こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

信ずる体感

2016年04月15日 | 和解と平和
3月。気がかりだったことが、気がかりでなくなった。
この心の流れはどうして起こったのか。

それは“信ずる心を取り戻したから”で、あるようです。
信ずる心を取り戻した結果、気がかりが気がかりでなくなったようです。
気がかりの対象そのものは何も変わらないので、ある意味、
気がかりは気がかりのままであるという言い方もできるのですが。

ただただ重く感じていた気がかりが、
遠ざかるしか手がないと考えていたところから、
それほどでもないか…まだやれると、
感じ方、考え方が180度変化したのは、
回心と呼ぶのに相応しい心の流れだったように思います。

否定的な側面ばかり見ていたところから、
それはそれとして、もう片方の面も感じられるようになってきた。
それによって気がかりに対する感情も和らぎ、
まだまだやれると思えるようになりました。

信じてみえてきたもの…3月に、この心の流れがあって4月に突入、
信ずる体感というものも掴めたような気がして。今は軽やかに前を向いています^^)

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初夢について。感じたこと

2016年01月02日 | 和解と平和
なかなかよい夢をみました。夢の中で私は、
公共施設のトイレの不備を(新年早々スミマセン。生理現象の影響かと)改善すべく
身近な人に話したり、行動しているのですが、
昨年末に「昔話の深層―ユング心理学とグリム童話」をパラパラ捲っていたこともあり、
直ぐに思い当たるところがありまして、
“問題を解決すべく話して行動していた”ところがポイントかとピンときました。

話している相手には、あのAちゃんもいましたが、Aちゃんは、
生まれてはじめて苦手を意識した(5歳~小6まで続いた、、)因縁の友です。
時間が経って細かな内容はどんどん薄れていますが、
夢の中で、問題を解決すべく意見を述べ、しっかり自分の気持ちを伝えていたところに、
アニムス(女性の内なる男性性)の統合とか父性原理の概念がチラチラ頭を過ぎっていきます。

高校のクラスメートだったSさんが登場してきたことに新鮮な驚きを覚えました。
親しいグループではなかったし、卒業以来○十年会う機会もなく消息も知りませんが、
一度だけSさんが示してくれた行動、さりげない思いやりに触れて感じ入った記憶があって、
今あらためて思い起こすと、しーんとあたたかく、慈愛に触れた瞬間だったとも思え、
かけがいのない原型の一つだったと思えてくるのです。
Sさんは記憶にもないでしょうが、本人に気付かれない無意識の行動の中に、
元型的なものが顔を出してくるようなことは、しばしばあるのかもしれません。

新しい大河ドラマの宣伝や関連の番組に接する機会が増えて、
夢にSさんが登場してきたことが察せられますが、
Sさんの出身地と人となりを思い出すにつけ、
大河ドラマの主人公の末裔であるという想像が、益々楽しくなります。

過去は変えられないが未来は云々という言葉が今ひとつピンとこなかった私ですが、
過去の出来事に対する見方、出来事に対する感受性が変化したり記憶が蘇ることで、
体験の解釈が変わるということは過去が変わるのと同じことだともいえます。
そういう意味では「過去は変わります」と声を大にして言いたいのですが。
私の初夢の結論です('-^*)ok

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意識の拡がりと、防衛機制

2015年11月23日 | 和解と平和
このところ退行、逃避、反動形成のミツドモエで、
かなりの時を過ごしてしまいました。
こころの状態、防衛機制を自覚しつつ、
今はこれが必要なんだと開き直っていたのですが、
過ごしてみて、本当に必要なことだったなあと、
中途半端で止めなくてよかった思えるのです。

これでもかというほどkawaiiグッズをネットサーフィンして、
最終的に一粒選りをネットで注文、入手したのですが、
チープで愛らしいコインケースを開けたり閉めたりしながら、ある記憶が蘇えります。
その手のものは買い与えられなかったけれど、あるとき
母がキャラクターもののコインケースを買ってくれたことがあって、
女の子用のピンク色で、子どもの目線で私がヨロコブこと、
それだけが目的で買ってくれたときのこと、それを思い出しました。
何か不憫に感じるところがあってだったような記憶もあるのですが、
母からの愛の原型の一つといえるでしょう。

この間―退行、逃避、反動形成の間―友人とのやりとり、家人とのやりとり、
過去と未来と現在と様々な思いが去来する心の流れがあって、
平凡な日常が流れ行く中で、明け方にちょっとおもしろい夢を見ました。
生前の母娘関係とはかけ離れた内容で、意外な感じがしましたが、
全体性の象徴として母が夢にあらわれのだと解釈すると、合点がゆきます。
全き平安に包まれた世界から引き離されて生れ落ちた孤独な存在としての私と、
夢の中の母娘の背景には元型が働いていると理解すると腑に落ちるのです。

何を意味しているのか理解できなくても、意味を感じ取ることはできます。
大切な何か。意識の広がりを感じつつ、防衛機制のミツドモエをよしとしたことで、
無意識の意識化がまた一歩、歩みを進めることができたと思えるのです。

もう十分というほどkawaiiグッズに接するということは、
好き嫌いを追究することでもあり、なかなか有意義なことでありました。
人目でなく内から湧いてくる感情に忠実に選択すること、
子ども心に退行すればこそ見えてくる世界もあるようです。

防衛機制は心の安定を図るために備えられた贈りもの。。。
大らかにつきあってゆきたいものです。

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他者否定を小さく~幸福曲線へ

2015年03月08日 | 和解と平和
私が、ある人を何かと得する方へ動く傾向があるヒトだと見なすと、
あの人は寄らば大樹の陰のヒトだから…と表現しますが、
もっとネガティヴの度合いが進むとトラの威を借る狐だから…となるかもしれません。

自分の中で他者の傾向を識別するのに故事ことわざ、
よく知られたお伽噺の中のフレーズや隠喩の言葉でイメージすることがあります。
あの人は大風呂敷だ、、といえば何の説明を加えなくて了解されるでしょうし、
とにかく逃げ足が速い…なんていうのもイメージされやすい言葉です。

自分のことは棚に上げて他人に対しては、いろいろ勝手にイメージしていますが、
他者にあって自分の中にはないと言い切れるものは一つもないのだし、
故事で表現することで他者の傾向に対する否定感が薄められることはよいことです。
そうすることで天につば吐くことを多少は避けられるかもしれません。

それでもうっかりしていると強い否定感をくっつけて
フレーズを発していることも、きっとあるでしょう。
人に語るときには冷静に単なる説明として故事ことわざを用いて述べているのに、
一人の心の世界で意外と感情的に語気強く呟いているような気もするのですが、
人の傾向を表現する中立であるはずの言葉を口にするときには、
やはり自分の心もニュートラルに調えて言葉を発するのがよいのでしょう。

自己肯定とバランスのよい他者肯定で幸福曲線の道を進みたいものですが、
他者肯定を強く意識するよりも他者否定をひっこめる、他者否定を薄める。
平素の心がけは他者否定を小さくする、薄めるぐらいの意識の持ち方の方が、
心の現実にかなって身の丈で進める道のような気もしますね。
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準備が整うと・・・

2015年02月20日 | 和解と平和
自分を一番、信用していない~と軽く言われて、
なぜか、とても腹立しく感じました。
その人が自分のことを言っているのだから、
私が言われているわけではないのだから、
腹など立てなくてもよさそうなものですが、なぜかとても腹立たしいのです。

あるとき、その理由が見えたと思ったときに、ようやく腹立ちはおさまりましたが、
その人の自身に対する投げやりな態度、それが一番、私を怒らせた腹立ちの原因でした。

自分を信用していないとは、あなたを信用していないと言われたのと同じです。
頭の巡りはわるくても心と身体と魂をもって、私はそのように知覚したのです。
だからこその腹立ちでもあったでしょう。

自分を信頼しなければ他者を信頼することは出来ません。
自分を信頼することなしに他者依存することは出来ても、
自己信頼なしに他者を信頼するのは不可能と思われます。

腹が立つのも親しい関係だからこそと理解していますが、
長~いお付き合いの中で、その言葉を今キャッチした、そのことを大事にしたいと思います。
腹立ち心をかき乱されたことで私の中に生まれた感情と思考を
素直に受け止めてゆく…そうして後の展開は、天に任せることにしましょう。

人は信頼と不信の間を行ったりきたり。揺れているのが人間の実態かもしれません。
だからこそ。信用していない~などと軽く言ってのける自我の声に惑わされている場合ではないですね。

師は準備が整ったときにやってくると云われていますが、
エマーソンの「自己信頼」という本が未読で傍らにあるのも、そういうことかもしれません。
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なんとなく、イヤな感じ…

2015年02月14日 | 和解と平和
なんとなくイヤナ感じ。。。
最初に感じた直感的な知覚の取り扱いがへただったゆえに、
直感を大事にしなかったことが後々後悔めいた感情を呼び起こします。
でも、すべては運命だったと割り切りよく、後悔に長居はしません。

呼びかけられて、ゾッとする感じ。
ちょっと~そう呼ばれるのは違和感大きすぎます、、
人はストレス曲線の渦中にあるとき現実吟味が狂います。
ゾッとしたなら相手のストレス曲線を思いやること。
まず相手を思いやることができれば、それに越したことはないのですが、
こちらもストレス曲線の中でグズグズの状況にあるとき、
相手を思いやるどころでなく(見当違いの思いやりを発揮する可能性はありますが)、
自分の正直な知覚すら抑圧してしまいます。

あなたも私もストレス曲線の中…そういうことだったんだと、
後になって真相が見えてきても、すべては運命だったので後悔する必要はありませんが、
運命と頭で理解した上で感情的にも平穏になるコツはあるようです。

感情的に平穏になるためには出来事を魂の視点で眺めてみることです。

当事者―もちろん自分も入ります―のことを、
ストレス曲線に置かれていた人として、共感的に理解するのです。
自我は地団駄踏んで悔しがろうとしたりしますが(運命に逆らおうとしますが、、)
ちょっと離れたところから当時のあなたと私を静かに見つめてみれば、
仕方なかったのだよねと…双方に対する共感と理解の感情が生まれてきます。

魂の視点はここぞというときに強い味方(観方)になってくれますから、
平素から魂の視点を意識しているとそれだけで、知らず知らず
感情生活が健やかな方向へ導かれ、整えられてゆくと感じます。
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身の丈と個性を受け容れて。

2014年10月28日 | 和解と平和
勉強会の最初の一歩は、知人のお宅にお邪魔して、
二人で勉強会を始めたところからでした。
それから間もなくNPOの教育活動に仲間入りさせていただき、
勉強会の場所も自宅に移して、参加者の方は増えたり減ったり、
3、4人というところで9年ぐらい経ちました。

ここに落ち着くまでには、我が身の傾向と個性も省みず、
外へ出てゆくべきだはないかと思考ばかりが先走り、
不快なストレス曲線の時期も過ごしてきました。

もっと外へ出てゆくべきではないか。思えば、この思考こそ、
長く私を苦しめてきた自己概念の最たるものだったかもしれません。
この思考は子供の頃からの一つの自己否定感をよく表していると感じます。
内気で内向的な自分の傾向をダメと決め付けてきた心理ですが、
手放してみて初めて気付いた感じがするのは、
それだけ抑圧が深く強かったということかもしれません。

私の知らないところで勉強会の場所を
便利な街中に移したらどうだろうかと意見が出たときに、
「あの山でやるからよいのです」と、
いちばん古くからの方が、きっぱり答えたと聞きました。
それを聞いて何か、とてもほっとしたのですが、
自分では意識できなかった本音を代弁してもらったような気がしたのです。

同時に。あの山でやるからよいのですと、それを聞いた瞬間は
私は内向的だからよいのです(それが私の個性であるのだから)と、
自己受容が成った瞬間だったと、そんな気もします。

おもしろいことに内向的な傾向を受け容れると、
外向的な側面も程よく自然に発揮されてくるようにも思えて、
自分自身が本来の個性を生きることに平安を覚えるならば、
それは周囲にとっても自然で好ましいものとして映ることでしょう。

山の我が家で小さな勉強会を細く、長く。。。
それが私の身の丈と個性にあっているのです。

自分の個性を受け容れたことで不快なストレス曲線が減ったこと。
これも最近の安定感の背景にあるのは間違いありません。
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オッシャルトオリと、シュンとして。

2014年10月25日 | 和解と平和
親友はニュース番組が流れてくると正義感ゆえの怒りが噴出、
否定発言が止まらなくなります。
気持ちは解かるので、私も相槌を打ったりします。
ほどほどで、こちらを察して納まることもあれば、
調子に乗って益々口が滑らかになって、
それに私が耐え切れず爆発、、、いつものバターンでした。

怒りの興奮が鎮まってきたところで、
“聞かされる、こちらの身にもなってください”
“わるかった、確かに口が過ぎた。これから気をつける”
・・・こんな感じで治まるのも、いつものパターンでした。
それがあるとき。最後にモメタときには、いつもの反応と違って、
“あなたの心が澄んでいれば、何の影響も受けない筈でしょう?”

言葉を返された瞬間、たしかに、そう。オッシャルトオリ。。。
そのときの私はシュンとうなだれてしまったのでした。
場合によっては、この言葉が火に油を注ぐことになって、
収拾がつかない情況になってもおかしくないのに、
なぜかその時はスーッと言葉が染み込んで、素直に受け取ることができました。

あなたの心が澄んでいれば、何の影響も受けないとは、
まったくその通り。真理の言葉です。

闘うことは疲れます。相手を攻撃するのは消耗することです。
それでも耐え切れなくなれば身を護るために闘うほかありませんが、
ストレス曲線は自分に原因があって、怒っている情況は
自分が創り出しているという解釈は、スカッとします。

こんなことがあって、親友の時事に纏わる激しい他者否定を聞いても、
以前ほどイラつかなくなったのは、自分の問題が提起されていると認識しているからでしょう。
解釈が変化してイラつかなくなったのは、このところの、
こころの居心地がよくなった大事な要素、小さな変化の一つであると思います。

ところで親友は親友で私に向けた言葉を自分自身にも問いかけたはずで、
正義の怒りの表現が、以前の過激さは影を潜めてきいるようにも見えます。
尋ねたわけではないので本当のところはわかりませんが、
これは親友の問題で、あっしにはかかりわりのないことでござんす、、ですけれどね。。。
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こころの住み心地が、よくなるとき

2014年10月24日 | 和解と平和
こころの安定という点では、夏以降、
よい流れに入ってきているのを感じます。

以前と今と変化していることを考えながら、
案外、小さなことがいくつも集まって、
小さな変化が集まって、大きな変化を生み出している。
当たり前のように身につけてきた思考と感情と行動が
微妙に変化してきているのを感じるのです。

何か悩んでいるのではないか。
なんとなく気落ちしているのではないか。
友のことが浮かんでも以前のように連絡してみようと思わない。
これは小さいけれど案外、重要な要素を含んでいる“変化”と思われます。
自己概念(考え方、価値感)が変化したがゆえに、
感情(不安感)と行動(連絡する)が変化したわけです。

〇ふと友のことが浮かぶとき、想像は私の心の投影かもしれない。
まずそこを思い巡らします。

〇仮に私の想像があたって心配事があったとしても、解決できるのは本人だけ。
ここを確認します。

〇自分の不安感を解消するために行動しようとしていないか?
自問してみます。

これを確認していると殆ど連絡する必要がなくなりますが、
その代わりに、ふと思い浮かんだら迷わず連絡をとってみる。
直感に従って行動してみることは以前より増えたかもしれません。
(連絡してみたら悩みの渦中にあったということはあります)

一時しのぎの慰めよりも、もっと大きな視点から関わり合ってゆきたいと思うのは、
他者への信頼と自己信頼の調和がとれてきたしるしかもしれません。

本当に小さな自己概念の変化が感情と行動に変化をもたらし、
こころの住み心地がよくなるということが、あるのですね。
変化する内容は人それぞれ違っても誰もが可能性に開かれているのは同じです。
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「傾向」と、どう付き合っていく?

2014年10月06日 | 和解と平和
自分の傾向に気付くと目から鱗が落ちて、
ぱーっと目の前が開けるような気がしますが、
これで悩みともオサラバダと解放感を味わうのは、
気付きの直後の一瞬だけということが殆どのような気がします。

気付いただけでは相変わらず「傾向」繰り返す方が自然なことかもしれません。
人が慣れ親しんだ方法で安定を得ようとする、楽な方法に流れるのは当然です。

私に関して言えばグレートマザーを他者に投影しやすい傾向は、
未だ生き残っているなあと思っていて、
うっかりすると母と娘の再演につつつ~と引き込まれて、
これはイケナイと慌てて引き返したりすることが時々あります。
すべて私の心に起こっていることですが、投影に気付かず、
相当無理をして問題がこじれてから(へとへとに疲れてようやく)、
ああ、また傾向に乗っ取られていた、、ということは、
グレートマザーの自己分析が成った後でもありました。

他者の賞賛を求める傾向を自己分析できた人が、
知らず知らず賞賛してくれる人を自分の方に引き寄せて、
安定を確保することを無意識にやっている。
安心を得て安定を得たいのは生存本能にとって当然なので、
自分の傾向を傾向のまま生涯携えていく、それもまた人生です。

しかし「傾向」が人間関係を本来の姿から遠ざけてしまっていることに気付いて、
このままでは終らせたくない、本来の姿を求めたいというのであれば、
傾向に気付いただけで終わらせてしまうのでなく意識的に生きてゆくことです。

私の場合なら、グレートマザーを投影しないことの不安定を意識して、
投影しなくても安心、安定している自分を想像してみること。
また投影することのマイナス要素(例えば、成長を阻まれること)を、
ときどき意識してみることも必要かもしれません。

賞賛願望の傾向なら、賞賛が得られないことの不安定を意識して、
賞賛を得られなくても安心、安定していられる自分を想像してみる。
賞賛してくれる人の確保に費やされる心身の労苦という、
マイナス要素を意識してみれば、この傾向を生涯携行してゆくのは
実に疲れる、、と思うようになるかもしれません。

傾向を選ぶことの安心と、傾向を選ばないことの不安と。。。
自分の傾向を理解して意識的に生きることができれば、
それは自分の傾向と共存していくことであり、
本音と意識、本音と発せられた言葉が一致して、
本来あるべき姿、健やかな人間関係に近づいてゆくことでしょう。

「傾向」という宝物を宝の持ち腐れにしてはもったいないなあと、思います。
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