こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

感動は偶然の。。。

2016年04月09日 | 魂と聖霊
人や動物といった対象そのものに感動しているわけではなく
その対象を通して感じ入っている、感動していると言う方が正確かもしれません。
感動のあるなしは偶然の贈りもののようにも見えます。
贈り物は、やわらかな心の方が受け取りやすく、
対象にしばられたり執着することなく、さらさら流れてゆくのがよいのでしょう。

先日、ボッティチェリの展覧会を観て来た友人が、興奮冷めやらぬ感動を
体全体で伝えてくれる姿に、好いなあ…と、強く心を動かされて。
魂に通じる高揚感を共有するヨロコビを覚えました。
その友人を通して感動がやってきた。。。
そんなこともあって感動のあるなしについて、ちょっと考えてみたくなったのでした。

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感動のあるなし・・・

2016年04月08日 | 魂と聖霊
感動のあるなし。。。
その人に感動したことがあったかどうか。
感動とは“深く感じ入り強く心を動かされること”とありますが、
ここでは“真善美に通ずる”感動に絞って考えます。
何を考えるのかというと、身近な家族や友人知人、
これまで出会った、通り過ぎてきた無数の人々を思い出しながら、
真善美に通ずる感動の瞬間について、考えてみます。

生育史の心が反応して生まれる幸福曲線より深く、
魂の領域が感じ入ったと思える幸福曲線の体験について、
これまでの人間関係を思索するのは、なかなか楽しく、
もっと早くこの視点に気付いてもよかったのにと、思います。

感動のあるなしの視点で考えることで頭の中が整理されて、
魂に通じる喜びや充足について、自分自身よくわからなかったこと、
曖昧だった幸福曲線の形が明確になってくる感じが、とてもよいのです。

人間に限らず蔓草を食む牡鹿は、確かに私を感動させました。
折々に見えない世界や魂について、あーでもこーでも語り合ったところで
感動はなかったなあと思えるケースもあります。
身近な家族ほど生育史の心の傾向に関連付けた思索が多くなるので、
真善美に通ずる感動の視点で考えてみると、あらためて感じ入ることがでてきます。

真善美に通ずる感動のあるなし。この視点に気付いてよかった!感動しています^^)

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大らかに、真面目に

2015年06月28日 | 魂と聖霊
体の不調を感じだしてから、生活習慣を二つほど制限してみることにしました。
一つはパソコンの使用時間を大幅に短縮すること、
そしてもう一つは、日課のウォーキングを中止することです。

パソコンの制限はともかくとして、ウォーキングに関しては、
自分でも意外なくらい、歩かなくても平気、
つまり中止のストレスがないわけですが、これは不調を感じ出してからも、
少々無理して日課を続けたせいで、苦しい記憶が歩くことの心地よさの記憶を
上回ってしまったせいかもしれません。
散歩にわるいことをしてしまったと、ちょっと複雑な気持ちですが。

それで、時々生活習慣を見直して制限することは、
これまでにもあったけれど、今回は少し様子が違います。
これまでは知らず知らず~を制限しなければならないと
多少思いつめた気分があったような気がしますが、
今回は試してみる価値はありそうだから…と、
よい意味で気楽なスタンスで取り組んでいるところが大きく違うところです。

「ゆるく真面目に」が合言葉ですが、ストレス曲線の中で考えて決めた制限と、
統合された平安感の中で思いついた制限の違いという言うこともできそうです。

真剣だけど深刻になりすぎない、不安だけど不安に飲み込まれてはいない。
内なる声に耳を澄まして行動するときの心の在りようは、こんな感じかもしれないと思います。
思いつめているときには天使の声は耳に入らないかもしれません。

大らかに真面目に。しばし、この感じを大事に進んでみることにします。

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散歩。。。

2015年04月24日 | 魂と聖霊
「散歩には神さまが伴う」と言った人がいたそうですが、
ちょうど日課のウォーキングの距離を倍にして、
同じようなことを感じていたところだったので、我が意を得たりです。

「さん」が付く言葉は神聖さと関わりがあるという説はともかく、
散歩は私にとって人生の大切な要素、大切な日課になっています。
ウォーキングそのものは、ちょっと苦しくもあり、
うきうきと楽しい時間というわけにはいかなくなってきて、
心はハヤレド体が追いつかない、心の内と外、
心と体が変化してきたことに思いを致しながら歩くことになります。
一歩一歩踏みしめながら心を整え、心身を統合させるとなると、
自ずと魂を意識することになって、そういう意味では、
速度を落とさざるを得ない状況は散歩には好い状況といえます。

以前のような、前のめりの高速歩行では魂は追いつけなかったかもしれません。

林道から車道へ出る辺りや池の際に木立がせり出している風景、他にも
散歩コースに過去に見知った懐かしい風景と重なるところが多々あることは、
最初は全く気付かず、何往復かした後に気付きましたが、
毎日少しずつ無意識の意識化が促されたのかもしれません。
とくに魅かれるわけでもなく、かといってイヤだと思うこともなく、
淡々と目の前に現れる風景に、歩く度に何かが重ねられてゆく感じがして、
風景の記憶に毎日、私の何かが付け加えられていくような気もしています。

私の心の在りよう、心と身体と魂の在りようが、
その空間に何かしら影響を与えているとしたら、
風景の記憶に見えない何かが刻まれてゆくとしたら、
心を澄ませて、相応しい心で散歩したいものだと思います。

散歩には神さまが伴う。。。味わい深い言葉ですね。
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自分自身に正直になること

2015年04月04日 | 魂と聖霊
こころの奥底に在る泉から、
ちょろちょろと水が流れ出してきて…私の場合、
知恵の泉が滾々と湧き出して…とはいかないようですが。
私にとっては、とても心地よい流れで、
知恵の泉の流れ具合も人それぞれの在りようがあるのでしょう。

泉の水路が堰き止められたり、時に逆流したり。
その原型はたぶん5、6歳の頃にあるのだと思いますが、
その頃の子供だった自分に立ち返り、思い出してみるならば、
外の世界に適応させるために見ないようにしてきた(抑圧してきた)、
置き去りにされた宝物があるような気がしてなりません。

いやだなア、こわいなあ、きらい…など、
その時、無意識に抑え込んでしまった感情は魂からきたもので、
大人になった今、抑えこむ必要のないこの場所から、
あらためて当時の感情を意識化してみると子供の頃から変わらない、
一貫した私の感受性というものが見えてくるように思うのです。

私の中の変わらないもの。変わらずに生きつづけているもの。
三つ子の魂百までと云われるのは、このことかもしれません。
それで。その変わらぬ感受性を真善美の視点から眺めてみるならば、
ものすごくクリアーに浮かび上がってくるものがありそうで、
その浮かび上がってきたものが私の人生を力強く支えてくれるに違いないと思えます。

残された人生を泉の流れを自分で遮ってしまうことがないように、
内なる魂において素直に正直に生きぬくことができますように。。。願います。
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電灯と、祈りの冊子と、精霊と。

2015年01月07日 | 魂と聖霊
我が家には蛍光灯が一つもありません。
照明はすべて電球で、台所と居間は紐引き仕様のソケットを使っています。
壁スイッチでなくても別に不自由はないのですが、唯一の難は、
器具の寿命が案外短いことで、こんな単純な仕掛けを、
もっと頑強に作るのは容易いことではないか!
ドイツ製だったら、こんなことはありえないでしょうと、
ドイツ製は頑丈で長持ちと思い込んでいるもので、器具の取替の度にぼやきます。

引っ張っれば点くと信じ込んで引っ張って、ある日突然、点かなくなる。
新年早々居間の二つある照明の内の一つに寿命がきたようでした。
今朝それを忘れて、いつものように紐を引いて、
引くと同時に思い出したのですが、なんと灯りが点いたので、
新しいのに取り替えてくれたんだと一瞬思いました。
しかし器具はそのままで、どうやら寿命と思ったのが再生したようです。

このときの一瞬の心の流れ。明りが点いた瞬間、
おお生き返ってくれたと電灯に親愛とも思しき感情を覚えたのは、
日本的な感性の反応といえるのかもしれません。
見えるもの見えないもの、森羅万象に宿る精霊を感ずるともなく感じている。
日本人独特の感性というものがあるように思います。

ところで一年ほど前、私が通う教会で祈りの小冊子をつくりました。
朝の祈りとミサの典礼が主な内容で、何度も編集会議を重ねて、
様々な意見を集約しつつ吟味検討して素敵な冊子が出来上がりました。
カトリック教会の祈りの本ですから、セイレイといえば聖霊ですが、
一箇所だけ精霊となっていて、なぜか指摘する人もいません。
誤字脱字はもとより最終チェックは複数の目で、ぬかりはなかったはずなのに、
精霊の文字が入ってしまったのが、なんだか愉快で、
聖霊も承知の精霊のユーモアかと、一人にっこりしています。

居間の電灯の再生も、そう長いことはないでしょう。
壁スイッチなら不便は少なかったかとチラッと思わないでもありませんが、
便利な分、電灯への親愛が湧くチャンスもなかったでしょうから、
すべて、これでよしですね。
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直感について

2014年10月17日 | 魂と聖霊
インスピレーション、直感が閃いても次の瞬間、
思考が動き出した途端に、ためらいが生まれて、
直感は活かされぬまま行動せずに終ってしまう…
こういうことは日常生活でしょっちゅうあるような気がします。

思考の内容は行動した結果、どうなるか。
他者が関わることならば相手がどんな反応をするか。
期待に反する結果を予測しては、止めておこう、、と行動せずに終りますが、
せっかくの直感を活かし磨きたいと思うのであれば、
結果は気にしないで行動してみることかもしれません。

もしくは。期待に反する可能性もシミュレーションして、
それでもいいわと、受け容れる覚悟で臨めばよいのでしょう。
よいとかわるいとか、私が考える結果以上のものを、
私の期待や判断を超えて直感はもたらしてくれるかもしれないと思います。

閃いては行動するのが傾向として身についてくれば、
きっと直感は熱意ある行動のサインとして、
自分と世界を幸福曲線に導いてくれるでしょうね。




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宝物を、たずさえて

2014年10月08日 | 魂と聖霊
小学生の頃に読んだ「アンクルトムの小屋」。
物語を通して、この世の幸福とは別次元の、
最高の幸福があるのだということを私は教えられたように思います。
信仰を生きることの原型の一つをアンクルトムに見出だし、
トムの在りようが一つの理想として私の心に長く留まっていたのは確かです。

遡って小学校低学年の頃、隣のK町から来た米人の宣教師の開く、
日曜学校に参加していたことがありました。
小学生ばかり10人ぐらい参加していたでしょうか。
上手にお祈りが出来た子が美しいカードをもらえる、
それは違うんじゃないかなと内心、反発したのを憶えています。
布教には効果的でも、それは本質的なコトから遠ざかってゆくことだ。
このような言葉で説明することはできなくても、何かが違うと感じ、
信仰に対して子ども心に明確な価値観を持っていたようです。

更に遡って、記憶が辿れないほど小さな頃から、
キリスト教的な信ずる世界、愛が最高のものであるということを、
誰に教えられるわけでもなく知っていたようなのです。
(この辺りになると記憶のマジックの可能性もありますが、
それは大した問題でありませんね)

子供時代の、このような傾向は成育史の心だけでは説明の付かない領域です。
成育史の思考と感情と行動、防衛機制からの自己分析で捉えようとしても、
すべて後付けのように見えて、どうしても腑に落ちる感覚が得られないのです。

成育史からはみ出すものに気付くために、そこまでいったときに、
成育史の自己分析も大いに意味をもってくるのかもしれません。

ほんとうに。成育史は宝物ですね。
宝物をたずさえて、広やかに高らかに飛翔したいものです。
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たいせつな言葉に、気づけない。

2014年10月03日 | 魂と聖霊
“私がわるかったから、こんなことになってしまったのかと、
つい、そんなことを考えてしまう…”病床の末期に囁かれた言葉を受けて、
“そんなことは決してないと思う”と応答の言葉が囁かれました。

“私は食べることしか興味がなくて、こんなに食い意地が張ってよいのかしら…!”
他愛ない日常のお喋りの場面で発せられた言葉を受けて、
“いいじゃない。食べることは楽しいしもの”と、間髪いれず言葉で反応しました。

病床で囁かれた言葉も他愛ないお喋りの中で発せられた言葉も、
一見、深刻さの度合いが大きく違うように見えても、
心の奥深い場所から発せられていることにおいて違いはないと感じます。

それで二つの場面を時々思い出しては考えてしまうのですが、
大事な言葉を聞き逃さないようにと警告されているような気もするし、
日常の関係性の延長線上に最期は来るのだということを考えされられもするのです。

私は二つの場に居合わせて偶々目撃する立場にありましたが、
最期に囁いた心も、その囁きに、そうは思わないと反応した心も、
自嘲気味に発言した心も、いいじゃないと即答した心も、
すべて私の心が発しかもしれないし発する可能性がある言葉です。

大事な囁き―魂からの囁きに、それが発せられた目的を、
囁いた本人さえ気付いていない目的を、聴き手になった私が、
どうしたら、きちんと受けとめられるのだろう…?

二つの出来事を思い出しては、時折考えてしまいます。
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瞬間を、見張ること

2014年09月14日 | 魂と聖霊
とても久しぶりに友人の姿を見つけて、
どうしているかなぁと時折、思い出していた友人だったので、
思わずニッコリ、頬が緩みました。
出口で再会を喜び、天とつながる分かち合いも成って、
幸福曲線のうちに帰宅しました。それから数時間後。。。

林道を歩いていると、いろいろな思考が流れてゆきますが、
そこに感情の彩りはなく、浮かんでは消えゆく思考の流れがあるだけです。

今日は喜びが執着に変質する瞬間について考えていました。
再会した友人とは別の遠くに住む友人のことも思い出されたりして、
自問自答しながら、その瞬間を過ぎこすことができたのかもしれません。
つまり執着の瞬間を見張ることができたのです。

このことをここに打ち込みだした途端、メールの受信音が鳴りました。
きたァー!と思ったら、やはり冒頭に書いた友人からでした。

丁寧に注意深くあれば、承認のしるしが与えられることもあるのですね。
それでよしという天からのしるしです。
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