こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

鹿。。。

2016年04月07日 | 無意識の世界
隣の雑木林でカサカサと気配があっても、
こちらが表に出ているときは、察知するや鹿はサーッと逃げてしまうので、
これまでは姿を見かけても、せいぜいが白いお尻の後姿だけでした。
家に居ても音を聞くだけで窓から姿を見るようなことも殆どなかったのですが、
最近になってガラス戸越しですが、はっきり姿を見る機会が3回もありまして。
一番最近は朝の散歩か、雌鹿2頭が連れ立って来ていました。

その前は、やはり朝に雌鹿が単独で立ち止まっては食事しながら、
庭の境界にしているツバキに沿って楽しげに横ぎって行くのを見ました。

最初に見たのは確か3月の上旬で、立派な角をもった雄鹿が、
木の幹に絡まった蔓を引っ張っりおろしてはムシャムシャ食べているのを、
気付かれないように、そっと、じーっと二階の窓から観察したときでした。
時折、食べるのを止めて私の方をジーッと見ているようでもありました。
あちらに、どんなふうに見えていたのか。それはわかりませんが、
気配とか痕跡だけ知るときよりも、無心な姿をじっくり見てしまった後では、
やはり無下には追っ払えないという気持ちは強くなるようですね。

鹿は神聖な動物であるという古来からのイメージも、知らず知らず、
私の思考と感情と行動に影響を与えていることもあるでしょう。

高く大きく育ったネムの木の大ぶりの枝が朽ち落ちているのを見つけました。
このところの隣の雑木林からの侵入を塞ぐのに恰好の長さです。
ちょっと遮って。気休めになるかならないかですが、今はこんなところかなあと。。。
こちらの思考と感情、人間の心の営みが現象には影響するような気もして、
まあ楽しみながら大らかに、鹿と私の双方を観察したいものだと思います。

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傍迷惑な投影…1

2015年12月15日 | 無意識の世界
自分の心の動きに関して一つの、確かな認識がありまして、

それは、

環境に対する不満が無意識におかれていると(自分で気付いていないと)、
他者を含む外の世界に、必ず投影されるということです。

そうしようと意思すれば、そこから遠ざかることができる状況にありながら、
そうすることなど夢にも思わず、本音の不満に気付かぬまま、
他人の言動や行動を暗いストレス曲線で受け止めてしまうのです。

このような事態が起こるとき、最初のシグナルは、
本音と表現が一致していない不一致として意識されますが、
不一致と言えないまでも必要以上に大袈裟な表現をしてしまうということも間々あって、
そこで自分が気付けば傷は浅くて済みますが、気付かない場合は、
外界に投影されることになって不愉快極まりない事態に巻き込まれることになります。

大抵は一人相撲で終って傍迷惑まで進むことがないにしても、
他者否定感というのは本当に体によくない。
見当違いの他者否定ほど自分の心身を損なうものはないと思っています。

見当違いの他者否定=投影に落ち込まないためには、
今ここでの不満、本音の気持ちを意識できている必要がありますが、
意識できるためには、自我だけでは正直心もとない。
(心もとない自我だから本音が意識できないとも言えるでしょう)

ではどうする。。。?

人それぞれの方法を探してゆくほかないのですが、
私の場合は、今は胸に手をあてて(意識を向けて)、
とりあえず動揺を落ち着かせ、心を沈黙させて
どうでしょう?と、問いかけてみます。
神さま(宇宙、魂…)に向かうことで落ち着く、
この平安感を大事にしてゆくことが、無益な投影に落ち込まない道かと、
問いかけるのを習慣にしてしまうくらいがよいのかもと、
そんなことを考えているところです。

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ちょっとした後悔。

2015年12月14日 | 無意識の世界
ちょっとした後悔が頭をかすめます。

ああ、もしも。欠点を直そうとしなければ、
欠点をダメだと思わなければ、もっと違った人生を歩めたかも。
ここで言う欠点は社会生活にマイナス要素となる性格傾向のことで、
私の場合なら、内向き、人と接するのがおっくうである。
おっくうの根っこにあるのはコワイという感情ですが、
それを延々と自己分析した日々が懐かしくもあり、少し残念とも感じます。

あの日あの時、小学一年の集団登校で、自分をダメだと感じたあの瞬間、
もしもダメと思わない私であったなら、その後の人生で、
内向きを直そうなどと悩みながら徒労に費やした時間を、
もっと有効に使えたのではないかと思ってみたり。
せいぜいが傾向を取り繕って隠したつもりでも、
そのために積もり積もったストレスの弊害は案外大きかったと思います。

まあ、そうはいっても。すべてはなる様になったということで、
今このように感じる運命だったと捉えて、
ここからの心の世界を、その気付きとともに納得できる道を進めばよいのであって、
それを楽しみに感じているところもあるのです。

欠点は友だち!? 欠点に対する感受性が180度転換して、
ちょっとした後悔も案外心地よいのですが、
感受性が変化して、安堵の世界が少し広がったということかもしれません。

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歩いて歩いて 2

2015年01月30日 | 無意識の世界
こころが魂に寄り添うと愛、体に寄り添うと欲。
生きることは二つの間を行ったりきたりすることで、
生き延びる欲求と死せる運命を受容することの間を行ったりきたり。
どちらに偏りすぎても妙なコトになるので、
そのバランスを自分なりのバランスを見つけることが人生の目的。

つらつら考えて浮かんできたことですが…
偏っていない状態、バランスがよい状態。
偏りすぎた振り子をもどす。もどそうとする意思があるのかないのか。

たとえば強いネガティヴな感情に囚われてしまったとして、
囚われている自分の状況を受け容れることができたなら、
もうそれだけで振り子はバランスを取り戻します。
今ここで。自分の感情を認めるか認めないか。
認めるならば、それを私は“素直”と呼びます。

素直な心。そんな題名の練習曲があったように思いますが、
(♪タラララ タラララ なんとメロディ憶えています)
素直は少女の頃からの私のキーワードであるようです。
素直でないところがキライ。気に入らない。
では、その素直の中味って何よ…?
長い間、曖昧なまま、はっきりしなかったのですが、
素直でないとは感情を認めないこと。受容できないこと。

素直でないのがまんがならない。そういうところがキライ。
対象への強い拒否感は投影の要素があったと解りますが、
素直である理由も、素直でない理由も、
人生の数だけ、いろいろな事情があるのです。

私が「健康でありたい」と言うとき、その健康の意味するところは
素直な心であるということかと。。。今日の結論でした。
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貴重な存在。

2014年10月04日 | 無意識の世界
自分に向けられているわけではないのに、
その人の言動にドキッとさせられることがあります。
私は何か間違っていたかしら…どこか勘違いがあったかしら?
なんとなく自分の行動に自信がもてなくなって、
青空に暗雲がたち込めるがごとく、いや~な気分に落ち込みます。

一瞬で怖気づく感じの不安感に襲われるわけですが、
あるとき、この人は私にとってトリックスターのような存在。。。
そう気付いてから心がかき乱されて怒りがこみ上げて来るようなことはなくなり、
また鍛えられているぐらいに受け取り、気持ちの切り替えは上手くなりました。

私の掌で小さくなったその人が軽やかに回転して楽しげに飛び回っているのを、
ふしぎな思いで眺めている夢を思い出すと、トリックスターであるのが何故か腑に落ちます。
小人の動きは私の心の揺らめきを投影しているようにも見えるし、
そうであれば掌を見つめているのは神さまであるかもしれません。
すべては神の手の内というわけで、そう考えるとなんだか楽しくなってきます。
ずいぶん前に見て、その時はちんぷんかんぷんの夢だったのですが。。。

感情生活に刺激を与えてくれる存在は貴重です。
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プロセス・スケールに照らしたなら。。。

2014年09月30日 | 無意識の世界
心の奥底から湧いてくる真正な願いだと思っても、
防衛機制でがちがちの心がそう思い込んでいるのだとしたら、
事態はやや複雑かもしれません。

それで。思い込みを聞かされる方が、なんとなく違う…と感じるならまだしも、
その人がそう言うのだから、その願いは真正に(神聖に!)違いない…
などと思い込みが重なるとすれば、最終的に、そうではなかったと気付くまでには、
双方がへとへとに消耗するのは目に見えています。

日常生活で小さな思い込みが重なることは、
いちいち意識しないだけで珍しいことではないにしても、
事によっては大きな出来事として当事者の心に記憶されることもあるのです。
もちろん私にも覚えがあって、ほろ苦い経験として残っています。

感情の流れを診断するプロセス・スケールに照らしてみたならば、
底辺をさ迷っているもの同士が思い込みの願望を真剣に語り合っている姿は、
今ふりかえると、いじらしいというか愛おしいというか、おかしくもあり複雑ですが、
時と共に苦味よりも味わいが、肯定感が優位になってきているのも確かなようです。

ここにある私の願いは真正であるか?
ただの思い込みの欲求ではないのか?
熱意に根ざしているのか、心の防衛機制からきているのか。

それを確かめるのにプロセス・スケールが有益であることを思い出すなら、
それだけで十分かもしれません。
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ギリシャの神々が、知らず知らず

2014年08月25日 | 無意識の世界
風邪をひいて、ちょっと体調を崩しました。
残暑の厳しい頃に風邪をひくなど珍しく、
この4月から5月にかけても同じ症状で体調を崩して、
快復するまでけっこう時間がかかったのは、
私にとっては、ちょっとした異変でありました。

この度は偶々来訪した友人が、整体的な観点から、
「体の冷え」が原因ではないかと助言してくれたのは
ちっとも自分で気付かなかっただけに、すっと胸に落ちました。

冷えに対しては用心深い方だったと思うのですが、
なぜか、このところ無頓着に過ごしていたと、
思い当たる節がいろいろあります。

身近な「死」の経験が体を冷やし不調の原因になることもあると、
これは今回はじめて聞いたことですが、これに関しても納得できます。
おそらく、この3年余り知らず知らず体を冷え込ませて、
冷えていることに気付けなかったのです。

体が冷えこむということは、心においては、
感情が抑え込まれていることに対応するのかもしれません。
抑圧されているなど、どんな感情が抑圧されているのか、
おそらく逝かれてしまったこと人々に関係していると推察できても、
未だ、どんな感情か意識できないし意識したいとも思いません。

知らず知らず抑え込まれた感情は、
知らず知らず解放するということもありで、
無理に意識化する必要もないのでしょう。

そういう意味でも。
ギリシャ神話は知らず知らずの解放にうってつけなのだと思います。

読み出したときは、まったく意識しなかったのですが、
必要があって無意識の要求が神話の再読を促したのかもしれません…そう思えますね。
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詩歌女神の…夢

2014年08月23日 | 無意識の世界
ある朝、目覚めの直前まで、ちょっとよい夢をみていました。
登場するのは、私ともう一人…
芳しき香りの中で両者の心と魂が行き交います。
どうしてこんな夢を見たのか?ちょっと考えて合点がゆきました。
入眠前に読んだギリシャ神話の影響だと解りました。

夢の印象は神話の詩歌の女神たちの賛歌をそのまま映し出しているかのようでした。
たぶん女神たちの印象が夢の中に投影されたのです。

夢の中で二つの魂に働いていた、そこはかとない抑制が、
気になっていましたが、少し考えて、
なるほど、、と思うところがありました。
女神たちの賛歌を読み進めながら、強く残った箇所が関係していると。。。

(詩歌女神たちは) ヘリコン山の頂きで 舞い踊るのだ
晴れやかな愛らしい踊りを 力を籠めた足どりで。

力を籠めた足どりで。。。大地にしっかり足をつけて舞う。
読みながら、実にいいねと、思いました。
理屈で説明できませんが、この箇所が気に入ったのです。
夢のそこはかとない抑制と女神がちが地に足をつけて力強く舞うこと。
二つのことが自然で気持ちのよい感覚として自然に連想されたのでした。

記憶していることもあれば、目覚めたとたん忘れることもありますが、
神話によって少なからず夢が活性化されているような気がします。
わるいことではなさそうです。今の私に必要なことなのかもしれません。

頭をつかわず感じる読書として。何度も繰り返し読んでみたいと思っているところです。

使っているのはヘシオドス「神統記」廣川洋一訳、岩波文庫です。参考まで。
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質問を思いつく。その心は?

2014年06月05日 | 無意識の世界
誰かに何かを質問するときに、答えを求めているのは実は二次的なことで、
本心は、質問して応答をもらう関係性に安心を求めているのではないか。
自他の行動を見ながら、そんな印象をもつことがあります。

知識に関することなら自分で調べれば済むことを、あえて質問したり、
心の迷いなら他人に訊くより答えは自分が一番よく知っているはずなのに、
なぜか他者に相談したり、質問する方へ心が動くというのは、
自分の中の不安感/ストレス曲線に無自覚なときに起こりやすい現象ではあるでしょう。

気楽に質問して、気楽に答えられる…軽やかなコミュニケーションの範疇なら、
もちろん問題はないのですが、そうではない場合、
質問に答えることは案外エネルギーをつかうことですし
無意識で関係性に安心を求めたくなる相手なら尚のこと、
誠実に応答してくれる人でしょうから、二次的なことで、
その人の貴重な時間とエネルギーを奪っているのだとしたら、
申し訳ないことこの上ない感じもしますね。

質問したいと思うのは本当に答えを求めているからなのか?
それとも、質問して応答をもらう関係性に安心を求めているだけなのか?
後者であることにハッとして行動しなかったこともけっこうあったような気がします。

本音をオブラートで包んで二次的な質問を思い立つというのは、
今から思えば幸福曲線よりストレス曲線の色合いが濃い時期だったと思います。

質問を思い立つ心の動きについて、時にはちょっと立ち止まって考えてみるとよいかもしれません。
自分のストレス曲線の度合いを知る一つの目安になると思います。

質問して応答をもらうことで安心を得たい自分に気付くことができたなら、
そこから。今度こそ本音の質問を投げかけてみるのもよし、自問自答を始めるのもよし。。。ですね。
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絵に描いて、安心?

2014年04月18日 | 無意識の世界
願っても叶わなかった願望も、たくさんあったはずです。
はずですとは他人事みたいですが、
叶わなかった願いを抱いていた自分というのが、今はとても遠くに感じるし、
叶わなかったことが残念だとも思わない。今となっては、
叶わない方が自然で当然、宇宙のバランスに適っているというものです。

絵に描いた餅。ひと言で言えばそういうことなのだと思います。
当時は、その願いを絵に描くことで安心を得ていたと思うのです。

そのことを願う自分に安心していたのだとすると、
もしも、そのことに気付くことができていたならば、
それを願わない自分に不安を覚えるのは何故?という、
とても有意義な自問自答がはじまっていたことでしょう。

自問することで、この願望は本望ではないことが意識できたかもしれません。

本望でないことを錯覚することが心の安定に繋がるとすれば、
そのときはそれを生きる他はないのだし、それでよいのだと思いますが、
(それはそれで宇宙のバランスに適っているのでしょうし…)
ただ、いつでも錯覚ばかり繰り返して生涯、本当の願望を生きることがないとしたら、
せっかくこの世に生まれてきたのに、残念です。

本望であれば、“願わない自分に不安を覚える”などという感覚が入り込む隙はなく、
叶ったイメージを楽しみ幸福曲線を味わうことは、ごく当たり前のことでしょう。

実現させるべく行動するかどうかはともかくとしても、
自分の願望がどこからきているものなのか。
真正な願望か、それとも絵に描いた餅なのか(防衛機制なのか)?

人生を残念に終らせないためにも。時々に自問してみるのは有意義なことかと思います。
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