こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

違和感について。

2014年07月31日 | 第9章:愛
なぜ、その人はそのような傾向をもつに至ったのか?
目の前にいる他者の心の世界を傾聴するとき以外は、
成育史を含めて成人して後の人生も、他人が独特の傾向をもつに至った理由を、
あれこれ詮索したり語ることに、私はあまり興味がありません。

正確にいうと、興味がないのだとはっきり意識する出来事があって、
そうなんだなあと、あらためて自覚したところです。

ある著名な人物について、どこに違和感を覚えるのか。
友人と話している中で、その意識化が成って、
同感の相槌とともに、友人がその著名人の傾向に関する自説(他者分析的)を
披露してくれるのを聞きながら、なんとなく居心地のわるさを感じました。

つまり。電話の向こうの友人の在り様に違和感を覚えたわけです。
そんなこと、どーでもいい、、が、その時の本音だったと思います。

私にとって他者について自覚すべきこと意識化が必要なのは、自分が違和を感ずるかどうか。
これは抑圧されない方がよい領域であると思います。

更に、その違和感はどこからくるのか?
私の心が感じているのか。それとも私の魂が感じているのか。
私の成育史の傾向が違和感を生じさせているのか。それとも魂が生じさせているのか。
違和感の識別は重要です。

成育史の傾向に起因するなら、心の傾向に関して気付きと自覚が進むことでしょうし、
魂に起因するものなら、魂の私としての気付きと自覚が進むことでしょう。

そのように考えると。今ここで私がこのような傾向をもっている、
今ここで、あなたが(他者が)このような傾向をもっていることが、
とても尊く、かけがいのないものに思えてきますね。

さて、くだんの友人に感ずる違和感は、私の心と魂の両方の側面があると思われますが、
この場をかりまして。友よ、これからも心と魂の可能性を探求してゆきましょう。道連れとして、よろしく。
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愛を選択する

2014年07月30日 | 第9章:愛
“愛を選択する”というと何かとても大そうなコトで、
むずかしく感じられますが、生きているということは、
常に何かを選択していることでもあるので、小さな選択の連続の中で
本人がその気になれば誰にとっても日常は愛の修行の場になるのだと、
今更ながら気付きました。

日々刻々の小さな選択の度に意識するかしないか。
意識しようとするかしないか。それがすべてかもしれません。

たとえば。悩みの渦中にある他者を案じながら、
大切なその人のために一つのアドヴァイスを思いつくとき、
行動する前に丁寧に自分の心をみつめてみる。
見つめた結果、不安に巻き込まれている自分にハッとして、
自分の不安を解消するために行動しようとしていたのだと、
相手のためではないと素直に認めることができて、
行動を止める選択ができたとしたら、愛を選択したことになると思うのです。

正直になって、そこから生まれる行動を大切に出来ること。
(行動を中止することも中止するという行動ですから…)
自分の正直な本音を知ろうとすることは愛を選択することだと思います。

自分の本音を置き去りにして相手の本音ばかりを知ろうとする勘違いを、
わたし達は日常でしばしばやってしまうのですが、まず、
自分の本音、不安感、ストレス曲線の度合いに意識を向けることができたなら、
それも立派な愛の選択の行為だと思うのです。

こんなふうに考えると修行の場面は無限にあって、
日常の小さな行動の中で、それを見つけるのが楽しみなくらいです。
愛を選択する。。。日々刻々の小さな事、
つまらないと思っていることの中に、宝物は隠れているようですね♪
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三人と、一匹の別れ

2014年07月22日 | 第9章:愛
久しぶりに借りてきたDVD映画を観て泣いてしまいました。
C・イーストウッド主演の「グラン トリノ」のエンディング。

モン族出身の若者が親友が形見に遺してくれた車-グラントリノ-で、
親友の愛犬を助手席に乗せて海岸沿いをドライブ、
穏やかな陽光と風に包まれながら車を駆る若者の
なんともいえない、ほろ苦い心情が伝わってきます。

悲哀と喜び。喪失の悲しみと希望が混在する場面に感情移入して、
人生って、こういうものよね、、と明るい諦観の境地を覚えながら、
いろいろあるけれど人生を肯定したくなるような。悲しいけど前へ進もう。
それが逝ってしまった親友の望みでもあるでしょう。

そういえば。映画と前後して読み終えた紋次郎の物語で、
強く印象に残った場面も出会いと別れの最終場面でした。

非業の死をとげた3人に思いを残しつつ村を後にする紋次郎を、
そもそも彼を村の惨事に関わらせる発端になった一匹の赤犬が、
峠にさしかかる村はずれまで紋次郎を見送ってきます。

「―今日の別れの相手は、三人と一匹。そう思いながら紋次郎は振り返ったが、
               いつの間にか路上からアカの姿は消えていた。」

逝ってしまった人間と生きている犬を同列においている所に衝撃をうけますが、
よく考えてみれば、別れに生死は関係ない。
生きていても先に逝っても、別れは別れです。

出来事を思い起こし追体験して感じ入ってみれば、
別れに生死の区別など必要ないことが解ります。
「三人と一匹の別れ」と題されているのは、
著者がいちばん書きたかったことが、まさにそのことだったのでしょうか。
これまで題などそっちのけで読んでいましたが、
今後は表題に込められた思いも意識して味わい読み進めてゆくことにしましょう。

出会っては別れ、別れては出会い…また別れがくる。
その繰り返しが人生だとすれば、そのような人生を
肯定的に確認できる作品にたくさん触れたいものだと思います。
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木枯し紋次郎。。。

2014年07月21日 | 五感と体感
もう少しで「木枯し紋次郎」を一冊読み終えます。
江戸時代が舞台の時代小説を読むのは、はじめてのことです。

想像以上に面白く、続けて読むことになりそうですが、
読み出したきっかけは母の思い出が関係しています。

母が昔、友人のクルマで鳥取砂丘をドライブしたときに、
うっかり車輪を砂丘に嵌めてしまったことがあって、熟年女性3人、
脱出できずに困っているところに一人の男性が通りかかって助けてくれた。
どこからともなく現れ助けたら何も無かったように去っていった姿が、
まるで木枯し紋次郎のようだったと母は懐かしげに話していました。

旅のメンバーをよく知る私は3人が感激して恩人を見送る姿が想像できますが、
風のように現れ、風のように去っていく紋次郎さん…
私もそんなものかと、微笑ましく相槌をうっていました。

しかし最近になって目にした小説を熱心に読み込んでいる人の紋次郎観を読んでいると、
どーも違う。木枯し紋次郎だったら、そういうときには助けない。
不親切だから助けないのではなくて、もっと深い見地から助けないらしいと知って、
紋次郎という人に俄然、興味が湧いてきたわけです。

そういえば昔、テレビドラマでチラッと見た記憶では、楊枝を銜えているのと、
“あっしには関わりがないことでござんす、、”が決まり文句のようでした。

私が時代小説、それも木枯し紋次郎を読むことになるとは驚きですが、
最初に手にした一冊の、物語の冒頭が自分がよく知る風景だったのも意外で、
私にしては珍しく、ごく自然に江戸時代の峠の茶屋にタイムスリップできたりします。

「木枯し紋次郎」が私にとって貴重で有意義な物語であるのは間違いありません。
私にとって大事と思えたら縁を大事に、大切に付き合ってみたいですね。


追記:私が最初に読んだのは図書館にあった新潮社刊の単行本のシリーズでした。
   傑作選として編まれた光文社文庫(上下刊)は殺戮場面が多すぎます。
   出来る限り無益な殺生は避ける、紋次郎のよさを解するには新潮社刊がよいです。
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グラウンディング

2014年07月19日 | 魂と聖霊
昔、“地に足を着けて生きなくちゃ、、、”と
口癖のように言っていた時期がありました。
親友との会話や日々の覚書、レポートにも。
地に足が着いていない自分をなんとかしなければならないと、
真剣に思いつめていたようです。

グラウンディングという言葉を目にして、
その大切さを説いた文章を読みながら、
そうそう、そう思い込んで私は悩んでいたのよねと、
今では悩んでいたことが遠く過去形の思い出になっています。

グラウンディング―地に足を着けて生きること。
毎日、20分。林道を下りて上って。
歩いている時間は私のグラウンディングの確認作業かもしれません。

一歩一歩踏みしめて地に足が着いている感覚を得ることは、
地に着いてない部分の知覚がなければ叶わないことでしょうから。
なるほど。林道歩きに魅せられている謎が少し解けたような気がしてきました。

地に足を着けなくちゃ…と途方にくれている人がいたならば、
歩く習慣は、案外よいかもしれません。身近な場所で。

先の勉強会では「あなたは地球に何しに来た?」をテーマに語り合ったそうですが、
今の私だったら「林道歩きに来た!」と即答するかもしれません。
即答して、そこからいろいろな意識化が始まるだろうことを想像すると、
楽しくて一人笑ってしまうのですね。
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丁寧に、聴く

2014年07月18日 | 螺旋状に上昇する意味
知り合いの夫は眠りに入るとき、きまって手を合わせ組むので、
直立不動、胸の上で手を合わせ入眠する姿が
彼女はイヤでたまらないそうです。
毎回、毎回「おとうさん、止めて!」と叫んでしまうのは、
その姿が、いつかくる夫の死を連想するから、
それが妻が逆上する理由のようです。

でも、そろそろ。自分のイヤ!を夫に押し付けるなんて理不尽ね…
そんな心境が生まれてきているようで、
夫とはいえ自分の都合だけで他者の傾向をとやかく言うべきではない。
夫に対しても他人は他人、私とは違う感性で生きている別の人間なのだと、
自他混濁の傾向が払拭されてきた、よい萌しのように見えます。

ところで。そのような姿勢をみても死を連想しない人もいるでしょうし、
連想したとしても、眠りと死を肯定的に結びつける人にとっては、
イヤ!どころか、そのような夫を見直し敬意を覚えるかもしれません。
同じものを見ても、幸福曲線になる心もあれば、
ストレス曲線の極みに達する心もあるわけですね。

他人は他人、私は私。そう思えるようになって、
知人はストレス曲線の5段階の一番上にある錯乱から、
一番下にある不安の段階まで下りることができました。
素晴らしい夫の個性の美と気づき、平安感で見守る日だって来るかもしれません。

こういう変化の行程には、他者の変化を垣間見せてもらいながら、
あれこれ語り合いながら、私の中に生まれてくる思考と感情が、
その人の変化の行程に無関係ではないということ。
当たり前と言えば当たり前なのですが、丁寧に聴く。大事ですね。
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小さな波を。受け容れる練習

2014年07月16日 | 愛とゆるし
受け容れると、ものごとが動き出す。
こころを見つめながら、折々に感じます。

日常の他愛ないやり取りの中で生まれる、感情の波。
まず波に気づいて、つぎに波に抵抗しようとしている心に気づいたなら、
一瞬の葛藤を過ぎ越して抵抗を止める。
抵抗を止めると、ものごとが動き出す。。。

一瞬の葛藤は、あまりに一瞬で、長く染み付いてきた反応でもあるので、
よほど意識的でないと捕まえることはむずかしいかもしれません。

こんな感情は、困る、、と怖気ないで、
ああ、来たね…と感情に目配せする余裕があれば、葛藤は解消され、
この一呼吸の間が、感情を受容するということなのだと思います。

まずは、こんな感情は、、と困っている自分に気付くことから始まるわけですが。

本当に微妙な感情の波は、日常の中で絶え間なくやってくるので、
小さな波をを無視しないで丁寧に感じて小さな受容を重ねてゆくだけです。

受け容れると、ものごとが動き出す。こころの世界が動き出す。
小さな受容を意識するほどに、人生の充実は高まるように思われます。
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とりあえず、楽しいので。

2014年07月15日 | 第9章:愛
毎日、林道を20分ほど歩きます。
今のところ、時刻はとくに決めていませんが、
家から林道を下り集落に出る手前の道脇にある、
スツール二つ並べたほどの大きさの苔生した石のところまで歩いて、
石にタッチして戻ってくる。一日一往復。これだけです。

ほんのこれだけのことなのですが、
言ってしまえば、人生が楽しくなった。

林道歩きがこんな位置づけになるとは想像もしませんでしたが、
朝に目覚めて今日も歩くと思うだけで、なんだか嬉しくなるのです。

十数年前、猫と暮らし始めたとき、生まれてはじめて猫を身近に知って、
これから人生はもっと豊かに、より深くなるのだなと予感したときのヨロコビに似ています。

何がそんなに楽しいのか?自分でも、よくわかりません。
よくわからないのですが、自分にとってよいことだというのは判ります。
林道歩きが、このような形で人生に入ってきたのは幸いだと、思います。
昨日はうちの猫が後をついてきて(まるで愛犬のように)、
前になったり後ろになったりしながら、とうとう一往復いっしょに歩きました。

歩いているときの、こころの流れはいろいろです。
いろいろですが、こうやって歩いているのはよい萌しと思えたことが、
そんなこころの流れが、歩き出して間もなくの頃ありました。

林道歩きの楽しみ。今日の一往復、これから行って来ます。
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嵐の前。静かな朝です

2014年07月08日 | 第9章:愛
静かな朝に少しほっとしています。
虫の音と小鳥のさえずりが聞こえてきます。
曇り空、朝なのにセピア色を思わせるのは、
文字通り、今朝は嵐の前の静けさだからでしょう。

五感と体感を意識して感じることが何故大事かといえば、
素直に感じることを通して、心奥にありながら気付かれていない
私の正直な本音・真実の感情に近づくことができると思うからです。

表層にでてくる感情の奥に大事な感情が仕舞いこまれているとは、
そんなに珍しいことではありません。
本音を他者だけでなく自分にも隠してしまわなければならない。
隠すことで心の安定を図ることは誰もが人生で経験していることでしょう。

でも、それとは別に。自分の感情が、自分の本音がよくわからない。
とても長い間、イキイキとした感情生活から遠く離れてしまっているような場合、
心の奥にある本音、心奥の泉から滾々と水が湧き出すために、
仕舞われてきた感情と出合うことが何より大事になってきます。

理屈より素直に感じる自分を大事にしましょうといいたくなるのは(自分に向けても、、)、
感じることを大事にしていると、それが心奥にある感情への小道を開いてくれる。
心奥の泉の豊かな流れの呼び水になると信じているからなのですが。
感ずる自分を大切にする…これも幸いな呼び水、ですね。

そうこうしているうちに、なんと晴れ間がでてきました。
天気予報によると嵐は速度を緩めたようです。
感じる自分を大切に。心に留めて…一日を始めることにします。
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幸いな、呼び水

2014年07月07日 | 第9章:愛
友人と3時間近く、お喋りの花を咲かせたときのことです。
ゆっくり話すのは2ヶ月ぶりでしたが、なんだか可笑しくて、
別れた後も、話している表情や素振りを思い出すと、
なんとなく愉快な気持ちになります。

たぶん。その日はダメな自分のことを笑って話すことができて、
お互いに、これまで知らなかった素顔を見せることができて、
それが可笑しさの所以と思っているのですが、
自分のことを肯定的に笑った後はすっきりと爽快な気分になるものです。

対話の中で経験した小さな自己受容とカタルシスですが、
この“なんとなく愉快なひと時”の経験が呼び水になったみたいに、
その後、日常の自分の固い思考にハタと思い至り笑ってしまったり、
過ぎ去ったあれこれを思い出して、深刻に思い悩んでいた自分のことを、
これまでになく笑えてしまうということが起こりました。

これがまた呼び水となって泉の水がどんどん流れ出す。。。
小さな浄化を意識しながら日々豊かな流れを生み出してゆきたいものだと思います。

そうそう林道ウォーキングも。泉の流れに通じるように歩きたいものです^^)v
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