じ言葉でも他者肯定の立場で語られる場合と、他者否定の立場で語られる場合があって、
前者は爽やかに我が道を歩いている感じがするのに対して、後者は強力な防衛機制を感じます。
さて私はどうだろうか?と考えてみると、期待することに抑制的な方かもしれません。
期待がはずれて落胆したくないからというより、期待がはずれたときの感情体験に耐えられないから、
つまり無意識的にストレス曲線の感情を極力回避するための“期待しない”なのです。
ここだけ見ると、なんだか逃げ腰の人生みたいですね。
それとは対照的に何度がっかりさせられても、懲りずに期待する人もいます。
落胆しても落胆しても、誰かに期待を寄せることを止めません。
この違いは、人それぞれ心を安定させる指向性の違いからきていると思われますが、
自己肯定、他者肯定で期待感をもつ人は、傍で見ていて爽やかな印象を受けます。
さて期待感を抑制することが心の安定に繋がるとしたら、それはそれとして良しとしても、
自他肯定と希望する心はいついかなるときも、しっかり育てておきたいものです。そして、
ストレス曲線があるから幸福曲線の感情も存分に体験できるのだということも肝に銘じておくことにします。
希望する心にも通ずるように思います。
よい意味での期待感は生きる張合いにもなるでしょう。
あまりよくないのは、誰かを当てにするとか、他力本願の臭いがする期待感です。
誰かに期待を寄せるというのは、期待はずれに合うこともあるので、
がっかりしたくないから人には期待しないことにしているという人もいます。
同じ言葉でも他者肯定の立場で語られる場合と、他者否定の立場で語られる場合があって、
前者は爽やかに我が道を歩いている感じがするのに対して、後者は強力な防衛機制を感じます。
さて私はどうだろうか?と考えてみると、期待することに抑制的な方かもしれません。
期待がはずれて落胆したくないからというより、期待がはずれたときの感情体験に耐えられないから、
つまり無意識的にストレス曲線の感情を極力回避するための“期待しない”なのです。
ここだけ見ると、なんだか逃げ腰の人生みたいですね。
それとは対照的に何度がっかりさせられても、懲りずに期待する人もいます。
落胆しても落胆しても、誰かに期待を寄せることを止めません。
この違いは、人それぞれ心を安定させる指向性の違いからきていると思われますが、
自己肯定、他者肯定で期待感をもつ人は、傍で見ていて爽やかな印象を受けます。
さて期待感を抑制することが心の安定に繋がるとしたら、それはそれとして良しとしても、
自他肯定と希望する心はいついかなるときも、しっかり育てておきたいものです。そして、
ストレス曲線があるから幸福曲線の感情も存分に体験できるのだということも肝に銘じておくことにします。










