こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

幸福曲線?それともストレス曲線?

2015年09月25日 | 意識と知覚
好き・嫌いが明確に意識化できない対象について、
最近、ちょっと面白い発見がありました。
とりあえず好き嫌いは脇に置いて。
幸福曲線かストレス曲線か?自問すると、
間髪入れず「ストレス曲線」と返ってきました。
へぇ、そうなんだ。他人事のように感じながら、、
ストレス曲線と答えた相手を思い浮かべていると確かに。そうかもしれないと思います。

好き・嫌い?だと直ぐに答えが出ないのに、
幸福曲線?それともストレス曲線?と問うと、
直ぐ答えがでるのは、人類として複雑に分化してきた感情生活があればこそ。
微妙な感情の襞をすべて含んでいるストレス曲線であれば、
抵抗が少なく答えも出しやすいのかもしれません。

ストレス曲線には、嫌い・怖いという原初の感情から細胞が分裂するみたいに、
分化を繰り返して生まれてきた様々な不安感が含まれています。
それを一言でストレス曲線と表現しているわけですが、
そんな多様な不安感の中から一言でいうなら、相手には「違和感」を感じている。
この感情がいちばんピッタリします。

そうそう確かに感じている。私はあの人に違和感をもっている。
初めて会ったときから、そうだった。
長年の知人に対して、本音が正直に意識できただけで、
なんともすっきり、爽やかな風が身体を通り抜けていくようです。
加えて。この発見がなんとも愉快、うれしいような気持ちがするのは、
相手に対して平素、友好感をもって交流しているという現実があるからです。

人は(私は)違和感を超えて友好的感情で接することができる。(できていた)
これがはっきり見えたことが愉快でなりません。

そして無意識に知覚していた違和感を、ここで正直に意識できたことで、
今後も適度な距離を保ちながら、混乱することなく友好感を育んでゆける。
そんな確信が、もてました。

あの人にに対して私は幸福曲線?それともストレス曲線?どちらを感じている?
自問することで何かに気付いて、もやもやが晴れてくることもありそうです。

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好きか嫌いか。

2015年09月14日 | 意識と知覚
原初感情と云われている「好き、嫌い」「怖い、怖くない」を、
倫理道徳をこえて正直に素直に意識化できること。
これが心の健全性を保つ鍵であると理解して、
時々の原初感情は意識して知覚するようにしてきました。

しかし経験上思うのですが、
原初感情の意識化は意外と一筋縄ではゆかないものです。
心もとない自我の感ずる好き嫌いは、
なんだかウスボンヤリした自我同様の心もとないものであったり、
それか極端に、強い自己防衛からくる激しく感情的なものになることもあって、
どちらにしても大人の健全性からは距離がある感情の流れです。
私は私の、主体性ある自我を確立する過程にあっては、
怖いから嫌い、とりあえず怖くないから好きといった具合に、
怖いと嫌い、怖くないと好きが曖昧に混ざり合って意識されることも多いのです。

・嫌いだと思ってきたけれど、その根っこにあるのは「怖い」だった。
・好きだと思ってきたけれど、とりあえず怖くない、それだけだった。
自己実現に向かう中でチラホラとそんな気付きが起こってきますが、
感情が正確に意識化されることで、無意識的だった防衛機制にハッとすることもあります。

もの心ついて自我が芽生えてきた頃に、好き、嫌いを無邪気に意識化できていたところから、
成長過程の中で、ホンネを抑え込む必要がでてきたり
いろいろな防衛機制を作動させながら、心の安定を図ることも覚えて、
なんとか生き延びてはきたけれど、いつのまにか、
本音の好き嫌いを正確に意識するのが難しい心ができあがっていたのです。

好き・嫌い、怖い・怖くない。

・この状況は嫌いだけど、怖くない。(私は、この状況を切り抜けられる)
・この人は怖くないけれど、行動(言動)は好きになれないし嫌い。
(だから…私はとりあえず遠ざかることにする)
感情の流れがのびのびと豊かになるにつれて、自分に対して、
それまでにはなかった逞しさや自己信頼を覚えるようになります。

今あらためて原初感情は大事な指針だなあと、つくづく思います。

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快調の中の、ストレス曲線。

2015年07月26日 | 意識と知覚
毎年5、6月に出かける故郷への旅が今年は、
諸々の都合で7月にずれ込み、旅から戻って一週間になります。
戻った直後はいつも荷物の片付けと留守中の家の内外点検と
溜まった洗い物など、休む間もなく気忙しく動いて、
それが一段落したところで、どっと疲れが出て動きがわるくなる。
これがいつものパターンです。

ところが。今年は後片付けが一段落したところで
それまでの、じとじと雨模様の天候が一転、
お日様が顔を出してくれたものだから、
休んでなどいられないとばかりに大車輪で動いて、
それでとくに体調がわるくなるということもないので、
どうやら、ここ数ヶ月の身体の不調からは脱したといっていいようです。

体調の快復の途上にたまたま旅が挟まって、旅から戻って
心身の変化をビフォー、アフターのように感じています。

人々との関わりの中で、移動した風景の中で、見たもの、聞いたもの、
感じたこと考えたこと、いろいろの要素が絡み合って、
微妙なトーンの変化、進化?諸々あって、今ここでこうしているわけですが、
変わったなぁ~と、驚きつつ自分を見ていることを一つあげると、
考えるより動いていることの方がずっと多くなったことです。

不調に至った原因のひとつに「頭で考えて選択したことのミス」ということがあるので、
考えたり迷ったりすることを身体が避けているのかもしれませんが、
頭で考えるより体で考える、今は体で考えるのが安全…ということかもしれません。

心身の快調を感じる中で、不安材料が一つあるとすれば、
同じ轍は踏みたくないない!お決まりのパターンに嵌りたくない!(戻りたくない!)
この度の不調は、無意識の、根深く根強い一つのパターンを教えてくれた。
遠い昔の、淡く懐かしい成育史の中に刻まれた心の反応の一つのパターン。
このパターンが解消されたとき、今より更に眺めのよい場所に行けるような気がするのですね。

テキストの139ページ、エリクソンの人格形成の表が示唆を与えてくれますが、
大らかに真面目に、この不安感とつきあってみたいと思っているのです。

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同調に、ご用心

2015年04月28日 | 意識と知覚
自分の不一致(深層心理での本音が意識や言葉と一致していないこと)に、
さっぱり気付かずにいたところから、微妙な違和感を覚えだす時期を通って、
ついに不一致が明確に意識されるときがきたとして。

不一致に気付かなかったときには苦も無く「同調」できていたのが、
心楽しく同調できていたのが、本音に気付きだすと、
とりあえず言葉で同調していても、以前にはなかった違和感を覚えて、
以前は楽しかった対話や交流に身をおくことが、とても苦痛に感じられます。

この苦痛は「同調を強いられている」と知覚するところから生まれてくるようで、
そこには小さいとはいえない脅威と圧迫感もあります。
しかし、相手に同調への期待はあっても強いられていると知覚するのは、
明らかにこちらの“感じすぎ”と思われるので、
「同調を期待されても強いられてはいない」と書きかえるのがよさそうです。

不一致を自覚したその上で、どう行動するかの選択肢は、
本音を自覚しながら相手に同調することを優先させるか、
同調していない本音を伝えるかの、どちらかになるのでしょう。
後者は場合によっては関係性の習慣を壊すことにもなるので、
時間をかけて習慣を作り変えるような気持ちで臨むのがよいのかもしれません。

ここ数日の出来事と心の流れの中で「同調」がキーワードのように出てきて、
なんとなく。考えるともなく考えていて、「不一致の意識化」と同調の問題が、
ここにきて繋がり、問題がくっきりとみえてきたわけですが、
「同調を強いられてはいない」と自己概念を書き換えることと、もう一つ。
「自分が同調を期待している」瞬間を意識してみたいと思っているのです。
自分がどんな時と場面で、どういう相手に同調を期待しているのか。
その瞬間をとらえて、自分の傾向に意識的になってみようと思うのですが、
意識するだけで―無意識の意識化が成るだけでー変化することも何かあるでしょう。

頭の中が整理されて方針が定まってくれば、最近の一つの気がかり、
同調を強いられていると知覚したことから生まれていたストレス曲線も宝物だったと思えます。
感情には意味があります。ストレス曲線は疎かにしないで誠実に接したいものですね。
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コダワリが感受性を鈍らせる。

2014年11月01日 | 意識と知覚
ここ6,7年、秋の定日に、とある神社へ足を運ぶのが習慣でしたが、
今年は出かける直前になって方針を変更、図書館に出かけました。
なんとなく気が進まない自覚がありながら、
習慣にこだわり直前まで中止の決心がつかなかったのです。

止めたことは正解でした。以前から、
場所の気配に、なんとなくしっくりこないものを感じていました。
でも思い過ごしかしらと、それを確かめたくて通っていた節もあります。
杜が縮小してしまったことが影響しているのか…と思ったり、
長いお家騒動の記事を目にして、それが気配に影響していたのかと、
納得してみたり。。。しかし理由はどうであれ私の中で、
違和感というストレス曲線が、そこへ行く目的達成の満足感を
今年は上回ってしまったということでしょう。

その場で感ずるもの。感覚。私のフィーリングは、
コダワリや硬直した思考があると、意識化がぼやけてしまうようです。

後日、友人にその話をしたところ、友人はそこで体調を崩したと聞いて驚きました。
初めて知ったのですが神社仏閣の気配に敏感な性質のようです。
私もよく知る寺院の境内を、最近訪問してとてもよかったと、
それを聞いて、なるほどと思いました。

友人は夫の趣味に付き合うかたちで神社仏閣を訪問しているので、
強い思い入れがない分、場の気配を素直に感じ取っているのかもしれません。
思い入れやコダワリを外して、ありのままに見る。ありのままを感ずる。
場の気配を感じ取る楽しみ。そのような感受性を意識してみるのに、
とある寺院の境内に、久しぶりに出かけてみようかと思っているところです。

ところで図書館では、ふと目に付いた「銀河鉄道の夜」を借りて、
国宝を旅するヴィジョアル本の弥勒菩薩を思い致すのと併せて、
当初の神社訪問の目的が満たされたと思いました。
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食と、どう向き合うか

2014年10月20日 | 意識と知覚
「食」への関心が、以前は「より健康に成るために」、
「疾患のリスクを少なくしたい」など、
健康な体を維持することが目的だったところから、
近頃は、そういう目的意識がぐっと薄れて、
私の中では「食と、どう向き合うのか?」が、
何よりの関心事で、重要になってきています。

自分の心と体と魂にとって最良の摂り方というものがあるのではないか?
その答えを日々模索しつつ、楽しく探求しているのです。

食事の摂り方は成育史を振り返ることであるし、
今ここでの、ストレス曲線と幸福曲線にに関わってくることであるし、
家族、人間関係、住環境を見つめ、現実吟味力を発揮することであるし、
日本人としての、地球人としてのアイデンティティを考えることであるし、
そして何よりも神仏、宇宙と、ここに存在している私との関係に
思いを巡らせることにも深く関係してきます。

意識することで、これらのことが実感されてくると、
食を疎かにせず、でも執着することなく丁寧に頂くことが、
人生にとって、いかに大事であるか。認識は深まるばかりです。

今こここで、いただける物を大切に頂くことに幸せを感じたい。
眉間に皺を寄せて考える必要もありませんが、大事なコトです。

ところで。昨日の2歩後退3歩前進のプラス1歩は、
つい疎かになりがちな食するときの意識、心の持ち方に反映されました。
後退が前進のためにあるというのは本当に、その通りですね。
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ゆだねるとき。

2014年08月16日 | 意識と知覚
ゆだねる、ゆだねたい。。。
ゆだねればよいとわかってはいるけれど、なかなか、、、
ゆだねられないときには、ゆだねられませんと、
素直に呟いておくのが一番よいのかもしれません。

ぐるぐる回りを続けるより「ゆだねられません」と認めてしまう。
“私の今”を受容できると物事は動き出します。

そして。ゆだねればよいのだと心から納得して、ゆだねるときには、
「私はゆだねます」と、しっかり意思表明するのがよいのでしょう。
天(神、宇宙、大自然…)はすべてをご存知とはいっても、
できるだけ意識的に“私の意思”を表明する方がよく、それが礼儀と感じます。

要は無意識にずるずる進むのでなく、意識的であること。

小さなコトから始めるのがよく(小さなコトからは、私の口癖のよう、、)
日々の小さな出来事に際して心の中で意思表明するクセをつけるとよいと思います。

たとえば。返信メールがなかなか届かず気にしているようなとき。
ゆだねると決めたなら、わるい想像もよい想像も中止して、
「私はゆだねます」と心の中で意思表明するといった具合です。

意思表明=天と私自身に誠実であること。。。

              *

峠道をクルマを走らせながら、こんなことを考えました。覚え書きまで。
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慎むと、見えてくる

2014年08月12日 | 意識と知覚
この頃、自分が発する言葉を意識するようにしています。

相対で話す時を除けば、どちらかといえば私は口数が少ない方です。
それでも発する言葉を意識していると、
けっこう不要な言葉を口にしていることに気付かされます。

典型的なのは社交辞令的な言動で、
そんなに強く思っていないことを軽く口走っている。
処世術としては社交辞令は大切なコトでしょうし、
マナーとして高く評価されることもあるかもしれません。

しかし。ここで、あらためて自分の発する言葉を意識したくなったのは、
表層の和やかさより、私はもっと別のものを求めたくなったのでしょう。

発する言葉に意識的になって口数が減ると、
これまで無意識で言動に向けられていたエネルギーが、
もっと有意義なことに向けられるようになります。

有意義なこととは、その場を感ずること知覚することですが、
その場に在って知覚することを大切にした結果、
沈黙が生まれることもあれば言葉が生まれることもあるでしょう。

発する言葉を意識するようになってから、私自身は
以前より深く密度の濃い人々との交わりを感ずるようになりました。

知覚を大切にするということは、心の要求を識別する力も育むように思います。
心の防衛機制からくる要求か。それとも、もっと深いところからくる要求か。

防衛機制からくる要求に振り回されてきた時間はもう十分なので、
深いところからくる要求に応えるべく耳を澄ませるためにも、
先日、なるほど、こういうことね…と実感したこともあったので、
もうしばらく発する言葉と沈黙に注意を向けてみようと思っているのです。

口数を減らす。慎むことで見えてくるもの。
慎むことで増えるもの。。。すべてに通じるキーワードのように思えてきました。
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意識して、知覚する

2014年08月09日 | 意識と知覚
未明から風が強まり、風雨が激しくなっています。

さすがに今日は林道歩きはできないので、その代わりに、
スワイショウという腕振りをいつもより回数を増やすことにしました。
本によれば天候のわるいときには中止するのがよいと書かれていますが、
天候による悪影響というのが私にはピンと来ません。

私が鈍いせいかもしれませんが、天候のよしあしよりも、
スワイショウの日課をを中断させることの方がマイナスになるような気がする…
今はそうでも、また感じ方は変わるかもしれませんが。

本によると腕を振るときの意識の持ち方として、
邪気を吐くような気持ちで、捨てることを意識するのがよいとありますが、
これもピンとこなくて、そもそも邪気とそうでない気が、
どういうものであるか、その識別が私の中で明確でないせいもありますが、
邪気を捨てる、、、ただ捨ててしまえばよいのか!と、
少しアマノジャクな思いもあるのかもしれません。

本がどういっても、人が何をいっても、それは参考ときっかけにして、
自分にしっくりくる意識の持ち方を採用するのがよいのではないかと思います。
今の私がどうなのか。どう感じるのか。どのような感覚があるのか。

「私が」意識して知覚する。ここから出発するのが基本なのだと思います。
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ぐずぐずして踏み出せないことについて。

2014年01月10日 | 意識と知覚
こうしてみたいなあと思いつつ、ぐずぐずして一歩踏み出せないことについて。

何ゆえぐずぐずしているのか、行動しないのかと自分に問うてみれば、
きっとうまくゆかない・・・と、自信のない呟きが聴こえてきます。

無理に自信をかきたてるわけにもゆかないので、
自信が無いのは仕方がないこととして、とりあえず受け容れて、
こうしてみたいなあと思うことを行動するにあたって、
一歩踏み出すのに必要なものは?
踏み出すのに必要なことが何かを考えてみることにします。
“できるだけ具体的に”行動するための条件を考えてみます。

つまりは自信をもつための条件ということかもしれませんが、
一歩踏み出すのに何が必要か?条件は?と自問して、
「まずは書いてみること」と一つ答えがでたので、こうして綴っているわけなのですが、
まだ他に何があるだろう?しばらくの間、考えてみることにします。

さて、一歩踏み出せないのは自信がないからと呟いている限りにおいては、
暗いトーンのネガティヴなセルフイメージですが、
行動するために必要な条件を考えて、こんなふうに書いてみていると、
なんとなく明るい雰囲気が生まれている感じがするのだから、
単純といえば単純ですね。

やってみたいことがあるのに一歩も進めないということは、
踏み出せずに足踏みしている状態というのは、
私の願う心の雰囲気とは違うなあと、しみじみ思います。
願う雰囲気を保てる時間を少しでも長く…と、これも今年の目標にいれることにします。
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