こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

にぎやかな春

2016年04月05日 | 五感と体感
今年の庭は、いつになく賑やか。
薄ピンクのシデコブシの花つきがよく、その後ろの紫モクレンも見事に花開きました。
そして今は、ふたつが散り始めるのと入れ違いに山桜が満開です。
山桜は本当に控えめで、これまでは、どこからともなく舞ってくる花びらに、
あっ咲いていたんだ、、と花盛りの後になって気付くことも多かったのですが、
実生の木も20年近く経つと大きく成長して、今年は存在感を増してきています。

木々が成長すると小鳥や動物達の訪問も増えて、
小鳥はよいとしても動物の訪問は嬉しいような困ったような複雑な心境です。
今朝も庭と畑の境に植えている椿に沿って、雌鹿が二匹来て、
どうやらツバキの間に植えているお茶の木が目的だったようですが、
庭の中ほどのヤグルマソウはすでに食べられちゃって、
次はミヤコワスレかと予想がつきますが、さてどうしたものか。

侵入をゆるすことで起こるストレスと、追っ払うことで生まれるストレスと。
その兼ね合いを図りながら、方針と行動を選択することになりそうです。

風に舞う花びらを受けながら山間を小さな舟で川くだりしている私…
そんな想像が浮かんできたのですが、一昨日の一件で淀んでいたものが一掃され、
感情が流れ出してきているしるしかもしれません。

さて。庭の賑やかに足並みを揃えて私の心の方も少し賑やかに、活発に動かしてみたくなりました^^)♪

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猛然と、調べもの

2016年04月04日 | 五感と体感
夕べは中々寝付けず、ストレス曲線のてっぺんまで行って右往左往、、
薪ストーブの温もりの幸福感は応急処置に終り長くは続かなかったのでした。
小さな後悔はきっかけに過ぎず、ここ数ヶ月かそれ以上の間に
処理しきれていなかった諸々の気がかりが、どっと流れ出したような気もします。

寝床でざわざわ、イジイジから抜け出せないまま、どっぷり見苦しさに浸かった所で
気を紛らすべく、ガバッと起き上がり居間へ。
テレビのスイッチ入れてみたり、台所(=食べ物)へ足を向けそうになりながら、
イヤそれはダメと思いとどまり、目に入ったメガネと本と辞書を掴んで、
ヤブレカブレの気分で寝床に戻りますが、それから、
猛然と始めた調べモノに精根尽きたところで、ようやく眠りにつくことができました。

朝はいつもの時刻に目覚めて起きて、思うに夕べは、
“感情をふりきって突き進む法”を体得したのかもしれないと。
それは案外よいことで有意義な逃避とも。昇華ともいえそうですが、
感情処理の方法として私があまり取り入れてこなかった方法です。

ヤブレカブレの効用。感情をふりきって突き進む。
感情処理の方法として折々に取り入れようと決めています。

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気持ちの切り替え

2016年04月03日 | 五感と体感
取るに足らない小さなことが気になって、
どうして、ああなっちゃったのか?
小さな後悔に囚われて気持ちの切り替えができない。
こういうことがたまに起きて、人に話したら、
“理解できない”と一笑にふされるくらい小さな事だと、
わかっていても、どーにもなりません。
最後は気にすることに疲れ果てたところで気持ちが切り替わる、
なんとなく忘れて終結するのが、いつものパターンです。

それで。久々にパターンに落ち込んでみて、
ぐずぐずと感情に囚われている姿は見苦しい!
見苦しいから止めよう!と。切り替えを図ることにしました。

美しくないから止める。
とりあえず。シンプルに行ってみましょう。

外は雨…ストーブにも火を入れて。幸せになりましょう^^)

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力を抜いて、気を入れて。

2015年11月29日 | 五感と体感
なんと頭の巡りがワルイことよ。
話し合いの最中に思いつけば、その場で提案できたのに、、、。

その場で思いつけばよかったのだけどと前置きして、
会議の後でアイディアを伝えなければならない状況が2回続いて、
どうしてこういうことになるのか?考えてみるに、
このところの防衛機制の変化が関係しているのではないか?
変化した心の在りようが原因ではないかというところで落ち着いています。

頭の巡りは悪くとも、全体的には決して悪い状況ではありません。
肩の力が抜けたせいで素早く思いつけない…という見方もできるわけで、
その場で提案できなかったばかりに後で伝えるという用事を増やして、
伝達のタイミングを図ったりで気忙しい思いはしますが、
全体の流れとしてはハナマルで、提案してよかったという結果で事は進んでいきます。

なぜあの時、思いつかなかったのだろう!?と思いながら、
浮かんだアイディアを直ちに伝える方向で行動しているところも、
不安感の様相が変化してきているのを感じるところであります。
立ち止まって思い悩むより、行動する割合が増えてきたようです。

潜在しているアイディアを、その場で意識化できるには、
たぶん。肩の力が抜けたままではイケナイのでしょう。
肩の力は抜いても気は入れて、その感覚を身につけて事に臨む必要があるのでしょう。

善人に囲まれているからといって、安心に浸りきっていたらいけませんね。
肩の力は抜いて、気を入れて、ですね^^)

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別の場所に移行するとき・・・

2015年03月31日 | 五感と体感
よく喋っているなあ、、自分で喋りながら、
喋っている自分に新鮮な驚きを感じている…
そんな場面が増えている一方、ある場面では、
めっきり口数少なく口を噤むようになってきているのです。

感情昇華として言葉を発するということは、こういうことか。
昇華させる自由な体感は、よいものですね。

一方、口を噤むようになった場所では、以前そこで喋っていたのは昇華でなく
感情を発散させていただけだった・・・その違いがよく分かる様になりました。
昇華のお喋りと発散のお喋りは反比例するものかもしれません。

昇華させているときには、私の自由な体感と共に自他肯定の雰囲気がありますし、
相対で会話している場合なら、あなたと私は支配からも依存からも自由で、
別々の人格として独立して世界に開かれている雰囲気の中で対話しています。

ここで思い出すのがJ・ヒルマンの本ですが、ヒルマンは著書の中で、
美醜についてのプロティノスの定義を引用しています。
「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。
醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」
「たましいは醜いものと出会うと、すぐさましりごみしてこれを拒絶し、
目をそむけ、協調しようとせず、これに恨みを向けます」
十数年前に一読して、この定義に強く惹かれました。(定義自体、美しい!)

そして。惹かれると同時に“たましいの美的感覚的な反応を”受け留められるだけの、
そのような私でなければ、この定義は意味をなさないだろうことも理解しました。

発散のお喋りに、いつもと違う場所への移行を感じるようになってしまった。
そういうことなのだろうと思っていますが、生き甲斐の心理学の学びと共に
多少の人生経験を積み重ねてきた中で“そのような私”に
少しは近づいてきたしるしなのかもしれません。

「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。
醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」
いつまでも大切に。心と身体に深く染み渡らせたい定義です。
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美醜の感覚を取り戻す。。。

2015年02月27日 | 五感と体感
いくつになっても発見があるので、こころの世界は本当におもしろいです。
なーるほど…こういうことかと、ある日突然、
熟した果実がポトンと落ちるように気づきはやってきます。

好き嫌いがはっきりしていて表現するしないはともかく、
自分の中で、はっきり好き嫌いが意識できている。
表現される場合は己の傾向にも周囲にも配慮、TPOを心得て、
それはたまには表現にしくじることはあっても、概ね彼の(彼女の)感情表現は
セルフコントロールが効いたものとして周囲に好ましく映ります。

そのような心はなぜ、そのようであるのか?
そのような心を私は身近なところで、ふたつの心がぱっと思い浮かびます。
二人は似ていると以前から思っていましたが、
あるとき。似ている共通項はこれかと…思い当たりました。

なるほどなるほど。彼らは対象に向かうや即、美醜を捉えて、
好き嫌いの判定を下しているのだと解りました。
美しいものは好き。醜いものはキライ。
そこに思考が入り込む隙はなく五感と六感で対象を一瞬で捉えます。
美しいものは快、醜いものは不快。単純なことです。
感覚で捉えられたものについて、よいわるいの評価はナンセンス。
だから心に罪悪感をもつこともなく、実にさわやかです。

美醜の感覚が鈍っていることが、そもそも感情の意識化を阻んでいる、
感情生活を不健全にしている一番の要因であると仮定してみると、
やるべきは美醜の感覚を取り戻すことであると、自ずと答えが出ます。
しかし。森羅万象をそのような目で眺めることは簡単なようで実はそうでもありません。

彼らは勤勉さと謙虚さと、いついかなるときも中心と繋がっている感覚をもち、
わかってもいないのに、わかっているふりをすることが決してない。
目の前のことに集中して日々淡々と我が道を行きます。

なるほど~と、これに気付いたときには希望の光が見えた気がして
気付く前より、いっそう眼前がクリアーになった感じがしました。
美醜に鈍感であった人生の日々が運命なら、今ここで、
クリアーな目を取り戻すのも運命であるかもしれません。
可能性のないことが気づきとしてやってくることはないと信じています。
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なんとなく、好い感じ

2015年02月13日 | 五感と体感
自分の行動に関して、なぜそうするのか。なぜ、そう思うのか。
理由を説明できなければイケナイ。私には、そんな思い込みがありました。
この傾向は相当前に、もしかすると言葉を話し始めて間もない頃に
植えつけられような気もしているのですが。。。

何か無邪気に言ったか行動したかして、それについて9つ上の兄がからかった。
そのとき。私は生まれて初めて恥ずかしさと言い返せない悔しさを体験しますが、
そのストレス曲線が大人になるまで解消されず持ち越されて、
無意識の内に冒頭の思い込みとして顕れるのではないかと、そんな推測をしています。

あるとき誰も説明など求めていないのに理由を探して焦っているような…
頭の中の一人相撲の対話にハッとして、思い込みの存在に気付いたわけですが、
理由を説明できないことが行動のブレーキになっているとしたら、
大事な何かを取り逃がしているような気がしてきます。

何かを始めようと心が動くとき。
なんとなく始めてみようと思ったことに説明がつかないことは多々あります。
文字通りなんとなく。なんとなくよい気がする。
自分にとって好い。良好な感じは大事にしたいシグナルです。

私にとって。人生にとって重要なコトはさりげなくやってくるような気がします。
それで、あまりにさりげないので逃しても気付かないのです。
私の素直、正直、注意深さ、踏み出す勇気が足りないばかりに、
大事なシグナルを見過ごしてしまう。そんな残念なことがないように、
なんとなく好い/良い感じを大事に丁寧に育ててゆきたいものです。

頭が考える好い・良い感じと本音で感ずる好い・良い感じを識別しながら。
これも付け加えておくのがよさそうですね。
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歩いて歩いて 1

2015年01月28日 | 五感と体感
日課の林道ウォーキング。
下り坂の途中にある苔生した石を往復していたのを、少し前から、
林道を下りきって車道に出てから溜池のところまで。距離をのばしました。

針葉樹の林道から出ると頭上に空が広がります。
空と田園風景と視界が広がって、そのせいか、
これまでより歩きながら思索するのが楽しく感じられます。
かなり広い溜池の対岸に青サギが一人(?)佇んでいたり、
知らずに木立の際を歩いていたら一斉にカモが飛び立ち驚かされたり、
新しいコースは、我を忘れる間合いも程よいのかもしれません。

このごろの思索のテーマ…なんとなく浮かんでくるのは、
共感について。話の内容でなく感情に共感するとはどういうことか。
最近の他者と自分の対話を思い出して自分の在りようはどうだったか考えたり…いろいろです。
またあるとき。「健康に死にたい」という言葉が浮かんで、
これってどういうこと…?言葉は浮かべども私の意識が掴みきれていない意味を、
心の深層から届いた言葉の意味をさぐるべく、あれこれ考えています。

健康に逝くというときの健康とはどういう状態を指すのか?
答えは、健康に逝ったと思える人が誰かいるのか?
そのあたりから考え出すのがよさそうですが、
そのように思える人が一人浮かんでいます。
なぜそう思うのか。なぜ、そのように感じるのか。
考える中で、私の“最期の健康”の定義が浮かび上がってくることでしょう。

突拍子なく湧いてきた言葉だからこそ、意識していたテーマの、
共感することと、どこかで繋がってくるはずだとも思えます。
心の深いところでは解っている意味が、歩いて歩いて歩く中で、
じわじわと感知されてくるでしょうか。。。きっとそうなることでしょう。
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適量が、滋養になる

2014年09月25日 | 五感と体感
体の調子を崩したこともあって、
いつにもまして食生活に関心を寄せながら、
初夏の頃から今日まで試行錯誤して過ごしています。

それで解ったことは、
何を食するかも大事だけど、それよりもっと大事なことは適量をいただくこと。
適量-腹八分目を意識してみると、適量を把握することが意外に難しいのです。
脳と体感が一致しなくて混乱することもあります。

そして巷では食事療法、養生については正反対の主張が溢れていますが、
自分にとって最良な方法を知ることが大事だということ。
何がベストなのかは人それぞれ違うはずですから、
遺伝的要素や自分を取り巻く環境を考慮する必要もありますね。

食事の回数は従来どおり朝昼晩3食摂ることに落ち着きました。

今朝は台所に立ちながら、もしも一日を人生にたとえるのならば、
夕食をいちばん軽く済ませるのが自然なコトではないかと、ふと思いました。
ならば。チョコレートを一粒頂く幸福も夜にもってくればよい?
思っただけで頬が緩むとは、私にとってチョコレートの魅力は大きいようですね。

こうと決めたならば、信じて楽しく頂くこと。
食に関心を寄せながらも、神経質になりすぎないこと。
食べ物が心身の滋養になる、大事な大事な要素なのだと思います。
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丁寧に、歩く。

2014年09月11日 | 五感と体感
約2週間ぶりに、林道歩きを再開しました。

休んでいたのは体調を崩して体力・気力がでなかったからなのですが、
快復途上にあるとき友人から、歩くのは溢れる気持ちが出てきたときに…と言われました。
とても的を射た助言で、この言葉のおかげで焦ることなく気長に待つことができました。

溢れる気持ちまでいかなかったけれど、なんとなく
“歩いてみようかなァ、、”と気持ちが動いた日に再開しました。
それで。以前とはちょっと違う林道歩きが始まっています。

漫然と歩くのでなく体感を意識してということなのですが、
具体的には、腹に力を籠める体感です。
そこを意識することで呼吸と歩く姿勢は自ずと決まってくる…
この感じが、おもしろく新鮮です。

体感を意識して歩き出したとき、いつもの長靴はイカンと感じ、
ズックに履き替えに戻りましたが、地に足をつけて踵を返して、
しっかり歩行する感じが実によい。気持ちがよいのです。

体感に集中することで自ずと雑念、思考も変化してきますが、
今後どのような心の流れが生まれてくるのか、興味深いところです。

体感を意識して丁寧に歩く。これによって、
一年以上続けてきた10分ほどのオリジナル体操、ちょうど去年の今頃、
実家の庭で義姉と姪に披露した体操の習慣は打ち切ることにして、
体操に向けていた情熱(?)を歩く方へ集中させてみようと思っているところです。

ちなみにスワイショウ(腕振り運動)は、発熱してどうにも出来なかった日は一日だけでした。
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