こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

占いと、どう付き合うか

2011年05月29日 | 魂と聖霊
血液型や星占いに興味を持ち出したのは、12,3歳の頃だったでしょうか。
以来、人間には生来のタイプがいろいろあるということに興味を抱きながら、
自分のタイプやバースチャート(出生時の星の位置)の囁きをなんとなく意識しながら、
折々の人生を解釈するのに、ほどよく取り入れ付き合ってきました。

もちろん日々の運勢に一喜一憂するようなことはありません。
一人の血液型や占星術や、その他あらゆる占い、類型研究の語るところを
すべてコンピュータに入力したなら、かなり正確な人物像があぶりだされるのかな?
でも絶対に人物像からはみ出してしまう要素があって、決して人間の推測の叶わない、
神秘の領域があると直感した、少女の頃の思いは今も変わりません。

占星術であれば、これから発見される惑星だってあるかもしれないのだから、
それがどのようにバースチャートに作用してくるかは未知なわけです。
すべては途上で不確定要素に満ちていると思うと、なんだか楽しくなってきます。
血液型をはじめ、いろいろな類型の研究だって同じこと。囚われる必要はありません。

日々心の世界を見つめ、信じてみえてくるものを思索する。
身体感覚を大事にして五感と体感を意識する。感情生活を大事にする。
そのような営みが基本にあるときに、占星術や様々なタイプの研究とも
ほどよい距離で、楽しく有意義に付き合ってゆけるのだと考えます。

どんなときにも答えは、今ここで生きている私の中に存在しているのであって、
類型論や占い、バースチャートの中に答えがあるわけではないのです。
心の営みを大事にした上で、星の囁きを意識するともなく意識する・・・
様々な占いや類型論は、気付きのきっかけに留めておくのがベストだと思います。

(119-19-5)
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魂の可能性を信ずるとき

2011年05月28日 | 第9章:愛
失望するのを怖れて希望しないのだとしたら、それは間違っている・・・
今朝起きてから、なんとなく考え続けているのは夢の影響かと思います。

昨日は、意思の疎通の難しい身内のひと悶着が頭を過ぎっていました。
それぞれの思考と感情の傾向を思うと、双方のストレス曲線は目に見えています。
なるようにしかならない・・・私の立場では遠くで静観するしかないにしても、
できるだけ穏やかに話し合いが進むように、願うことはできたはずです。

しかし、昨日の心の流れを辿ると、できるだけ考えないようにして、
無関心という自己防衛で、不安をやり過ごそうとしたようです。
期待できる要素が小さくても、それでもなお希望する・・・
そして願った通りいかなくても冷静に受け留める・・・。

本当に人の心の魂の可能性に信をおくなら、無関心はありえないと思います。

ところで、私はちょっと投げやりにも近い諦めモードの自分に気付くとき
いつも占星術の土星の影響を思い浮かべてしまうのです。
バースチャートの土星の項目には、「本来の、未来の可能性を信じて
人生に積極的に取り組む姿勢がゆがめられてしまう」とありますが、
自分の思考と感情の傾向を思うと、この記述は頷けます。

私の場合は土星の影響で、とりわけ「信じる」ことが、
人生の大きなテーマになっているのかもしれませんが、
現代社会を取り巻く空気が、人々の人生に土星と同じ影を落としているようにも見えます。

期待できる要素が小さかったとしても、それでもなお希望するとき何が見えてくるのか?
愛である魂の可能性を信じたとき何が見えてくるのか?
不安定要素がたくさんある現代に生きて、
意思の疎通の難しい関係を抱える身には、実に挑みがいあるテーマです。

(119-19-4)
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こころと体が照らしあう

2011年05月25日 | 五感と体感
今シーズン、はじめて草刈機を回しました。苦手な高速回転!
先延ばししたい気持ちをおして、えいッと始めましたが、
風もなく雨上がりの薄曇のお天気は作業するのにちょうどよく、
満タンにした燃料が尽きるまで停止せず続けることができました。

疲れもそれほどでなく、余裕ある体感が自分でも意外ですが、
同じ姿勢でじーっと動かない気功(静功)が日課になって、
以前に比べ持久力がついてきたのかもしれません。
体力をつけるのが気功の目的ではないけれど、体力の余裕は心の余裕に繋がります。
日々の気功は私にとって努力と多少、刻苦の要素がありますが、
持久力を実感したことで、やり甲斐が増しました。

こころと体・・・人生は双方が影響を与え合って進んでいきます。
照らしあうこころと体を意識する場所を、(気功、瞑想、森の深呼吸…)
自分が、これだと思えるものを何か一つ意識的に確保するのは、
こころと体のために、とても大事なことのように思います。

これから先何が見えてくるか、心身の変化が楽しみな感じです。

(119-19-3)
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自己受容は、他者受容のはじまり

2011年05月21日 | 無意識の世界
現在の行動パターンには、その人の成育史の理想や価値観が映し出されます。
成育史のバターンを生きて幸せであれば問題はないけれど、
自分に合わなくなったパターンを生きてストレスを抱え込んでいても、
知らず知らず身に付けた理想や価値観の囚われは、
あまりに当たり前、無意識的で気付けないことがあります。

不自然な人間関係にストレスを感じても、他の理由をくっつけて、
(自己概念を脅かさない理由をくっつけて)
成育史の理想や価値観を見直すことなど考えてもみないのです。
こういうときの理由は、たいてい自己否定的に、
私が未熟だから楽しくないのだわ・・・こんな感じで終わります。

最近になってハタと思い至りましたが、私にはどこか、
人付き合いに駆られるような行動パターンがありました。
無理して出かけては(本人は無理している意識はないのです)、
余分なストレスを抱えて自己否定のモードへ・・・これを繰り返してきた気がします。

駆られる必要などないのだと気付いただけで、解放感にわくわくしますが、
駆られているヒマがあったら今与えられている人間関係を、
必要十分な人間関係を、もっとていねいに楽しみたいと思うのです。

楽しむというのは、好きも嫌いも共感も違和感も全部ひっくるめて、
人間関係から生まれる感情のマンダラを大いに楽しみたいという意味ですが、
自己受容が進むほど、他者との関係もいっそう楽しめるようになるようです。

「個人が、自分の感官的・内臓的経験の一切を知覚し、
それを首尾一貫した統合されている一つの体系へと受容するならば、
そのときには、その個人は、必然的に他のひとびとをよりいっそう理解しており、
かつ、他のひとびとをそれぞれ独立した個人としてよりいっそう受容しているのである。」
ロジャーズの19の命題⑱

(119-19-2)
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生き甲斐を意識してみると…

2011年05月20日 | 意識と知覚
生き甲斐・・・自分の生き甲斐はなんだろう?

生き甲斐とは生きる力を与えてくれるものと定義してみると、
人生の日々、生きる力や元気を与えてくれる沢山のものがあったから、
今日までなんとか生き抜いてこられたと思うのです。

感情の視点で考えると、明るい感情体験が生きる力の源であるのに対して、
暗い感情体験はしばしば生きる張り合いをなくすきっかけになったりします。

日常において、自分が生きる張り合いをなくしたり落胆してしまうのはどんなとき?
暗い感情体験を考えれば、対極にある生き甲斐の感情体験もあぶりだされるはず・・・。
それでつらつら考えて気付いたことがありました。

暗い感情体験で苦労するのは、なんといっても人間関係に関するあれこれです。
時々感情の切り替えが上手くいかなくて鬱々とすることもあるし、
そういうときは生きる気力を奪われ、生き甲斐を失くしている状態といえると思います。

それでなるほどと思ったわけですが、私にとって人間関係の喜びが
意外に生き甲斐の大きな位置を占めていることに気付きました。
日常のちょっとした交流でも、人との暖かなやり取りや心地よい体験が
元気の源になっている・・・これは当たり前のようでいて意識していなかったことです。

自分の生き甲斐、生きる喜び、生きる力をそいでしまうのも人なら、
自分の生き甲斐、生きる喜び、生きる力をもたらしてくれるのも人である・・・
これをきっちり意識して、人間関係を大いに楽しみ、個性を楽しみ、
私の人生を逞しく生き抜きたいと、あらためて思いました。

(119-19)
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自己信頼のレッスン

2011年05月17日 | 未整理
周囲の価値観から外れている自分に葛藤を感じ、自己否定的になる・・・
地域社会や大家族の価値観が絶対と思い込んで、
知らず知らず自分をストレスに追い込んでしまうようなこと。
地方の村社会では、けっこう見かけるケースです。

その人の属しているコミュ二ティー、一族の価値観がすべてではない。
世の中には、もっと別の価値観があって、
人はそれぞれ森羅万象を様々に解釈しながら生きている・・・
それを知るだけでなんとなくほっとして、その人の緊張が緩むのがわかります。

考えてもみなかった価値観に触れて一瞬、えっ?と戸惑うこともあるけれど、
自己否定感が払拭されて、ほっとする心情が伝わってきます。

NPO活動の一環の勉強会では、それぞれの成育史から生まれた
考え方や理想、感じ方、体験の解釈を自由に語り合います。
生身の人間が互いの価値観を尊重しあい交流する場に身を置くだけでも、
孤立感を深めていた心には、ほっと安らぎを感じてもらえるようです。

共感の雰囲気の中で、私は私でいいんだと自己肯定感を体験しながら、
自分だけでは知りえなかった心の宝物に気付きだし、逞しさを身につけてゆく・・・
このような互いのパースナリティの変化に立ち合えるのは、
一人で学んでいるだけでは決して得られない、勉強会ならではの喜びです。

勉強会は理論を学ぶ楽しさはもとより、他にはないほっとできる場所として、
“私の価値観”を大事に、自己信頼を育てる場でありたいと思うのです。

(119-18-4)
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過剰反応を意識したら

2011年05月16日 | 無意識の世界
山に暮らし始めた当時、怖いものだらけでした。
怖い筆頭は、スズメバチとマムシ、ムカデ他、人を刺す虫たち・・・
遭遇することはめったにないのに、影に怯えて
ギャーとかヒャーッと、よく声を上げていたような気がします。

同じ場所に暮らしても今は穏やかなものですが、
当時は自然に対するだけでなく、人間関係も萎縮するきらいがありました。
後で解ることですが、山暮らし以前に心の不安定要素がいろいろあったのです。

過剰反応を家人に呆れられながらも、
怖がっている自分を自覚したことは大きな意味がありました。
それまで無意識的だった怖い、怖くないという感覚が、
あれ以降、心の環境を推し量るときの大事なスケールになっています。

未来や未知のものに感じる、緊張感や不安感を辿ると、私の場合、
微妙な体感として“怖い感じ”に行き着くことがけっこう多いのです。

不安感や緊張感、怖がっている感覚を把握していると、
心の環境をチェックしてバランスをとるの役立つばかりか、
スケールがあるというそれだけで、なんとなく心は安定してくるものです。

過剰反応している自分を意識したら、それは大事なシグナルだと思って、
成育史の思考と感情の傾向をあぶりだす機会がきたと捉えるのもよいかもしれません。

(119-18-3)
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よく聴くために、こころの環境を調える

2011年05月12日 | 第9章:愛
連休前から身内が前後して体調を崩しました。
持病の悪化もあり大事をとって、離れた場所で入院中です。
遠く暮らしても電話やメールのおがけで、結果的には二人とも
私が判断して入院を勧めるかたちになりました。

何か事が起こると身内ほど自他混濁が起こりやすく、
相手の不安感が感染して、冷静ではいられないところがありますが、
どんなに近い間柄でも、あなたはあなたで、私はあなたではない。
人生の選択の最終決定は本人がするしかない。
どんなに迷っても答えは必ず、本人の内にある。
この原則を自分に言い聞かせることで、落ち着くことができます。

看護人と本人と、それぞれの経過と状況を聞きながら、
近視眼的でなく、ずーっと引いて全体を眺める姿勢を意識しています。
短いメールのやり取りの中で聴くことに徹しながら、
助言した方がよいと思うことは、ぎりぎりのところで判断して伝えます。

自分を大事にするとはどういうことか、心と体と魂を大事にするとはどういうことか。
病を得たり老齢を迎えるということは、一つ一つの選択に、
全人生がかかってくることのように、私には感じられます。

それでつい力が入りすぎてしまうこともあるのですが、
自己決定のもと悔いのない人生を送りたいという願いが、
誰にとっても共通で、胸のうちに深く流れる願いだとしても、
誰もがそれを意識して生きてきたわけではありません。

心の安定を保ち“よく聴くこと”が、私に課せられた役割と考えています。
よく聴くために自分の心の環境を調えることが、日々の切実なテーマになりました。
(119-18-2)
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memo9 

2011年05月10日 | Weblog
斜面のオオデマリマリの上の辺りで鹿の角を拾う

聖堂の花活けお当番、家からモッコウバラとシャガ持参
JAマーケットでクンシランが二束!迷わず決める 会心のハーモニー♪

右手に1cmぐらいのナナフシがとまっていた
体をよじってダンスしているみたい
居間にいた子を表花壇のスミレの葉へ

鹿に食べられ放題だったシイタケ、
シーズン最後に思いがけず収穫叶う
雨降りの前日だったのも幸い  

以上のできごとが、山に留まる意思に対して
自然が応えてくれたように見えるのですね

(信じれば見えてくる・・・)
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一眠りして、はっと気付く・・・

2011年05月09日 | 無意識の世界
わぁ、嫌な感じ、、ある会合で、初対面の人の
どことなく横柄な態度に不快を感じました。
その人とお仲間達と、会合の参加者が倍になったのはよいけれど、
これまでの穏やかな雰囲気とはガラッと変わる予感がしました。

真夜中に目覚めて、“参加は取りやめよう・・・!”と
昼間はぜんぜん考え及ばなかったことが、はじめて浮かびますが、
どうしてこんな簡単なことが、その場で思いつかなかったのでしょう???
とりあえず感情よりも自己概念を優先させる行動へ流れる・・・
私の思考と感情の偏ったパターンをがよく表れているなあと思います。

ちょっと珍しいくらいの違和感と不快を意識しながらも、
当然のように参加続行の手続きをとったところが、
後になると摩訶不思議な気がしますが、思い込みと経験(感情)が極端にかけ離れると、
感情は置き去りで整合性のない行動をとってしまうようです。

「自己構造に対して基本的になんらの脅威も包含していない条件下においては、
自己構造と矛盾対立する経験は、知覚され検討されるようになり、
また自己構造は、そのような経験を同化し包含するように修正されてくるであろう。」
ロジャーズの19の命題の⑰

一眠りして目覚めて、自分のとった行動や言動の矛盾にはっとすることがありますが、
眠りの力を借りるまでもなく、自分の心の環境を、
「自己構造に対して基本的になんらの脅威も包含していない」条件に、
調えるにはどうすればよいのだろう?・・・あらためて思い巡らす今日この頃です。

(119-18)
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