こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

今ここで。どんな感じがする?

2018年10月28日 | 自己実現
人間が好きか?嫌いか?
なんとデリカシーに欠ける問いかけか。
もし「好き」と即答できるのであれば、
そのような否定感はもたなかったのでしょうが、
好きと言い切れないけど嫌いとも違う気がする。
それが正直なところですが、わりと最近まで、
さらっと本音を語ることにも抵抗があったのですね。

抵抗が解けるきっかけは友人の呟きでした。
或るとき友人が“人嫌いで困ったものです、、”と
メールの中で自嘲気味に呟いていたことがあって、
“ええ?そうなんだ、、自分で言っちゃうんだぁ”
聴いた瞬間に驚きと共に安堵が身体を貫いて、
ほっと力が抜けるのを覚えました。

受け入れ難かった傾向の受容が成った瞬間といえると思います。

受け入れ難かったゆえに長らく(それまでの人生の大半、、)
無意識に無理してきたことを深く納得しました。
傾向に逆らって無理をするのだから、人々との交流には
幸福曲線よりストレス曲線の方が大きかったのは当然で、
無意識の自己否定感ほど心身を消耗させるものはないと、身にしみて思います。

よいとかわるいとか、そうでない方がよかったとか、
そういう話ではありません。
傾向を受容して意識的に行動すれば違った展開だったでしょうが、
-友人は私より自身の個性を受容できていたのですね-
自分にそれがよかったとは思えません。

友人達、大切な人々は、そのようであった私が、
そのように行動して出会った人たちであるのだから、
すべて必然だったと思えるのです。

無意識の意識化。自覚すること。明確化が成ること。
人生のどのあたりで気付きが訪れるのか。ふしぎですが、
意識化して受け容れると何かが変ってゆくことは確かなようです。
より広やかで軽やかな場所へ。こころの環境が移ってゆくのは確かです。

人間が好きか嫌いか。今ここで自分自身の感じるところを大切に。。。
〔60〕
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言い返す前にすること。。。

2018年10月21日 | 自己実現
相手の言葉にカチンと来て、言い返す。
怒りをともないながら、言い返す。
それに反応した相手に言い返されて、また言い返す。
しばし感情的な言葉のやり取りが続くようなこと。

言葉にカチンときて咄嗟に反応するのは、
自分を守らなければならない!という、
自己防衛からくる反応のようです。
守らなければならない自分とは、
この場合はセルフイメージでしょうか?
それとも自己概念とか。。。

カチンときて言い返す。
相手の言葉に即反応している流れでは、
「感情を受け入れる」隙がないことに気づきます。

下手なドッジボールを思い出してしまいました。
うっかり受けとってしまったボールを大慌てで、
見境なく敵の陣地に投げ込むような…下手なやり方です。

言葉と言葉のやり取りでは感情が平らかであるのは必須ですね。
それには“感情を受け入れる隙間”をもたないといけません。

物心ついてから“大事に育んできた”自己概念、
自己概念とは体験の解釈が集まって出来た束といえそうですが、
言葉の束の自己概念を守るのか、それほどの必要はないのか。
その考察も必要ですが、考察も感情が平らかでないとできません。

即反応する前に、言葉で言い返す前に、
カチンとくる、その感情を受け入れる隙間をつくるのに、
私はどうしたらいいでしょう?なにができるでしょう。

・・・・・?

相手の言葉にカチンときたとき隙間がつくれない。
その瞬間に、私には感情を受け入れる隙間が必要だと、
そのような概念/思考が成ったところで今日はよしとしておきます。
(この自己概念から何かが変ってゆく予感はしますね)
〔59〕
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流れにゆだねる

2018年10月15日 | 自己実現
今日の「生き甲斐の心理学」の記事、いいなあ。
しばし間をおいて再読して、醸し出されている気配を、
深く、深~く吸い込みます。「自然体」を吸い込みます。

思考に囚われることは、自然体と両立しないな…
当たり前のことを思いました。

自然体は言葉で説明し難いもの。
あえて言うなら、流れそのものと言えそうですが。

このごろ何も考えていないからねえ。。。
そんなふうに友人に応答することになりますが、
何も考えていないこの感じ。あれこれ思い煩わないで、
目の前のことに焦点をあわせて動く。淡々と動く。

考えても考えても、私の知りたいことは解らない。
いくら考えても、そこには辿りつけないと、ようやく了解して。
とそんな言い方もできそうですが、
何も考えていないからねぇ。。。この感じは、
私の一つの自然体のスケールではないかと感じます。

考えて考えて、考えずにはいられない。
エネルギーを思考に消耗(今思えばですが)する季節があれば、
何も考えていないからね。。。と思い煩いから遠ざかる季節もある、
どれも人生の一コマ、必要な季節、人生の大切な要素です。

ところで。
そこには辿りつけないという、そことは何処なんだ?
そこは、ここ。。。とそんなことが浮かびました。

あなたの、わたしの自然体に出会えますように。
〔58〕-2
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どちらも、私。

2018年10月01日 | 自己実現
どうしてあの人は(人たちは)あんなふうにできるんだろう?
あんな行動をとるんだろう?気が知れない、、、と思う私がいる一方で、
あのような行動にはそれなりの事情があって、
その人にとって(その人たちにとって)必然なんだ。。。と思う私もいて。

どちらも本音ですが、発生源が違う?私の内に二つの発生源がある?
どういうことでしょう。

庭に佇み空に月を見つけて、ああ月だぁと、なんとなく嬉しくなる。
一方で、月と地球の軌道、天体を思い描くことで塵の我が身を感受する、
そのような私も経験していますが、どちらも私です。

よいわるいでなく、どちらも私、そのような私がいるわけですが、
ああ月だあと嬉しくなっているのは、
他者は他者、私は私と個別性から発生している感情ではないかな?
そして、塵の我が身に感じ入っている私というのは、
他者と私を隔てない深い共感性を暗示しているような気もして。

と、こんなことをつらつら思うのですが、
前者がこころの意識であるのに対して、後者は魂の意識といってよいかもしれません。
こころの喜ぶことも好し、魂の安らぎは更に好しというところでしょうか。

本人が意識してもしなくても、人はこころと身体と魂を生きているのですね。
今日から10月。こころと魂を繋ぐ呼吸を意識しながら、日々を過ごそうと思います。
〔58〕
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今朝の月・たわわのアケビ
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