こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

別の場所に移行するとき・・・

2015年03月31日 | 五感と体感
よく喋っているなあ、、自分で喋りながら、
喋っている自分に新鮮な驚きを感じている…
そんな場面が増えている一方、ある場面では、
めっきり口数少なく口を噤むようになってきているのです。

感情昇華として言葉を発するということは、こういうことか。
昇華させる自由な体感は、よいものですね。

一方、口を噤むようになった場所では、以前そこで喋っていたのは昇華でなく
感情を発散させていただけだった・・・その違いがよく分かる様になりました。
昇華のお喋りと発散のお喋りは反比例するものかもしれません。

昇華させているときには、私の自由な体感と共に自他肯定の雰囲気がありますし、
相対で会話している場合なら、あなたと私は支配からも依存からも自由で、
別々の人格として独立して世界に開かれている雰囲気の中で対話しています。

ここで思い出すのがJ・ヒルマンの本ですが、ヒルマンは著書の中で、
美醜についてのプロティノスの定義を引用しています。
「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。
醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」
「たましいは醜いものと出会うと、すぐさましりごみしてこれを拒絶し、
目をそむけ、協調しようとせず、これに恨みを向けます」
十数年前に一読して、この定義に強く惹かれました。(定義自体、美しい!)

そして。惹かれると同時に“たましいの美的感覚的な反応を”受け留められるだけの、
そのような私でなければ、この定義は意味をなさないだろうことも理解しました。

発散のお喋りに、いつもと違う場所への移行を感じるようになってしまった。
そういうことなのだろうと思っていますが、生き甲斐の心理学の学びと共に
多少の人生経験を積み重ねてきた中で“そのような私”に
少しは近づいてきたしるしなのかもしれません。

「自分自身の存在に正直であるとき、私たちは美を所有している。
醜さとはいつもと違う別の状態に移行してしまうことにある」
いつまでも大切に。心と身体に深く染み渡らせたい定義です。
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憧れを、再確認して

2015年03月29日 | 螺旋状に上昇する意味
少女の頃、「チープ・シック」という本を兄の本棚から引っ張り出して読みました。
サブタイトルは、お金をかけずにシックに着こなす法。
著名人の服装、ライフスタイルに関するインタヴュー記事や
沢山の写真が載っていて憧れを膨らませて飽きずに見入っていたものでした。
中でも印象強く残っているのがダイアナ・ヴリーランドのインタビュウ記事ですが、
最近、40年近く経っても本が増刷されていると知って、
懐かしさと記事を確かめてみたい気持ちもあって購入してみました。

その記事に魅かれたところに、今の私のミニマム指向の片鱗が見て取れると思われますし
本を開いてみると三十数年のブランクはなく、
当時と変わらぬ眼差しで見入ってしまっている自分が、なんとなく嬉しい感じです。

私の中の変わらないもの。変わらない感受性。。。

黒いセーターに無地のスカーフを巻いて額に人差し指を当てて口をすぼめているポーズ。
「ダイアナの、冬のクラッシックなユニフォーム。
黒いカシミアのセーター3種を、ジヴァンシーの黒いスカート3枚と組み合わせて、
回転させていくのです。」と、キャプションがついていますが、
少女の私は、そこにシンプルの極みを感じ強く惹きつけられていたのだと思います。

すべては繋がっている。見える世界と見えない世界と。
すべては連動していると年を重ねるほどに、その感覚が強くなってきたと感じますが、
内的世界。物質的な見える世界のミニマムと共に、
内界の雑多なものをミニマムにしていくことに、現在の私は関心があります。
内的世界の雑多のものとは、たとえば、

・感情を引きずること
・不毛なお喋りに時間を費やすこと
・だらだらと言い訳すること
・だらだらとした言い訳を聞き続けること…等々

こころの世界でミニマムを目指すのがよいことは沢山ありそうです。
少女の頃の憧れを再確認しながら。楽しくミニマムを探求してゆきたいと思っているのです。
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私の、真善美

2015年03月20日 | 
「真善美」の内、自分はどの言葉に一番ひかれるか?

昨日(3/19)の生き甲斐の心理学のブログにもありますように、
大脳によって、答えは即答されます。
それは確かなのですが、例によって(?)私は、
答えが出た後の取り扱いが上手くなかった。
長い間「真善美」を思索するアプローチの仕方を間違えていました。

どうして、それに惹かれるのか?と考え出してしまうのが常で、
グルグルと無益な思考の渦に巻き込まれるだけで、
真善美を思索することで得られるはずの幸福曲線からは程遠く、
今思うと考え出すとストレスを覚える、そちらの方が強かったのです。
どうして惹かれるのかと考えるのは自己分析的なアプローチですが、
それはどんな感じ?と身体感覚を意識しながら穏やかに聴き取ってゆく。
分析するより丁寧に自分を傾聴してやることが私に必要なことでした。

丁寧に聴くことは答えのイメージを増幅させてやることにもなります。
増幅させながら無意識の意識化が進むと、イメージは少女期まで遡り、
なぜ自分が生き延びてきたのかが見えてくることになります。
おどろきますが、よい傾聴が幸福曲線に誘うとは本当にそうです。

ところで私はミニマムという言葉に惹かれますが、若い頃からそうでした。
その指向は少女期まで遡ることができると最近になって気付きましたが、
衣食住の見える物質的なミニマム指向、削いで削いで最小限にしてゆくことで、
見えない世界の、言ってしまえば愛の世界のマキシマム(最大)が実現するのだと、
そんなイメージを持っていたようです。

少女期のイメージは人生に対する確信でもありますが(今、浮かんだ言葉です)
どんどん外側を外していって自分には不要と思われるものを、どんどん外していって
―近頃、好きなマトリョーシカと重ねてニッコリですが―
最後に最小の私が現れますが、最終的に現れる可視で小さな私は、
限りなく魂に近づいている私でもあるというわけです。

私の即答は「真」でしたが、ようやく私も真善美の世界を
幸福曲線で思索することが出来るようになったと感じます。
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解釈よりも、感じてみることを

2015年03月12日 | 螺旋状に上昇する意味
なんとなく落ち着かない。今、自分が不安感におかれているのは分りますが、
具体的な理由があるわけではなく、ただ、ざわざわと落ち着かない感じです。

体からくる不安? 心からくる不安? 魂からくる不安?
自問すると、すべてが少しずつ関わっているような気もして…こんなとき、
以前の私は、ざわざわ感から逃れたくてジタバタしていましたが、
この頃は以前ほど焦らなくなりました。
不安を無くそうと焦らずに、留まってみるという姿勢が、
多少は身に付いてきたのかもしれません。
それは不安感に留まってみることであり、今の状況を感じてみることですが、
私の場合、状況を感じてみるという意識の持ち方が一番しっくりきます。

不安におかれている今の状況を感じてみる。
このような状況におかれている意味を感じてみようとしますが、
感じるだけで出来事の意味は何だろう?と考えたりしません。
むしろ。あれこれ意味を考えて解釈しないために、
感じることに意識を向けようとしている節もあります。

平安感へ向かわせる解釈は大切ですが、解釈しないことで、
もっと広やかな場所にでてゆけるということもありそうです。
過去と未来を貫く無数の出来事の点が、感じてみることに徹すると、
無数の点が一つの線となって現れてくることがあるのです。

あえて解釈しないことで線が現れてくるのを待ってみる。
鮮明でなくても、おぼろげな線でも点と点が繋がったのを感ずるよろこび。
時にはあえて解釈しない。私にとって人生にとって、
解釈するより感じることの方がずっと大事だと、
そんな気がしてならないのですが平安感もまた然り。
解釈するより感じてみる方が、ずっと広やかで豊かな場所へ出てゆけるような気がしますね。
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他者否定を小さく~幸福曲線へ

2015年03月08日 | 和解と平和
私が、ある人を何かと得する方へ動く傾向があるヒトだと見なすと、
あの人は寄らば大樹の陰のヒトだから…と表現しますが、
もっとネガティヴの度合いが進むとトラの威を借る狐だから…となるかもしれません。

自分の中で他者の傾向を識別するのに故事ことわざ、
よく知られたお伽噺の中のフレーズや隠喩の言葉でイメージすることがあります。
あの人は大風呂敷だ、、といえば何の説明を加えなくて了解されるでしょうし、
とにかく逃げ足が速い…なんていうのもイメージされやすい言葉です。

自分のことは棚に上げて他人に対しては、いろいろ勝手にイメージしていますが、
他者にあって自分の中にはないと言い切れるものは一つもないのだし、
故事で表現することで他者の傾向に対する否定感が薄められることはよいことです。
そうすることで天につば吐くことを多少は避けられるかもしれません。

それでもうっかりしていると強い否定感をくっつけて
フレーズを発していることも、きっとあるでしょう。
人に語るときには冷静に単なる説明として故事ことわざを用いて述べているのに、
一人の心の世界で意外と感情的に語気強く呟いているような気もするのですが、
人の傾向を表現する中立であるはずの言葉を口にするときには、
やはり自分の心もニュートラルに調えて言葉を発するのがよいのでしょう。

自己肯定とバランスのよい他者肯定で幸福曲線の道を進みたいものですが、
他者肯定を強く意識するよりも他者否定をひっこめる、他者否定を薄める。
平素の心がけは他者否定を小さくする、薄めるぐらいの意識の持ち方の方が、
心の現実にかなって身の丈で進める道のような気もしますね。
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意味があるのか、ないのか…?

2015年03月06日 | 螺旋状に上昇する意味
美醜の感覚を大事に生きている心が
無防備になるのは当然かもしれません。

もしも無防備でないとしたら…

美醜を知覚するやコチコチの防衛機制で固まる心を想像すると分かりますが、
防衛的な心はぺらぺらぺらぺら。あーでもこーでも。
言葉を尽くして評価的解釈が展開される様子が目に見えるようです。

無防備な心は知覚に囚われることなく、無防備ゆえに、
心を安定させるために対象を評価する必要もなく
留まらずに軽やかに流れてゆくことができます。
言葉の洪水とは無縁に次の対象に向かっていゆくわけです。

無防備な心は美しいものにも醜いものにも敏感ですが、
いちいち口に出すようなことはありません。
口に出す間もなく次の対象の知覚に集中しているのです。
頭の中でお喋りすることもありません。
彼らの沈黙に注目してみると、よく分かると思うのですが、
彼らは決して寡黙な人ではなく時に饒舌の印象さえ持たれることがあっても、
対象から対象へ。知覚から次の知覚へ向かう彼らの感受性の中に、
無防備からくる澄んだ沈黙の要素をきっと見つけることができます。

そして。もしも私が彼らの澄んだ沈黙を感じることができるとしたら、
その瞬間は私もまた美しいものを知覚しているのだと思います。

美しいもの。あまり美しくないもの。
私にとって知覚を大切に進むことは意味があるのか。
無防備になる意味があるのか。
意味があるのかないのか。問いかけてみるとよいかもしれません。
答えは出さなくてよいのです。いえ出そうとしないのがよいのでしょうね。
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