こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

日々の小さな一歩から

2013年05月27日 | 未整理
今年は、春の冷涼な気候と例年より雨が少なかったのが幸いして、
花木は沢山花を付けて、草花もイキイキと花を咲かせて、
私の庭もようやく歌いだしたかと、朝な夕な楽しく庭を眺めています。

そんな中で、

一塊のシランが盛大に咲いたところで、隣りのバラとの色の取り合わせが大失敗だったと、
見るたびに気持ちがわるくなることに、どうにも我慢がならなくなって、
ある朝、シランを根こそぎ大移動させました。
盛りの最中の移動はストレスをかけて、わるいなあと思いつつ、
ごめんね、もっとよいところへ移すからと謝り言い訳しながらの作業でした。

嫌い、気持ちがわるい。これは我慢がならない。
日常の小さなストレスに、自分はどのくらい気付いているか。
身近なストレスに気付いて、上手に付き合ってゆくことは、
よりよい人生のために外せない、大事なポイントと感じます。

千里の道も一歩から。

日常の中で、絶え間なく生起する理想と現実のギャップ。
ギャップから生まれる不安感-気持ちがわるい、我慢ならない等などを、
どのように埋めてゆくのか。どのように埋めようとしている私であるのか。

小さな一歩から。日々のストレスを意識化してみることから、
思い切って始めるのが一番の近道ということもあるのですね。

ところでシランはイヌツゲの垣根近くに引っ越しました。
木漏れ日の中、赤紫がよく映える場所を得て、イイねと言ってくれているみたいです。
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楽しく考える日々。

2013年05月26日 | 未整理
ちっとも自分を生きてこなかった。
なんだか母を生きてきたみたい。
相手が自分にそのようにあって欲しいと期待することに、
応えてきただけの人生だった。。。

自分の人生を生きてこなかった。。。私にも覚えがありますが、
よい大人が人生に悩みだすとき、こんな呟きが聞こえてきます。
本当は自分で選んだことも多かった(実はすべてそうなのだけど)、
自分で選んできた現実がまったくなかったような気がするのは、
問題に立ち向かうために必要な心境なのかもしれません。

そのような心境は怒りを内包して、怒りは問題に立ち向かうエネルギーにもなりますから。

ところで、相手の期待や願いといったものに敏感に生きてきた。
無意識に、まず相手の願いを優先させて生きてきたということは、
知らず知らず相手の心を想像する能力を育ててきたと捉えてみれば、
その能力を新しい人生に活かさないという手はありません。

幸せな人生が、相手にとってよいこと(相手の願い)と、
自分にとってよいこと(自分の願い)の接点を見つけ出して、
双方のメリットを実現させていくことにあるのだとしたら、
相手の願いを感じ取ることに長けている人が取り組むべきは、
育ててこなかった自分の願い、本音を意識化する能力を育ててやることでしょう。

こう考えると、とてもシンプルです。

神さまの望む事は?神が、天が私に期待しているものは?
このような問いかけでも、きっと同じことです。
あなたの願いと私の願い。双方の願い。

楽しく考える日々。幸せな人生が始まりますね。
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そのように、なっている。。。

2013年05月24日 | 未整理
こうなりたい、こうでなければならない強い願望を持ち続けて、
へとへとになるほど、こうありたいことに執着してきて、
ある時、・・・もういいか、得られないなら得られなくても、
得られなくても、ないなりきに私は生きていくと観念する。

・・・と、間もなく、そのものが諦めたものが得られたり叶えられたりする。
時間はかかったけれど、気付いたら叶っていた。。。
手放すと叶うとは、いったいどういうことなんでしょう?

理想を取り下げようと、そうでなければ
現実とのギャップが大きすぎるから、それは苦しすぎるから、もうやめよう。
自分のこれまでを振り返ってみると、理屈で自分を説得しようとしても、
理屈で諦めた理想は心に暗い影を落とすように思います。

思考で諦めても、感情がついてきていないので、
分裂状態になって、かえって心の状態を悪化させてしまうようです。

もういいか。叶えられなくても仕方がない、それならそれでよいと。
思考と感情において、ふーっと肩の力を抜いて、
凝り固まった願望から自分を解き放してやることができたなら、
それが自分を大切に生きてゆくことではないかと、私は感じます。

こうなりたい。その理想が恋人とか生涯の伴侶とか親友とか、
こと人との出会いに関することなら尚更、
自分を解放してやることが、先ずなすべきことかもしれません。

その人が自分自身に対してなすことを周囲の人に投影するものであることを、
人は知るともなく知って案外感じ取っているものではないかと、そんな気もします。

自分を大切にしている人。自分の心と身体と魂を大切にしようと歩き出している人。
自分がそのような人であるときに、そのような人に出会うようになっている。
人生の経験に照らしてみても、どうもそうなっているらしい。。。そんな気がしてなりません。
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この人の、幸福曲線は?

2013年05月16日 | 未整理
この人、どうも苦手。そこで、なぜ、そういうこと言うのか。
その言動に体が固まって応答に詰まることも何度かあって、
強烈に苦手というほどではないけれど微妙な違和感があって、
相対になると、いつもちょっと身構えてしまいます。

しかし会うほどに、人となりを知るほどに(慣れたせいか、、)
身構え方はゆるくなり、コミュニケーションに余裕がでてきた今日この頃。
おもしろいことに気がつきました。

この人は好きなコトよりも、嫌いなこと不愉快なコトに敏感に反応するのです。
やり取りを傍で聞いていると、好きじゃない、嫌い。。。ゆるやかな言い方ながら、
けっこう自分の「嫌い」を口に出して表現しています。
さりげなく、嫌い、イヤだの自己主張をしています。
そこに人とは違う独特の傾向を感じて興味が湧いてきました。

もしも「これ好き」と、嫌いよりも「好き」を口に出してみたならば、
この人は、ちょっと意外な自分を感ずる(体験する)かしら…
と、そんなことを楽しく想像してしまうのです。

この人の好きなもの心地よいもの、嬉しいこと楽しいことはなんだろう?
言葉以外の表現からも、しっかり耳を澄ませて聴いてみたくなりました。

相手の幸福曲線(平安感~友好感~健康感~幸福感~統御感)を知りたい。
相手の幸福曲線を理解したい意思が芽生えるとき、
違和感を越えて、幸福な関係への移行が始まるようです。
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毛糸玉をほどいて。。。

2013年05月10日 | 未整理
長い間、感情を溜め込んで、暗い感情が懲りに懲り固まって、
まるで、きつく巻かれた毛糸玉のごとく。。。
その固い毛糸玉を壊れ物のように捧げ持ち、どうする?どうする?と右往左往。。。
誰彼構わず尋ねまわっても誰もどうしてあげることもできません。

毛糸玉の糸口は、その持ち主しか知りえないので、
まずは毛糸をテーブルに置いて、糸先を見つけるべく観察するところから始めるほかないのです。
毛糸玉を置くのも糸口を探すのも持ち主の意志と行動にかかっています。

一粒選りの素敵なスエーターを編むためには、
固く巻きすぎた毛糸玉をいったん解いて柔らかめに巻きなおすのがよさそうです。
解くときには、たっぷり時間をかけて。
撚り合わさった毛糸の色合い、風合いを味わいながら作業できるとよいですね。

信頼できる誰かと楽しくおしゃべりしながら作業するのもよいかもしれません。

わたしはといえば、巻きなおした糸でスェーターを編み出したのはよいけれど、
固く編みすぎたといっては解き一目飛ばしたといっては解き、なかなか進まないのですが、
時々他人の作業を覗いたり自分のを見せたりしながら、たのしく作業を進めています。

わたしの固い毛糸玉を思い切ってテーブルの上に置くところから、すべてが始まったのですが、
スェーターの完成よりも日々の編み物作業に益々意味を感じ出している今日この頃です。
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二つの、自己開示

2013年05月06日 | 未整理
生きることは自己開示すること。生きることは傾聴すること。
生きるとは、自己開示と傾聴の連続。。。

学びは自己開示訓練と傾聴訓練に始まり、生涯学び続け、
人生の最後も自己開示と傾聴をもって幕を閉じることでしょう。

考えてみると、自己開示には大きく分けて二種類あるようです。

安心できる場所(安心できる人の前)で、思いの丈を語ろうとする場合と、
相手が理解しようがしまいが自分を伝える場合の二つです。

前者は共感、理解される予感のもとに語り始め、口に出して語ることで、
心の内が整理されて、気持ちが軽やかになったり、時には、
自分の内にありながら見えていなかった答えが、意識化されることもあります。

一方後者は、相手に共感、理解されることが前提になく、
多少の不安感を伴いながらなされる自己開示です。

前者が受容されることが目的とするならば、
後者は受容することが目的といってもよいかもしれません。
理解されないかもしれない現実を受け容れる覚悟でなされる自己開示ならば、そうなりますね。

生きていく上で、受容されることも受容することも同じくらい大切です。
これは愛されることも愛することも同じくらい大切なのと同じかもしれません。

自己開示には傾聴がピタリとくっついてきますが、
生きることは自己開示すること。。。
さて、わたしの今のバランスはどうだろうか?どちらの自己開示が必要だろうか?
自分自身の今を、この言葉から思い巡らしてみるのは有意義と感じます。
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ちょっと、ひとりごと

2013年05月05日 | 未整理
こうありたい理想のイメージがあって、
ところが、こうありたい理想のイメージには今一歩パワーが不足している。
そのような自分の現実を目の当たりにして、心がざわつきます。

残念な気分が漂います。

理想と現実のギャップから生まれるモヤモヤを解消するために、
理想をあきらめるか。現実を受け容れるか。。。?

理想はあきらめない。理想はあきらめず今の力不足は受け容れる。
落しどころは、とてもシンプルです。

受け容れたなら、現実を目の当たりにした出来事のことは忘れて(通過させて)、
さっきまでそうだったように、また理想に向かって“よい感じ”で歩き出すことにしましょう。。。!

言葉にしながら…残念な気分は消滅したようです。(傾聴をありがとうございました・)
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気になることを、丁寧に思い巡らすとき

2013年05月02日 | 未整理
人生の課題は同種のテーマが周期的に巡ってきているような気がします。

その人に相応しい時期に、その人が気付きやすい出来事を通して、
同じ領域のテーマが数年後か、事によっては十数年後かに、
以前よりも少し上級の、より深い課題として現れてきている…そんな気がします。

何か気になること、気になる現象を通して“私の課題”は顔を出してくるようです。

友人が、大地から跳躍する瞬間を捉えた写真にいたく感心していたことがあります。
教えられたHPを覗くと、写真家自身が体を張って、あちこちで飛び上がった瞬間の写真です。

私の反応から同じように感動していないことに驚きつつ、そして少しかっがりしながらも、
感じ方が違うのは成育史の違いからきているのだろうと、友人は見当をつけたようでした。
他人には解りえない感受性の傾向を、その写真に惹かれるという現象を通して友人は意識化したようでした。

読み止しの本の一文が、こころに残って折に触れ浮かんでくることがありますが、
十数年ぶりに開いた本の内容に、あらためて引きつけられている自分を感じつつ、
人生の課題を深める時機到来とばかりに、あれこれ思い巡らします。
思春期の頃の友だちの一人を夢に見たり思い出すのは、
友だちと引き付けられている本の一文が、どこかで呼応しているせいかもしれません。

様々な現象を通して向き合うべき人生の課題が現れてくるように思うのですが、
行き着くところ、それは自己概念の問題で、跳躍の写真に引かれる友人にしても私にしても、
自分に対する考え方や感じ方、そう思ってきたことへの変化を促すためだったり、
自分以外の他者、世界に対する考え方や感じ方、そうだと思い込んできた内容修正を促すことが、
気になる様々な現象の最終的な目的のようにも見えます。

自己概念は思う以上に微細に、あらゆる領域に浸透して、その人の感受性に影響を与え続けているものです。

自分にとっては当たり前の、空気のように馴染んでいる傾向に気付くことで、
人はもっともっと心を自由に、幸福曲線を充実させてゆくことは可能なのだと思います。
惹かれること気になることを丁寧に思い巡らしてみたならば。。。大事な課題にハッとするかもしれません。
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