こころの羅針盤

私の人生に待ちうける“感情”という名の大海原・・・生き甲斐の心理学を座右に、感情生活と心の世界を語ります。

期待感について

2012年05月06日 | 第3章:無意識の世界
“期待する”という心の動きは、未来に対する肯定感という意味で、
希望する心にも通ずるように思います。
よい意味での期待感は生きる張合いにもなるでしょう。
あまりよくないのは、誰かを当てにするとか、他力本願の臭いがする期待感です。

誰かに期待を寄せるというのは、期待はずれに合うこともあるので、
がっかりしたくないから人には期待しないことにしているという人もいます。
同じ言葉でも他者肯定の立場で語られる場合と、他者否定の立場で語られる場合があって、
前者は爽やかに我が道を歩いている感じがするのに対して、後者は強力な防衛機制を感じます。

さて私はどうだろうか?と考えてみると、期待することに抑制的な方かもしれません。
期待がはずれて落胆したくないからというより、期待がはずれたときの感情体験に耐えられないから、
つまり無意識的にストレス曲線の感情を極力回避するための“期待しない”なのです。
ここだけ見ると、なんだか逃げ腰の人生みたいですね。

それとは対照的に何度がっかりさせられても、懲りずに期待する人もいます。
落胆しても落胆しても、誰かに期待を寄せることを止めません。
この違いは、人それぞれ心を安定させる指向性の違いからきていると思われますが、
自己肯定、他者肯定で期待感をもつ人は、傍で見ていて爽やかな印象を受けます。

さて期待感を抑制することが心の安定に繋がるとしたら、それはそれとして良しとしても、
自他肯定と希望する心はいついかなるときも、しっかり育てておきたいものです。そして、
ストレス曲線があるから幸福曲線の感情も存分に体験できるのだということも肝に銘じておくことにします。

印象が変わる、評価が変わる

2012年05月03日 | 第3章:無意識の世界
新緑の若葉の中で、ざくろの赤色の若葉がよく映えます。
居間の窓から眺めては、きれいだわ〜と、うっとりしていましたが、
あるとき赤色が妙にきつく感じられ、あんなに感激したのがうそみたいと思います。
木々の色合いは変化していくので、印象が変化することはありますが、
この間の感動がうそみたいと思うのは、木々の変化というよりは、
わたしの心の状態のせいで印象ががらっと変わってしまったのでしょう。

知り合いの中に、ときどき印象ががらっと変わる人がいます。
印象というより、“わたしの評価が”という方が正確ですが、
実は自分に起こるこの現象を、ヘンねと思いながら興味深く観察しています。

最初は自分の見え方に問題があるとは思いませんでした。
自分に見る目がなかったぐらいに考えていたのですが、
わたしの心の状態で印象が変わるらしいと気付いてから、
どういう状況で、わたしがそのように変化するのか興味が湧いてきました。

この場合の変化は、なんとなく他者否定的に傾いてくることで、
状況によって、わたしの心に他者否定が起こってくるようです。

自分に起こることは、できるだけ正確に表現するべし、と思いますが、
誰かに対する“自分の評価が極端に変わること”に気付いたならば、
自分観察の、よい機会が巡ってきたと捉えてみるとよいかもしれません。
きっと大事なこと、自分の傾向に気付くと思います。

今日は雨模様のお天気に、ざくの赤葉も落ち着いて滲むような美しさを感じます。

喜怒哀楽の原型

2012年04月30日 | 第3章:無意識の世界
小学生の頃、9歳上の兄が帰省したときの話です。
兄がどこかに電話して(黒色のダイヤル式電話の時代です)、
受話器を私の耳にあてようとしますが、
兄がまた何かたくらんでいると思って、逃げ回りました。
そうとうがんばりましたが、だいじょうぶだからと言われて、
内心ちっともだいじょうぶとは思わなかったけれど、私は怖々受話器を耳に当てます。

“コンニチハ、わたしはリカよ”と受話器の向こうから聞えてきました。
思いがけない声に安堵したけれど、半泣きの私は素直に喜べません。
安堵感より、無理強いされたイヤな感じの方が上回っていたからです。

子供時代は、歳の離れた兄姉の影響をストレートに受けます。
兄の感情の起伏に翻弄されて、おちおちしていられないところがありました。
私の成育史の感情体験−その原型には、兄姉の影がチラチラして、
最初に結ぶ人間関係として、よくもわるくも影響が大きいのです。

大人になれば大人同士、子供の頃の主従関係は存在しませんが、
兄妹との様々な場面、喜怒哀楽が私の傾向に少なからず影響を残しているということ、
それを意識化しておくことは、現在の人間関係にとってプラスになると感じます。

平素の行いのせいで空振りに終わった兄のサプライズも、私に大事な原型を残しました。
兄の困ったような苦笑いが、懐かしく思い出されます^^)

痛いところを突かれると…

2012年04月10日 | 第3章:無意識の世界
“人は本当のことを言われると怒るよね”と友人が呟くのを聞いて、
なるほど、言われてみればそうかもしれないと思ったことがありました。
友人は自分の体験からそう結論しましたが、私よりずっと、
人を大事にすること、愛することをを実践していたからこそ、
体験的に人間の感情というものを、よく理解していたのだと思います。

今の私なら、その通り深層心理学でもそう言っていますと応じるところですが、
怒りは人を理解する上で、数多の感情の中でも大変重要な感情だと思っています。

こんなことぐらいで、こんなに腹が立つなんて!??
自分の怒りに手を焼く情況は本当にイヤなものです。
あまりの大人気なさに嫌気がさして、自己嫌悪に発展することもありますが、
なぜ怒っているか、自分が腹を立てる深層心理が解れば少し状況は変わってきます。

人は本当のことを言われると怒る。痛いところを突かれると腹が立つ。
自分でなんとなく認めたくない場所を突かれると、心がざわつく。
とくに、自分としては精一杯、試行錯誤で苦労してやっているのに、
それをちっとも汲んでくれないで批判するなんて…と思うとき、怒りは激しくなります。

他人からの批判や自分の失敗、挫折に対する感情的な反応は人それぞれですが、
そこに深い意味があること、感情的な反応には大事な示唆があることが解れば、
激しい怒りや虚無感に落ちてゆくことだけは避けられそうです。

まずは自分の反応を観察してみるところから始めるとよいかもしれません。
他人から批判されたときや失敗したとき、どんな感情が湧いてくるか。
自分のことが解れば過剰反応する人にも、以前にはなかった共感的な理解が生まれるかもしれません。
自分の感情的な反応を大事しようとすることが、人を大事にすることにも繋がるようです。

(生き甲斐の心理学・第一章 “愛の領域”を参考にしています)

満たされたい、切実な願い

2012年04月07日 | 第3章:無意識の世界
その人とメールのやりとりを始めると、最初の印象は、
大変丁寧な返信に、なんて誠実に返してくれる人だろうと感激するかもしれません。
こちらの文章を区切っては、短い応答の言葉が打ち込まれていて、
メールで傾聴してもらった気持ちになると思います。

そんなふうに始まった傾聴し合うメールのやり取りが、
だんだん苦痛になるのは、相手からのメールがどんどん長くなり、
こちらは相手の話を聴くだけというメールが増えてくる頃です。

友人関係のような対等な人間関係では、その人の中の、
<絶え間なく注視と賞賛を希求する自己顕示的態度>の要素は、
はじまりは心地よくても付き合ってゆくうちに、友人の方が、
一方的に悩みの聞き役を強いられている気がしてきたり、
“なんだか自慢話ばかり聞かされている”気持ちになるようです。

自己顕示的な態度の背景に“愛の孤独感”があるというのは、本当だと思いますが、
誰かに注目され賞賛されることで一時的に気持ちがよくなっても、
それは一時的な慰めになるだけで、愛の孤独が癒されるわけではありません。

人生を振り返り、自分が愛の孤独におかれたときを思い出すと、
相手の満たされたい切実な願いはよく解りますが、こちらにも限度があります。
その人に自分の孤独感と本気で向き合う気持ちがあれば、道は開けますが、
それがないときには、友はやるせない思いで、その人から遠ざかるほかないのです。
向き合うことは勇気が要りますが、それをしない限り果てしない堂々巡りは続きます。。。

(生き甲斐の心理学・第一章“愛の領域”を参考にしています)

願望が内向すると…

2012年04月05日 | 第3章:無意識の世界
こうなりたい、こうありたい熱烈な願望は、
押し付けがましさとか、人を巻き込む形で現れなくても、
内向するという形で、その人に居座るケースもあります。
言動や行動に表れないので周囲に気づかれることもなく、
知らないうちに理想と現実の混濁が進んで、
その人が本来進むべき幸福な人生から、
生き甲斐ある人生からどんどん逸れてしまう可能性もあります。

欧米で生まれた心理学に照らして自己分析しながら、
日本人である自分の思考と感情と行動が、生育史以前に
自分の個性に大きく関わっていることに気付くことがありますが、
理想と現実の混濁が内向するケースは、私の傾向であると同時に、
日本人に生まれやすい傾向でもあると思います。

ふり返れば現実離れした空想を修正する機会もないまま
うつうつと充足感がもてずに過ごした時期は、けっこう長かったような気がします。
見当はずれの理想にエネルギーを消耗するほどもったいことはありませんが、
現実離れした理想に生気を奪われて、人生の充足が得られないケースは案外多いと感じます。

そんなとき否定も肯定もされずに心の内をありのままに語れる場があれば、私がそうだったように、
温存してきた現実離れした理想を、これはへんだとはっとすることがあるかもしれません。
人は誰かに語り自分の耳で聴くことによっても、はっと気付くことがあるのです。

自分の理想はエネルギーを向けるにふさわしい理想かどうか?
意識、無意識に関わらず、理想の領域のチェックは案外難しいものです。
ねむの木のロン子

こうありたい、熱烈な願望

2012年04月03日 | 第3章:無意識の世界
自らの内に湧き上がるものを具現化する作業に没頭できる人。
具現化せずにはおられぬ人・・・芸術家とはそのような人かもしれません。
創作のプロセスにおいて、芸術家は自らの作品の創造者です。
創造者として理想の世界に没入して、その姿を周囲も容認しています。

一方、自らの理想の世界に没入して、その姿に周囲が辟易する場合があります。
その人の理想の世界は他者を巻き込まずには成立しないらしく、
ときにハタ迷惑な現象として世間に出現したりします。
知らず知らずその人の理想追求に巻き込まれたりすると、こちらはかなり消耗します。
うっかり関わるとエネルギーを吸い取られる感じです。
芸術家は我が身を削りますが、ハタ迷惑な現象では他者の身を削るようです。

私の場合は、どちらかといえば理想の世界への没頭が希薄で(これが欠点になることもありますが)、
他者のエネルギーを吸い取るだけの迫力を持ち合わせていないような気がします。
うっかり没入しても、没入している人に特徴的な押し付けがましさに欠しく、
多少の押し付けを相手が不快に思い評価を下げることはあっても、
よくもわるくも他者を消耗させるところまではいかないのではないかと自己分析しています。

<あたかも〜のような>と呼ばれる現象の奥にある、
その人の<こうありたい>という熱烈な願望を理解すると、
押しつけがましさに対する私の反応も以前より穏やか、不快も薄れるような気がしますね。
(生き甲斐の心理学“第1章 愛の領域”を参考にしています)
今日は強風小雨、時々陽が射します。

褒められれば嬉しい、でも…

2012年03月31日 | 第3章:無意識の世界
褒めて相手をその気にさせることは、人間関係ではよくあることです。
軽いことから重い事柄まで、その気になって人生がよい方へ展開することもあれば、
その気になったばかりに人生が混乱して、収拾がつかなくなることもあるでしょう。

褒められるのは嬉しい。でも果たして本当にそうなのだろうか。
褒められる内容に、自分は素直に同意できるかどうか。
自分の現実をよく吟味することなしに、褒め言葉にうかうかのってしまうとしたら、
私の中の“自己の重要性、ユニークさに関する誇大感”が刺激されたせいかもしれません。

その気にさせる褒め言葉にうかうか乗ってしまうのは、こころが鈍磨しているときで
防衛機制に問題がありそうです。深い深い抑圧が関係しているかもしれません。
ある時期の私は褒め言葉を吟味するだけの余裕がありませんでした。

褒め言葉に対する反応も人それぞれで生育史の数だけ反応は違ってきます。
自分の中の“自己の重要性、ユニークさに関する誇大感”の要素を考えることで、
以前だったら“鼻に付くわ”とあっさり切り捨てていた相手の態度も、
どうしてそうなのかな?と興味が湧いて、相手を理解する余裕がでてくるかもしれませんね。
                              (生き甲斐の心理学・9頁を参照)
?形の尻尾のマヤ坊

信ずる姿にひかれる・・・

2012年02月24日 | 第3章:無意識の世界
その人の人生は本当に素敵です。毎日をイキイキと過ごし、
自己実現の道を邁進しているように見えます。
私から見て、すべてにおいてバランスがとてもよいのです。
能力やセンスがあって自己実現の道を歩む人は他にもたくさんいますが、
この人が私にとって、それほど魅力的なのはなぜだろう?
考えてみて、それはこの人が本当に“信じている”からだと気が付きました。

信じている姿に人はひきつけられます。
何をどれくらい信じるのか。人それぞれの信じる中味と在りようで、
人によって様々な段階を歩んでいるようにみえますが、
私の状態が少々へんなとき、ストレス曲線に埋没していたような頃は、
信心が深そうで、あたかも〇〇のように振舞う人に惹かれ、引き寄せられました。

信じる理想を饒舌に語る人にも引かれましたが、
語られる理想と相手の現実を、私が勝手に混濁したようです。
勝手な都合とは、その方が私が平安でいられたからでしょう。

ストレス曲線に埋没しているようなときには、
やはりストレス曲線をさ迷っている人と引き合うようです。
類は友を呼ぶ。縁を持ちやすいということかもしれません。

ストレス曲線から解放されるにつれて、
なんだかへんだと気づきはじめます。
あたかも〇〇のような人に引き付けられていた自分がへんだったことに気づき始めます。

自分はどのような関係性に平安感を覚えるのか。
どんな信じる在りようにひきつけられるのか。
これは私にとって大事なセルフチェックの目安、自問です。

どのような信ずる在りようにひかれているのか。
惹かれ引き寄せられている信の在りようからも、
今、自分はどんな地点を歩いているのか知ることができるようです。

解釈の奥にあるもの

2012年02月06日 | 第3章:無意識の世界
若い友人が語る中で、はじめての彼女の独特の解釈に触れました。
聴きながら、なんとも釈然としない、おちつかない気持ちになったのは、
自分とはあまりに違う解釈の傾向に混乱してしまったせいでしょう。
同時に、その若い友人と同じ解釈をするだろう古い友人のことを思い出して、
それがいっそう、私を落ち着かなくさせたような気もします。

その解釈はもったいない。それでは大事なものを見落としてしまう。
でも今はそのように感じても、時を経れば変化するだろう。
彼女はもったいないままでは終わらない…そんなことを考えられるのも、
彼女は今の試練を乗り越える力をもっている。私が若い人の内に、
時を経て現れてくるだろう確かな力の存在を見ているからです。

古い友人の解釈の傾向は以前から、なんとなく知っていました。
なんとなく知りながら、その解釈の奥にある心に触れるまでには至らなかった。
若い人の話を聴きながら、今日はじめてそのことに思い至りました。

解釈の傾向は生育史が大きく関わっています。
大きな影響があるけれど、生育史の影響を超えて、
生育史の解釈の傾向を乗り越えて、自らを幸せに導く解釈を掴んでゆくのが、
人生を生きる一つの意味ではないかと、私は考えています。

若い人は試練の只中におかれていますが、挑み甲斐のある試練です。
解釈の傾向の奥にある心に触れながら、私もまた、若い人と共に
人生で出遭う大小さまざまな試練を乗り越えてゆきたい。

それが古き友人の願いでもあると思うのです。