こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

今ここで。成すべきことは?

2014年05月27日 | 和解と平和
ストレス曲線に気付くのは、ものすごく大事です。
外部のちょっとした刺激で不安感が生まれる、
快調に動いていた日常に、ふと翳りが生まれる瞬間・・・
日常生活でふと襲われる不安感は、私にとって、
自己信頼感が後退する前触れといってよいかもしれません。
それで、不安感に対して無意識的であればあるほど、
知らず知らず自己否定に傾き、ひどいときには自虐的な感情に発展します。

ストレス曲線に気付いたならば(それも自己否定、自虐に傾きそうな、、)、
生まれた感情をあれこれ詮索するよりも、
外部の刺激で揺らいだ心・不安感に長居をせずに、
自分が成すべきこと、こうありたいイメージに
意識を切り替えることを最優先するのがよさそうです。

あるときパソコンに向かっているときに、ふとストレス曲線に落ち込んだ自分に気付いて、
これはいけない、自己否定に傾きそうと予感したときには、
パソコンをパタンと閉めて、リュックサックに投函する葉書2通と、
ついでに園芸鋏と手袋も詰め込んで、麦藁帽子に長靴姿で、
下の村の簡易郵便局のポストまで歩くことにしました。
そうそう、そうだったよね。。。心の中で呟きながら。

今、成すべきこと。自分はこうありたいイメージに即、立ち戻ること。

こうやって。小さなストレスを意識するたびに、
私の今に焦点を合わせて、今成すべきことを大事にしていくと、
ちょっとした外部の刺激で生まれてくる様々な感情を、
軽やかに過ぎ越してゆくことが、どんどん上手になる気がしますね。

今、自分が成すべきことに意識を切り替えて歩き出したときに、
季節の風物詩がいつにもまして目に飛び込んできたのがふしぎですが、
そのときのヨロコビや幸福感は、今成すべきことに意識を切り替えて、
ストレス曲線から早々に引き返したのは正解であると、
宇宙の流れにも適っている、何よりのしるしだったかと思うのです。
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見過ごされがちな感情

2014年05月12日 | 愛とゆるし
「私がへん…」と適当にやりすごしてきた小さな感情に、
ちょっと、とどまってみることにすると、身体の通路がひらかれる感じがするのは、
身体で感情を受け容れるための準備が整う感じといえばよいでしょうか。

防衛機制を働かせていた(適当に合理化していた)ところから、
ちょっとだけ感情に立ち止まってみようかと意識することは、
感情を身体感覚として受け留めようとすることかもしれません。

「感情を感じてみる」といってもよいかもしれませんが、
身体で感じることに留って、身体で感情を受容するのです。

言葉によらず、しずかに、あるがままに感じるにまかせていると、
ときには、ふーっと遠い日に体験した感覚がよみがえってきたりします。
具体的な出来事というよりは、感覚として身体が思い出して、
ああそうだったのかと、身体が納得する感じです。

ちょっとしたことで生まれてくる違和感とか不愉快が、
過去の記憶に反応して生まれてくることもあるのですね。

小さな感情に立ち止まり、受容することは、
少年少女の頃に経験した、ちょっとした孤立感であったり、
身近な大人に感じた、解ってもらってないなあ、、という子供心のため息であったり、
遠い昔の小さな感情体験を受容することにもなるようです。

言葉によらず。小さな感情に立ち止まることを意識すると、
感情を身体で感じることを通して、理屈抜きで、
身体全体で感情を受容するということが起こるように思います。

ときには理屈を休ませて身体にゆだねてみると、ほんとうに、ほお~っとします。
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愛の原型・風薫る頃・・・

2014年05月11日 | 
なにかと「母」と縁のある五月です。私の母は五月生まれでした。

考えてみると、誕生日のおめでとうを一度も欠かさず伝えてきたのは母だけで、
当日に一度も欠かさず、いちばん長く伝えてきた人でした。
伝える側と伝えられる側の受容と共感がピタリと一致して、
構えることなく自然体で伝えられる関係は母をおいて他にはないのかもしれません。

ところで自分の誕生日を考えたときに、若い頃だったら、
身近な人に誕生日を忘れられると気落ちしたこともありましたけれど、
自他の誕生日に全く関心を示さない人と暮らすようになってから、
当日おめでとうを言われなくても誕生日を忘れられても少しも気にならなくなりました。
かえって忘れられて、ひっそり自分だけで意識しているのが楽しいくらいです。

後年の母は娘の誕生日をうっかり忘れていることもあったし、
誕生日に対する思い入れは私ほど強くなかったような気もします。
お正月に歳を重ねる旧世代であったことも関係しているかもしれません。

私の中では誕生日は愛の原型と結びついていて、それも受けるよりは、
言葉や形にして他者に差し出す、愛を表現することの原型の一つになっているようです。

去年を最後に、生身の声で母におめでとうを伝えることは叶わなくなりました。
五月に生まれて五月に逝って、五月に終わって五月に始まる。。。

見えない世界では永遠であるということを、リアルに感じさせてくれる五月の朝です。
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ときには立ち止まって。

2014年05月10日 | 愛とゆるし
たとえば。ある通知を受け取って、一読した途端、
なんだかイヤ~な気分に。。。理由はわかりません。
内容は配慮が行き届き、道理に適っているし、
明るくフレンドリーな言葉が並んでいるにもかかわらず、
不愉快な気分になるなんて、私ってどうかしているわね…

いちいち意識に上げるほどのこともない小さな出来事として、
適当に合理化して、やり過ごしてしまうこともできますが、
感情に意味があるとしたら、たまには不愉快に立ち止まってみるのもわるくありません。

不愉快になっている(ストレス曲線に入り込んでいる)状況を、
とりあえず素直に認めて、受け容れてみる。
不愉快になっている現象を観察するような気持ちになると、
感情と自分に距離ができて、感情を受容しやすくなるようです。

これまで適当にやり過ごしてきたような小さな現象ならば、
ここまで出来れば十分かもしれません。
受容することなしに“私がどうかしている…” “私って、へん、、”と、
毎度へんで済まされてしまっては、せっかく意味を携えてきた感情は浮かばれないかも、、です。

現象を現象として観察できたときはじめて、
感情は、感情の生まれた意味を顕わし、現してくれると思えてならないのですが、
感情に留まり受容できたときに、大事な気づきが起こるように思います。

さらに。大事な気づきは往々にして自分一人の心の世界に留まるものでなく、
現象をもたらした相手も含めて、自分の外側の環境にも関わってくるように見えます。

私に生まれる感情は、私だけのものと思ったら大間違いかもしれません。
私が私の感情と誠実に付き合うことは、私の周囲の、家族の、コミュニティーの、
世界の、地球の様相にも影響を与えているやもしれません。

まずは何気なく合理化してきたような小さな感情から、
感情に留まり、現象として観察する練習を始めるのがよいかもしれません。
私が私の感情と丁寧こ向き合うことは、小さいけれど確実に、
幸いな影響を周囲に及ぼしてゆきます。間違いありません。

くだんのグレイの薄墨のようだった不愉快な感情も観察と受容を通して、
いつの間にか大きな視点で現象を解釈する“心楽しき思考”に変化したようです。
この変化こそ感情の意味を汲み取る準備ができたしるしかもしれませんね。
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ハッピーエンドに持ち込みたい

2014年05月08日 | 愛とゆるし
自分が期待していた応答が返ってこないと、
即ネガティヴな反応を返してくる現象があります。
強弱、頻度は別にして、この現象はすべての人に起こリ得るので、
当然、私にも起こって、その瞬間の感覚を思い出すことはできます。

この現象が性格として固定するケースもあって、、
他に美点がたくさん育まれているケースでは、
“カチンときて即反応”する欠点は、周囲から許容され、
三つ子の魂百まとして、この個性を全うして人生を終えることになります。

考えてみたいのは、この性格を受けて立つ側の心のことなのですが、
相手の立場、こちらの立場、相手とこちらの関係性によって、
折々の心のドラマが展開されることになります。

相手が目上だと、こちらが否定された感じがして萎縮するかもしれないし、
気楽な関係では、その現象にこちらもカチンときて、
否定が否定を呼んで空気が険悪になることもあります。

この関係の行き着くハッピーな結末は、
相手の性格を受容できるようにる以外ないのですが、
受容できてしまえば、本当にこちらは楽になります。

ハッピーエンドまではストレス曲線は避けられません。
私など十数年もストレス曲線をさ迷いましたが、
受容できるようになった最初のきっかけは、
相手から距離を置いたことがよかったのだと思います。

とにかく。相手の態度に(その現象に)ストレスを感じている自分に気付くことと、
相手の性格を認識して、こちらが自己否定的にならないことが大事かと思います。
そして選択できる状況ならば、相手から距離を置くことも必要です。

相手と距離を置くことに勇気が必要なこともありますが、
離れてみて、こんなに自分は我慢していたなんてと驚くかもしれません。
形を変えた依存や執着があったことにも気付くかもしれません。

一つの性格を受容できると、その人以外で同じ現象にあったときにも、
以前のように心を乱されることがなく余裕というか耐性ができてくるように思います。
相手は三つ子の魂百までの性格を周囲に受容されながら人生を全うし、
私は受容の度合いを相手以外にも広げることができて、よい事づくめ。。。
そんなハッピーエンドに、できるだけ持ち込みたいものですね。

出会いの偶然は必然・・・そのような性格(人)に私が出会っているというのは、
ハッピーエンドの物語を試されているのかもしれないと、どこかで信じているのです。
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