こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

これまで、そして明日から

2010年12月31日 | 魂と聖霊
人は心と体と魂から成っていてる、私はこの考えを支持していますが、
魂は愛そのもので、私をよりよい人生に導こうとしていると信じています。
人生を振り返ると、魂は直感・インスピレーションとして、
思考と感情と行動に閃光のごとく切り込んでくる・・・そんな印象ですが、
どうしても直感の声に耳を傾けるよりも、心の都合を優先して、
折々の行動を選択することが多かったと思うのです。

どういうことかというと、成育史の心が、直感に従うより、
一時的な平安を得る方へ強く私を駆り立てたからです。
直感には、不安や怖れが伴うことが間々あるので、
心は直感より、つい一時の平安感の方を選んでしまうようです。

人は、その器に見合った選択しかできませんが、
長い間、心に従ってきたことで、その月日のおかげで、
このままでは望む場所(境地)に行けないことを、
よくよく認識することができたのだから、必要なプロセスだったのです。

でもこれからは、心の都合よりも魂の知恵を大事にしたいと思うのです。
越年を準備しながら、具体的な方法に思いを巡らすことにしましょう。

(101-6)
大晦日の朝の雪景色
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思い違いの関係がもたらすもの

2010年12月28日 | 螺旋状に上昇する意味
相手のことを、この人はこういう人だろうと勝手に思い込んで、
いろいろな感情を抱いてきた長い年月があって、
ある日突然、この人は考えていたような人ではなかった、
私がイメージしていたような人ではなかったのだと、はっとする。

いつだって人間関係は、あなたとわたしの関係において、
わたしの心の傾向が、勝手に相手のイメージをつくりあげています。
だから、わたしの方が、ある日突然イメージが崩れたからといって、
相手には責任がないばかりか、よく考えれば、
深く胸に落ちたのは今日だったかもしれないけれど、
実はかなり以前から、イメージが崩れだしていた、その兆候は
あったわけで、今日はっとしたのだって、わたしの心の都合からです。

一瞬、よくもこんなに長い間、思い違いをしていたものだと、
自分を呆れたり、相手に八つ当たりしたくなったりしますが、
よくよく考えてみれば、この長い時間が在ったからこそ
自分の成育史の傾向をとことん知ることもできた、
この事実を認めないわけにはいかなくなります。
たぶん相手にとっても、それは同じことで、
転移、投影、摂取、置き換えetc.成育史の傾向を、
人は思い違いの関係の中で、深く理解するようになっているのでしょう。

今日は朝のはっとした気付きに始まって、ああ、がっかりした、
でもまあ良いこともあったし・・・ぶつぶつ言いながら街まで出かけたのですが、
立ち寄ったガソリンスタンドで、それは大きな虹を見つけました。
考えてみれば、がっかりしたということは目覚めたというのと同じことです。
空にかかる虹を見ながら、天に祝福されたような気がしました。

(101-5)
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きらっと光るもの

2010年12月27日 | 魂と聖霊
少し前のテレビで、91歳になる絵本画家のことを知りました。
ニュースの中のトピックで、ちらっと見た瞬間、
すごいっ、すてき、かっこいいーと、惹きつけられました。
自己を追求する迫力が、燻し銀のような光を放っている。
老画家は北斎が一つの目標といいますが、90歳をこえても、
まだまだこれからと憧れのイメージに制限をつけないところが、
かっこいいし、こういうところが本物の人の真骨頂と思うのです。

老いてなお精力的に活動しているからといって、
誰でも魅力的というわけではありませんが、(どんなに有名でも!)
老画家には、なんとなくC・イーストウッドと共通のものを感じます。
年齢を超越した、何かきらっと光るもの・・・
やはりそれは魂が、というほかない気がするのですが、
にじみ出た魂の気配に引きつけられるのだと思います。

そこに守りの姿勢はなく、世間の評価と関係ない次元を、
ゆうゆうと我が道を歩んでいるように見えます。
だからといって、もちろん独りよがりでもない。
魂は愛そのものであると定義するならば、
魂の気配に引き寄せられる心は、いつだって、
自己肯定と他者肯定の世界を求めているに違いありません。

(101-4)
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深く味わうこと

2010年12月25日 | 第9章:愛
ふと、わたしは十分、感じているだろうか?と自問することがあります。
自分は外界を知覚する、その感受の仕方が甘いのではないかと疑うわけです。

生まれてこの方、自分の心と体しか知らないので当たり前と思っていても、
人はもっと豊かに、しみじみと、深く外界を感受しているのではないか。
自己実現の道を突き進んでいる人を横で見ながら、時々そんなことを考えます。

たとえば、空を仰ぐ。二人で並んで空を見上げていたとして、
“すっきり晴れ上がり、気持ちがいいね~”と、言葉を交わしたとしても、
一人は身体の隅々まで五感の体感を、十分行き渡らせているのに対して、
もう一人は、表層の淡い体験でよしとしているようなこと。

深く体験する、味わう。自分の中で、あらためて意識してみると、
これまで、ずいぶんもったいないことをしてきたものだと思わずにはいられません。

人が為すこと。人生の豊かさは目新しい体験の数が問題なのでなく、
外界をどのように体験するか、味わい方、その深さが問題になるのだと、
自己実現の道を生きる人々を観察しながら、確信するようになりました。

(101-3)
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在ることの、ふしぎ

2010年12月24日 | 第9章:愛
何がいちばん大事なんだろう?と、考えるともなく考えだした、
そのきっかけを与えてくれたのは、母の言葉だったかもしれません。
まだ小学生の頃でした。
“娘たちがいるから生きてこられた・・・”
当時、母の心にはいろいろ複雑な情況があって、
そのような感情があるのは無理からぬことと思っても、
なんとなくしっくりこない。それじゃあ、娘がいなかったらどうなる?
子供心に、それは違うと感じていました。

何かを所有していることを生きる支えにしていては、
それがなくなったらどうなる?と。
(所有を感じていたとは、なかなか鋭かった!?)

それから10数年後に、訪ねたカトリックの教会で、
なぜあなたは神を信じますかと問われて、
迷いなく、“わたしが、ここに在ることによって…”と答えたのは、
子供のころ疑問に思ったことに対する、私なりの答えだったようです。

大人になった私は、たくさんの所有しているものに支えられて、
日々の安定を得ている・・・この現実を認めつつも、
あの頃、“わたしが、ここに在ることによって”と明快に言い切った、
その心が出発点にあって、今の自分があるのだということ、
それを、忘れないようにしなければ!
在ることのふしぎを更新する日…クリスマスがやってきました。

(101-2)
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求めているものは、何?

2010年12月23日 | 和解と平和
日常生活に向かってゆく心の動き、自発性と気力を意識することは、
“自分は何のために生きているのだろう?” この自問を、
絶えず背景に感じながら生きることでもある・・・と感じています。

何のために生きるのか?単純にして難しい問いかけですが、
自分を心と体と魂から成っていると捉えて、そこから考えだすと、
なんとなく整理されてきて、おぼろげながら答えらしきものが見えてきます。

体の立場は案外明快ですが、いちばん答えを窮するのは心の立場で、
その答えを、人は生涯かけて見つけてゆけばよいのかもしれません。
心は時とともに微妙に変化してゆくものでもあります。

人間の体というものは、自分の意思で生きているわけではなく、
体の中には、生きようとする働きが自然に備わっている。
体にとっては、生きることそれ自体が目的なのだ・・・、
体は(細胞は)私の意思に関係なく、いつでも生きようとしている。
このような体の立場に対して、思考と感情をもつ心は、
何のために生きているのだろう?と問わずにはいられない。
日々の暮らしに何を求め、何を大切に生きてゆきたいか?
心にとっては意味を求めるのが、自然の姿なのだと思います。

(101)
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気力を意識するとき

2010年12月21日 | 五感と体感
志向性とは心がある目的に向かうこと。
発達理論でいう目的志向性が、子供が日常のあれこれ、
日常生活に向かってゆく自発性を云うのだとしたら
日常的な、ごくシンプルな目的に向かってゆく心にも、
案外“気力”の要素が大きいと思うのです。

どんなにささやかな日常の雑事でも、目的に向かうときには気力が必要です。
今の私はどんなだろう?あらためて気力という視点で日常を眺めると、
気力が漲っているときもあれば、どうも気力がでないとき、
気が散漫なときといろいろですが、目的を志向するには、
意思だけでなく気力が必要。これはよく解ります。

目的に向かって、すごい集中力で作業するときもあれば、
目的に向かっているつもりでも、実際は気が散って一向に捗っていないとか、
しようもないことに無駄な気(エネルギー?)を使っていたり、
どうも気の使い方にも、人それぞれ独特の傾向があるようです。
必要なときに、必要な目的に向かって気力がでるような体質にしてゆきたいと、
希望をもって、心身の改善を目論んでいる今日この頃です。

(100-10-3)
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ポジティヴな原型を意識して

2010年12月20日 | 和解と平和
エリクソンの人格形成論では、成育史で獲得する原型が、
ポジティヴなものとネガティヴなものがセットになっています。
たとえば、乳幼児期~少年・少女時代では、
基本的信頼と不信感、自律性と恥辱・疑惑、
自発性と罪悪感、勤勉性と劣等感・・・となります。

育った環境と遺伝的な要素によってポジとネガのバランスが違ってくる。
このバランスが、個性の違いにもなって、
ポジばかりでネガがない、影がない人間というのもぞっとしますが、
それぞれの時期の、ポジティヴな原型がしっかりしていないと、
人生の日々がガタピシガタピシ、立て付けの悪い家に住むような、
不安定で、なんとも落ち着かない人生になってしまうようです。

ここであらためて5~7歳に獲得すべき自発性を意識することは、
私の場合、年長の友人、知人たちとの交流を意識することでもあります。
同性、年長の友人や知人からの働きかけに対する反応の仕方に、
幼児期以来の母との関係がちらっと顔を出してきて、そのとき、
自発性を妨げるような感情の流れがあることにも気付きだしました。

コツコツと時間をかけてきた自己分析や原型の意識化も
獲得しそびれたポジティヴな原型を今ここで、あらためて
身につける作業に移行できれば、いっそう意味深いものになります。
心の世界、その成長には遅すぎることも今更ということもありません。

(100-10-2)
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生きる力の、習得は楽しいィ

2010年12月19日 | 和解と平和
自分の傾向について、あれこれ思い巡らす中で、
日常生活や人間関係がもたらすストレス曲線には、私の場合、
<自発性>の弱さが遠因にあるようだ。そう自己分析しています。

エリクソンの発達理論によれば、5~7歳の頃に、
目的志向性、自発性、罪悪感の原型ができるそうです。
当時の家庭環境、父母、兄姉との関係や思い出を辿るとき、
自発的な行動の記憶は、どれもなんとなく心もとない感じがして、
これが自発性の原型と言い切れるだけのものが、どうも見つかりません。

そうかそうか、ならば原型をつくらなければ!というわけで、
自発性の習得を日々の目標にかかげ、
そのことを意識して生活しているのだから、
現在の生き甲斐の一つといってもいいと思います。

0~12歳くらいまでの年齢につくられる原型として
基本的信頼、自律性、自発性、勤勉性があげられていますが、
成育史を思い出して、この中で脆弱な感じがする原型があるならば、
それを取り戻すべく意識して生活してみる、これはものすごく価値があるし、
大人の私が、子供の私を育てなおすようなところがあって、
そのプロセス自体、なかなか楽しいのです。

(100-10)
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エネルギーとしての、自己肯定感

2010年12月18日 | 和解と平和
身近な人、近親者の前では“素”の自分でいられるということは、
近親者の前では、他の誰といるよりも自己肯定的な自分も経験しているはずです。
それだけに身近な人間関係で生まれる日常のストレスを、自分が
自己否定的な解釈で収めているとは意識しないし、考えてもみませんが、
心の動きを観察してみると、自己否定的な心の流れが確かにあるのです。

人は心のバランスをとりながら生きています。
身近な人間関係の中でときどき起こる、
腹が立つ、ぷんぷん怒る、こみ上げてくる怒りというのは、
どちらかといえば自己否定で事を収めようとする私に起こる、
「反動形成」という心の動きではないか。こう考えると納得がいきます。
平素の自己否定の傾向に、反動して起こる強力な自己肯定・・・、
怒りとは、強力な自己肯定があればこそ出てくる感情ですから。

強力な自己肯定。なにやらエネルギーに満ちた響きがありますが、せっかくの
自己肯定というエネルギーを、怒りに爆発させてしまうのではあまりにもったいない。
平素の生き方の傾向にこそ、このエネルギーを大いに活用したいものです。

相手が、強力な自己肯定の持ち主だったりすると、
知らず知らず、自己否定の役回りをしていたなんてこともあるかもしれませんが、
それには、こちらの自己肯定を確かなものにすることで対抗する(!)ことにしましょう。

(100-9-3)
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