こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

なんとなくサビシイ。。。

2018年11月25日 | 自己実現
そこはかとない孤独感
微かな寂寥感のようなものが、やってきます。

こういう感じは、子供の頃にもあったなあ。
孤独とか寂寥とかいう言葉は知らなくても、
同質の感覚を確かに経験していました。

なんとなくサビシイ。。。
            
それで子供の頃は信仰の世界に希望を見出して、
イエス様を信ずる世界に入ればダイジョウブなんだと、
今から思うと、そう考えることで大きな安心を得ていたようです。

誰にも言わず、ひっそりと思いを胸に秘めて、
いつか、その時が来るのを心待ちしていました。

なぜキリスト教だったのか。幼い頃、触れた物語の影響か。
楽しいクリスマスの記憶があったからなのか。
記憶を辿って分析してみたところで明確には解らないのですが、
実はそのことは、それほど重要ではないですね。

それよりも。

理想の世界を信じることで、寂しさが癒されていたということは、
子供なりに感情を意識にあげることができていた。
孤独感は抑圧されていなかったということです。

さて時が巡り大人になって、ついにその日がやってきますが、
思い描いてきた理想の世界と現実が一致した喜びは、
今から思うと、ほんの束の間だったように思います。
束の間を過ぎると、いつの頃からか孤独感という大切な感情を、
知らず知らず無視するような感情生活に取り込まれて。。。

理想の世界に足を踏み入れたのだから孤独感などあろうはずがない。
無意識に、このような思考に囚われていたのかもしれません。

            *
孤独を感ずるのは、生きていればこそ。
身体を地上に繋ぎとめ、その上で魂に啓かれてゆくために、
孤独感はあるのだと。。。
魂が、魂の本質である愛に気づくために孤独を経験するように出来ている、
そういうことなのだろうと理解しています。

なんとなくサビシイ。。。そこはかとない孤独を感じても、
未来に希望をおく必要はありません。未来を待つまでもなく
今ここで、魂の本質を思い出せばよいだけの話です。
いつも上手くゆくとは限りませんが、
少なくとも未来でなく「今ここ」にしかないことは確かです。

もしかすると「永遠の生命」とは、そこを指し示しているのでしょうか。
孤独感は地上に降りた魂の感情であるかもしれない。。。
ふとそんなことが浮かびました。

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鹿を考えて・・・愛

2018年11月18日 | 自己実現
秋の深まりを実感させてくれる鹿の鳴き声、
山並みに響き渡る物悲しげな声を、まだ一度しか聞いていません。
万葉集の時代から認識されてきたあの声、
去年あたり、あれ?例年より少ない?と感じましたが、
今年は一度きりで終わってしまうのでしょうか。

その代わり以前には稀にしか聞かなかった声をよく聞きます。
季節に関係なくピーッ、ピーッ。。。家の近くまで来て、
ピッ、ピッと、こちらに向かってよく鳴いています。

林道でもしょっちゅう見かけます。車の前を横切ったり、
慌てて森に逃げ込む白いお尻だったり、時にじーっと見つめられたり。
こちらの反応も、またいた~ぐらいのもので特に感動もなく、
あっ鹿だ!と遭遇すると嬉しくなっていた頃が、なんだか夢のよう。。。

庭に入って薔薇や紫陽花の若葉まで食べちゃっている、、、
この事実に直面したときには一瞬、殺意めいた感情が過ったりして。
家の際に黒豆が集まったような鹿の糞を見つければ、
そのうちドア開けて家の中に入ってくるかも、、と、
冗談を言いながら微かな恐怖感すら覚えます。

鹿とはこういうものという従来の思考から抜け出さなければ、
不安と怒りのストレス曲線をひた走ることになるでしょうから、
新しい鹿像、、、この現実を受け容れるほかないですね。

この秋は小屋とステンレスの人工物に囲まれた庭の片隅に、
そこまではちょっとォと鹿が躊躇しそうな場所に菜園をこしらえました。
野菜以外の草花をちょこちょこ食されることは容認するにしても、
春になったら薔薇の若葉を守るべくネットを被せよう。
細い竹を採ってきて骨組みを作ってと計画しているのですが。
             *                  
こんなふうに落ち着いた気持ちで鹿のことを考えながら、
ちょっとふしぎな感覚になりました。
このしみじみとした感覚、この感じがどこからくるかといえば、
良性の思考からくる充足感のようなものと言えばよいでしょうか。

感情の波に呑み込まれる事なく平らかな気持ちで思うこと。
時間を使って穏やかな心で対象を考えること。
平らかな気持ちで思考することは<愛>の入り口かもしれません。

この次、林道で鹿に会ったなら、またいた~と多少迷惑トーンで呟いていたのが、
あら、いたのね♪ 多少受容的に呟けるような気がしますね。

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人生は楽しい

2018年11月11日 | 自己実現
山の上で毎日なにしているの?
質問されると、なんとなく落ち着かない気分になって、
まあ、いろいろ、、、あんなこと、こんなこと、
それらしいことを答えながら、
しっくりこない違和感が流れたりして。

平凡な日常にあって、それらしいことは何もしていない。
私にはそれらしいことが足りない、
私にはもっとそれらしいことがあった方がよい、、等
へんな自己概念があったみたいです。

このごろは質問されると、
とりたてて何もしていないわね~、ふふっと笑って答えます。
相手によっては、こういうのは理解不能らしいけれど、
人の世で理解不能はお互い様でしょう。

お暇なとき連絡下さい。暇なとき会いましょう、、等、
暇だったらと言われても、暇はない。
忙しくはないけれど、暇もない。。。
暇だったら~という言い方は、私にはしっくりきません。

平々凡々な日常を生きながら、表面的に代わり映えのしない日々、
それらしいことは何もしていないけれど、人生は楽しいな。

こころと身体と魂と。垂直軸に人生を深めていくヨロコビ。

それらしいことをしていても、していなくても。
様々な有り様から世界は成っている、動いている。
今日もこの場所から、私の場所からそれに参加しています。

               *

その人がなぜそのようであるのか。
そのような感性は私には理解不能で、異星人に接するごとくの微妙な混乱感の中、
すーっと部屋の一隅に視覚が引寄せられて絵を見た瞬間、ほォーっと人心地つきました。
芸術の真価は、こういうところにあるのだな。
カレンダーの絵に釘付けになりながら、思いました。
異星人の部屋に置き去りにされた状況の中で、
カレンダーの絵が10月のルソーでなく12月のドガでもなく、
11月のセザンヌの静物はドンピシャでしたね。

不安感から平安感へ、錯乱から統合へ。
私に起きた心の流れ-カレンダーに救われたこと-を聞きながら、
異星人はアハハと笑って、私も笑って。実に得がたく愉快な経験でした。

人生は楽しいな。

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野のユリ、空の鳥

2018年11月04日 | 自己実現
車で片道5時間かかる海辺の町へ。
一週間、其処でどのように過ごそうか。

予定も計画もとくにつくらず、
こころを見つめ、思考の流れを見つめることを、
山の日常から離れたところで意識してみよう。
そんなことを、ぼんやり考えています。

「純粋と一致」の極みは、聖書の譬えにある、
野の花と空を飛ぶ鳥でありましょう。
思い煩うことなく今に在ること。

人間は思考から生まれるストレス曲線と幸福曲線の感情、
立ち現れる思い煩いも含めて見つめることになりますが、
野の花の片鱗でも意識して過ごせたらと思うわけです。

「純粋と一致」

簡単なようで途轍もなく難しいことのようにも思われますが、
別に移動してからでなくても今ここで始めればよいですね。
〔60〕-2
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