こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

何を探しているのか?

2008年05月28日 | 意識と知覚
雨が降り出しました。予報では、明朝までに相当の降雨量になるとでています。少し前のこんな雨の日に、ある映画のワンシーンをYouTubeで見つけようと際限なくクリックを繰り返し、かなりの時間を過ごしてしまったことがありました。ドライヴィング ミスデージーという映画の、ミスデージーが瀟洒な居間で、柔らかな陽射しと、そよ風を受けながら手芸をしているシーン。蓄音機から流れるソプラノに彼女がうっとり聞き惚れている場面を見つけたかったのですが、結局それは見つけられずに、映画を諦めると次は、惹かれるままに様々な動画のチェックを始めたのでした。

最後に2つのお気に入りの動画に出合えたのはよかったのですが、沢山見過ぎて、疲れ果てて、いったい何をしていたのだろう!?ちょっと虚しく、後悔が湧いてきました。こういうのって、たしなみがない感じ…というのが正直な感想です。

何をしているのかわからぬまま行動している、無自覚の追求、こういうのは止めにしたいと、つくづく思いました。何を探しているのか、きちんと意識している人生。何を欲しているのか、きちんと意識して、自覚的に生きる人生。それで、全力を尽くしても見つからない時点で、きっちりと現実を認め、意識化すること。

そのためには“一呼吸おく”。一呼吸おいて出来事を眺める余裕があるかないか、
すべてはこれにかかっている。大袈裟ではなく、そう思うのです。その日YouTubeでは無闇にクリックしている内に、ワトソンさんという方のピアノ演奏と小雨降るノーフォークの自然が映し出された、とても素敵な映像がどこかへいってしまいました。探しても二度と見つけられず、とても残念です。

せっかく見つけた大事なものを取り逃がさないためにも、何を探しているのか?
しっかり意識して、一呼吸も意識して、上手な間を取りながら生きてゆきたいものです。。。





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四半世紀ぶりの小田さん♪

2008年05月26日 | 意識と知覚
旅に出て以来、読書からすっかり遠ざかっています。草の繁茂する時期、外作業の時間が多くなったこともありますが、それがなくても雨の日でも本を開くことが殆どなくなり、その替わりといってはなんですが、CDで小田和正さんをよく聞いています。“自己ベストⅡ”を手に入れましたが、こんなに小田さんを聞き込むのは20数年ぶりのこと。これまで、ごく偶に聞くことはあっても、浸ることは避けていた節があります。

20代前半の頃、人間関係に悩みぬきストレスもここに極まれリという情況の時、小田さんの歌声は本当に救いで、外出時はウォークマン(…古い話です)を片ときも離さず、オフコースばかり聴いていた時期がありました。恋愛がテーマの歌でも、恋愛体験に重ねて聴くというようなことは殆どなくて、詞に登場する二人は、いつでも私の内なる二者だなあという感じが強く、ユングでいうならアニマやアニムスとでもいうような、私ともう一人の私、内なる二人の出来事として、聴いていることが多いようです。

昔を回想すると、オフコースを聞いていた頃というのは、抑鬱的なところから大胆に行動を開始する前の、転機の前触れのような時期だったので、今はちっとも抑鬱的ではないけれど、やはり大きな転機の時なのかもしれません。

今、“♪大好きな君に会いにゆこう~”と、一緒に口ずさむとき、心の内では、見失ったもう一人の私を探しに行こうと、歌っているような気がしますね。もっといってしまえば、自己信頼を自己愛を取り戻そうと歌っている、そういう体感です。同時に、この歌に関しては人生を振り返りつつ、“大好きな君に会いに行こう”、
こんなふうに素直に、正直に、会いたい気持ちを意識したことってあっただろうか?ないとしたら、それはものすごく残念なことではなかったか…今度はもっと素直になりたいな…など、夢想も混じっているようであります。




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本日の自己実現!

2008年05月23日 | 意識と知覚
有終を目指すにあたってまず心がけたいことは、日々の感情生活を幸福曲線上(平安感、友好的感情、幸福感など)にもってゆくこと。不安感や怒り、鬱のような暗い感情のストレス曲線上にあるときには、本音が見えにくくなっているので、悔いのない人生を考えるような大事な思索をするのは無理です。“人間の本質は不安”だとしたら、生きるということは、ストレス曲線におかれているのが常態とも言えるわけですから、それを幸福曲線にもっていくとは、なかなか奥深く、遣り甲斐のある仕事です。

生き甲斐の心理学の勉強は、人が人生の旅路でどんな状況に置かれようとも“ストレス曲線を幸福曲線に移行させる”ことが出来るようにすること、これが学びの目的といってしまっても、過言ではないでしょう。

さて本日、わたしは草刈機に再挑戦しました。高速回転で草をなぎ倒すあれですが、数年ぶりに動かしました。かなりの緊張を強いられる作業なのですが、夢の一つである庭作りのためには、やはり自分で草刈機を動かせるようになりたい。同じような境遇の一回りも上の知人が草刈機を自由に操って、理想の庭を追求している姿にも刺激を受けて、一念発起したわけです。生い茂る雑草の海に感じていた不安感は、確実に軽減されました!“再挑戦”をやり遂げたという達成感もあります。草刈機で草を刈ることが、今日の私の自己実現でした。自力でエンジンを掛けられないのは難ですが、そこまで要求すると今は手をだせなくなってしまう。

自分の実力と状況と、様々なことを考慮して現実吟味を発揮して考えることは、一日の自己実現でも、人生の自己実現、悔いのない人生を思索する上でも大事なこと・・・あらためて思います。有酸素運動をたっぷりしたので、きょうはぐっする眠れることでしょう。。。




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有終の美を

2008年05月22日 | 意識と知覚
転機の時が、きているのを感じます。“悔いのない人生”についてもう一度、じっくり考えてみよう、一呼吸おいて、丁寧に自分と向き合って、ブログの中で言語化してみよう。そんなことを考えていた矢先、友人からのメールに、こんな問いかけがありました。

“チョッと聞かせてほしいこと。あなたは外に向かってとても素直でやさしく見えます。そして、自分にたいしてはどうなのですか?”と。この問いが示唆する友人の危惧感は、まさにその通りなのだと思いました。“淡々とした関係”(3/3のブログを参照ください)の友たちは、ときとして、当の本人が気付いていないような真実を、さりげなく伝えてくれることがあって、遠くにいても私の深い部分を感じ取ってくれている、そんな気がすることがあります。夕べから今日にかけて考えていたことに呼応するように、届いたメールでした。

私は自分に対してもっと素直にやさしくなる必要がある。悔いのない人生について、自身が感じていること、考えていることを素直に、明快に表現してみよう。それをしなければ、それこそ人生に悔いを残してしまうだろう・・・悔いのない人生=自己実現の道について、ここで見つめなおすことは、長らく続けてきた関係性を見直すことでもあります。それは、一つの関係性に終止符を打つことに結びつくことかもしれませんが、新しく生まれさせるためには、意識的に終らせることが必要なこともある…だから、しばらくの間は“有終の美”を目指そうと決めました。

有終を目指し、自身に正直に向き合い、悔いのない人生を誠実に言語化すること。自身に対して正直であることと、他者に対して真に誠実であることはイコールのはず。自分にとって悔いのない人生とは? CULLカリタス カウンセリングの理論を
最大限に利用、駆使して、じっくり考えてみようと思うのです。



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大事にしたい感情

2008年05月18日 | 意識と知覚
“湿っぽい感じ”がイヤダな、というのがセルフイメージにありました。ここ何年か、信頼している方々の反応(言動など)からも、それを感じ取り、内心“そういわれたって、そうならざるをえない情況なんだから仕方ないでしょ”と、呟いたのですが、ふと気付けば“湿っぽさ”からは脱出していた・・・湿っぽさからは脱出したけれど、よくしたもので、別の“イヤダな”がでてきています。イヤだなという感情はとりあえず認める。それが現実吟味の第一歩・・・それから“神さまヨロシクお願いします”と申告したならば、後は忘れてしまうこと。“イヤだ”に拘って、ぐるぐる考え出すのが、いちばん心身によくないことは、経験から学んでいます。

ぐるぐる考え出す私をみて、“あなたはホントウに物事をややこしくするヒトだね”と親友は言いますが、まことに的確な表現だと思います。ぐるぐると悩みに囚われているには、人生は余に短いし、そんな時間のつかい方は、本当にもったいないことです。

考えてばかりいると、美しいものを見逃します。だから、とりあえず“何も考えないこと”を、意識してみると、見慣れた風景や、物たちが、くっきりと目に飛び込み、聴こえてくるのに驚かされます。そんなふうに“今を生きる”ことを重ねていけば、イヤだなって思っているセルフイメージも、気付いたら消えていたということになると信じています。

こんな考え方をしていると、イヤだなと思うことが、ちっとも嫌でなくなってきます。ストレスの感情は、幸福の感情への道しるべと言われていますが、本当に、そのとおりだと思います。いつの日か、セルフイメージの何をイヤだと感じていたかを話せる時がくると思うと、ちょっと楽しみですね。“湿っぽさ”の只中にいるときは、とても話す気にはなりませんでしたから。

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ミチキンのブランコ

2008年05月15日 | 第9章:愛
ミチキンは鉄の造形作家ですが、絵も描くし、ガラスのアクセサリーも作るし、染織を生業にしているパートナーのSさんの影響で、柿渋で布を染めたりもします。夫の古い友人ですが、私にとっては破天荒なゲイジュツカというイメージで、昔は
酔っ払いのミチキンに辟易して、“でていってッ!”と家から追い出したこともあります。信州へ着いて連絡を入れると、ミチキンは少し前に放浪の旅に出てしまった後でした。九州の焼酎を届けがてら山の工房を訪ね、Sさんと近況を語り合い、さてお暇というときになってミチキンがツリーハウスを作ったことを知りました。

土地の西側の崖を少し下りたところから吊り橋を渡ってツリーハウスのテラスへ。テラスから梯子段を下りると板敷きの3畳ほどのメインルームです。更に梯子を2mほど下りて川の流れる地面に下り立つと、そこで待っていたのは、遥か上方の木の枝からロープを吊るしたブランコ!あまりに長いロープ…強度に対する不安が脳裏をかすめ、スリルは満点です。小鳥の囀りと川の音、瑞々しい木々の新緑に抱かれて宙を舞う気分は、最高でした。

ミチキンとは、ベアトリクス・ポターの絵本に登場するリスのナットキンから連想し、彼の名前にかけて、夫と私が付けたニックネームです。はしゃぎすぎて、調子付いて、最後には、森の長老のフクロウにお灸をすえられてしまうナットキン。ミチキンにお灸をすえる人はいなくても、“いい加減にして!”と言いたかったのは、私だけではなかったはず。ここ10年は歳を重ねたせいか、お酒にも、人に対しても度を越すということがなくなり、昔よりは随分付き合いやすくなったミチキンですが、更にこの空中ブランコのおかげで、私のネガティヴな思い出は、すっかり帳消しとなりました。

こんなブランコを作る人ってやっぱりいいよねぇ…面白くて、独創的で、ちょっぴりさびしがりやの自由人・・・地面を大きく蹴り上げて宙を舞いながら、なぜかミチキンの愛すべきイメージだけが、浮んでくるのでした。こんなことをしみじみ思うなんて、ミチキンはアジアの国のどこかで、今頃くしゃみをしているかもしれません。





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“女神のイコン”

2008年05月11日 | 魂と聖霊
上越新幹線から羽越本線に乗り継ぎ、日本海に沿って鶴岡へ。30年来の友を訪ねながら、時のふしぎを感じるような旅をして来ました。約4時間の列車の旅に、かさ張る大型冊子のBIBEを敢えて持参したのは、旅の直前に、BIBEに載る美しいイコンに魅せられ、強く惹かれてしまったこと、そのタイミングが今回の旅に、素敵に呼応していると感じたからでした。

初めて降り立つ鶴岡駅で、迎えに出てくれた友人の車に乗り込み発進して間もなく致道博物館に差し掛かったとき、信じられないものを目にします。信じられない思いと同時に、イコンに魅かれ、その憧れを旅にまで持ち込んだ意味を、たちどころに理解したのですが、博物館の塀に掲げられた大看板は、有元利夫の展覧会が開催中であることを報せています。積年の願いがこのような旅先で叶うとは、ただただ驚くばかり言葉も失いますが、仕事に向かう友人と別れた後、人も疎らな会場で独りこころゆくまで、実物の、有元利夫の描く女神たちを見つめて過ごしました。

やわらかな光と、しんとした静寂。旅のはじめに過ごしたこの宝物のような時間は、やさしい旋律となり、旅の間中、片ときも離れずに私と共にありました。ドライブしながら、雪の月山と田園を渡る風を肌身に感じるとき、野趣ある庭に囲まれた鄙びた美術館の窓辺で、雨上がりの風をいっぱいに吸い込むとき、友人の家の自室で、ガラス器に活けられた花の気配を愉しむときも、いつでもどこでも女神たちの奏でる透明な旋律が、低く控えめに聴こえているのでした。

イコンを前にして人は心の塵を沈め、内なる普遍と結びつくことができます。人がこの世にあって、永遠なるものと結ばれる縁をもたらすイコン・・・今この時に“女神のイコン”に触れた幸いを、人生の糧にきっとしてゆこうと思うのです。







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“美と善”に開かれること…

2008年05月05日 | 意識と知覚
信州に来てから一週間。車で乗り出すたびに、春の山の色合いに目を真ん丸くして、ため息ばかりついていました。とくに、黄緑の種類の多さといったらありません。灰色がかった黄緑や赤味がかった黄緑、陽光の具合でも白味を帯びたり、隣り合う色によっても複雑に変化して、ところどころ差し色に山桜が入ると緑がいっそう際立ち、“山が微笑む”とはこのことをいうのだなと、再認識します。

しかし、春爛漫の風景を楽しみ感嘆しながらも、心のどこかで、私にはまだまだ、自然を眺める深さが足りないなあ、そんなことを考え始めていたところに或る方から“ビべBIBE”という冊子を頂きました。冊子の名は、日本語の「美」とイタリア語の「Bellezza」の最初の二文字を合わせて命名したとあります。今、BIBEを捲りながら、私は嬉しくてたまらないのですが、この中の一文に、自然を眺める深さが足りないと感じていることへの大事なヒントを見つけたと思ったからです。

BIBEを主宰するジュリアーノさんは「美・善・真の宝石箱」という文章の中で、「ヘブライ語とラテン語では“美しい”と“善い”をひとつのことばであらわすけれど、これは、羊飼いと農民の子孫のユダヤ人と、農作業に携わる民だったローマ人も、“善い”ものはかならず“美しい”と本能的に知っていたからだ」と、語ります。

この本能の知は、自然と同化して生きてきた日本人である私の中にも当然、流れているはず。春の風景に感嘆しながらも、何かが足りない、もっと自分は自然との関係を深化させる必要があると感じるのも、本能の知からくるもので、おそらく私は、自然に対してもっともっと開かれる必要があるのです。身体全体で五感と体感をもって、自然に対して開かれてゆくこと。私たちはまず、自然との関係から、美しきものと善きものに開かれる必要があるのでしょう。今ここから。今回の旅の目的が、いよいよ見えてきたような気がしています。



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サンガ・コーヒー

2008年05月02日 | 螺旋状に上昇する意味
信州での休暇。お目当ての鰻店が昼時と休日が重なったため、満員でした。仕方がないので一時間後に出直すことにして、空き時間を美味しいと噂の、自家焙煎コーヒーの販売店を訪ねてみることにします。街から郊外へ車で15分ほど。初めての店に足を踏み入れ店主と顔を合わせるや、“知ってるー!”と、なんとも大人気のない声を発してしまいました。中学時代に隣のクラスだったO君、30年以上経っても当時の面影と、目の前のコーヒー店の主は、私の中で違和なくピタリと重なります。

奇遇に驚きながら一頻り会話して、O君が親交ある誰それの名前を挙げるたびに、忘却の彼方だった記憶から、少年時代の学友たちの姿を引っ張りだすのですが、“どうしてこんなことが起こるのだろう!?”と、居る間中ふしぎな心もちでした。

起業の経緯を聴きながら、駐車場の真ん中に立つ松の古木がふと目に留まります。訊けば堂々の風格の松と傍らの小さな祠は、田圃だった土地にもとからあったもので、O君は、“今は、あの神様だけが頼り…”と、笑いながら呟やきました。地に足をつけながら、心と体をフル回転させて実業に努力している在りようと、“見えないもの”にも信をおき、畏敬の念を覚える精神の健全性。二つの領域をバランスよく生きていることが、その人となりに映し出され、穏やかで心地よい空間と、美味しいコーヒーをつくりだしているのがよく解ります。

見える世界を生きぬくことと、見えない世界に信頼をおくこと。私の在りようはどんなだろうか・・・見える世界をいきぬく熱意も、見えない世界への信頼の深さも、まだまだ十分とは言えません。しかしパンフレットには、―店の名前は「サンガ」、仏教の言葉で「志、同じくする者が集い学ぶ場」と解釈しています―と、ありました。“類は友を呼ぶ”でサンガに引き寄せられたのなら、なんと光栄なことでしょう!

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