こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

小さな旅

2007年12月29日 | 魂と聖霊
旅行中の友人と一泊だけ合流するために、関西へ小さな旅をしてきました。出発の間際に丹波焼を見ることだけ決めて、あとは行き当たりばったりでしたが、立ち寄る先々で大木に遇うことになりました。

小道の傍らのアベマキの巨木は、枝分かれのところからナンテンが生え出で、赤い実が古木に、それは鮮やかに映えていました。山間の古刹のツブラジイ(椎)は、凄味ある老木で、コテージまでの道沿いにある神社は、針葉樹の森にあり、ご神木の杉の大樹が聳え立っていました。

往復を夜通し運転の強行軍の旅でしたが、山に帰りつくや、“焼きもの”に草花を挿す衝動に駆られ、花材を探しに庭に出てみます。紅葉したブルーベリー、綿毛を付けたツワブキ、銅色のカルカヤを見つけ、以前に古道具屋で求めた伊賀と思しき花器に挿しました。

人が為す土と火の手仕事を歴史に刻む焼きもの産地と、祈りと共に人が行き交う神社や寺院の訪問は、新年に向けて、私の中に滋味の養分をたっぷり注ぎ込んでくれました。時に、人の歴史が刻まれた空気をいっぱい吸い込んでくることが、自然の気配の勝る山に暮す、私の中心をシャンとさせてくれるような気がします。








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のびのびと呼吸する

2007年12月23日 | 意識と知覚
「吐く息が大切です」「吸うときの倍の時間をかけて吐きましょう」「遠くを見つめ、細く、長く、ゆっくり吐くのです」など、これまで読んだ呼吸に関する記述は、どれも吐息の大切さを説いています。でも、“のびのび生きること”を考えながら、私にとって重要なのは、吐息よりも“吸うことだった”と、はっと気がつきました。先ずもって意識して伸びをしてみたならば、息を吸い込む爽快がはっきり解ります。

更に、視る、聴く、嗅ぐ、触る、味わうときも、息を吸い込むと同時に、そのものの表情が、身体のすみずみまで流れ込んでくることに気が付きます。目の前にあるカップや本、一本の鉛筆、木彫りの人形、掛けられた額・・・見慣れた小さなモノたちも、目で、耳で、手で、息と共に触れてみると、個々の存在がくっきりと、精気のようなものを放っているとさえ見えてきます。

目の前の事物を、息と共に、のびのびと感受すること。呼吸法に入る前に、私にはもっと大事なレッスンがあったのでした。

一昨日からの雨も上がり、朝方からの霧がみるみる遠のいていきます。久しぶりに居間の床には木立の影が揺れ、小鳥の囀りも聞こえてきました。新しい意味に気付いた今日から、私のレッスンは、呼吸と共に「のびのびと生きてみること」、ここから始めてみることなのでしょう。
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月夜に向かって・・・

2007年12月17日 | 螺旋状に上昇する意味
このところ毎朝のように、菜園のあちこちに新しい足跡を見つけます。凄まじい勢いで鼻から突進して、地面を盛大にひっくり返していく猪と違って、鹿は目ぼしい場所に立ち止まり、また次に移動しては立ち止まるような跡を残します。鹿が樹皮や小枝だけでなく、菜っ葉まで食べることを初めて知りました。秋から冬にかけて独特の鳴声を響き渡らせる鹿。声には慣れていても、気配をこんなに身近に感じるのは初めてです。

桑の実をぎゅっと固めたような固形物、狸かテンか、何か小動物の糞でしょう。さっと庭を横切る小さな影を見ることはあっても、何を目当てに来ているのか知りません。ここでは満月に向かって明るくなるほど、動物の往来も活発になるのが判ります。

霜が降りて、キングサリのすっと伸びた枝先の葉っぱが今朝は微動だにしません。今朝、ヒドク悲しい気分で目覚めたのは、直前に見ていた夢のせいだったと、朝食を仕度しながら気がつきました。別離の夢でしたが、朝仕事に慌しく動いている内にいつの間にか、悲しい気分は消えていました。今は、今朝の無風のような穏やかさで一日の予定を考えています。

風景も人の心も刻々と変化する、流れ行く時を生きている現実は確かにあるのですが、「別れの悲しみ」のない部分が私の中に在る、これもまた確かなことだと、いつにも増して思うのは、今朝のヒドク悲しい感情体験のせいでしょう。移ろう自然を感じながら、変化する感情を存分に体験した人生の先には、辿りつくべき場所が確かにあるということ・・・悲しかった分だけ、今日は希望の確信が強められたようです。これから月夜に向かって、動物たちはどんな行動にでてくることか。動物たち…自分も含めて、広やかに楽しみながら付き合えたらと、思います。
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信じて見えてくるもの

2007年12月11日 | 無意識の世界
20代の頃に読んだMA氏の随想集の中で、今もふと想う印象的な話があります。手許に本がないのですが、それは、こんな内容でした。

MA氏の趣味はオルガン演奏で、パリの教会や、日本に帰国した折には、講義する大学の礼拝堂で、独りパイプオルガンを弾くことがありました。或る日、いつものように独り演奏している最中、MA氏は、それまで一度も経験したことのないような、深い感慨に打たれます。

“今ここで演奏している自分は、紛れもなく、遠い日に両親の家でオルガンを弾いていた、あの少年の日の自分である・・・” それはMA氏が自身の内に流れる永遠なるものを、知覚した瞬間でした。魂という言葉で表現しなくても、彼の言いたかったのは、確かに“愛そのものである魂”のことだと解ります。読みながら、MA氏のその時の感動と驚きが、しーんと厳かに伝わってきました。オルガンに向かう壮年の彼の内に息づく少年の日の彼・・・息づく永遠の存在。

MA氏のように劇的ではないまでも、多くの人はそうとは気付かぬまま、日々の小さな出来事の中で永遠なるものを体験し、癒されているものだと思います。

最近のことですが、友人がギリシャ神話について、少女時代に、臆することなく感情を生き抜く神々に違和感を覚えながらも、のめりこむように物語に熱中した話をしてくれました。それを聴きながら私は、MA氏のエピソードから受けた印象と同質の感動を覚ます。少女の頃から少しも変わらず自身の内に流れるもの、それを知覚した友人が、喜びの内にいることがよく解るからです。

“愛そのものである魂”の存在を信じ、それを意識して人の話を聴くほどに、語られる体験の中に見え隠れする、永遠の存在に気付く機会は増えるようです。
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感情生活と愛

2007年12月05日 | 愛とゆるし
忘れたころに、ほんの些細な刺激が引き金となって浮上してきては、日常の現実に取り紛れて、なんとなく悩みも立ち消える・・・あなたへの愛、神への愛、私自身への愛、愛を巡る悩みの数々。

“不安が本質の人間”である私にとって、“愛の孤独感”は日々の現実です。大切な誰かとの愛が揺らぎだすこと、つい最近もありました。久しぶりに大きな波にのみこまれて、しばし暗澹の時を過ごしたのですが、少し落ち着いてきたときに、ギリシャ神話に登場するヘルメスをふと思いました。大海に浮ぶ孤島にたった一人取り残された“心”を救済してくれるのは、ヘルメスと考え出して、ちょっと希望がでています。

以前、自己愛の問題で大いに悩んだ時期に助けられたのが、ギリシャ神話のデメテルとペルセポネの物語でした。それは神話による自己愛の臨床を論ずるような、少々難解な本でしたが、その物語で、羽の生えた帽子と翼の付いたサンダルを履いて飛行する旅人、大事な伝言を携え、旅する使者としてのヘルメスを知ったことが、今頃になって、孤独な心を救済するために飛んできてくれるヘルメスというイメージとなって浮んできたようです。

愛の孤独感は、大切な誰かとのコミュニケーションが切断された状態ですが、そんなとき、軽やかに飛翔するヘルメス神が、唯一私のもとへ何か大切な伝言をもって飛んできてくれる・・・そんなイメージを思い出すことができれば、孤独の渕に呑み込まれることだけは、避けられそうな気がします。ギリシャの神々に親しむことは、私の感情生活を、楽しみながら豊かに耕す、有効な手段の一つといえそうです。
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巡る季節“極端を生きるとき”

2007年12月01日 | 無意識の世界
「あなた、あの玄米ご飯続けている、、、?」と問うTさんの口調には、少し揶揄するトーンが混じっていました。講習会で習った小豆入り酵素玄米ご飯は、おこわのような食感が美味ですが、始めて暫らくして、常食として我が家の食生活にそぐわないことが判明し、特大圧力釜他セット一式は、熱心に食養生に取り組んでいる姉に譲り渡していました。そんなことをTさんに答えながら「私けっこう飛びつきだからね」と付け加えます。考えてみると、この2、3年の間“あえて飛びつくことをしてきた”私でした。

酵素玄米に始まり、「よく解るコンピューターの話」なる講義の企画から、興味が趣くままの乱読に、初めてのタイムカード・パート労働の体験まで。自分の要求に対して、深く考えずにすぐに応じる。とりあえずやってみよう。人から無駄がないという印象をもたれるくらい、慎重に行動していた頃と比べれば、極端から極端に走る「反動形成」*を生きた2、3年だったと思います。相手の言葉に対して情動的に反応、発言してきたことも然りです。

変な言い方ですが、極端に走ってみて気が済んだので、そろそろ現実吟味を働かせようというのが今の心境で、次の季節が巡ってきたのを感じます。現実吟味がない行動はしばしば、接する人を不安にさせるものなので、相手の不安を感知して私が不安になる・・・という困った循環に堕ちこまない為にも。現実吟味を働かせて、自身から出発した思考、感情、行動を生きること。

この2、3年の間に極端を生きながら、私は、自身の生き方のスタイルを模索してきたのかもしれません。極端を走っている内に、私は「私の人生のスタイル」を浮かび上がらせ、見つけることができた、そんな気もしてきます。新しい季節が始まったようです。

*生き甲斐の心理学p98参照
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