そこはかとない孤独感
微かな寂寥感のようなものが、やってきます。
こういう感じは、子供の頃にもあったなあ。
孤独とか寂寥とかいう言葉は知らなくても、
同質の感覚を確かに経験していました。
なんとなくサビシイ。。。
それで子供の頃は信仰の世界に希望を見出して、
イエス様を信ずる世界に入ればダイジョウブなんだと、
今から思うと、そう考えることで大きな安心を得ていたようです。
誰にも言わず、ひっそりと思いを胸に秘めて、
いつか、その時が来るのを心待ちしていました。
なぜキリスト教だったのか。幼い頃、触れた物語の影響か。
楽しいクリスマスの記憶があったからなのか。
記憶を辿って分析してみたところで明確には解らないのですが、
実はそのことは、それほど重要ではないですね。
それよりも。
理想の世界を信じることで、寂しさが癒されていたということは、
子供なりに感情を意識にあげることができていた。
孤独感は抑圧されていなかったということです。
さて時が巡り大人になって、ついにその日がやってきますが、
思い描いてきた理想の世界と現実が一致した喜びは、
今から思うと、ほんの束の間だったように思います。
束の間を過ぎると、いつの頃からか孤独感という大切な感情を、
知らず知らず無視するような感情生活に取り込まれて。。。
理想の世界に足を踏み入れたのだから孤独感などあろうはずがない。
無意識に、このような思考に囚われていたのかもしれません。
*
孤独を感ずるのは、生きていればこそ。
身体を地上に繋ぎとめ、その上で魂に啓かれてゆくために、
孤独感はあるのだと。。。
魂が、魂の本質である愛に気づくために孤独を経験するように出来ている、
そういうことなのだろうと理解しています。
なんとなくサビシイ。。。そこはかとない孤独を感じても、
未来に希望をおく必要はありません。未来を待つまでもなく
今ここで、魂の本質を思い出せばよいだけの話です。
いつも上手くゆくとは限りませんが、
少なくとも未来でなく「今ここ」にしかないことは確かです。
もしかすると「永遠の生命」とは、そこを指し示しているのでしょうか。
孤独感は地上に降りた魂の感情であるかもしれない。。。
ふとそんなことが浮かびました。
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〔61〕-2
微かな寂寥感のようなものが、やってきます。
こういう感じは、子供の頃にもあったなあ。
孤独とか寂寥とかいう言葉は知らなくても、
同質の感覚を確かに経験していました。
なんとなくサビシイ。。。
それで子供の頃は信仰の世界に希望を見出して、
イエス様を信ずる世界に入ればダイジョウブなんだと、
今から思うと、そう考えることで大きな安心を得ていたようです。
誰にも言わず、ひっそりと思いを胸に秘めて、
いつか、その時が来るのを心待ちしていました。
なぜキリスト教だったのか。幼い頃、触れた物語の影響か。
楽しいクリスマスの記憶があったからなのか。
記憶を辿って分析してみたところで明確には解らないのですが、
実はそのことは、それほど重要ではないですね。
それよりも。
理想の世界を信じることで、寂しさが癒されていたということは、
子供なりに感情を意識にあげることができていた。
孤独感は抑圧されていなかったということです。
さて時が巡り大人になって、ついにその日がやってきますが、
思い描いてきた理想の世界と現実が一致した喜びは、
今から思うと、ほんの束の間だったように思います。
束の間を過ぎると、いつの頃からか孤独感という大切な感情を、
知らず知らず無視するような感情生活に取り込まれて。。。
理想の世界に足を踏み入れたのだから孤独感などあろうはずがない。
無意識に、このような思考に囚われていたのかもしれません。
*
孤独を感ずるのは、生きていればこそ。
身体を地上に繋ぎとめ、その上で魂に啓かれてゆくために、
孤独感はあるのだと。。。
魂が、魂の本質である愛に気づくために孤独を経験するように出来ている、
そういうことなのだろうと理解しています。
なんとなくサビシイ。。。そこはかとない孤独を感じても、
未来に希望をおく必要はありません。未来を待つまでもなく
今ここで、魂の本質を思い出せばよいだけの話です。
いつも上手くゆくとは限りませんが、
少なくとも未来でなく「今ここ」にしかないことは確かです。
もしかすると「永遠の生命」とは、そこを指し示しているのでしょうか。
孤独感は地上に降りた魂の感情であるかもしれない。。。
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